千葉雅也 「現代思想入門」(8) 現代思想の作り方

  第6章は「現代思想の作り方」と題されている。
 本書がわかりにくい原因の一つが「現代思想」と「フランス現代思想」という二つの用語が使われていることにあると思う。
 この章の冒頭ではこれまで「フランス現代思想」について説明がされてきたとされている。この本は日本人のために日本語でかかれた本である。それがなぜフランス現代思想の展開を理解しなければいけないのか?
 千葉氏は「自分には他の人とは違う独自性があると主張しなければ学者だってやっていけない」などといっているが、わたくしもその他の読者も学者ではなく素人なのだから、「現代思想の作り方」などということに参加しなくてはいけない義務は一切ない。その必要性を読者に理解させることが本書執筆の大きな目的だと思うが、そうであればスランス現代思想の用語をわれわれが日常用いている言葉に近似的にでも置き換えていくことが求められるはずである。勿論、厳密性は失われる。しかし、こういう入門書では目指すべきは、(フランス)現代思想が決して学者さんのお遊びではなく、われわれが日常遭遇する様々な問題とかかわっているということを読者に納得させることのはずである。

 しかし千葉氏は本書の後半にある本章でも、フランス現代思想をつくるときの原則は、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、であるなどといっている。読者が見えていないように思う。

 哲学というのは考えることで、われわれは何か納得できないもの、受け入れ難いものがあると感じた時に、考えることを始めるわけだが、何もそういうものがないときに「フランス現代思想」を学ぶなどというのは、ただの「お勉強」であって、生産的なものがそこから出てくるとは思えない。
もちろん、千葉氏はわれわれが二十一世紀初頭においておかれている状況を提示し、それに対応するために「前代思想」が有効であることを縷々のべている。
 しかし、そこでいきなり、①他者性の原則」、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、などと言われても読者はとまどうばかりである。
 他者性云々は「(フランス)現代思想」業界内部でのみ通用するジャーゴンで、わたくしからみると「頭でっかち」としか思えない。「議論のための議論」であり、地に足がついていないと感じる。

 「排除されていた他者性Ⅹが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する」などというのは、とにかくまずこの表現を「普通の日本語」にすることに努めてからでないと、読者にとどくわけはないと思う。

 「実は世界は、根本的にはエクリチュール的な差異がいたるところにあるのにそれを否認している。ということを世界の超越論的な前提として発見する。そしてそれはいたるところにあるのだ、というかたちで極端化する。」というような文は、千葉氏としては「有意味」な言明として記していと思うのだが、読者には「意味不明な戯言」と受け取られるのではないかとわたくしは思う。そういう表現は「他者への配慮」をあまりに欠いているように思う。
王子様は城壁の中に閉じこもったままなのである。(橋本治三島由紀夫」とはなにものだったのか」新潮社 2002年)

 「こうなると哲学はほとんど、詩が行おうとするような、常識的な言葉遣いでは表現できないものを表現するという領域に踏み込んでいます。」ということなのだが、いくら谷川俊太郎さんが頑張っても、現代詩の読者はなきに等しいわけなのだから、千葉氏の言はほとんど理解されることを拒絶しているようにみえてくる。

 とにかくこの本は後にいくほど読解が困難になっていくように思う。読者に届くことをあきらめたように、業界内部でしか理解されないような言葉遣いがどんどん増えてくる。

 「ここが、哲学が数学とは違う仕方で到達する独特の抽象性の世界です。」というのはおかしいと思う。数学では用語は厳密に定義されており、それが理解できる人の間では正しいか否かの議論が可能である。抽象的ではあっても厳密である。
 しかし哲学の世界の用語はそのような厳密さを持ちえない。数学の用語がわれわれの頭のなかにあるのか、われわれのそとにあるのかは議論のあるところだろうが、自然数→負の数→有理数無理数虚数といった数の拡張は数学者の中では自明であって、素人がそんなことは認めない、虚数なんてものは俺には必要ないなどといっても無駄である。
 おそらくラカンは学問の厳密性を求めたひとで、精神分析の曖昧性に苛立って、精神疾患を無理して数学の概念と対応させることで、自分の学の厳密性を保とうとした人だったのだろうと思う。

 昔、P・Ⅽ・W・デイヴィスというひとの「ブラックホールと宇宙の崩壊」という本を読んだことがある(岩波現代選書 1983)。その第二章は「無限大とはなにか」と題されている。その前章からメビウスの輪などのトポロジーの説明が始まっているが、そこでとにかくカントールの「無限大」の濃度とかいう話が、なんとなくではあっても理解できるように感じた。
 そのような理解、少なくとも何となくでもわかったという感じが本書ではほとんど得られなかった、そこが問題なのだと思う。
 本書で言われていることは、千葉氏の「頭」から来ていて、「体」から来ていないようにわたくしには感じられる。

 次章は「ポスト・ポスト構造主義」と題されている。構造主義はどこまでも続くのである。いずれ「ポスト・ポスト・ポスト構造主義」「ポスト・ポスト・ポスト・ポスト構造主義」・・・? 
 しかもそれを担保するのが100年以上前に提唱されたフロイト精神分析理論なのである。どこかおかしいのではないだろうか?