勢古浩爾「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語」(1)

 谷沢永一氏の「人間通」(1995 新潮社)を何となくぱらぱらと読んでいたら、この勢古氏の本(2011年 ちくま文庫)を思い出した。「人間通」は、組織の要となり世の礎となりうるための必要条件は「他人の心がわかることである」とする谷沢氏が、その「他人のこころ」について縷々論じている本である。谷沢氏は、人間が最終的に欲するのは「世に理解される」ことであるとし、それを実現するのに必要な「他人の気持ちを的確に理解できる人」を「人間通」と謂う、としている。

 ここで人間とされているのは、ほぼ組織ではたらく男である。女性はあまり視野に入ってきていないように思う。そして男たるもの「野心」を持たねばならぬとする。「人間はいつも自分と他人とを比較している」という。

 さて、比較すると生じてくる感情が嫉妬である。嫉妬の感情から他人を「引き降ろそう」とする。社内の人事には嫉妬の感情が常につきまとう。
 会社の人事もさることながら、特に嫉妬の対象になるのが性をめぐる鬱屈で、谷沢氏は「男という男は出来ることなら此の世の女すべてを知りたいと願っている」ともいっている。(本当かね?)
 確かに最近のマスコミでは誰それには愛人がいる、といった報道に満ちている。別に犯罪行為をしたわけではないのになぜそれほどいわれなければならないのかと思うが、谷沢氏は「これからは政治家も経営者も芸能人も、およそ世に顕われでる程の人は、性的奔放に対する集中砲火を避け得ないであろう」としている。
 最近のマスコミによる相互監視社会化は、なにもフーコーパノプティコンなどをもちださなくても、人々の「あいつばっかりいい思いをしやがって」という嫉妬心から簡単に実現してしまうわけである。いやな世の中になったものである。

 谷沢氏の本を読んで、人間ってそんなに情けない存在なのかなと思って、それで思い出したのが勢古氏の「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語」である。
 吉本さんという人はよくわからない人で、「言語にとって美とはなにか」などというのは完全に欧文脈で日本語ではないと思うし、「自立の思想的拠点」などというのも変てこな日本語である。だが、鹿島茂さんとか糸井重里さんとか信者がたくさんいるし、勢古さんもまたその一人である。
 この本は吉本氏のいろいろな著作から勢古氏が選んだ吉本の言葉とそれへの勢古氏の感想から構成されている。その最初が、

 結婚をして子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。

 なにかこれは谷沢氏の人間観の真逆にあるもののように感じる。

 ということで、これからしばらく瀬古氏が選んだ吉本隆明の言葉のいくつかをみていきたいと思う。