「神の子どもたちはみな踊る」

 「神の子どもたちはみな踊る」は村上春樹氏が2000年に刊行した連作短編集で、当初「新潮」に連載された時には「地震のあとで」という総題がふされていた。ここでの地震は神戸淡路大震災である(1995年1月)。なおこの神戸の地震からすぐの3月には地下鉄サリン事件がおきている。
 今回これを思い出したのは、この短編集の中の「神の子どもたちはみな踊る」が新興宗教を扱っているからで、もちろん最近おきた安倍氏の事件に触発されてである。
 この短編集では「神の子どもたちはみな踊る」が新興宗教を扱っている。主人公の善也(よしやと読む。ヨシュアに由来?)の母は『お方』を自分達の神とする宗教の信者で、『お方』こそがあなたの父であると善也に常々言い聞かせている(母子家庭)。しかし善也はこの人こそが自分の父ではないかと疑っている人物がいて、ある夜、偶然その人に出会い、跡をつけるが見失ってしまい、深夜の人っ子一人いない野球場で踊り続ける、という話である。
 何かこの善也が今回の事件の犯人の像とどこか重なるような気がした。この短編集の主人公達はみな心の中に空虚を抱えた人間ばかりである。典型は「アイロンのある風景」の順子。「ねえ三宅さん」「なんや?」「私ってからっぽなんだよ」「そうか」「うん」・・・

 1995年に起きた「オウム真理教」事件の4ヶ月後の同年7月に橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」が刊行されている(マドラ出版 のち1999年にちくま文庫)。」その時わたくしは48歳であったが、恥ずかしながら宗教というものについて確たる見方を持てないでいた。この本を読んでようやく宗教について自分なりの見方(といっても、橋本氏の見解をほぼ受け入れたということなのだが・・)を持てるようになった。「宗教とは、この現代に生き残っている過去である。」「すべての宗教は、実のところ、「それを人は求めた」という点で一つなのである。」「人は、自分の幸福を求めるが、「なにを自分の幸福とするか?」の答えが違う。」・・・
オウム真理教事件は「社会生活あるいは会社生活では自分が圧殺されていると感じていた人間が、オウム真理教に出会って、初めて自分というものを理解してくれる、受け入れてくれるものとであったと感じたことから生じた。麻原尊師は「君にもやりがいのある人生を!」といってくれた。実は日本は会社という宗教に汚染されていた。それがあったからこそ、オウムの事件もおきた・・・。そう橋本氏はいう。「現在の日本では神は必要ない。必要とされているのは、自分のことをよく理解してくれる上司=教祖なのだ。」
 更に橋本氏はいう。「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ。」
 しかし、近代合理主義は「モノ」については我々の生活を改善してきたが、「ココロ」の問題はおきざりにしてきたという見方はおそらく多くあって、それが宗教についての劣等感のようなもの多くのひとにもたせる原因となっていることは否定できないだろうと思う。
 「モノ」対「ココロ」。「科学」は「モノ」しか扱えない。「ココロ」の問題は「宗教」が担当するといった見方である。さらに橋本氏もいうように「科学」ではなく、こころの問題をあつかう分野として「哲学」という分野もあるとされている。そのため「宗教」と「哲学」が混同され議論はさらに混乱し難解になっていく。
 昨今の論調をみていても、宗教あるいは信仰事体は否定できないが、ある種の宗教団体のしていることには問題がある、といったなんとも歯切れの悪いものが多い。なにしろ信教の自由は憲法で保障されている。
 橋本氏の本では、キリスト教よりも仏教の方が多く論じられているが、そこでとんでもないことが書かれている。「ゴーダマ・ブッダの求めたものとは、「“自分の人生は自分のものだ”と思うこと」だったのだ。だから、ゴーダマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである。・・「自分の人生は自分のものだと思ってもいいんだよ」。この辺りを読んだときには本当にびっくりした。
さらに橋本氏はこんなこともいう。「キリスト教も仏教になる。」 キリスト教は神の子であるイエスに救われるという受動的な“してもらう”宗教である。しかし異端として滅ぼされた「グノーシス」という宗派がかってあり、キリストのようになりたいと志向した。
 魂の不滅をいう西側の宗教では、「最後の審判」が用意されている。魂はそれを待っていて肉体は墓のなかで待っている。しかしこのような不合理を信じるものはもはやいない。

 新興宗教という言葉はすで確立された宗教(ユダヤ教キリスト教イスラム教・仏教)に対するものという意味合いだろうと思う。それに入信することで救われるひとはいるのだろうし、少なくとも孤独ではなくなる、仲間が出来ることに意味合いを見出す人も多いのかも知れない。その信仰する団体に少しでも多くの喜捨をすることで功徳を積むことはそれをしている人間にとって何よりの喜びであるのかも知れない。それによって周囲のひとが迷惑したとしたら・・・。それは宗教とは関係のない問題である。キリスト教だってかつては「免罪符」などを売っていた。
要するに、自分で自分を救うのではなく、誰かによって救われるという志向がある限り、この問題は続いていくのだろうと思う。
 今回の問題について、既成の宗教の側からはまったく反応はないようである。オウム真理教の事件の時もそうだった。あんな汚らわしいものとは関わりたくないということかもしれないが、心の内が空虚で孤独でいる人間たちが自分の側にはこないということに危機感を感じないのであれば、その宗教はもはや死んでいるということなのだと思う。
 牧師さんや神父さんは結婚式をつかさどり、お坊さんは葬式をとりおこなう。そして悩みを持つものは新興宗教へ・・。
 自分の問題を解決するのは自分であって、自分以外の誰かではない、従って宗教は不要である。そういいきれれば、宗教に対して言論の現行のあの歯切れの悪さはなくなると思うのだが・・・。必ずそこには「わたくしは信仰一般を否定するものではないが」と書いてある。