I池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (1)

 なんでこの本を読んでみようと思ったのかというと、わたくしが悪名高い全共闘世代の一員だからである。60年安保が麻布中学2年、1968年が東大医学部1年。
 60年安保の時のことで記憶にあるのは、ラジオ(短波?)で国会乱入の現場からアナウンサーが、「わたくしは今殴られています。機動隊に殴られています。・・」という中継していたことくらいである。
 多分、その影響か、マルクスの「共産党宣言」とか「空想より科学へ」へと言った入門書を数冊読んだ記憶があるが、後にも先にもマルクスの本を読んだのはこの時だけである。

 麻布というのは面白い学校で、農業という時間があったり(多摩川沿いに農園をもっていた)、中1から高3まで「漢文」の授業が「国語」とは別にあっ.
これは今となってはとても貴重なものであったと思っている。「桃は若いよ 燃え立つ花よ この娘嫁げば ゆく先よかろ」(詩経 日下田誠訳)。 「力は山を抜き気は世を蓋う 時に利あらず騅ゆかず 騅の逝ざるをいかにすべき。虞ぐや虞やなんじを奈何せん (凱歌の歌)」
あるいは、「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては 花にも涙を濯ぎ 別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす (杜甫「春望」)」 「床前月光を看る 疑うらくは是など地上の霜かと 首を挙げて山月を望み 首を低れて故郷を思う (李白「静夜思」)

 漢文(「論語」「孟子」あるいは「老荘思想」などは江戸から明治・大正・昭和の知識人の思考や感受性に決定的な影響を与えたはずだし、その後わたくしが大学にはいったころにも、日本の医療雑誌(「医事新報」)にはまだ漢詩の投稿欄というのがあった。高齢の先生方が投稿していたようである。いまはもう李白杜甫を読む若い方など想像もできない。あるいはまだ少しはいるのだろうか?

 さて、麻布では、その当時はまだまったく無名の山口昌男さんが日本史を教えていたり(手塚治さんからの手紙をみせたり、当時まだ無名の白戸三平さんを、この人もうすぐ有名になるよと言ったのだけ覚えている。)、久保継成さんという霊友会という新興宗教の長が倫理を教えていたりもしていた。
 60年安保で活動したため通常の就職ができず教員になったらしい先生がメイデーの日に「ぼくも行きたいなあ」とつぶやくなどということはあったが、概して周囲をみてもマルクス主義に傾倒していた人はあまりいなかったように思う。
 S先生という国語の先生がおられて、その朔太郎の「竹」の解読など本当に面白く、「・・・凍れる節節りんりんと、青空のもとに竹が生え、竹、竹、竹が生え。」 詩とはこんなに深く読めるものかと驚嘆したのを覚えている。その後、先生の名前が新聞にでてびっくりした。麻布の後、東京女子大で教鞭をとっておられたようだが、そこの学生さんと間に何か事件があり苦労されたようである。今でいうセクハラ的な報道のされかたであったが、真相はわからない。
 同期で後に政治家になったひとはH君とかǸ君がいるが、当時は政治家になるような人とは思えなかったし、いづれも保守の方である。
 二年ほど先輩に川本三郎さんがいる。この方も若い時に政治で苦労された方だと思うが、今から見ると川本氏が最初就職したのが朝日新聞社というのに非常な違和感を覚える。やはりそういう時代だったのだろうか?

 その当時、東大の国語の入試には小林秀雄がやたらと出る傾向があり、あの難解な文章を仕方なく読んだのだが、今から思うと、小林秀雄の本は結構マルクス主義社会主義的な方向への免疫になっていた様にも思える。社会の構造が人間を規定するという見方に対して、人間はそんな単純なものではないよ、とでもいうような方向であろうか?

 以上、書いてきたことは総じていえば、わたくしが都会育ちの都会の人間なのだなと思うということであり、それが70年前後の疾風怒涛の時代に対する「免疫」?のようなものが、そのことによってできたのではないかというこということである。
 庄司薫の「赤頭巾ちゃん 気をつけて」でもこの当時の運動を田舎から都会に出てきた人間のショックが引きおこしたものと言っていたし、鹿島茂さんも、あの当時の出来事を都会に出てきた一代目(自分がその家での最初の大卒である人間)が都会にでてて、都会への過剰な期待を打ち打ち砕かれたことから起きたものとしている。
 わたくしは父が医師、母方の祖父は厚生官僚ということで、完全な二代目(あるいは三代目?)なのだが、そもそもそういう人間は教師を「テメエ!」などと呼ぶこと自体ができない。藤沢秀夫さんがどこかで書いていたが(学習院大学でも当時そういうことがあったのだろうか?)、教授たちが学生たちに拉致されかかっているという情報で現場にかけつけて、「君たち、やめたまえ!」というような声をかけると、男子学生は一瞬ひるむのだそうだが、女子学生は「うるせい! 引っ込んでろ!」ますます興奮するのだそうである。現在立憲民主所属だと思う安倍知子氏も闘争当時は盛んに「テメエ!」を連呼していた。どうも男より女の方が原始的なような気がする。(妄言多謝!)

 いろいろと脱線したが、この本に感じる違和感は社会党共産党とその内部対立、あるいは向坂逸郎云々といった方向ばかりが論じられて(佐藤氏が中核派を「江戸時代の博徒や戦後の愚連隊の流れを汲む、任侠団体の系譜に連なる一団体だと考えたほうが実態に即している」といっているのは面白いが・・)、わたくしが一番の問題と考えている、1917年にマルクス主義を国是とする国が地上に実現し、そのあと1949年に中華人民共和国も続いたという歴史への見方が乏しいことである。
 ベトナム戦争前後についても、アメリカは「ドミノ理論」などで真剣に東南アジア全体が共産国家化することを懸念していたわけで、西欧やアメリカまで共産化するとは流石に思ってはいなかったとしても、当時は共産主義国家というのが増えることはあっても、いずれ内部崩壊するなどということはまず想定されていなかったのではないかということである。
 わたくしが奇異に思ったのはベトナム戦争終結後、ベトナムに関する報道がボート・ピープルといった話がわずかに聞こえてくるだけで、ほとんどなくなったことであって、ベトナムが解放され天国になったという話は一向にきこえてこなかった。ボート・ピープルなどというのは、解放後のベトナムに何の期待も持てないひとがいるから生じるわけで、もちろん腐敗した旧ベトナム政権のもとで甘い汁を吸っていた人などが多かったのだろうが、それでも相当な数であったと記憶している。
 さらに中越戦争などというものが起きたが、当時得られた情報ではまったく何がおきているのか理解できなかった。何にしろ、共産国家同士の戦争である。ポルポトの大虐殺の話を聞いたのはいつのことだったか? ポルポトという人は兎に角、インテリというのが諸悪の根源だと信じていたらしく、インテリ皆殺しを計ったらしい。インテリは俺一人いればいいということなのかもしれない。中国の文化大革命も似たようなものだったのかもしれない。その運動をインテリの新聞である朝日新聞が絶賛していた。(もっとも批判記事をかけば追放になるので、それは書くなという社長命令がでていたらしいが。)
 兎に角、当時の(朝日?)新聞は共産主義という方向が未来の方向と思っていたのだと思う。わたくしはそうは思っていなかったが、1989年のベルリンの壁崩壊をみても、ベルリンは西欧だからなとまだ思い、まさか近い将来、東欧ソ連圏の崩壊がおきるなどということは考えもしなかった。なにしろ、1957年にはソ連は世界最初の人工衛星発射に成功している。むしろアメリカを凌駕しているようにさえ思えた。それから30年少しの1991年にソ連が崩壊している。まったく信じられなかった。

 ということで、わたくしの頭の中では、歴史は1991年以前と以後に二分されている。物心ついてから1991年まで約35年、1991年から現在までの約30年。
 そういう東西冷戦があった時代と、冷戦が終結した後では、日本の社会党共産党が大きく変貌するのは当然なのだが、向坂逸郎さんのようなマルクス命でマルクスの文献の解釈では向かうところ敵なしというような人などの煩瑣マルクス学哲学の内部でのいわば神学論争のようなものに多くのページが割かれていることに疑問を感じた。佐藤氏はキリスト教神学という別のバックボーンがあるからいいのだが、池上氏にはそういうものがないから、ただ過去におきたことの細部にこだわっていくことになる。
 今論じるべきことは、ソ連という共産主義国家を自称した国家が崩壊した現在、現存する毛沢東建国の中華人民共和 国は共産主義の国家であるのか? 現在において、社会主義共産主義に基づく国家というのが成立しうるか? ということなのではないだろうか?
 というのは今から30年前くらいまでは本気でそう信じている人が確実にまだ存在していたと思うからである。しかし、現在でもまだそういう人が存在しているのだろうか? もしもそれを信じているひとがほとんどいなくなっているのだとしたら、社会党立憲民主党?)も共産党も根本的な方向転換をすることが必要になるはずである。それが出来なければ、その存在意義をすでに失っていることになるのかもしれない。

「わたしの詩歌」(文春新書 2002年)に内田樹さんが「ワルシャワ労働歌」という稿を寄せている。

暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ
怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け
自由の火柱輝かしく 頭上高く燃え立ちぬ
今や最後の闘いに勝利の旗はひらめかん
起て 同胞よ ゆけ闘いに
聖なる血にまみれよ
砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく

 氏はいう。かつて「革命歌」という楽曲のジャンルが存在した。今はもうない。そのような歌を声の限りに歌う人々がいた。今はもういない。・・・かつて声の限りに「革命歌」を歌い、「我ら」という言葉に幻想的なリアリティを抱いた世代がいた。今はもういない。

 おそらく、ソ連崩壊以前には「ワルシャワ労働歌」に共鳴する人が少なからずいた。今はもういない。
だとしたら、その現実の前に戦略を変えなければいけないはずなのに、現在、党の運営をしている幹部たちはまだ「ワルシャワ労働歌」的なものに血が騒いだ記憶が残っていて、路線を変更することはその美しい過去を捨てるようで、なかなか大きくは舵をきれないというようなことがあるのかもしれない。
 わたくしの同級の(当時は民青系で活動されていた)ある先生は結婚式で「インターナショナル」で入場されたのだそうである。「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞 暁は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕結びゆく・・・」

 全然、話が進まないので、とりあえずここまでを(1)として稿をあらためる。
 ここまでの論がこれから論じることと関係してくるつもりなのだけれど、まあどうなるかわからない。進めていくうちに話がさらに拡散していってしまうかも知れない。