池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (5)

「激動」p121から東大闘争が論じられていく。1月10日に「東大七学部学生集会が開かれ、大学側と学生側の間で「確認書」がとりかわされ各学部のストは次々に解除されていった。大部分の学生たちは授業が半年以上ないという事態にほとほと嫌気がさしていたのである。
 しかし、全共闘側は自ら運動をやめるということはなく、というかやめられなく。安田講堂に閉じこもり続けた。それで1月18日から19日にかけてのいわゆる安田講堂攻防戦になる。
 もちろん、わたくしもテレビで観戦?していたわけであるが、わたくしの関心はただ一つ、学生側に死者がでるかということであった。(制圧されることは自明であったから。)
 本書によれば、この事件で警察官側の負傷者710(重症31)、全共闘側47(重症1)。457人が逮捕、133人が一審で実刑判決、とある。
 この数字を見て奇異に感じないだろうか? 学生側の10倍の警察官側の負傷者である。もしも権力側が本気で対峙するのであれば放水とか催涙弾などの生ぬるい方法ではなく実弾を使えばいいわけである。事実、天安門事件では多数の死者が出ているはずである。
 要するに権力の側からはまったく相手にもされていない。しかも制圧された時、安田講堂には東大生も「核マル」派もいなかった。
 安田講堂事件というのは大カーニバルであったはずである。そのカーニバルに陶酔して、講堂の上から飛び降りるひとの一人や二人がいても不思議ではなかったと思うのだが、いなかった。要するに「本気ではなかったのだ」とわたくしは思った。この間で、運動側の死者はほとんどが内ゲバによるものである。権力側に殺害されたものはいないと思う。(表にでていないだけかも知れないが、もしそのようなことがあれば運動側は大宣伝をしたはずである。)
おろらく、制圧する側も学生側に英雄を作らないことに腐心したはずである。死者は英雄になってしまう。

 さて東大の闘争とほぼ平行に日大の闘争があったわけだが、これこそ「左翼」とはまったく縁もゆかりもない、現在もその当時もまったく変わりない「学問」がどこにも存在しない「大学」という状況への抗議であったはずである。それが当時は、抗議活動の標準的な形が、ゲバ棒(角材のこと)とヘルメットというのであったので、あのような形になっただけなのだと思う。
 その日大の今のトップが「ルンルンを買っておうちに帰ろう」という変てこな(読んでいなくてこんなことをいってはいけないのだが)エッセー集(1982年)でデビューした林真理子氏なのだから感無量である。出発点は、たぶん「女って本当はこんなことを考えているのよ!」というような路線の本であったのではないだろうか? それが体育会系という男の世界(義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界)に乗り込んでいくのであるから、大変な苦労をされるのではないかと思っている。もちろん、林氏がその後、立派な小説家に脱皮していったことは重々、承知しているが・・。(そして容姿がどんどん変貌されていったことも・・)

 p145に「新左翼は就職活動に不利だったか?」という項がある。そんなことはなかったと思う。会社は個人の活動家を恐れていなかったと思う。おれが鍛えあげて立派な会社人間にしてみせると思っていたと思う。おそれていたのはひたすら「民青」「共産党」という「組織」であったと思う。

 さてp155からは「新左翼の理論家たち」という章になる。これがわからない。2022年の現時点において、そういうことを論じることに何か意味があるだろうか? 池上氏が1950年生まれ、佐藤氏が1960年生まれであるから、1947年生まれのわたくしより、池上氏が3歳下、佐藤氏は13歳下である。
 池上氏が高校に入った時の大泉高校ではブント派が活動してそれで「今のこの世の中は変えなければいけないんじゃないか?」と思うようになり、マルクス主義関係の本を読みはじめたのだ」という。そして、労農派のほうが正しいのではないかと思うようになり、大学進学時もどこでそのマルクス経済学を学べるかで選んだそうである。
どうも本書にはそういう池上氏の青春時代へのノスタルジアがあって、一時は自分も傾倒した「新左翼の理論家たち」を頭から否定できないのだと思う。
 しかし現在の時点で黒田寛一を思想家として論じることに意味があるだろうか? 黒田・松崎明動労という路線で現実にかかわったことはあるにしても・・。

 ここで佐藤氏がなんで現在あえて左翼史を語っているのかは「自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇しないと人に決意させてしまうほどの力を持つ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。」という。
 しかしこれは思想ではなく宗教だろうと思う。あるいは思想が宗教化することの怖さだろうと思う。
マルクス主義が宗教化した最大の理由は「科学的社会主義」の「科学的」なのだろうと思う。自分の主張は「思想」ではなく「科学」的あるいは「物質的」根拠をもつと主張したことである。歴史には発展法則があり、社会の生産力が増加していくことで自ずから最終的な共産主義社会へと進んでいく、としたことである。
 p181に、ソ連アメリカと張り合いながら趙大国なった一方で、マルクスの理想からは程遠い巨大官僚国家となってしまったソ連社会主義への失望がブント派の思想の根底にあることが言われている。しかし組織が大きくなると、先鋭的な前衛だけでは運営できなくなる。ドラッカーがどこかでいっていたが、組織というのはある程度大きくなるとどうしても膨大な中間管理職を必要とするようになる。その問題を軽視したことが、マルクス主義が現実には機能しなくなった最大の原因であると。
 今ではそんなひとはまずいないが、わたくしが若いときは電車のなかで共産党の新聞「赤旗」を読んでいるひとが結構いて、そばからのぞいてみると、ごく一部の資本家を多数の労働者が取り囲んで、拳を突き上げているといった漫画がいつも掲載されていた。
 ソ連は1957年には世界ではじめて人工衛星の打ち上げに成功している。その前には大陸間弾道弾もうちあげている。わたくしもその当時、ソ連というのは意外とまともな国かもしれないと思った記憶がある。
わたくしが東大にはいったのは1966年であるが、その当時の駒場キャンパスを牛耳っていたのは「民青」派であった。入学式は大学側主宰と学生側のものとの二本立てであったが、今でも不思議なのは、学生側の歓迎会のゲストとして招かれていたのが羽仁五郎氏であったことである。当時「都市の論理」で高名であった氏は、とにかく反体制であれば民青でも全共闘でもどちらでもよかったのかもしれないが・・・。とにかく天才的なアジテーターだと思った。
 そのころからすでにタテカンというのもあっただろうか? 駒場のキャンパスをあるいていると、あっちこっちからおいでおいでされたが、「すぐにも日本は共産主義国家になる。アメリカだってその内にそうなる」と真顔でいわれて、この人なにを考えているのだろうと思った。
 当時はベトナム戦争がたけなわで、ホーチミンサンダルを履いた農民兵が健気にアメリカの近代兵器と闘っているといった報道が専らされていた。実態は「地獄の黙示録」に描かれたものに近かったのであろうが・・・。とにかく当時の報道は、アメリカ=悪、ベトナム=善といった方向一色で、これはもう「宗教」である。実際にマルクスの思想にはキリスト教歴史観が色濃く反映していることはよく指摘される。「最後の審判」≒「共産主義社会の実現」。
 佐藤氏がいう「自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇しないと人に決意させてしまうほどの力を持つ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。」というのは、思想というものへの過大評価であり、人知の限界という啓蒙思想という西欧のなしとげた成果への過少評価だと思う。「われわれは間違う存在である。そうであるならお互いに許し合おうではないか。」
 しかし「自分は真理をみつけた」とする思想家もいる。それは他を許さない非寛容の道に通じる。
 p209で佐藤氏は、「自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだ」とし、そうなるのは「左翼が理性で世の中を組み立てられると思っていることにあります」という。
 さらに「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。」ともいう。
 フランス革命での「理性教」である。

 「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にある」ことを担当するのが「宗教」であるのかが問題である。「人間には理屈では割り切れないドロドロした部分がある」ことを自覚するのもまた「理性」の働きではないだろうか?
 「汝ら罪なき者、この女に石を打て!」というのは人間の不完全さを示唆するものであり、理性の言葉である。しかし宗教においては「自分は罪なき者であり、女に石を打つ資格をもつ」と信じるものが出てくる。

 わたくしはK・ポパーの信者であるので、その反証可能性の論を信じている。「われわれが知ることができるのは、何が正しくないかだけで、何が正しいかを知ることは永久にできない。しかるにマルクス主義フロイト精神分析理論も常に批判に関して自己の正当を証明する反論を用意している。とすれば、これらは科学ではない。」

 人間の完全性=宗教、人間の不完全性=文学、なのだろうか?
 「痴愚神礼讃」あたりから英雄譚ではない小人の文学がはじまったのかもしれない。そして小人の文学である小説がおそらく前世紀前半あたりに全盛期を迎えた。
 しかしどうも前世紀後半から今世紀にかけて小説は不振のようである。なにしろ小人が一人死んでも「西部戦線異状なし」である。
 クンデラは「ヨーロッパ的精神のこの貴重な本質は・・小説の知恵の内に収められているように思われる」と言っている(「小説の技法」岩波文庫 2016)。氏はアジェラスト(笑うことがなく、ユーモアのセンスのないもの、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えねばならず、じぶんたち自身はみずからそうだと考えている者だと信じこ んでいるひと)に対するものとして小説を挙げる。
 おそらく、全共闘運動家も共産党の運動家もアジェラストなのである。しかしアジェラストほど改宗させるのが困難な存在もないのではないだろうか?

 次の第四章「過激化する新左翼」は稿をあらためて。