ノブレス・オブリージュ

 ノブレス・オブリージュはフランス語で noblesse oblige 「高貴なものはまた義務をも負う」という意味らしい。「財産や権力を持つもの、社会的地位を持つ者にはまた義務が伴う」ということを指している。
 この言葉を思い出したのは、エリザベス女王逝去の報に接してであるが、英国には貴族がいるということをもまた思い出した。そして貴族がいるからこそ、また執事という存在も必要とされることになる。(カズオ・イシグロ日の名残り』) 

 英国にはパブリックスクールというものもある。おそらく「貴族」の卵の育成と密接にかかわっているのであろうと思うが、現在、ノブレス・オブリージュという言葉が英国でどのくらいまだ生きているのかはよくわからない。ただ、少なくとも第一次世界大戦当時には生きていたようで、そのため貴族出身の若き司令官がばたばたと戦場で死んでいったのだという。貴族であるがゆえに軍事に少しも通じているわけでもない若者が小隊くらいの指揮官に任じられ、いざ戦闘となると、突撃の先頭に立ち、バタバタと死んでいったらしい。それが第一次大戦後の英国復興のための人材の不足となったという話も聞いたことがある。
 英国には、まだ貴族がおり、平民がいる。だからキングズイングリッシュがありコックニーがあることになるし、「ピグマリオン」→「マイフェアレディ」ができることにもなる。
 しかし、日本には貴族はいない。方言はあっても、上流階級と平民?のしゃべる言葉が異なるというようなことはない。だからこそ、誰が国葬に値するかというおかしな議論がおきることにもなるし、また「ノブレス・オブリージュ」も存在しないから、政治と宗教団体の変なかかわりについても、自分が責任を負うとして腹かっさばく人もでてこない。

 などとまことに反時代的なことを書いてきたが、今の日本を見ていると、日本は今後も没落の一途をたどっていくのではないかと思う。もちろん、明治や戦後の復活がなんらかの僥倖あるいは間違いであったので、現在の状態が日本の実際の力を反映しているという見方もあるだろう。
 しかし、そうではあっても「プライド」という問題は残る。そして「プライド」の問題はnoblesseの問題とどこかで通底しているのではないかと思うので、ここに少し書いてみた次第。