To err is human
To err is human という言葉は一時、医療の世界でよく聞く言葉だった。ある時期、医療ミスや医療過誤の報道が続いたことがあり、医者ともあろうものが医療者ともあろうものがミスをするなど断じて許せないという糾弾の報道が続き、それに対して医療者の側の反論?がTo err is human だった。医療者だって人間なのだから、間違えること失敗することだってあるというわけである。
To err is humanはこう続く。To forgive divine 「人間であれば誰でも間違うのだから、神はそれを許す。」あるいは、「間違うは人の常。許すは神の業。」
実際に医療ミスがおきた時に、そんなことを言われても誰にとっても何の慰めにもならないわけであるが、少なくともミスを隠蔽することは減ったかもしれない。
「よりよき世界を求めて」(未來社 1995)におさめられた「寛容と知的責任」という講演でK・ポパーはヴォルテールの寛容擁護の論を以下のように紹介している。
『寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。』
おそらく、このような論に抗するのが科学と宗教である。科学という手段によってわれわれは何が正しいのかを知ることができる、という見解が一方にある。もう一方には人間には知ることが出来ないことでも、全能の神はすべて知っているという見方がある。
科学が提示できるのは仮説であって、決して真理ではないというのが科学についての現在の正統的な見解であろう。われわれが知っているのは、現在までのところ反証されていない仮説にすぎない。
問題は宗教である。これは反論不能の構造を持っている。そうであればそもそも議論の対象とはならない。だからこそ啓蒙思想は反宗教の運動でもあったわけである。
昨今のいろいろな出来事をみていても、宗教についての議論はきわめて腰が引けている。「地獄? 今時そんなものがあると思っているってバカなんじゃない?」というようなことをいう人はあまりいない。「個々人の信仰は尊重されねばならないが・・」といった前振りがついて、正面からの議論から逃げている。
宗教というとキリスト教・仏教・イスラム教といったものが頭に浮かび、確かに新興宗教といわれるものには問題なものが多いが、キリスト教や仏教まで否定はできないし・・、というところで話がとまる。
しかし今、本当に宗教が生きているのはイスラム教だけなのではないかと思う。アメリカでも妊娠中絶の禁止とかの動きがおきてきているし、ロシアもまた宗教の方に回帰しているので、まだまだキリスト教もあなどれない力をもっているのだとは思うが・・。
おそらく、キリスト教は西欧の歴史の中で作られた「美しいもの」のほとんどとかかわっている。そうすると、もし宗教を否定してしまうと、その美しいものさえ否定されてしまうように多くのひとが感じてしまうのだろうと思う。
そういうことを考えると思い出すのが以下の詩である。
クリスマス前夜、十二時だ。
「いま、みんな膝まづいているのだよ」
年寄がそういった。家中が集まって
炉の火の燃えさしを囲んでいる時。
私どもはおとなしい優しい動物を目に描いた。
みんな小屋の中の藁の上にいるのだ。
私どもはただ一人として
動物が膝まづいているのを疑わなかった。
こんな美しい想像はいま誰もしまい。
この時世だ。だが私は思う
誰かがクリスマス前夜に言ったとする
「さあ、牛が膝まづいているのを見に行こう」
「向うの山かげの淋しい農家の庭だよ
子供のとき、よく遊んだところさ」
そしたら私も彼と暗い道を行くかも知れぬ
本当であってくれと思いながら。
トマス・ハーディ「牛」 福原麟太郎訳
この詩は1915年に作られたものだそうであるので、すでに100年以上も前、その当時でさえ、「こんな美しい想像はいま誰もしまい。この時世だ」なのだから、今となってはいうまでもないことになる。
そうであるとすると、美しいものの最後の砦として宗教を考えるひとがいることもまた当然のことということになるのかもしれないが・・・。