与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(2) 第一章 崩壊というはじまり 1989-90

 1989年 6月 ポーランド 自主管理労組「連帯」選挙で圧勝。
      10月 ハンガリー 社会主義放棄
      11月 チェコスロバキア ビロード革命
      12月 米ソ 冷戦終結宣言
          ルーマニア 独裁者チヤウチェスク処刑
 
 上記で明らかなように、実質的にはこの年に社会主義は終わる。従って、昭和天皇社会主義はこの年に一緒に死を迎えたことになる。
 冷戦の終結はひとつの「思考」の崩壊でもあり、マルクス主義は機能しなくなり、旧時代の遺物になってしまった。
 一方、左翼的ではない日本の国民多数に思考や行動のモデルを提供していたのは「天皇のふるまい」だった、と与那覇氏はする。教育勅語には「朕爾臣民ト倶ニ」とある。この「倶ニ」がポイントなのである、と。上にたつのではなく共にある存在としての天皇

 一時流行した言い方での「《大きな物語》の死」が平成におきた。
 1970年に三島由紀夫が死んだが、その少し前に東京では初のウーマン・リブの集会が開かれていることを橋本治が指摘している、と。
 ここで脱線すれば、わたくしがウーマン・リブというのをはじめて知ったのは「中ピ連」という変な運動を通してである。
 正式にはこれは「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」というのらしい。この名称だけみると性の解放という方向の運動のように見えるが、具体的に何をしていたのかというと、♀のマークのつけたピンク色のヘルメットを被って徒党を組んである会社を訪れ、「シュプレヒコール! お前の会社の○○は●●と浮気をしているぞ!」などと叫ぶのである。○○さんはたまったものではないだろうが、ひょっとすると芸能人やスポーツ選手のラブ・アフェアが悉く糾弾される時代の先駆けの運動だったのかもしれない。

 わたくしなどは、この人たち、「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」という言葉をしらないのか? あるいは惻隠の情という言葉をしらないのか? と思ってみていたのだが、当時の一般的な見方は「ウーマン・リブ」というのは「もてない女」が徒党を組んでいる運動というものではなかったかと思う。
 丸谷才一さんがどこかのエッセイで「一度ウーマン・リブの集会を見にいこうか? 少しは美人もいるかもしれない」といったことを書いていたのを思い出す。今なら即、没になるはずの文である。
 「男は女を美醜だけで判断している! もっと能力で評価せよ!」というのがウーマン・リブの運動の根底にあるものかと思うが、なにしろそれは「観念論に門構えとしんにゅうをつけた」、理念だけのウルトラ観念論だと思うので、議論しても無駄で、男は敬して遠ざけるしかないものと思っている。
 さて本題に戻る。平成期の日本では、野党もマルクスレーニン主義のような「大きな物語」を掲げる日本社会党から、「リベラル」?な民主党へと移っていった、と与那覇氏はしている。
 ここで紹介されているのが、当時の大塚英志氏の文「少女たちの「かわいい」天皇」である。「少女たちは聖老人の姿の中に傷つきやすくか弱い自分自身の姿をみている。・・」「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」・・それは日本の近代社会が生み出したいかなる天皇像から見ても全く理解できないであろう不思議なまなざしである」と大塚氏はしていた。
 昭和の末期、晩年の昭和天皇の治療にかかわった某東大教授がたまたまわたくしの勤務する病院に訪れたことがあり、雑談をしていたら、天皇のことが話題になり、「本当はこんなこといっちゃいけないのだけど」との前ぶりで、「まったくただのおじいさん。テレビばかりみている」というようなことをいっていた。
 これが当時の普通の人の感じかただったのだろうと思う。わたくしもまた前稿で書いた「ゴルフ場で喪章」である。

 夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな
 あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

これは昭和天皇最晩年の歌である(中井久夫「昭和を送る」みすず書房2013年 から)。後者は昭和天皇が最後に詠んだ歌。だれがみてもここにあるのは一人の孤独な老人の姿である。
 外からはただのおじいさん、内からは孤独な老人というのはどこにでもごく普通に見られることであろう。
 少女たちの見る昭和天皇像を、「孤独を抱えて内閉した世界に引きこもっている点では、自分たち自身の似姿」と少女たちは感じていたと大塚氏は説明している。
 少女マンガの世界というのをわたくしは全くしらないのだが、その世界に昭和天皇をおけば、「なんか、かわいいんだよね」ということになるのだろうか?

 平成になってすぐに東側は崩壊しマルクス主義という「大きな物語」は世界のどこででも力を失っていった、そう与那覇氏はいうのだが、わたくしから見ると、日本では「大きな物語」的な何かが完全には崩壊せず、極論すれば、大きな物語の崩壊さえも「疑似大きな物語」となり、ポスト・モダン思想さえもそこに組み込まれて、「社会主義」「マルクス主義」の中核にあるものはたとえ東側が崩壊しても生き残り続けるといった方向のマルクス主義への未練が学者世界・インテリ知識人の閉鎖的世界のなかでは生き残り、いろいろな人によって手を変え品を変え様々な説・見解が唱え続けられることによって、日本の思想界が世界から離れた鎖国状態で独自な衰退の過程をたどっていったのではないかと思っている。
 与那覇氏もインテリが世を指導するというフィクションが揺らぎながらも続き、それにインテリがしがみついたことが日本の知識人の立場を独特のものとしたとしている。
 「大きな物語の消失」ということ自体が「中くらいの物語」になり、ポストモダン思想さえ「大きな物語」の代替物となってしまったのかもしれない。
 さて次は「第2章 奇妙な主体化 1991-1992」 いきなり話題は「浅田彰とスキゾ・キッズ」である。それは次稿で論じたい。

 ところで、わたくしは、昭和56年(1981年)末、大学を出て市中病院に就職している。1991年といえば丁度、就職後10年である。1990年ころの記憶にあるのはバブルの崩壊であり、あるいはその前の地価の高騰である。90年代になっての「バブルの崩壊」で無限の地価上昇というようなおかしな時代は終わった、これからはようやく少しは地に足がついた生活に戻れるという感じを多くの人が感じていたのではないだろうか?
 浅田氏も「経済の時代」は終わった。あくせくと働かなければ食べられない時代は終わった、フリーターこそナウい生き方というような当時の風潮(正規社員は会社の奴隷・・社畜、フリーターこそ自由人という風潮)に適合していたゆえに歓迎された側面があったことは否定できないだろうと思う。
 バブルの時代は看護師さんが転職の挨拶にきて、「次はどこの病院?」ときいたら「銀座」というようなことが普通にあった時代である。
 この頃聞いた話に「経済学者が考えているのはひたすらどうやってインフレが起きないようにするかである。デフレの対策を考えなければいけない時代が来るなど思ったこともなかった」というのがあった。一寸先は闇。

 ということで、次回はまず浅田彰さん。