与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(5) 第3章 知られざるクーデター奇妙な主体化 1993-94

 与那覇氏は1993年の細川連立政権発足が日本の政治の分水嶺だったことを否定するひとはいないだろうとするが、国民の政治改革熱が高まった要因はその5年前の1988年のリクルート事件だったという。
 確かリクルート社というのは、1960年3月、 江副浩正氏がまだ大学在学中に学生仲間と、「東京大学新聞」の広告代理店として設立した、「大学新聞広告社」がルーツになったと聞いている。企業と学生を仲介する会社である。物を作る実業ではなく、人と人を結びつけるという虚業?の方向に目をつけるあたり、やはり並みのひとではない。
 1985年には、「フロムエー」を発刊。そして、1988年に- リクルート事件、バブル景気の崩壊に伴い、不良資産問題が顕在化したため、1992年江副氏が保有株式を中内㓛氏に譲渡、というような経過であったようである。
 田原総一郎氏は後年、リクルート事件を冤罪であるといっているのだそうである。未公開株を有力者に譲渡して、会社に箔をつけるのは当時広く行われていた慣行であったが、ある有力代議員に渡す場面が隠し撮りされていたから問題が大きくなって検察も動かざるを得なくなった。しかも95年のオウム真理教事件の報道でのマスコミのおかしなやりかたへの不信がたかまり、メディア先行であった細川護煕内閣にも厳しい目がむけられるようになったのだと。
 この細川氏の政策を影で立案したのが香山健一氏であったのだという。香山氏は「未来学」などいうわけのわからないことを論じていたひとで、わたくしは何だかつまらんひとと思っていたのだが、96年に64歳で亡くなられているようである。
 わたくしは当時の政治をみていて、裏で動いていた小沢一郎が細川を担ぎ上げるのを見ていて、うまいなあと感嘆していた。いかにも「悪人面」「政治家面」をした小沢一郎が裏にまわって、なんにでも「よきにはからえ」といいそうな茫洋とした熊本藩主末裔を祭り上げてくるというのは何という「政治の才」なのだろうと思った。
 ここで小選挙区制の話がでてくる。当時は中選挙区制であったわけだが、中選挙区制であれば、3人区で自民党から2人当選などということは普通に起きうるわけで、これが自民党政権を延命させている。小選挙区であれば、政党が掲げる政策の選択になりようやくまともな選挙になるといったことがいわれていたように記憶している。
 1993年に小沢一郎の「日本改造計画」は出たことは知っていたが、読もうとは全く思わなかった。安倍さんの「美しい・・」と同じである。
 この頃の政治論壇におきた世代交代のことが詳しく論じられているが、多分に大学人としての与那覇氏の関心に偏しているように思うので、ここではスキップするが、86ページからの「転向者たちの平成」については個人的な興味もあり見ていきたい。
 香山健一氏は60年安保で活躍した共産主義同盟(一次ブント)の創設者、西部邁の先輩。
 佐藤誠三郎氏は都立日比谷高校で民青同盟のキャップ。
 「転向」とは戦前は官憲の弾圧により起きたが、戦後は左翼思想への「失望」を契機にしたものが多い。
 戦後初期;渡邊恒雄・氏家斉一郎・・共産党への入党歴あり。
 共産党の武闘闘争への反発から:網野善彦
 60年安保の挫折から:香山健一・西部邁、あるいは江藤淳石原慎太郎も?
 70年安保の挫折から:猪瀬直樹(信州大で全共闘議長)

 わたくしなどは転向とか関係なく、この辺り、60年安保の時の「若い日本の会」を思い出すのだけれど。
 石原慎太郎谷川俊太郎永六輔大江健三郎黛敏郎福田善之寺山修司江藤淳開高健浅利慶太・羽仁進・武満徹・・。
 実に錚々たる顔ぶれである。
そして、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」。これは1965年の「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたものだそうだけれど・・。
 1994年のベストセラー?「知の技法」の編者の小林康夫船曳建夫両氏も東大紛争(与那覇氏の記載に従う。これを「紛争」とするか「闘争」とするかは、このことを論じる場合にいつも問題となる)の闘士だったのだそうである。
 さてここでいきなり「幻冬舎」の話になる。その創立者見城徹氏もまた慶応大学での全共闘運動闘士だったのだそうである。
 さてこの当時に時代に抗する学者として登場した人として挙げられるのが宮台真司氏と上野千鶴子氏である。ともに「女」を論の中心においた。宮台氏は当時ブルセラ云々を論じていたと思うが、最近、氏の論を読む機会があり、ゴリゴリの「共同体主義者」「コミュニタリアン」に変貌しているのを知って一驚した。どうしたのだろう?
 上野氏については、とにかく氏が自信満々なのが嫌いなのだが、平安女学院短期大学講師から出発し、「セクシィ・ギャルの大研究」というきわものでデビューした人間が、東大教授にいたるまでの道のりがどれほど障害の多い苦難に満ちたものであったかは想像に難くないわけで、まああまり嫌ってはいけないのだけれども・・。「いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ」というのはまた上野氏の境地でもあったかもしれない。
 氏の「おひとりさまの老後」(法研 2007 表紙には 東京大学大学院教授 とある)は全くタイトルに偽りありで、氏はおひとりさまでもなく寂しくもないひとなのである。大晦日にはシングルの男女4人と年越しソバとシャンパンでカウントダウンパーティー、新年にはシングルの女性ばかりの新年会で、渡辺淳一の「失楽園」にならって、鴨とクレソンの鍋。流石にシャトーマルゴーは続かなかったと書いているが、いい気なものである。
 要するに「上級国民」である。上野氏によれば、こういう会を続けられるのは己のコミュニケーション能力の賜物ということになるのだろうが、シルバー起業せよとか、年金はあてにならないから少しは稼げとか、もう言いたい放題である。
 2015年にでた「おひとりさまの最期」(朝日新聞出版)では随分と大人しくなっていて、終末期医療などについてああでもないこうでもないといろいろと迷っているようである。在宅医療に携わる医師などとつきあううちに、医者は「社会性のない高ピーなひとびと」という先入観が壊れて来たと書いている。個人的には「社会性のない高ピーなひと」というのは上野氏のことのような気もしないでもない。あるいは「社会性はあるが高ピーなひと」
 なんだが、厳しいことを書いているが、上野氏が論じているような分野というのは絶対に正解がない、あるいは正解に到達していても、われわれはそれが正解であるとは知ることができない分野なので、そのややこしさから逃げて、氏もフェミニズムの分野から段々身をひいて、介護の分野に逃げたのかもしれない。介護の分野であれば、まだ正解を論じることが不可能ではないかもしれないから。
 上野氏はその頃「正気の、醒めた理想主義を、私は新保守主義と呼ぶ。・・新保守主義者は、現状の変革を認めるが、・・それは一つの悪夢が少しだけましなべつの悪夢にとって代わるだけだということを、知っている理性のことなのである。」と書いていることが紹介されている。
 これは保守主義の定義そのものであると思うが、上野氏がこれを是としているのかはわからない上記はフェミニズムとは真逆の考え方であり、フェミニズムというのは観念論の極致にあるものとえあたくしは考えるからである。
 なお1989年、平成元年の流行語大賞の新語部門は「セクシャルハラスメント」、流行語大賞が「オバタリアン(旋風)」であったのだそうである。
 宮台氏の当時の立場は「少女マンガのほうが少年漫画よりえらい」だったというのだが、マンガと映画というのはわたくしのまったく苦手で縁遠い部門なので、これについては何もいえない。大分昔、大岡昇平の「成城だより」を読んでいて、そのどこかに少女マンガを論じているところがあり、「えっ、大岡さん、こんなものまで読んでいるんだ!」と驚いたそんな旧弊な人間なので、この後でてくる「エヴァンゲリオン」がどうとかの話にまったくついていけないので甚だ困っている。

 次は「第4章 砕けゆく帝国 1995」であるが、今まで2年きざみで進行してき本書がここだけ1年である。それにしてもまだ100ページである。500ページの本書を論じると後どの位かかるか? まあ、頑張るしかない。