平成9年(1997年)は後世から「右傾化の原点」と記されるかもしれないと与那覇氏はいう。同年1月に西尾幹二&藤岡信勝の体制で「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、さらに5月には「日本会議」が結成されたからである。
わたくしはこの「新しい歴史教科書をつくる会」の騒動をひたすら馬鹿々々しいと思ってみていた。それに反対する人たちは、人間は教科書に書いてあることをそのまま本当のことと信じると思っていただろうか?
いくらでも読むものがあり、見聞きするものがある時代に、いくら教科書に右派が自分達の「見解?」「偏見?」を書きこませることに成功したところで、そんなものは焼け石に水、海に捧げる美酒一滴であって、時代をほんの少しだって変えることなどできるはずがないとわたくしは思っていた。
この与那覇氏の本は、知識人の復権を目指すものであると思うが、左右知識人の椅子取りゲームを論じても意味はなく、この「新しい歴史教科書をつくる会」の結成がその後の市井の日本人にどのような影響を与えたか与えなかったかが大事なはずである。わたくしは、影響はほぼ皆無と思っていたのだが、そうではなかったのだろうか?
わたくしは麻布中高という庄司薫氏が「赤頭巾ちゃん・・・」で描いた都立日比谷高校ほどではないにしても、まあそれに似たいやったらしい学校で学んだ人間なので、すでに擦れていたのだが、東大には入ってびっくりしたのは、地方の普通の公立の高校などから出て来た人などには(なにしろ先生が解らなくなると「お前教えろ!」というというような環境で学んで来たので)、「ひょっとすると俺は日本で一番頭がいいのではと、ここに来るまでは思っていた」というようなことをいう人が一定数いた。しかも、そういうひとが、「自分はいままで教科書に書いてあることはみんな正しいと思っていた」というのである。確かにそういうことはあったが・・・。
「日本会議」のほうにもあまり関心はなかったが、いままで「進歩」陣営の人々から抑圧されて悔しい思いをしてきた右の側の人たちが、ようやく俺たちも発言できる時代が来たとして声をあげた、というようなものと解していた。それまで左の人たちはそういう人たちに発言させないことに多大の力を注いで来たのだから、「日本会議」が時代を変えたのではなく、時代がかわったので、日本会議のような方向の人達もようやく発言できるようになってきたということではないかと思う。
わたくしは、西尾幹二氏はミニ福田恆存と思っていたが、藤岡信勝氏はその著書をただの一冊も読まないまま、この人「頭が悪いのじゃない」と思っていた。聞こえてきた話があまりに大雑把なように見えたからである。
次に、1996年には、丸山眞男、高坂正尭、司馬遼太郎の三氏人が死んだことを那覇氏は指摘する。
丸山氏の言葉。「マスコミはひどいですよ。「社会主義の滅亡」とか「没落」とかね。・・第一に理念と現実との単純な区別がない。・・ これは当時さかんにいわれていた「社会主義の滅亡」論についても同じ。現実におこりつつある「ソヴィエト連邦の崩壊」と、理念としての社会主義は峻別して議論しなくてはならない。・・・」
ここで丸山氏が提示するのは、「ギルド社会主義」といういかにも学者さんの頭の中にしか存在しえないように思える構想なのだが・・・。
そして丸山氏はこうもいう。「僕は社会党はホントにバカだと思う。国連の改組というのが全然でてこないの・・・。国連の主権国家単位を根本的に改組しなくては、独立の軍備を持たない国家は国家じゃない、という議論に対して対抗できませせんよ」、と。
とすれば、社会党(立憲民主党?)は未だにバカのままということなのだろうか?
この点に関しては、わたくしは彼らから未だにoccupied Japan 意識が抜けないのが一番の問題なのではないかと思っている。最近の国葬反対でも、見てまず感じるのが「大人気ない。子供っぽい。」ということである。被占領意識がぬけないから、父親になれず、責任は回避してただただ子供っぽい批判のみのように見える。懐が狭いというのか?あるいはそもそも懐というものがない?
次に高坂正尭氏。氏は晩年、「憲法、とくに第九条は日本人を深く考えさせるのではなく、思考を停止させるという性格が強まってきた。」としていたのだという。湾岸戦争への「進歩」側の対応をみても、第9条が(ただの?)錦の御旗になってしまった、と。
ここで沖縄大田昌英知事が出てくる。わたくしは沖縄の問題の一番の根っこは地政学的な問題があると思っていて、それがあまり論じられないのが不思議だと思っている。
とにかく、藤岡信勝氏は「昭和のホンネ」というというパンドラの箱を開けてしまった。知識人の間で「それをいっちゃおしまいよ!」としてみんな見て見ぬふりをしていたものを「王様は裸だ!」といってしまったわけである。
さてここから話の方向が急に変わることになる。
1996年に、ハンチントンの「文明の衝突」が刊行された。これはフクヤマの「歴史の終わり」(三笠書房 1992)への批判として書かれた。フクヤマは確かコジェーヴのお弟子さんで、この「歴史の終わり」にもコジェーヴへの言及が頻繁にある。コジェーヴは「冷戦の終わり、西側の勝利」を見て、もう哲学にはやることがなくなったとして国連の職員かなにかになったのではないかと思う。
邦訳「歴史の終わり」の原題は「歴史の終わりと最後の人間」である。「最後の人間」というのはニーチェの「末人」であり、要するに、西洋はついに勝利はしたが、そこでこれから生きていく人は、何らの気概も持たない「末人」「スノッブ」である、というあるという含意の題名であり、ある意味では、西欧の勝利の賛歌ではなく、ペシミスティックな本でもある。
コジェーヴは「ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む」(国文社 1987)で、氏が日本に来た時見出した、《鎖国により大きな国内戦争が300年なく過ごして来た日本で発達してきた能や茶道や華道といった洗練されたスノビズム》こそが「歴史の終り」の時代以降を生きる「末人」たちの目指すべき方向である、といった多分に日本へのリップサービスのような註(邦訳p246~247)を後から加えている。それを読んだポストモダンの陣営の人達がなぜかえらく嬉しそうにしていたのを思い出す。
コジェーヴは、ヘーゲルなどという今やだれも読まないかもしれない哲学者について延々と論じているわけである。
そのお弟子さんのフクヤマとその「歴史の終わり」においても、プラトンを論じ、「気概≒自尊心」とし、「魂の三分説」(欲望と理性と気概)などを延々と論じているのであり、「歴史」が終わった後はニーチェの言う「末人」の世界になるといった、はなはだ抽象的でかつ検証のしようもない話に終始している。東側の崩壊の原因も、それが人々の「気概」を満たせない体制であったからといったはなはだ抽象的な議論に終始している。
「歴史の終わり」の訳者である渡辺昇一氏の著書「新常識主義のすすめ」(文藝春秋 1979)には「不確実性の哲学―デイヴィッド・ヒューム再評価―」という40ページほどの論が収められている。そこに、1974年のハイエクのノーベル賞の受賞記念講演である「Pretence of Knowledge」(知ったかぶりをすること?)が紹介されている。ハイエクの論にはヒュームの名前はでてこないが、これはヒュームの思想そのものだということが言われている。
「人知の限界」対「構成的主知主義」。わたくしはコジェーヴもフクヤマも、そしてヘーゲルもマルクスは言うまでもなく「構成的主知主義」の側の人間だと思うので、この二つに対する渡辺氏の姿勢がいまひとつよく理解できない。
われわれは「人知の限界」に制約されるが、その「人知の限界」を認めない「構成的主知主義」の考えの上に立った東側は崩壊して当然であったということになるのだろうか?
もちろん実際の歴史をみれば「歴史の終わり」などおきなかったわけで、ハンチントンの「文明の衝突」のほうが正しかった。西側とイスラムの対立がおき、世界の争いは延々と続き今にいたっている。現在ロシアでおきていることだって、西欧の現在を「末人」化とみて、それに同じることはできないと感じる人間が、「人間はもっと崇高なものだぞ!」と叫んでいることに起因しているのかもしれない。9・11だってもちろんそういう方向である。
わたくしからみると、渡部昇一氏はなんといっても「知的生活の方法」(講談社現代新書 1976)の著者である。それが出版された当初、「何が知的生活だ! 気取りやがって! 嫌な奴」と思って手にもとらなかったが、ある時、何かで手にすることがあり、すっかり打ちのめされた。佐藤順太先生もさることながら、p145~150に示されたいくつかの書斎の設計図にやられてしまった。いいな、いいな、こんな書斎を持ちたいなぁと思った。
本を読んでいると、「あっ、この話〇〇さんがどこかで書いていたことと関係あるな!」という閃き?のようなものを感じることがある。こういう閃き?がおきたらおそらく5分以内位に〇〇さんの本を参観できないと閃きはどこかに消えていってしまう。だから誰々さんの本は本棚のどのあたりにあるかを大雑把にでも把握していないといけない。しかし本が増えてくるとそれがとても難しくなっていく。ということで本棚を並べた小さな図書館のようなスペースが自宅にあって、そこに自分なりに整理し分類した本を配した書架がないといけない。様々な著書についての自分なりの相関図を反映したライブラリがなくてはいけないことになる。
今、私は3千冊くらいの本を持っているかと思うが、数年前の転居前は一万冊くらい持っていたのではないかと思う。実家が比較的広かったのでそれが可能になっていたが、今の家は狭いので、文庫本など(たとえばキングのミステリは30冊くらい?・・)の大半は古本屋さん行きとなった。いまではいざとなればアマゾンに頼めば、早ければ翌日に本が届くといういい時代になったから、普通に流通しているポピュラーな本は手許におく必然性はあまりなってきているのかもしれないが・・。しかし渡部氏の本の書斎の設計図をみると、やはりうらやましいなあという気持ちがこみ上げてくるのは否めない・。
だから「絶景本棚1・2」(本の雑誌社 2018 2020)などというのを読む(見る?)と羨ましくもあり、まあ凄いひとがいるものだと感心もする。「1」の第一章は松原隆一郎氏、京極夏彦、萩原雷魚、渡辺武信氏、成毛眞氏・・・。まず松原氏のライブラリ、おそらく本の収納のために新築したものであろうがどのくらいのコストが?と他人事ながら気になる。またどの人のライブラリを見ても床が抜けないかが気になる。
「作家の家」(平凡社 2010)もいい。わたくしの敬愛する吉田健一氏にはじまり、山口瞳・渋沢龍彦・井上靖・・などの各氏。井上靖氏や岡部伊都子氏のように整然と整理された家もあるようだが・・。
いずれにしても物書きになるためにはどれ程の本を読み、手許に置くことが必要か?ということである。学者さんも同様であろう。本を読むのもアマチュアの方が無難ということであろう。
ということで、この「知的生活の方法」を読んで、一生本を読んで暮らしていこうという気持ちが固まったことは確かで、それについて後悔したことは、その後一度もない。
さて、渡部氏をもちあげてきたが、氏は男女関係といった方面にはいたって不調法な方なのではないかと思う。「新常識のすすめ」(文藝春秋 1979)に所収された同名の論で、アメリカの某大作家が匿名で書いたという「彼」というポルノ小説を論じている。わたくしはこの作家の「彼女」という同じ系統の小説は読んでいるが「彼」は読んでいない。しかし小説についてはそんなに理屈をつけてまで、小難しく読まなくてもいいのではないかと思っている。
「知的生活の方法」でも、家族、結婚、夫婦、家庭生活についていろいろなことを書いているが、実生活においては奥様というお釈迦様の掌で踊っていたのではないだろうかと想像している。違っていたら、妄言多謝であるが・・。
さて与那覇氏の本に戻る。なぜかいきなり安室奈美恵の話になる。更に宮崎駿の(第一回目)の引退。次に、高畑勲氏やスタジオジブリの話。これらは、こちらが全く知識を持たない話なので、パス。
で、次がまたいきなり97年のアジア通貨危機の話になる。当時これには本当に驚いた。ヘッジファンド(という言葉もその時、初めて聞いた)といわれる一私企業が国家を沈没させてしまうまでの力を持つこともあるということに驚いた。
また95年にはアマゾンが開業している。最初本屋さんだと思っていたらいつのまにかネット上のスーパーマーケットになってしまった。しかし梅田望夫さんがいっていたロングテールのかなり端っこにあるような本もかなりの確率で入手できるようになったのはとてもうれしいことである。(梅田望夫「ウェヴ進化論 -本当の大変化はこれから始まる」(ちくま新書 2006))
さらにハイテク大国日本の凋落の話。山一証券は潰れ(社長さんが泣いていた)、この頃から、バブルの崩壊が日本で実感されるようになり、日本全体に何だかわが国はまずい方向に向かっているのではないの?という見方が広がっていったように思う。
そして、99年末には、ロシアでプーチン氏が大統領に就任している。
その後、臓器移植の話になるが、もちろんこういう話に結論がでることはない。
以上で第一部が終り、次からは第Ⅱ部「暗転のなかの模索」となる。まずその第6章の「身体への鬱転 1998-2000」へ。この章では3年がまとめて論じられている。