与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(10) (小休止)今日の朝日新聞朝刊について

 今日の朝日新聞朝刊の2面に雑誌「世界」の宣伝が載っていた。特集が「戦後民主主義に賭ける」。「賭ける」というのは、普通は《勝つ可能性は高くないが敢えてそれを知った上で》というニュアンスで用いる言葉だと思う。とすると、この特集は「戦後民主主義」はもう命脈をたたれようとしていることは重々承知しているが、それでも自分はそちらに与したい、というものなのであろう。敗色濃厚になった南軍にあえて加わるレット・バトラーみたいなものだろうか? もちろん、正しい側がいつも勝つとは限らない。とすれば、負けた(あるいは世間からはすでに負けたと思われている)側が「それでも自分達は正しい」とすることには少しも問題はない。
 この広告の左には柄谷行人氏の新刊である「力と交換様式」という本の広告がでていた。「21世紀に『資本論』を継ぐ」というコピーが付されている。「戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資本主義の構造と力が明らかに。」とある。しかし「戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資本主義」などという話はわたくしが若いころから耳にたこができるくらい何回もきかされてきているものである。今度こそ恐慌だ! 今度こそ資本主義体制の崩壊だの始まりだ!・・。しかし「恐慌」は柄谷氏の頭の中にはあっても、現実の社会には存在しなかった。
 読んでいなくていうのはいけないのだが、柄谷氏の今回の本など、橋本治氏が三島由紀夫を評した「塔のなかの王子様」による著作であって、安全な場所に閉じこもって、その中から、塔の外の世界、われわれが生きている現実の世界とは接点をあまり持たない机上の空論が延々と展開されているのではないだろうか?
 左のひとが未だに、マルクスと「資本論」を経典として奉っているのが不思議である。マルクスは19世紀中葉のひとである。つまり、もう100年以上も前のひと。
 「資本論」は一種のユートピア思想でもあるわけで、キリスト教的な思想の世俗版であり変奏でもある。ローマ・カトリックプロテスタントという図式でいえば旧ソ連スターリン)対新左翼だろうか?
 マルクス自身は自説を「科学」であると思っていたはずであるが、しかしヘーゲルの「歴史の終わり」という歴史観の踏襲者であり、リカードの労働価値説に全面的に依拠する、現代経済学からは何周も遅れた古い経済学の学徒でもある。その説の根幹は「資本家が労働者を搾取している」という「不道徳な事態」を明らかにすることにあった。しかし結果として生まれたのは「ソ連」と「中国」がもたらした世界史のうえでもあまり類をみない厄災だった。フランス革命もこれに加えるべきか? 大粛清・大躍進政策文化大革命・・。今のプーチン大統領のしていることなど、これに較べれば児戯に類する
 それなのに、柄谷氏はなぜ今さら「21世紀に『資本論』を継ぐ」ことなどをしなければならないのだろう。
 わたくしが思うに、これは人々のために書かれたものではなく、柄谷氏自身のために書かれた本なのであろう。自分が過去に書いたことが実社会にはほとんど爪痕一つ残せなかった(あるいはむしろ残したものは負の遺産?)ことへの省察と、それでもそれを見据えた上での新たな展望が示されているのであろう。氏はますます自分の塔に閉じこもろうとしている。
 この二つの広告の間に、わたくしは知らない(おそらく歴史学者)三氏による「歴史はなぜ必要なのか ―「脱歴史時代」へのメッセージ」という本の宣伝もある。「私たちの生きる現在の世界は過去の歴史の蓄積の上に成り立っていることを、第一線の歴史家たちが・・解き明かす。」とある。えー? そんな初歩的なことまで教えなければいけないの?
 17面にある読書欄では「著者に会いたい」という欄に渡辺京二さんが登場し、『小さきものの近代1⃣』が紹介されている。氏は現在92歳なのだそうである。ここに氏が若い頃、吉本隆明に聞いたという〈人は育って結婚し子どもを育て死ぬだけでよい〉という言葉が紹介されている。しかし柄谷氏はそれでは我慢できないのであろう。
 この渡辺京二氏のようにアカデミーに属さない孤高の独学者がなしとげたことの前に、大学の歴史学者さんたちはもっと首をたれなければいけないのではないかと思う。石牟礼道子さんを世に出したことを除いても氏の業績は大きい。氏は「逝きし世の面影」でようやく多くの人に知られるようになったと思うが、それ以前からコアなファンが一部にいて、葦書房というところから「渡辺京二評論集成」という4巻本もでていた。わたくしはこの葦書房という出版社も渡辺氏のファンであって、損得を度外視して(とまではいかないかもしれないが)、氏の本を出版してきたのではないかと密かに疑っている。
 「逝きし世の面影」の平凡社ライブラリー版への後書きで、「版元が重版しなくなってから、この本は幻の本となりおうせた」と書いている。葦書房版は実に立派な大きな本だから、そうそう再版というわけにはいかなかったのかもしれおない。
 従来戦闘的左派であった氏がこの本で右旋回して「古き良き」江戸を賛美するひとになったとみるむきもあるようだが、江戸末期がある種の文明の域に達していたことは間違いない。多くの外国人には「巡礼地の神社を囲む道に女郎屋が林立していること」などまったく理解の外で、彼らから見ればそれは「野蛮」そのものであった。そういうこともまた一つの文明の形であることなどは理解できなかったようである。
 ということでいきなり話が飛ぶが、「左」のひとたちも、フェミニズムの陣営の人たちも野暮な人たちが多いのではないかとわたくしは密かに疑っている。柄谷氏もあまり粋とはいえない人であるような気がする。
 そしてこのことが存外、「左」の人たちの主張がなかなか世に浸透しないことのかなり大きな原因の一つになっているのではないかと思う。最近の国葬反対の人たちなど「野暮」の極致である。そしてまた国葬反対派を批判する人もまた「ほとんど野暮」である。とにかくみな大人気がない。
 剛毅朴訥仁に近し、などといっても今さら仕方がないけれども、子供の喧嘩のような議論ばかりをしていると、普通の生活人は政治から、歴史から、どんどんと離れていってしまうのではないだろうかということを危惧する。