今日の朝日新聞朝刊一面の見出しに感じた違和感

 「共和、下院で優勢 粘る民主 上院で伯仲 米中間選 激戦続く」というのが見出しである。違和感を覚えたのは、最後の「米中間選 激戦続く」の部分である。投票はもう終わっていて、開票作業に入っているのだから、戦いは終わっていて、あとは粛々と結果をまつだけのはずである。どこで「激戦が続いて」いるのだろうか?
 もしも、結果が50.01対49.99(獲得議席数であるから、これほどの僅差にはならないだろうが)であればこれはもう誤差の範囲であって引き分けである。しかしそれでも僅差であっても対立政党をわずかでも上回れば勝利ということになるらしい。
 民主党がボロ負けするかと思われていたが、共和党がそれほど圧勝することにもならなかった(よかった、よかった)というのが現時点での新聞をつくるひと、知識人たちのこの選挙への評価なのであり、それが透けてみえるのがこの見出しなのであろう。「粘る民主 上院で伯仲」
 アメリカというのは不思議な国で、いまだに宗教国家の尻尾を引きづっている。だから、知識人たちはそれについて様々に論じて来た。ブルームの「アメリカン・マインドの終焉」(みすず書房 1988)、ローティの「アメリカ 未完のプロジェクト 20世紀アメリカにおける左翼思想」(晃洋書房 2000)、ドーキンス「神は妄想である 宗教との決別」(早川書房 2007)、イーグルトン「宗教とは何か」(青土社 2010)、S・ピンカー「21世紀の啓蒙」(草思社 2019)・・・
 インテリ達はお互いに色んなことを言ってお互いを啓蒙?しあってきた。しかしそれは身内の争い(蛸壺のなかでの争い?)であって、「赤い帽子の農夫たち」には微塵も影響を与えることはなかった。
 「銃保持の自由」対「妊娠中絶の可否」、こんなことが選挙の争点になる国がほかにあるだろうか?
 米国は、信仰の自由を求めた清教徒が作った国である。ピルグリム・ファーザーズがその地ですぐにやったことの一つが大学をつくることだったのだそうである。食うや食わずの人間がそんなことをするのは正気とも思えないが、牧師の育成には大学の存在が不可欠だったからということのようである。
 宗教というもの、信仰というものは本当にいやなものだなあと思う。
 それはそれとして、日本のキリスト教関係者は妊娠中絶についてどのような立場をとっているのだろう。
 わたしが高校から大学にかけて、アメリカでは「プレイボーイ」とか「ペントハウス」とかいう雑誌が続々と創刊されて「フリーセックス」などということが言われていた。1968年の頃の風潮のひとつだったのであろうが、今のアメリカではどうなっているのだろう?
 日本では芸能人の情事をあげつらうのが流行らしい。同調圧力? 日本では「世間」、アメリカでは「宗教」ということなのだろうか?