山の手育ち(2)

 吉行淳之介に「戦中少数派の発言」という文がある。昭和十六年十二月八日の太平洋開戦の日の中学五年生の吉行氏の姿を描いた文である。氏は中学は麻布のはずだからわたくしの先輩であるが、当時の麻布はあちこちの学校に落ちた生徒を救済する学校であったようである。
 その日の休憩時間にラウドスピーカーから真珠湾の戦果が流れると、生徒たちは歓声をあげて教室を飛び出していった。教室のなかに残ったのはただ一人吉行氏だけ、氏はスピーカーの前で歓声をあげる生徒たちを教室から一人暗然と眺めていた、という。
 わたくしには1968年の大学の騒動に参加した人の多くが、この十二月八日、スピーカーの周りに集まった生徒たちとどこか似ているような気がする。
 わたくしは大学の最初の教養学部時代、多分、江藤淳の『成熟と喪失』などの影響かと思うがいわゆる第三の新人たちを読んでいて、特に吉行淳之介にいかれた。吉行氏の言葉を用いれば自分と同じ「生理」をもったひとだと感じた。氏の他人との距離のとりかたに共感したのだと思う。自分は他人を理解しているが、その他人が自分の中に入り込んでくるのは許せないとでもいうような。大分後に橋本治が「三島由紀夫とは何ものだったのか」で三島を「塔の中の王子様」と呼んでいるのを見て、同じことを言っているのだな、と思った。
 こういうのを都会的な感性というのか難しいと思うが、とにかく付和雷同を嫌い、自分という個をまもりたいと思う。前稿ではそれを「山の手」的な感じ方といってみたが、同じ都会でも下町ではお祭りのようなものがあり、そこで神輿をかついだりする。
 山の手でも祭りのようなもので何とか地元という意識をそこに住む人間に持たせようとしているようであるが、そこに住むインテリたちが嬉々として祭りに参加しているようには見えない。何か地元で商売を営んでいる人達の集いであって、そこから都心の会社に通っていて地元には寝に帰るだけというひとはそういうことにはあまり関心を持たないようである。
 荻窪のすぐ近くの高円寺では、毎年「高円寺阿波踊り」というのをやっていて、年々盛大になっていくようであるが、まだ歴史にはなっていないようで、これが地元の祭りとして定着するにはそれなりの時間がまだかかりそうである。
 自分がその町の住人になるためには、地元にいきつけの呑み屋のようなものをつくるのが一番手っ取り早いのかもしれないが、「センセイの鞄」(川上弘美)のセンセイのように(あるいはツキコさんのように)「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」というわけにはなかなかいかない。
 うっかり地元の呑み屋さんなどにいくとご近所さんがいるかもしれず、そうなると人中の孤独も楽しめない。なにが人中の孤独だ、偉そうにといわれそうだが、確かにその通りで、結局、自分の住んでいる町は単なる寝にかえる場所であるのが一番気楽なのである。そうであれば、「(センセイの)鞄の中には、からっぽの、なにもない空間が、広がっている」ということになるのもいたしかたないことになる。「センセイの鞄」は都会に住む孤独な人間同士の束の間の接触の物語である。
 吉行淳之介が山の手育ちかどうかは知らないが、氏もまた父が作家の二代目であることは間違いなくて、都会的な感性の持ち主であることも間違いない。
 前稿でわたくしが述べた「山の手育ち」というのは、都会的ということであり、わたくしの偏見では「下町」は都会ではないのである。
 ということで、わたくしの山の手理解は偏見に満ちたものであることは間違いないが、わたくしにとっての都会的人間の典型はたとえば庄司薫なのである。その「赤頭巾ちゃん 気をつけて」には「田舎から東京に出てきて、いろいろなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかをあげるんだ。・・・」とある。
 でつぎは庄司薫