山の手育ち(3)

 庄司薫の「赤頭巾ちゃん 気をつけて」は、安田講堂落城の後、東大入試の中止が発表されてしばらくして発表された。入試の中止などを背景にした作品であるからリアルタイムに書かれた作品である。この小説を読んで、それまでかすかに残っていた「小説でも書こうかな」という色気は完全になくなった。わたくしが20歳前後のことである。
 わたくしの人生を前後に分けるできごとがあったとすれば、それは公的には東西の対立の終焉、東側の崩壊、マルクス主義の終焉であり、私的には大学闘争(紛争)であったと思う。前者はもちろんマルクス主義そのものの終焉である(それについては終焉したのは偽の社会主義、偽のマルクス主義であって、マルクスの思想が目指した本質はまだ生き続けているという見方ももちろんいまだ存在している)。
 一方、大学闘争(紛争)とマルクス主義がどの程度かかわっているのかについては様々な見解があるだろうが、当事者が「革命的マルクス主義」とか「社会主義青年同盟」とか名乗っていたとしても、基本的には、マルクス主義から受け継いだものは多くはなく、もしも受け継いだものがあったとすれば、それは「前衛」という考え方だけであったのではないかという気がする。革命党をどう作るかにのみ関心が集中して、大衆の組織化にはほとんど考えがいかなかったのではないだろうか? だから極端になると一人一党。
 この「赤頭巾ちゃん・・」はマルクス主義と縁もゆかりもないが、この騒ぎを都会対地方という視点から見たものである。「赤頭巾ちゃん 気をつけて」の主人公の薫くんは都会のひとであり、その作者庄司薫もまた都会のひとである。(三省堂専務の息子さんだそうである。)
 庄司薫というひとは不思議なひとで、これをふくむ「薫ちゃん4部作」を書いた後は、少々の雑文を書く以外には不動産売買や株を生業にしていたらしい。あの時代に不動産売買や株で利益を出すなどというのは至難のことであったらしい。あとは中村紘子の旦那さん業だろうか。
 わたくしは「武士は喰はねど高楊枝」という言葉に惹かれるところがあって、金儲けということを真正面から考えるのを避けてきたところがある。それをしも都会的というのかはわからないが、根無し草意識がどこかにあるのは間違いない。
 少しでも自分を高く買ってくれるところを求めて職場を転々というようなことは思ったこともなくて、35歳で学位がとれ、大学には用がなくなったので、特に深く考えたわけでもなく初期研修でお世話になった病院に就職して、結局そこでそのまま70歳まで務めることになった。
 このとき、一部の人から不思議がられた。大学から出るというのはそこで頑張ってももはや出世の目がないと思った時に選ぶ道なのに、なぜまだまだ先のわからない35歳であわてて外にでるの? ということのようだった。父も勤務医で、医者というのは病院勤めというイメージがあって、研究者になるなど思ったこともなく、医学部に入れればどこでもよかったのだが、父も一介のサラリーマンであり、資産などなく、私立医大の入学金というのはなかなかのもので、確か慶応大学が一番安く、ここなら払えるかなということで受けたが落ちてしまった。わたくしの最大の点がとれる国語が受験科目にないのである。それでも一次試験は通って面接にいったが、「尊敬する人物は?」ときかれて、「森鴎外」などと答えた。つくづくと馬鹿である。こちらとしては、文武両道というか、こちこちの医者ではなく、文学などもたしなむ医者になりたいというくらいのつもりだったのだが、考えてみれば、森鴎外は官の典型のような人物である。面接官も「鴎外ですか?」などと笑っていた。
 なにしろ東大というところは変なところで、ひょっとしておれはノーベル賞をとれるのではないかと思っている人が少なからずいるのである。これも地方から出て来た人に多い現象なのだろうか?

 自分のことを山の手の人間などと言ってはいるが、いたって世間知らずなお坊ちゃんとして生きてきたというだけである。それにくらべれば庄司薫はもっと洗練された都会人である。わたくしもせめてもう少しは洗練された人間としていきてきたかった。
 あまりにものをしらずに無防備に生きてきたので、だれかがどこか見えないところでわたくしをまもってくれてきたのではないかという思いがしないでもない。もちろん、ただ運がよかったというだけのことなのだろうが。
 昼は義務としての仕事をし、夜は鍵のかかる部屋で本を読んだり音楽を聴いたりする、そんなことがずっと許されてきたのが不思議である。
 自分が貰う給料が自分がしている仕事にどのように見合うのかということはまったくわからないまま、路頭に迷うこともなく今日まで生きてきた。
 何だか庄司薫からどんどん離れてくるが、「赤頭巾ちゃん・・」では「いまや・・中島みたいなやつの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかあげるんだ。」ということがいわれる。
 これは薫くんではなく、その友人の小林の言であるが。とにかく都会で生まれ都会で育ってくると、年上の人間に「てめえ!」なんてことはなかなか言えないのである。
 教養が邪魔をするという言葉があるが、小林秀雄ランボーに憧れたのも、ランボーが教養ある野蛮人だったからではないだろうか?
 都会人(わたくしにいわせれば山の手の人)の一番困ったところは自分のルーツがヨーロッパにあるような気がしているところである。
 もちろん林達夫のような「洋学派」を自称する碩学にとっては、ヨーロッパが自分のルーツであるとすることはまったく当然のことであろうが、おそらく氏は漢籍についてもわれわれの何百倍ではきかない素養をもっているはずである。
 おそらく庄司薫がもっとも敬愛していた人物の一人であろう丸山眞男ワーグナーを溺愛していたらしい。
ヨーロッパを考える場合一番困るのはクラシック音楽と哲学である。それがほとんどヨーロッパの僻地ドイツの産であるからである。バッハ・モツアルト・ベートーベン・シューベルトブラームスワーグナー・・・ブルックナーマーラーとなると評価もわかれるであろうが、哲学もカント・ショーペンハウエル・・。
 もしもベートーベンというたった一人の人間がドイツに生まれていなかったら、西洋クラシック音楽は日本の能や狂言のような古典芸能になっていたのではないだろうか?
 小林秀雄の「モツアルト」はベートーベンを否定して、ロマン主義的なものをモツアルトに代表させようという無茶な試みであると思う。
 庄司薫中村紘子の旦那さんであるから、西洋クラシック音楽についても断然一家言を持っているのであろう。西洋音楽もまた都会と結びつくのだろうか? 西洋音楽はわれわれの生活にすでに根をはっているだろうか?
 退職してひまになり、you tubeでいろいろな番組をみているが、ヨーロッパに各地にある小さな名もない教会でおこなわれているささやかな演奏会などを見ていると、その厚みに圧倒される。多分、楽器の弾けるひとの厚みが日本とは桁違いで、普通の家庭で弦楽四重奏などを楽しむようなことが普通に行われているのであろう。
 われわれ都会に暮らす人間のほとんどはヨーロッパのある意味では精華、ある意味では上澄みと共に生きている。本当はもっとありふれたもの、どうということのないものの方が大事なのかも知れないが・・・。かつては伊丹十三さんなどがそういう物の啓蒙役をになっていた。今の日本ではもうあちらの生活を紹介することなど必要なくなっているだろうが・・。
 わたくしにとってのヨーロッパは個人が尊重される場であり、個人を抛っておいてくれる場である。個人が鍵のかかる部屋にいてもゆるされる場である。そのイメージが庄司薫のイメージとどこかで結びついている。