今日の朝日新聞の社説

 今日の朝日新聞の社説「ウクライナ侵攻1年 戦争の理不尽許さぬ知恵を」はわたくしには何が書いてあるのか文意不明、というか支離滅裂のように思えるものであった。

a)まず「ウクライナで日常となっている戦争の現実」が描かれる。
b)「戦争の非道は、弱き者により重くのしかかる」ということが次にいわれる。
c)それを受けて「この理不尽に終止符を打たねばならない」とされ「戦争を終わらせることができるのは、それができるのはそれを始めたロシアだけだ」。それを「プーチン大統領に強く求める」とする。
d)戦争の被害は食糧やエネルギーの高騰という形で全世界の人(特に弱者)に及ぶ。
戦争はいったん始まると終わらせることが難しいので、終戦への道を探る以前に戦争を始めさせてはならない。
e)しかし、この戦争は1年前に突如はじまったのではなく、2014年のクリミア半島占領について欧米が事実上目をつむったこと、日本も北方領土問題の解決を期待して経済強力をすすめたことにも起因する。
f)もっといえば、冷戦終結に浮かれた西側の傲慢がロシア国内の反発を醸成したのではないか。それが強権的なプーチン統治を許したのではないか?
g)世界も決してロシア批判で一枚岩にはなっていない。
h)先進国が振りかざす「正義」や自国優先の二重基準が冷ややかな視線をあびている事実にも真摯にむきあう必要がある。
i)それが長期的な世界の安定につながる。
j)侵略が成功する前例を残してはならない。
k)それについて国連はきわめて非力だった。
l)しかし「民主主義対専制主義」という対立軸ではかえって世界の分断を深める可能性がある。
m)武力による一方的な国境変更は認めない、という法規範を掲げなくてはならない。国連憲章がうたう基本ルールであり、大多数の国が同調できるはずである。
n)「法の支配」で国連加盟国が結集するそんな国連のありように向けて日本も改革を主導すべき。
o)この夢にむけて努める責務をこの時代に生きるだれもが負っている。

 まず客観的な事実の記述と社説を書いた人の意見の双方がある。
a) b)d)以外は意見であろうが、その意見も首尾一貫していない。
c)のプーチン大統領に強く求める、というのは誰にむかって言っているのだろう? プーチン大統領? 朝日新聞の読者?
 e)はだからどうだというのだろう? その時西側が強く対応していればロシアは矛をおさめたといいたいのだろうか?
 f)西側の傲慢というのは今から見ての言葉であり、当時はほとんどのひとが、これからの世界は西側の価値観に収斂していくと思ったのではないだろうか? いわるる「民主主義」が世界の向かうべき方向を考えたのではないだろうか?
 g)その通りであるが、その多くは専制的・独裁国家である。現状がそうであるならそれでよしとするということなのだろうか?
 k)国連が非力であったのはその通りであるが、それは国連が国家をこえる軍事力を持っていないためであり、これからもそれは変わらないであろうとわたくしは考えるがこの社説を書いた方は、それが実現すると考えているのだろうか?

 「民主主義対専制主義」という対立軸で、民主主義の側が専制主義を批判するというのは西側の傲慢であるというのはまことにその通りであろうが、「民主主義対専制主義」というのは同時に「個人」対「国家・民族」ということでもあり、西側は「個人」の方向に舵を切ったが、その価値観は絶対ではなく「国家や民族」という価値観も決して疎かにしてはいけないということなのであろうか?
 邪推かもしれないが、朝日新聞(あるいはもっとマスメディア一般)は利己主義あるいは個人主義というのが(本当は)嫌いなのではないだろうか?

 かつて(あるいは今でも?)朝日新聞社会主義への親近感をどこかに抱いているように見えるのは、自分さえよければ後はどうでもいいという方向への嫌悪感があって、もっと社会に目をむけろ、みんなのことを考えろ!といいいたいという気持ちがあるからではないだろうか? 
 もう50年以上前学生運動に傾倒していた友人が北朝鮮でのマスゲームを見て感涙に咽んでいた。「日本人は自分のことしか考えないのに、北朝鮮のひとたちはみんなのことを考えている。なんとすばらしい国なのだろう!」といって。
 フォースターは「寛容の精神」で「ポルトガルで暮らしている人が、全く知らないペルーの人を愛しなさいなどという―これはバカげた話で、非現実的で危険です。こういう精神が行きつく先は、危なかしく怪しげなセンチメンタリズムです。・・われわれは、じつは、直接知っている相手でなければ愛せないのです。(「フォースター評論集」岩波文庫)といっている。朝日新聞は特にこのセンチメンタリズムが強いのではないだろうか? かつては文化大革命を見て感涙に咽んでいた。戦前の朝日新聞軍国主義に同調していた(あるいは率先して煽っていた)が、それは決して体制から強制されてイヤイヤにではなく、みんなが向くべきとする方向が変わっただけで、個人主義を嫌い、集団でなにかを目指すべきとするやりかたへの親近感は変わっていないのだと思う。
 林達夫氏の「新しき幕明き」(「共産主義的人間」中公文庫)に、「人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と健気な覚悟のほどを公衆の面前に示しているのを見かけたが、そういう口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思えない軽挙妄動をぬけぬけとやっていたのだから、唖然として物を言う気にもなれない。」とある。ここを読むたびに真っ先に頭に浮かぶのが朝日新聞なのである。