日本中がテレビを囲んで 放心している

 飯島畊一さんの詩に「日本中がテレビを囲んで 放心している 」というところがある。(飯島畊一「バルセロナ」 思潮社 1976)
 何かの国際的な野球トーナメントで日本が優勝したらしい。これからしばらくは新聞やテレビがそれ一色になるだろうと思うといささか憂鬱である。たかが野球でこの大騒ぎなのだから、もしも日本が戦争でもはじめたら一体どうどうなるのだろうか? 非国民! 欲しがりません、勝つまでは! ・・・誰がロシア国民の大多数がプーチン大統領を支持していることを笑えるのだろう。
 上の詩の引用は「川と河」の一部なのだが、その詩は「きみのみじめさは/ 内部に 大河をもっていない/ ということに/ 尽きる。・・・/ と始まる。その詩の中ほどには、「三島の死のあと/ きみは少しずつ 狂って行った。/ 人の顔が見られない。/ テレビをきらっていては/ 生きては行けない/ (きみがじいっとがまんして/ テレビを見る練習をした一刻一刻/ 日本中がテレビを囲んで 放心している。・・・/詩は テレビに耐えて/ 必死になって 存在しようとしている。・・・と続いていく。
 テレビが出て来た時、「一億総白痴化」と言ったのは大宅壮一だったろうか? わたくしの学生時代に團伊久磨さんが「パイプの煙」というエッセイを書いていた。そこで氏はテレビをさんざん「電気紙芝居」とこきおろしていたのだが、後年テレビの音楽番組の司会などをしていた。「テレビをきらっていては/ 生きては行けない」ということなのだろうか?
 テレビができて70年、ほぼ物心ついてからのわたくしの人生と重なるわけだが、当初のテレビはもう少しまともというか真面目に製作されていたとうに思う。キングの「IT」の最後のほうに、「ハイヨー、シルバー!」というのが出てくる(ローン・レンジャー)。
 われわれは若い頃、テレビでアメリカの中流家庭をみて洗脳されたのではないかと思う。「パパは何でも知っている」をみて貧相な我が家と比べたものである。
 しかし今の日本のテレビ番組を見て日本に憧れるひとがいるだろうか? まことに平和な国であることは間違いなないが。
 昔、司馬遼太郎さんが、あるひとが日本の若者が緊張感を欠いたなんともだらしない顔をしていることを嘆いていたことについて、平和とはそのようなことで、ようやく日本も若者が緊張感を欠いても生きていけるようになったことを寿がなくてはいけないのだ、というようなことを言っていたのを覚えているが・・・。
 以上のようなことをいうのは、もちろん、わたくしが年寄りになったなによりの証拠である。昔がよかったとは少しも思わないけれども。