長谷川眞理子「進化的人間考」(1)
   
 少 し前からレイランドというひとの「人間性の進化的起源 なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか」(勁草書房 2023)という本を読みだしたのだが、何か変だなという感じが強くなってきて中断している。著者は自然科学の研究者であり、自己の研究から、『人間は他の動物とは根本的に異なった存在である』ということを主張としているように思える(まだ途中だけれども)。本文の最初のページに、著者の住むスコットランドの小都市の街並みを描写した後、「私は疑問に思う。はたして自然選択の理論は、自然界を説明するのと同じくらいの説得力で、この煙突、車、電力供給が存在することの理由を説明できるだろうか。・・祈祷書や教会の聖歌の起源を、進化生物学は描き出せるのだろうか。・・・」と書く。だから人間を進化という視点から説明することは無理であり、人間は進化の産物を超えた何かであるということをいいたいようである。
 一般に人文科学の分野では、『人間は他の動物とは根本的に異なった存在である』ということは学問の当然の前提となっていて、進化論あるいは進化ということはまったく視野にはいっていないようにみえる。一方、自然科学の分野では『人間も進化の産物である』ということがいうまでもない自明の前提で、人間は進化の産物であるがそれを越える何かであるといった主張は、自然科学の関知するところではないとされている。そこにレイランドさんは自然科学の立場から人間は特別だといって切り込むのであるから、その意気や壮であるが、わたくしにはその論はかなり杜撰で、穴だらけのように思えた。
 アマゾンでのこの本の紹介に、谷川眞理子氏が「文化とは何か、人文・社会系読者にこそ読んで欲しい一冊」とし、夫君の寿一氏も「文化のメカニズムから進化まで「文化科学」研究の最前線」と書いている。眞理子氏が「人文・社会系読者にこそ読んで欲しい一冊」と書くのは、(自然科学の側の人間)からみるとその内容に問題なしとはしないが、それでも人文・社会系読者に問題の所在を知ってもらえる点では貴重な本」ということかもしれないし、寿一もまた「「文化科学」という学問分野では今なにが問題になっているのか、そもそも「文化」というものも自然科学の対象となりうるのだ」ということを文系のひとにも知ってもらいたいということかもしれない。
 それで長谷川眞理子氏自身がこの問題についてどういっているのかなと思い探したらこの本があった。150ペ ージ位の薄い本であるし、そこに20章にわけて様々な話題が論じられているようであったので、平易な啓蒙書であろうと思い、自分の知識の整理にと考え購入したのだが、なかなかどうして未知の話がたくさんあり、面白かった。それでしばらくこの本をみていくこととしたい。

第1章 人間への興味 ― 越境する進化学
 まず「人間のように技術を発展させ、地球環境を短期間のうちに大幅に改変し、うなぎ上りの人口増加を続け、森羅万象を解明する科学や哲学をつくり上げ、芸術を楽しみ、時に絶望し、自らについて省察する生物は他に存在しない。」とある。ここまではレイランドさんとまったく同じである。
 それを研究する学問のなかに自然人類学があり、その最近の成果としてネアンデルタール人ゲノム解析があることが紹介される。それによりわたしたち人類がネアンデルタール人と混血していたこと、シベリアの洞窟からみつかった骨が別の人類集団である(デニソワ人と命名された)ことなどがわかったことも紹介される。
では、そのようなことを背景に人文科学と自然科学の人間理解を統合することは可能だろうか? それへの最初の試みは1975年のE・O・ウイルソンによる「社会生物学」であったが、人間をもまた動物として研究できるとする見方には反発するものも多かった。「人間を科学的に理解とするという研究は、人間の現状を肯定し、社会の改革を拒むものである」とする立場からの反対であった。(現状の世界は男性優位の社会であるが、それは生物学的な根拠があり必然の結果である、といった。)
 人文学の伝統に心身二元論がある。身体は自然科学の対象だが、精神(心)を持つのは人間だけであり、それは人文学でしかあつかえないのであり、哲学や認識論がそれをあつかう、といったものである。
 ゲノム解析の結果、旧来からの分類学も大幅な修正を迫られている。
 それらの成果を生かして、新たな人間学を試みたいと思いこの本を書いたと眞理子氏はいう。

第二章 ヒトとチンパンジーはどこが違う?
 長谷川氏は大学院時代アフリカのチンパンジー(以下チンプと略)のと行動と生態を研究していた。しかし、彼女はチンプが好きではなく、ヒトとチンプの根源的違いを分析したいと思っていた。
 ヒトとチンプのゲノムの違いは1.23%である。(その配列なども考慮にいれると5%)
 ヒトとチンプの系列が分岐したのは600~700万年前。
 ヒトとチンプの違いとしては、1)直立二足歩行・・それで手が自由になった。目の位置が高くなった。自分自身の全身を見ることが出来るようになった。2)体毛の喪失・・赤ん坊は母の毛にしがみつくことができなくなった。3)食性・・ヒトは雑食、チンプはほぼ草食。火を使うことによりヒトは他の動物が利用できない食べ物も摂取できるようになった。4)脳の大型化・・チンプの脳は380g前後。ヒトは1200~1400g。特に前頭前野が大きくなった。5)女性の発情期の喪失・・長谷川氏によれば、これは誰に魅力を感じ、配偶する気になるかが、きわめてパーソナルになったためではないかと推測している。6)子供期の延長・・すべての哺乳類は授乳を必要とする。しかし他の哺乳類は授乳期が終わるとすぐに自立するのが普通だが、ヒトは離乳しても自立しない。そのため、親をはじめとする多くの大人の世話を必要とする(共同繁殖)。 7)寿命の延長と(その結果としての)老人の存在・・子供期が長いだけでなく、老年期も長い。8)言語・・チンプは単語は習得できるが文法は理解できない。9)意図の理解と共有・・これが文化の基盤であるが、チンプにはそれがない。10)自意識・・これはヒトに固有である。

第3章 ヒトの生活史 - 赤ん坊、子ども、年寄り
 ヒトは脳が大きい。それが生活史に大きな影響を与える。
 一般的に、からだの大きい生物は、成長速度が遅く、一度に産む子供の数が少なく、死亡率が低く、寿命が長い。脳が大きいことは、学習能力が高く行動に可塑性があることを意味する。これが有効に利用されるためには寿命が長くなければならない。ヒトの脳の大きさは体重の2%。これほど大きな脳を持つ生物は地球上でヒトだけ。にもかかわらず、妊娠期間も授乳期間も長くはない。直立二足歩行であるヒトは産道をあまり大きくできない。そこで生理的に早産となる。出産後も脳は大きくなり続け、7歳で大人と同じ大きさとなる。ということはヒトは離乳後も子どもは大人に頼らざるをえないことを意味する。長い間自立しない子供というのは人間に固有。ヒトには思春期があるが、類人猿にはない。ヒトの潜在寿命は昔から長い。しかし乳幼児死亡率が高かったので平均すると短く計算されたていた。ということは、親のみが子育てをするのではなく、他の人が多く関わる共同繁殖がヒトの姿である。

第4章 ヒトの子育て ― ヒトは共同繁殖
 有性生殖ではかならず母親と父親がいる。その子育ては1)両親ともに世話しない。2)母親だけが世話。3)父親だけが世話。4)両親がともに世話。の可能性がありうるが、ほ乳類では1)と3)は考えられないので実際には2)か4)。哺乳類の95%は母親のみが子育てをする。(鳥類では95%が両親そろって世話) 子供が無力で生まれてくる場合には何らかのヘルパーの存在が必須である。上の子供やおじいちゃんやおばあちゃんなどなど・・。
 現代では核家族が普通なので、母親が育児の責任を持つという社会通念が形成されてきているが、「子供は社会で育てるもの」というのは決して政治理念や社会思想ではなく、ヒトの生物学的特性なのであることを理解しなくてはならない。

第5章 進化生物学から見た少子化 ― ヒトだけがなぜ特殊なのか
 少子化は世界の先進国の共通の問題である。
 ヒトの歴史では、数百万年前までは人口は125万人以下だった。1万年前の農耕と牧畜の発明で500万人になり、その後どんどん増え続け2022年には80憶人になった。生物学的に見るとそれは適正密度の30倍であるので、生物学的にみればヒトは多すぎる。一般的に、脳の重さが大きい動物ほど長生きであり成長もゆっくりである。
 少子化の最大の原因は産みはじめが遅いこと。これは世界のどこでもおきていることで、フランスでは1880年頃から、アジア・アフリカ・イスラム圏でも1970年から少子化になっている。日本では1948年に優生保護法が成立し、人工中絶が合法化されたことも重要かもしれない。
 一般に女性の地位向上とともに女性の選択肢が増え、その結果少子化がおきるが、日本では先進国のなかではそれが40~50年遅れ、今、問題が顕在化している。
 先進国では夫婦が持ちたいと思う子供の数は二人。収入が多くてもこの傾向は変わらず、むしろ収入が多いと子供の数は少なくなる。子供二人で子供を持つことの満足感はプラトーに達し、それ以降は子供を産むことのコスト意識が前面にでてしまう。結婚している夫婦が持つ子供の数は1970年以降あまりかわっていない。非婚化と晩婚化が日本の少子化の最大の原因である。

 とりあえずここで止めるが、本書でとても面白かったのが少子化の考察である。もちろんここで提示されているのは長谷川氏の個人的見解である。しかし、もしもここで長谷川氏が述べていることが正しいとすると、今政府が提示している対策は完全にあさっての方向を向いていることになる。政府の前提は、「現在の日本では、様々な理由から子供を産みたい女性も産むことができない環境がある。したがってそれを除去できるならば、子供を産みたい女性が産むことが出来るようになり、少子化問題は解決する」というものである。しかしどのような環境であっても子どもは産みたくない、あるいは産んでも子どもは一人でいいというというのであれば、それはまるで見当違いの対策ということになる。
 わたくしの若いころ問題とされていたのは「人口爆発」であった。途上国が発展し経済的余裕が生まれるとその人口は急激に増えるであろう。そうすると食糧危機が訪れるというようなものだったと記憶する。日本でもベビー・ブームという言葉があり(わたくしは第一次のベビー・ブーマー)、教室が足りず二部授業などというのがおこなわれていた。
 それが現状の少子化である。わたくしの世代においては、結婚することが人間の正常のありかたであり、女性は結婚に喜びを感じ、子育てに喜びを感じる存在であるとされ、さらに爺さん婆さんからは「早く孫の顔を見たい」などといわれ、子供ができないことが離婚の理由になったりもした。(ちなみにわたくしは子供3人、孫一人である。)
 第4章で「ヒトは共同繁殖」とされているが、核家族化で子育てが母親一人に委ねられてきているのも少子化の一つの原因であろう。
 第3章の「親のみが子育てをするのではなく、他の人が多く関わる共同繁殖がヒトの姿である」というのも現在では親のみのケースが増えてきている。
わたくしは、「寿命の延長と(その結果としての)老人」であるが、週刊誌の見出しなどを見ると、何だか100歳まで生きることが多くのひとの目標になってきているようである。しかも「100までセックス」などと言っている。
 人間以外の動物でセックスを生きる楽しみにしているものがあるとは思えないから、その点でもホモサピエンスは変わった動物なのであろう。「隣に蔵立ちゃ、儂腹が立つ」などという動物も人間以外にいるとは思えない。
 第6章はヒトの食性の話で、第7章以下はしばらく性差の問題が論じられる。それはそれでとても興味ある問題であるので、稿を改めてみていきたい。