「進化論の現在」シリーズの「女より男の給料が高いわけ」

 本棚の奥のほうから「進化論の現在」というシリーズ本がでてきた。ロンドン大学で行われたセミナーを翻訳したもので全部で7冊、翻訳は2002年から4年にかけて刊行されている。
 トンデモといわれることもあった竹内久美子さんが翻訳を担当しているが、決してそういうものではないと思う。(メイナード=スミスのような大物も執筆しているし。)「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」という本だけどういうわけか持っていなかったが、後の6冊はもっていた。タイトルは「生物は体のかたちを自分で決める」「農業は人類の原罪である」「女より男の給料が高いわけ」「現実的な左翼に進化する」「寿命を決める社会のオキテ」「女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密」の6冊である。最後のものは言及したことがあるかと思う。
 「女より男の給料が高いわけ」(原題はDivided Labours)なんて、そんな本書いていいのと思うけれど、「性差は、職場において様々な重大問題の発生源になっているわけだが、労働における両性の役割についての現在の論争は、驚いたことに男女の気質は同じであるという仮定に基づいているのである」と著者はいっている。「収入の「男女間格差」の議論も、男と女は同じだという仮定のもとに展開されている」という。
 氏は職場に存在する男女間格差のほとんどは、男女間の性差を原因とする結果として生じているのではないか、という。しかし、この本で論じることは統計的なものであって、個々人にはあてはまらないということも最大限に強調されなければならない、ともいう。男の攻撃性は女性よりも(平均すれば)ずっと強い。だから世界のどこをみても、殺人の加害者も被害者も未婚の若い男であることが多い。それも「地位をめぐる争い」の結果が多い。女の子は競争より協力を、男の子は協力より競争をえらぶ。ギャンブルもまた圧倒的に男の営みである
 しかしそれは教育の産物であると主張するものも多いが、生物学的根拠であることを示す証拠は数多ある。
この差は胎生期に脳が男性ホルモンの影響を受けることによってひきおこされる。(しかし、その結果、男は短命にもなる。)
 そこには「医者の世界では、女は専門医になることは少なく、男は開業医になりがちで、女は雇われの医者になることが多いとあり、女はあまり出世を気にしないともある。
「 家庭に入って子供とすごし、妻に養われたいという男はめったにいない。そういう男を魅力的と感じる女はもっと少ない」「チョムスキーのような人間の心は白版(tabula rasa)である」という主張はあやまりである、と。
 以上を引用したのはわたくしは、自分は生物学的には男だが、心情的には女に近いのではないかと感じることが多々あるからである。
 谷沢永一さんに「人間通」(新潮選書 1995)という本がある。「隣の貧乏、鴨の味」とか「隣に蔵立ちゃ儂ゃ腹が立つ」とか、とにかく隣人の不幸は喜ばしいのだといったことを延々と書いてあって、人間というのはそんなものだといっている。そこに「引き降ろし」という項目もあり「嫉妬を避ける方法は殆どなかろう」と書いてある。
 わたくしの敬愛する吉田健一さんについてある人が論じていて「あのひとは《足をひっぱる》ということがまったく理解できないひとだった」といっていた。英語にも「pull the legs」という表現があるそうであるが、これは「からかう」といった意味らしい。健一さんは《村落共同体》的なところがまったくないひとだったのだ、と。
 わたくしもまた自分にはどうも《村落共同体》的な感性が欠落しているように感じている。三十年の臨床医生活の半分を院長という肩書で過ごしたが、これはたまたま前院長が退任したときにわたくしが一番年長だったからだけであって、意識としては一臨床医のままで過ごした気がする。医学部を目指した時からイメージは病院勤務医で、開業することなど考えたこともなく(他人の給料を払う)苦労など考えただけでもおぞましい)、院長になっても(給料を払う)という苦労はさいわいにも事務長さんにおしつけることができた。
 《鶏頭となるも牛後となる勿れ》かもしれないが、別に鶏頭も牛後もなく、ただの一人のお医者さんで人生を過ごしたと自分では思っている。
 この「女より男の給料が高いわけ」では上記のように「医者の世界では、女は専門医になることは少なく、なったとしてもそれは、権威や名声とはあまり関係のない分野であることが多い」とされている。このシリーズはイギリス産であるから、ここの記述もイギリスの医療制度での話であろうが、これを見ても自分は女性的であるなあと思う。
 わたくしがこういう進化論からみた人間論を興味を持って読んでいるのは、自分はどうも生物学的には男でもジェンダー論的には多分に女性的感性を持っているのではないかと感じるからなのだと思う。
 伊丹十三さんに「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」というとても面白い本がある。(昭和54年文藝春秋社 後に文春文庫)はじめのほうの村上節子さんとの対談など抱腹絶倒。村上さんが《性は女が神と交合するための儀式》という円地文子説を披露すると、伊丹さんは「なんで神がでてくるのかね。とてもついていけない」という。同感。そこに「睨みの研究」」という文があり、男は相手をにらみつけそれによって相手より上に立つというような話がでてくる。これまたわたくしが考えたこともない話で、その点でも、自分はつくづくと女性的なのだなあと感じる。