ポパー ベイトソン

 今日の朝刊にカール・ポパーの「開かれた社会とその敵」とG・ベイトソンの「精神の生態学へ」の広告が出ていた。岩波文庫に所収されたらしい。
 「開かれた社会・・」は西欧擁護の本であるから、ウクライナの戦争という現時点を反映しての文庫収載なのかもしれない。わたくしは、ポパーの本は結構読んでいるが、何しろ大部の本なので、これは拾い読みしかしていない。
 一方、「精神の生態学へ」は1990年に刊行されたものの文庫収載のようである。当初この広告を見て、「精神と自然 ―生きた世界の認識論-」(思索社 1982)の文庫化かと思ったが、ベイトソンには「精神の生態学」「精神と自然――生きた世界の認識論」の似たようなタイトルの二つの著書があるらしい。
 「精神と自然」は若い頃に随分と繰り返して読んだものだった。その頃は読了した日を本の裏表紙に記録していて、それによると1983年に二回、84年と86年に各一回読んでいる。35歳頃である。
 「正統派唯物論と大部分のオーソドックスな宗教が今でも持ち出してくる人間精神のイメージキャラクターに比べたら、たとえガバナーつきの蒸気機関車のような単純な機構しか持たないものであっても、組織された物体の方がまだ賢く、洗練されたものであるようには思えないだろうか」といったところに傍線を引いてある。
 生ある世界と生なき世界との間がいかなる根底的概念で区切られているか?とベイトソンは問い、後者は石と棒きれとビリアード玉と銀河系の記述の世界であり、前者はカニと人と美と差異とかかわる、とされている。(その部分には、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と関係?という書き込みがしてある。)
 何でこの本に惹かれたかというと、当時の医学が「生なき世界」「石と棒きれとビリアード玉」の世界ばかりを扱っているように思えて、医療という「生ある世界」とどうかかわっているのかが見えてこないと感じていたからなのだろうと思う。
 この本には、「種の起源」は精神を排除した上で進化を説明しようとする試みだった、ともあり、「前提がまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない」とも書いてある。
 科学には仮説を向上させたり、その誤りを立証したりすることはできるがその正しさを立証することは不可能である、などと言う部分は何だかポパーを連想させる。
 朝刊の広告で久しぶりにベイトソンのことを思い出した。