長谷川眞理子「進化的人間考」(6) 第18章「進化心理学・人間行動生態学の誕生と展望」

 最終章である。まず進化心理学の概説。これは20世紀の後半に始まった学問分野であり、たかだか30年余の歴史しかまだない。そのため多くのひとには馴染みがない学問分野であろう。
 これはヒトの心理学に進化生物学を取り込むことにより、心理学に新たな風を吹き込もうとする試みである。それは心理学・進化生物学・脳科学認知科学・自然人類学・行動生態学などの多くの学問分野と関わる学際的な学問であり、従来からの経済学や倫理学、法学、考古学、言語学などにも影響をあたえるものである。
 進化心理学を考えるには、まず人文社会系諸学と自然科学との違いを考えなくてはならない。自然科学では基本的な原理は共有されている。それは物理学や化学の原理に反するものであってはならない。一方、人文社会諸科学ではそのような概念的な一貫性を持っていない。
 たとえば経済学は人間を完全情報下で完全合理性を備えた存在と仮定している。長谷川氏は「現実にはそんな人間は存在しない」と批判する。しかしこの批判はおかしいと思う。経済学は「人間を完全情報下で完全合理性を備えた存在」であるとする仮定のもとでは経済の動向はどうなるかを考察する学問であって、「現実にはそんな人間は存在しない」ことは十分織り込み済みであり、そんなことは十分に承知のはずである。その批判の部分は自分達以外の誰かがやればいいことであって自分達の知ったことではないと思っているはずである。これは例えば「戦争と平和」の登場人物の誰かの行動を進化心理学・人間行動生態学で説明することなどを期待するひとなどはいないのと同じである。
 長谷川氏は心理学がヒトの研究であるならば、ヒトの生物学、進化生物学と概念的一貫性を持たなければならないという。
従来の心理学の一部は、人間は生まれたときには「空白の白板」であって、その後の経験によってその人が形成されると考える一派があって、それでピンカーさんなどが「心は「空白の石版か」(NHKブッのクス 2004)などで反撃するわけである。長谷川氏もその列に連なるのであるが、これに反対する人は、ピンカー・長谷川路線は現状肯定の路線であるとして批判するわけである。お前は女性の社会参加を阻む反動であるということになる。
 人間にも進化生物学を適応しようとする試みはウイルソンの「社会生物学」(1975)から始まったと長谷川氏はいう。また1964年にハミルトンが提出した血縁淘汰の理論による包括適応度という考え方は「進化をどう理解するか」についてのわれわれの考え方を大きく変えた、と。
それに基づく「社会生物学」はすごく真っ当な学問の本なのだが、問題はウイルソンが検討の対象に人間も加えたことだった。(「社会生物学論争」のようなことがおきるのは西欧世界では未だにキリスト教が人間をどう見るかについての深部に根をおろしているからなのだろうと思う。要するに人間は動物ではない。あるいは人間は唯一倫理感をもつ動物であるとする見方。)
 日本は蛸壺社会で、進化は自然科学が扱う領域、倫理は人文科学が扱う領域ということになっていて、相互不可侵で他人の領域には口を出さずに平和共存していくことになっている。それだから、長谷川氏のように自然科学の領域の人間が人文学の分野に口を出す人というのは例外なのである。
人文学の人間からみれば、われわれは3千年になんなんとする学問の伝統を有している。たかだか30年~50年の歴史しか持たない学が何を偉そうな口をきくのだという感じなのではないだろうか?
 さて進化心理学という名前は1973年のギゼリンの論文で初めて使われたそうであるが、1988年のデイリーらの「人が人をころすとき」から本格的な進化心理学研究が始まったと本書ではされている。
 長谷川氏は「情報処理・意思決定アルゴリズム」である「心理」について、それが進化の過程でヒトに形成されてきたものであるとしている。
 進化心理学はいくつかの前提のもとで研究を行っている。
1)ヒトは種としてはたかだか20万年の進化史しか持たない。
2)ヒトはおよそ7万年前に世界に拡散した。
3)ヒトに固有の「人間性、人間の本性」が存在するはずである。
4)ヒト固有の「人間の本性」は心理レベルのものであり、行動のレベルではない。
5)「人間の本性」は淘汰と性淘汰によって適応的になった。
6)心理メカニズムは脳の特性であり、脳は進化の過程で作られた臓器であり、進化の過程で重要であった問題に対処するように作られてきているはずである。
7)現在の先進国の都市環境はホモ・サピエンスの進化史から見れば一瞬である。だからわれわれは自身を理解するためにも狩猟採集で暮らしていたわれわれの祖先がどのように適応してきたかを知らねばならない。
8)脳は視覚や聴覚など領域ごとの役割分担をしている。
 以上の中で、3)についてはすでに実験で一部実証されている。
進化心理学はまだ30年余りの歴史しかもたない。(人間行動進化学会の設立が1988年) 当初は「普遍的な人間の本性」の探究に重点が置かれていたが、近年は「文化」の重要性が強調されるようになってきている。
わたくしは経済学がある特定の仮定のもとで学を進めているのだとすれば、進化心理学などもまた一定の仮説のもとで学問を進めているのだと思う。例えば、オスとメスの違いは文化によって作られたものではなく、生物学的なものであるとする、など。
今は過度に雌雄の違いは文化によって作られたものであるとする見解(人文科学的研究)が前面にでてきていると思うが、生物学的な方面からの見解(人は生物学的なものによっても大きく行動が支配されている)はそういう仮説を前面にだすことで人文学的学問の行きすぎを正そうとしているのだとわたくしは感じている。
人文学的研究の側の人は生物学的研究について、そういう見方はナチスドイツの発想を肯定するものだといった(わたくしから見るとなんとも阿保らしい)ことをよく口にする。生物学的見方は人間世界の現状をそのまま肯定するものであるようにも見えるらしい。われわれもまた進化の産物であるのだから、その見地から見ればわれわれが今このようであることには深い学問的根拠があるのであり、それをわれわれはかくあるべしといった理想論?で覆そうなどというのは浅慮に過ぎるのではないだろうか?といったことである。
 ニコラス・ハンフリーの「獲得と喪失 進化心理学から見た心と体」の日本語訳は2004年に刊行されている。(原著は2002年刊) 氏の「内なる目 意識の進化論」は1986年刊 邦訳1993年。「赤を見る」は2006年 邦訳も同年。
「獲得と喪失」の2004年の邦訳ですでに進化心理学という言葉が用いられている。カートライトの「進化心理学入門」(原著のタイトルは「人間行動を進化の見地から説明する」2001年)は2005年に邦訳されているが、2000年初頭から日本でも進化心理学関連の本が続々と刊行されてきているのが分かる。
 面白い?のは、ハンフリーが生物学者であるだけでなく欧米においては無神論の論客という評価もされていることである。日本で長谷川氏が無神論者という観点から論じられることはまず考えられない。長谷川氏が敵としているのは宗教ではなく人文学であり、人文学に見られる人間についての文学的で感傷的な?見方なのだろうと思う。
というか、そもそも人文学の方面の人たちが科学(自然科学)をまったく勉強もしてもいないし、自然科学が人間の崇高さあるいは醜悪さと言った方面に少しでも関われるとは思ってもいないことにあるのだろうと思う。
数学というのが自然科学に属するのか、人文科学に属するのか、あるいはそのどちらでもないのか?ということに昔から興味がある。数学基礎論というのは最終的にはヒトの脳の機能の研究から導出されてくるのだろうか? われわれの外部にすでに存在しているものをただわれわれが発見するだけなのか?・・・
 わたくしの数学への関心は、大分以前に読んだデイヴィスというひとの「ブラックホールと宇宙の崩壊」(岩 波現代選書NS 1983)でカントールの無限大概念を知って、面白いなあと思ったということに端を発するのだが、数学というのは自然科学と人文科学のどちらにも属さないもののようにわたくしとしては思っている。
 大分以前の本であるが、デイビスという人の「美しい数学」という本がある。(青土社 1996年) この本によれば、数学に対する現代的アプローチは紀元前600年頃に始まったとされる。そもそも「数」というものはわれわれの外にあるものなのか、われわれの頭の中にだけあるものか?
 点は部分を持たないものである。線は幅のない長さ長さである。線の末端は点である。直線はその上の点について等しく横たわる線である。・・・これらはもちろんユークリッド幾何学原論であるが、リーマンらの非ユークリッド幾何学アインシュタイン一般相対性理論に影響をあたえたのだそうである。←このあたり全然わからずに書いている。
 わたくしは何の根拠もなく数学は自然科学でも人文科学でもなく、第三の何かではないかと思っているのだが、医学が基礎医学臨床医学に区分されるのにならえば、数学は基礎自然科学であって、一般に自然科学といわれるものは臨床自然科学なのではないかとも思っている。
 では数学はわれわれの外にすでに存在するものをわれわれが見つけただけのものなのか、われわれの頭脳の中にだけ存在するのか?
 別にわれわれが存在しようとしまいと宇宙はそれ自身の法則にしたがって膨張したりしているはずである。
ビッグバン以前には何もなかったというが、とにかくこの辺りがわたくしにはさっぱり理解できないでいる。わからないのだけれども、世界が自然科学と人文科学だけで理解可能であるとはどうしても思えない。これはなにも神様を持ち出すといったことではなく、自然科学というのが人間の頭の中に存在するのかそれとのわれわれの外にあって、われわれはただそれを発見するだけなのかがわからないのである。
 おそらく長谷川氏は自然科学をわれわれの外にあるものの根底にあるものの法則を発見していくプロセスであるとしているように思う。一方人文科学は主観の集積であるから客観性を欠く、と。
 ポパーは科学の主張はもしもこういうことが発見されれば、自分は自説を撤回するということとペアである必要があるといっていた。であるが人文科学においてはあらゆる反論に対して、防衛が可能である。それが人文学の持つ最大の弱点としていたように記憶している。
 たとえばp145に「私は、文法自体は、言語を可能にしている他の様々な認知能力を備えるようになったヒトが、音声を使って何らかのコミュニケーションをしている間に、自然に創出されてくるものだと考えている。」というところがある。「私はこのように考えている」という構文であり、「他のひとは別の機構を提示するかも知れないが」ということをも包含している。問題は「自然に創出」というような長谷川氏の論が自然科学のやりかたでの検証に耐えるのだろうかということである。
 むかしチョムスキー生成文法という話をきいたことがある。人間は幼児期に触れる言語が何であるかには関係なく言語獲得に成功する。それは人間が「普遍文法」を「生得的に」「脳内に」備えているから、というようなものと理解している。日本語と英語とフランス語とドイツ語では文法が異なるがそれでもその根っこには共通な文法構造があるのだといったことかと思う。ここではチョムスキーは「ある」ということを言っているだけで、どのようにしてそれができてきたかは論じていない。
 しかし言語の機能は決して情報伝達に限局されるわけではない。「国 の 守 は 狩 を 好ん だ。」は石川 淳の 紫苑物語の書き出しであるが、「く・か・か・こ.」とそれぞれの語の頭が「か」行で統一されている。これのもたらすものは情報伝達とは異なる何かである。
 「進化的人間考」は自然科学の武器で人文学に切り込もうとするものでその意気や壮であるが、人文学もなかなかに奥が深いもので、そう簡単には奥の院への侵入は許さないのではないかということを感じた。