荒川洋治 「文庫の読書」

 荒川氏が1992年から2022年までに書いた62冊の文庫についての書評・エッセイ・巻末解説を収めたもの。中公文庫の文庫オリジナルであり、本年4月25日刊であるから刊行間もない本である。
 このうちどのくらい自分が読んでいるかなという興味で入手したのだが、情けないことに、内田百閒「冥途・旅順入城式」、梶井基次郎城のある町にて」、ワイルド「幸福な王子」、チェーホフ「短編集」、西脇順三郎詩集のわずか5冊のみであった。
 他に「書棚から」というコラム?も三つあり、ここでは、鷗外「高瀬舟」と丸山眞男超国家主義の論理と心理」を読んでいた。
 荒川氏は実に厳しいひとで、例えば詩では、「宮沢賢治論が/ ばかに多い 腐るほど多い/ 研究に都合がいい それだけのことだ・・宮沢賢治よ/ 知っているか/ 石ひとつ投げられない/ 偽善の牙の人々が/ きみのことを/ 書いている/ 読んでいる/  詩人を語るならネクタイをはずせ 美学をはずせ 椅子から落ちよ/・・「美代子、石を投げなさい」(詩集『坑夫トッチルは電気をつけた』所収)
 また「文学は実学である」(「文芸時評という感想」(四月社 2005 所収)という文では「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭い言葉を駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。」と書く。文学は才覚に恵まれた人がすべき営為なのである。
 さらに「文芸時評という感想」の221ページには「村上春樹だけが書いている」という文があり、「神の子どもたちはみな踊る」を評して「村上春樹だけが小説を書いているかもしれないがほかの小説家は「ははあ、同じ時代にこんなふうに書くひとがいる、負けた。どうしよう」とは思わないのだろうかと書く。
「神のこどもたちはみな踊る」の中の一編「アイロンのある風景」での海辺での焚き火の場面。
「ねえ三宅さん」「なんや?」「私ってからっぽなんだよ」「そうか」「うん」
 この「そうか」「うん」の呼吸。
 さらに続いて、「ほんとに何もないんだよ」と彼女はずいぶんあとになってかすれた声で言った。「きれいにからっぽなんだ」「わかってる」「ほんとにわかってるの?」「そういうことにはけっこう詳しいからな」「どうしたらいいの?」「ぐっすり寝て起きたら、だいたいはなおる」「そんな簡単な事じゃないよ」「そうかもしれんな。そんな簡単なことやないかもしれん」・・「じゃあどうしたらいいのよ?」と順子は尋ねた。「そやなあ・・・、どや、今から俺と一緒に死ぬか?」「いいよ。死んでも」「真剣にか?」「真剣だよ」・・「とにかく焚き火がぜんぶ消えるまで待て」・・。
 だが、村上春樹は「神のこどもたちはみな踊る」が頂点だったような気が個人的にはしている。最近の作は、読者に開かれず、自分に宛てて書いている作に退行してきているのではないだろうか?
 話変わって、西脇順三郎の詩。
 荒川氏は「人は誰もが西脇順三郎のように、快活な詩は書けないし、純白の日々を送ることもできない。でも夢にあふれ、のびのびとして、そして徹底的な詩の存在を見せられると、さわやかな気持ちになれる」と書いている。西脇氏は貴族なのである。
 わたくしのような市井の凡人にとっては、やはり貴族はいてくれたほうがいい。日本は階級としての貴族がいない国だが、「生きること? そんなことは召使いどもに任せておけ」(リラダン)と嘯くようなひともどこかにいてくれたほうがいいのではないかと思う。しかしこれは生得の階級?であって、努力してなれるようなものではない。三島由紀夫は貴族になろうとして敗北した人なのではないかと個人的には思っている。
 わたくしは、何故か、たまたま「(西脇順三郎詩集)Ambarvalia 復刻版 限定千部 恒文社」という本を持っている。(椎の木社刊。その141番。箱入りの立派な本。西脇順三郎氏の署名あり。昭和四十一年刊)

 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 湖をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした、
 静かに寺院と風呂場をぬらした、
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。(「雨」)

 たまには浮世(憂き世)を離れてこういう詩を読むのもいい。さわやかな広々とした気持ちになれる。詩がもたらしてくれる功徳である。
 それにしても「アイロンのある風景」とは随分とかけ離れた世界。文学の世界は広いと思う。