[吉田健一の50の言葉」(6)煙草

 何日も煙草がなかつた後で吸ふ煙草程いいものはない。例へば、長い日照りで茶色になつてゐた荒地に雨が降り、草木が緑を取り戻して、小鳥が囀りながら枝からから枝へと飛び廻り、黄菊、白菊が草の中に色を散らすやうなものである。或は、広々と横たはつてゐる海の上をボートを漕いで行き、晴れて風がないので、白い雲が海に映つてゐるのに気が付いた時に似てゐる。そして貧血してゐた頭には血が戻り、視界がはつきりして、息をするのが楽になり、体中が深い満足と静寂に包まれる。

 吉田氏は昭和52年に65歳で自宅で肺炎で亡くなったことになっている。聖路加病院に7月14日入院、23日に退院。8月3日に死去。なんだか解せない。肺炎で死ぬだろうか? これは公式発表で肺がんか何かの基礎疾患があったのではないか? 氏の書斎風景の写真を見ると、執筆している机の上の灰皿は吸い殻の山である。あるいは肺気腫などのようなものがあったとか。
 などというのは医者のするいらぬ穿鑿であるが、上記は随筆集「三文紳士」のなかの「乞食時代」という文から。「酒」の次は「煙草」。わたくしは煙草を喫わないから、煙草がきれるとどんな感じになるのかはわからないが、G・オーウェルの「カタロニア讃歌」などを読んでいても、煙草のみにとっては、煙草が切れることは食べ物がないのよりつらいものらしいことがわかる。そして、このオーウェルの本から戦場と煙草は表裏一体のものであることもわかる。映画「カサブランカ」から煙草を除くことができるだろうか? 禁煙学会の方々は「カサブランカ」などは正視できないのかもしれない。
 「乞食時代」は氏の戦後の貧乏時代に「モク拾い」をしたり乞食をしたりした時代のことを書いている。氏の随筆は多くのホラ話が混じっていることで有名で、本当に乞食をしたのかは大いに疑問だと思うが、モク拾いはしたのかもしれない。モク拾いというのは煙草の吸い殻を拾って、その吸い殻に残っている煙草だけ集めてそれを紙にまいて新しい煙草にして売るという職業?である。巻く紙は三省堂の英和辞典がよく、白水社の仏和辞典はやや質が落ちたなどともっともらしく書いている。十本十円で結構買い手があったなどともあるが、自分の喫う分くらいはモク拾いで集めたかもしれない。
 上の文の「黄菊、白菊が草の中に色を散らすやう」というのから、吉田氏訳の「ブライズヘッドふたたび」の「牧場の空堀がしもつけの花の白で埋められ」というあたりを想起するのは考えすぎだろうか? あるいは「時間」の「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたっていく」という辺り。煙草が切れると時間が停滞し、煙草を喫うと時間が流れ出す。もちろん、重要なのは煙草を喫うことではなく、時間が流れることのほうなのであるが。

三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)