小説が苦手

 小説を読むのが苦手である。もちろんまったく読まないわけではないが、わざわざ架空の話を作って、そこで自分の持つ考えをのべるというのが何かまだるっこしい気がして仕方がない。
 それには、わたくしが私淑してきた吉田健一氏がアンチ小説派であったことが大きいと思う。
 その吉田氏も「酒宴」のような短編から、「瓦礫の中」「絵空事」「ほんとうのような話」のような長編まで小説と分類されるものまで、いくつかの作品をのこしている。
 「酒宴」は書き出しの方で、「本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。」とか、末尾で、「神戸の町では消防自動車や救急車がサイレンを鳴らして行き来し、自衛隊の戦車に立てて松明をかざした一隊が、麓の方からこっちに登って来るのが見えた。」とか書いている。
 長編のタイトルも「絵空事」や「本当のような話」であり。「瓦礫の中」は「こういう題を選んだのは寡て日本に占領時代というものがあってその頃の話を書く積りで、その頃は殊に太平洋沿岸で人間が普通に住んでいる所を見廻すと先ず眼に触れるものが瓦礫だったからである。そしてそういう時代のことを書くことにしたのは今では日本にそんな時代あったことを知っているものが少くて自然何かと説明が必要になり、それをやればやる程話が長くなって経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合だからである。他意ない。」という書き出しである。
 ようするに作り話であることを明白に宣言している。
 作り話でしか表現できない真実があるというのは19世紀から20世紀前半までに通用した神話であるが、前世紀の後半からはその神通力は最早失われたのではないだろうか?
 もちろんかって小説にさしていた後光は今でも完全には消失したわけではないが、以前のようには「個」というものが信じられる時代ではなくなって来ているので、現在において小説を書くというのは一工夫も二工夫も工夫することが必要になって来ているのではないかと思っている(例:「悪童日記」?)。