岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(6)

 第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」
 
 この章には、よく理解できないところが多かった。
 「感染症と向き合う上でまず大切になるのは、『安心を求めない』ということです」という主張からはじまる。「安全」というものは現実に存在する、しかし「安心」というのは願望・欲望にすぎないので実在しないものであるという。しかし、こういう議論は「実在」するとはどういうことかという不毛な議論にすぐに陥ってしまうと思う。
 ここで氏は、欧米圏には、そもそも安心という言葉がない、といって強いていえば「peaceful state of maid」であろうかというようなことをいう。しかし、聖書を繙いてみれば、いたるところに安心という言葉は出てくるはずである。これは日本語訳の聖書だからそうなっているというのではなくて、日本語訳がそうなっている以上、それに対応するものがあまねく人間の世界に存在するということである。そして、これは人間だけでなく広く動物の世界にも、またみられるものであると思う。
 岩田氏は「安心したい」というひとには麻薬をうてばいいというようなかなり乱暴なことをいう。この議論を極端にすすめれば、不安をなくすには死んでしまえばいいということになる。生きているからこそ不安もあるのである。岩田氏は安心をもとめるこころは現実を直視しなくなるということをいいたいようである。たとえば、マスクをすることには意味はないが、マスクをしていると多くのひとは安心するらしい。
 不安に思うべきところでは、不安なままでいい。不安に耐えるために大事なのは勇気である、と岩田氏はいう。勇気とは事実を直視できること、そこから逃げないことである、とも氏はいう。しかし、安心という言葉が存在しないのであれば、また勇気という言葉も存在しないことにならないだろうか? もちろん勇気に相当する言葉は世界にあまねく存在する。だから安心とは違って、勇気というのは普遍的なものであるということになるのかもしれないが、勇気も容易に蛮勇に転化する。
 わたくしは生き物に課せられている唯一最大の課題は生き延びるというであると思っている。だから、あらゆる動物は予期せぬ物音を耳にすると身構える。そしてそれが危険を示すものではないことがわかれば、緊張を解く。その緊張を解いた武装解除している状態が安心ということなのだと思う。
 今のわれわれはいつも一種の準武装状態にいるのだと思う(マスクで武装している?)。つまり今のわれわれは平時にはいないのである。「平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。」というのは、吉田健一氏の随筆集「文句の言いどおし」の一節であるが、ここでいう平和とは安心という言葉ともどうかで通じるものである。
 次に氏がいうのは「ぶれる」ことを許容すること、そして間違いに寛容であること。である。そして間違いに気づいたらすぐに前言を訂正すること。しかし、不寛容には寛容にならないことといったかなり抽象的な議論である。
 そして、一番大事なのは「知識」を尊重することである、と。

 ここで論が終わるのだが、これが「どんな感染症にも向き合える心構え」とどのように関係するのかがうまく理解できなかった。
 ここでいわれていることの多くは啓蒙主義についてのラフ・スケッチであるように思えるが、あまりに議論が抽象的で、それが具体的に感染症に向き合うこととどのように関係するかが理解できなかった。
 そもそも医療というものがなぜ存在するのかといえば、人間が唯一自分の死というものを意識する動物であるからである。獣医学というのも動物のためのものではなく、食糧増産などのためなどもふくめ、本来人間のためのものである。
 つまり、本来、生き延びるということが課題としてあたえられている動物の一員である人間は唯一未来の自分の死を知る動物であることから必然的に生じる不安をまず抱えている。医学はそれを解消するためにあとからでてくる。としたら医学から不安という要素を取り除くことは原理的に不可能なのではないかと思う。とすれば、安心もまた然りである。
 われわれは蝙蝠にどのような病気が流行っていようがまったく関心をもたない。そこに存在していた病原体が人間にも害をもたらすようになって時にはじめて、それがわれわれの関心の対象となる。
 いまわれわれは風邪という病気にはあまり大きな関心をもたない。インフルエンザだってそうである。今回、新型コロナウイルスが問題になっているは、少なからずそれが命にかかわることが報告されているからである。
 おそらく岩田氏は人間付き合いがあまり得意ではないかたで。腹の探り合いとか足の引っ張り合いといった人間世界のあさましいありさまにほとほと嫌気がさしてきているのであろうと思う。それで、科学という事実に基づく清澄な世界にあこがれるのであろうと思う。しかし、科学のなかでもとりわけ医学は人間のどろどろした部分を否応なしにひきうけざるをえない分野であるので、岩田氏の願いが叶えられる日がくるとは到底思えない。本書が巻末にむかうにつれどこか投げやりで、尻切れトンボになっていく印象が強いのはそのためではないかと思う。
 「どんな感染症にも向き合える心構え」などというのは、ほとんど煩悩の世界を解脱することにより得られた安心立命の境地ともいうべき世界である。
 聖書におけるイエスはほとんど癒すひとでもあるが、今、新型コロナウイルス感染症の世界中での流行について、ローマ教皇がこの疾患が世界から消え去ることを祈ることで、この病気が世界からなくなることを信じるひとはもはやいない。聖職者も病気になれば病院にいく。そして医療にできることは限られていて、そこには魔法は存在しない。
 だからこそ、S・キングが「IT」の巻頭でいうように、「子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ――魔法は存在する」(小尾芙佐訳)ということになるのだから、われわれはこれからもあいかわらず物語を読み続けることになうのではないかと思う(もはや小説は読まなくなるのかもしれないが・・)。
 われわれはかつて抗生物質の発見によって、魔法の弾丸を手に入れたと無邪気に信じることができた時代をもつ。しかし、いうまでもなく、抗生物質はウイルスには無効である。そして魔法の弾丸のかわりに「三密を避ける」などというなんとも原始的な対応を21世紀の今日に強制されることになって、われわれはただ面食らっているのである。

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

IT(1) (文春文庫)

IT(1) (文春文庫)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(5)

 第4章は「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」と題されているのだが、やや羊頭狗肉の趣がなきにしもあらずで、その点について岩田氏の明確な主張がなされているとは必ずしも思えず、論点の列挙におわっているような印象をうけた。
 岩田氏は日本の感染対策の大きな目標は間違っていないし、全体的にはうまくいっている、という。当初対応を間違えた中国や、現在(4月20日発売)大混乱のイタリアに比べればずっとまし。
 最初の水際作戦は失敗した。(無症状の感染者がいる病気を水際作戦で阻止することは不本来可能である。)それで次の目標を医療にかかる負荷を減らすことにおいた。重症者を中心に検査し、軽症者は検査をしないという方針をとった。この目標は正しい。事実かなりうまくいった。
よく韓国との比較がいわれるが、それには意味はない。おかれている状況が違うから(韓国は宗教団体の集まりが大きな感染源になった。しかし他の場所ではそれほど多くない)。韓国を例にとって日本ももっとPCR検査をすべきという議論は意味がない(そうはいっても岩田氏ももう少し日本でも多く検査ができたほうがいいとしているが・・。
 では日本の感染症対策の問題点とはどんなことだろうか? 
 例えば、厚労省が発表した診断基準である。当初は《武漢からの帰国者で37.5分以上が4日以上続くもの》とされた。しかし、この基準には科学的根拠はまったくない。役人がつくった「このへんで線を引きましょう。そういう基準が何かないとみんな困るでしょうから」という政治的なステートメントに過ぎない。(この線をみたさないひとでもコロナの感染者はいるという理解が同時になければいけない。) しかし、官僚は自分のつくったものに例外を認めないという悪弊を持っている。
 もう一つ、保健所の問題。保健所は厚労省からきた通知を金科玉条としてしまう傾向を持つ。厚生省がつくった便宜的な線引きを科学的基準であるかのように思い込んでしまった。なぜそうなるのか? 日本人の多くは自分で判断することを嫌うからであるし、責任をとることを嫌うからであるし、そもそも自分の頭で考えるのが嫌いなのである。
 お上のお達しには服従すべしという奴隷根性(岩田氏の表現)でもあるし、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情でもある。だから厚生省の基準を満たしていないという理由で検査を断わられる事例が続出した。
さらに、対策はできているという自分がつくった神話を自ら信じ込んでしまうという傾向もある。例としては、専門家会議の尾身氏が出している「流行のピークを下げて、増加のスピードをおくらせるという対策」である。これ自体は正しい。だが、そこで示されるグラフには患者数にも時間軸にも数字がはいっていない。とすれば、これは観念であって具体的な目標ではない。このグラフでは、何がおきたとしても想定内といえてしまう。また実際に、日本ではPCR検査数が少ないから、グラフに書き込むべき実態が把握できていないのである。
 総じて、たとえ局地線ではうまくいっても、全体で勝つグランド・デザインがない。また、失敗したときにそれを認めるのが下手。
 新型コロナ対策では、たとえば、風邪をひいたらすぐに休むということがきわめて大切である。今までの日本にはそれが欠けていた。
 また日本の医療の問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い。コロナ問題で外来患者が減っているが、これは裏をかえせば、もともと不必要な通院が多かったということでもある。たとえば、アメリカにはリフィルという制度があり、同じ薬を続けるのであれば、薬局で同じ薬の継続であれば、何回でも出してくれる。
 今回のコロナ感染拡大でインフルエンザ疑いでもキットによる検査はするなということになったがまことに歓迎すべきことである、これを機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解されることが期待できるかもしれない。
 今回の自粛で、みんなが一斉に朝出勤することが必要なのかという反省が生まれ、制限の解除後も今よりは満員でない電車が普通になるかもしれない。
感染症でパニックになるのは日本だけではない。アメリカなどもすぐにヒステリー状態になる。そうなると同調圧力もとても厳しくなる。
 日本での問題はそのパニックに政府も乗ってしまうことである。アメリカのCDCはマスク着用には意味がありませんとはっきりいう。日本ではマスクが配布される。
 この問題が一番悪い形ででたのが子宮頸がんワクチン接種の問題である。みんなが納得しないと強制できないとして政府は接種を強制しないが、それによる結果に責任をとろうともしないし、ワクチン接種の啓蒙にとりくむこともしていない。

 本書で岩田氏がみとめるように、また本書執筆から一ヶ月以上たった現在、おそらく多くの人がみとめるだろうように、日本の新型コロナウイルス感染対策は他の多くの国にくらべればかなりうまくいっているようにみえる。これはBCG接種が関係しているためかもしれないし、過去に流行した感染症の交叉免疫が残っているためかもしれない。理由は複合的かもしれないし、別のことを目指した対策が実際には本来の意図とは別の効果を偶然発揮したからかもしれない。真相はだれにもわからない。
 わたくしはまったく根拠がないことながら、岩田氏が指摘する日本のさまざまな問題点や厭なところが、今回の感染症対応においては、たまたま有効に働いたという可能性もあるのではないかと考えている。
 それは相互監視的で息苦しい日本社会の構造である。「とんとん とんからりと 隣組 地震や雷 火事泥棒 互いに役立つ 用心棒 助けられたり 助けたり(岡本一平 作詞))」 あるいは「欲しがりません、勝つまでは」。
 自分があることを我慢しているのであれば、ほかの人間だって我慢をすべきである、抜け駆けは許さないぞ、一人だけいい思いをするような奴は許さないぞ、といった心情。
 養老孟司さんはその著書で、よく「日本人は生きられませんから」という言葉を紹介する。ある時、中国人の留学生がドイツ人の学生に言ったという言葉であり、またスリランカのお坊さんも異口同音に言ったという言葉である。「個人で生きること」ができず、「世間で生きること」ことしかできない日本人。つねに世間の目を気にして、世間の制約のなかで生きている日本人。「世間」というのは英訳するとどういう語になるのだろうか?
 このエピソードが書かれている養老氏の「運のつき」は実に変てこな本で、学園紛争の時、全共闘学生に研究室を封鎖され、それまでの研究を続けることができなくなったうらみつらみを綿々と綴った本である。
 研究室封鎖にきた全共闘学生の言い分。「この非常時にのんきに研究なんかしてやがって!」 養老氏はそこに戦争中の雰囲気を感じたという。そして学生達が手にしていたのは、竹槍なのであった。
 ある種のうしろめたさを欠いた社会運動を自分は疑うと養老氏はいう。自分は正義であると思っているひとほど怖いものはいない。
 中国が最新IT技術で作り上げた以上の監視社会を、日本は「世間」の監視というローテクで実現しているのかもしれない。見ているのはビッグ・ブラザーではなく、お隣さん。
 日本が欧米でのシャットダウンとか厳重な行動制限に比べればはるかに緩い規制で、相当の効果をあげられているのは、まさに岩田氏が日本の官僚、官公庁、保健所の欠点・問題点と指摘する日本の後進性が有効に働いたということがあるのはないかという疑念をわたくしは捨てることができない。
 かりに、日本には全体で勝つグランド・デザインがなかったのだとしても、日本では、指令がなくてもおのずと全体が形成されてしまうのかもしれない。
ベンダサン「日本人とユダヤ人」では「日本教の中心にあるのは、神概念ではなく、「人間」という概念なのだ」ということがいわれている。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人間である。」 
 欧米人はもしも神が存在しないのであれば、人間はありとあらゆる悪をなすのではないかという畏れをつねに抱いているのだそうである。
 そしてまた、橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」でいう。「“自分の頭で考えられるようになること”-日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。」「日本人は、どういうわけか、「グズグズしている間にさっさと“その先”を考える」が出来ない。「えっ? そんなことまで自分で考えちゃっていいんですか?」というような寝ぼけたことを平気でいう。「答えはエラい誰かが持って来てくれるもんで、自分はその指示を待っていなくてはならない。その答えを先回りして考えたら失礼だし、そんなことを考えるのはメンドくさいから、おとなしく待ってる」という橋本氏のいう渋谷駅の忠犬ハチ公状態である。
 「お上のお達しには服従すべしという奴隷根性、自分では責任をとりたくない、責任はお上にあるとしたいという心情」と岩田氏がいうのもまさにこれである。そしてその自分で考えないという日本人のありかたが、結果として、日本の感染拡大予防に有効に働いたという可能性はなくもないように思うのである。
 さて、日本の医療問題:日本の医療には無駄が多い。たとえば、外来患者が不必要に多い、という問題:これは日本の医療が歴史的に規模が小さな開業医の診療所を中心に形成されてきたということが大きく関係しているのではないかと思う。日本の大きな病院はルーツをたどると軍の病院であったところが多い。日本医師会も主として開業医の集まりであって、多くの開業医は外来診療が主であり入院設備を持たないから、外来にどれだけたくさん患者さんがくるかが経営をもっぱら左右する。家庭医あるいはかかりつけ医という方向を医師会は宣伝しているが、患者さんの病気ではなく、患者さんの家族構成や人間関係にまで目配りできなければ本当の医療はできないというのがその主張である。その家族の嫁姑関係とか夫婦関係を熟知していてこそ痒いところに手が届く対応が可能となる。患者さんの血圧が高いのは仕事の上の悩みが原因であるかもしれず、夫婦関係のストレスがかかわっているかもしれない。単に血圧が高いから薬をだす、そんなものは医療ではないというわけである。
 アメリカにリフィルという制度があるのは、アメリカでは医療へのアクセスの敷居が高く、医療費がべらぼうに高いこともまた関係しているに違いない。風邪くらいで病院にいくなというのはまことに正論であるが、しかし日本では、風邪薬を薬局で買うより、初診料を払っても3割負担で医院で薬をもらうほうが安いというというようなこともあるらしい。アメリカの小説を読んでいると、調子が悪いとテオレノールをのむ場面がしばしばでてくる。
 新型コロナウイルスの流行を機会に風邪の患者が病院にいくのは無意味というという真実が理解され普及していくことが期待できるかもしれない。しかし、患者さんは「先生、ただの風邪ですよね。肺炎ではないですよね」というのである。新型コロナウイルスにおいてもまた然り。「先生、風邪ですよね。まさかコロナではないですよね」というわけである。
 しかし、岩田氏もいうように、今回の感染流行を機会に当面の対応として導入されている電話での診療とか遠隔診療を機に、日本での今までの医療習慣の多くが本当に必要なものであったのかについての見直しの機運がおきることになることは避けられないと思う。そしてかなりの開業医の経営が破綻する可能性さえあるのではないかと思う。
 多くの(少なくとも)大企業において、こんどの新型コロナウイルス流行を機に、在宅勤務の方向に舵がきられている。今オフィスにたまたまいくことがあっても、がらがらでほとんどひとはいない。わたくしも在宅勤務などということが一朝一夕にできるはずはないと思っていた一人なのだが、感染症流行という外圧におされて見切り発車せざるをえなかったということはあるとしても、予想外に仕事はなんとかまわっているようである。
 従来、在宅勤務は産休明けの女性がまだ小さいお子さんの子育て期間中にする例外的な勤務のやりかたというように思われていた側面が強かったと思うが、これがかなり普通の勤務形態ということになると、日本の仕事のやりかたは大きくかわっていうのではないかと思う。いやおうなしにメンバーシップ型からジョブ型へと転換がすすむであろうし、セクハラ、パワハラといった問題も様変わりするのではないだろうか?
 そしてそのような勤務形態が普通になってくると、あるいは日本の世間というものも大きくかわってくるのかもしれない。「向う三軒両隣りにちらちらする人間」が見えなくなるからである。
 最近ある保健師さんに聞いた話。その保健師さんの勤務する会社は知的障害者を多く雇用しているのだが、その人たちの情緒が不安定であることが従来大きな問題となっていた。それが在宅勤務になった後、非常におちついているというのである。他人のことをきにせず、自分のペースで仕事ができるということは精神衛生上、非常にいいらしい。
 岩田氏は近著「ぼくが見つけた いじめを克服する方法」で、小学校から高校まで自分がいじめられっ子だったこと、その間、自分が「本当に「空気が読めない」人だった」ということをいっている。それを「コミュ障」というような言葉でいうのだが、要するに「世間」というものへのアンテナの感度が日本人としてはいささか微弱であるところがあるひとなのだろうと思う。
 2015年の日本化学療法学会総会での書店コーナーから氏の著書が排除されたということ、あるいは今度のダイヤモンド・プリンセス号から乗船2時間で下船させられたことなど、ともに、氏が学会という世間の中では「あいつは世間知らずな奴だ」と思われていて、それで排除の論理が働いたというようなことなのであったのではないかと思う。岩田氏は学会内部の空気を読めず(あるいはあえて「読まず」)、価値中立的(世間中立的、空気中立的)と氏が考える「科学」の場で議論をしようとするのである。
 最終章の第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」には、科学というものについての岩田氏の見方が表れているように思うので、それについては、稿をあらためて考えてみたい。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

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運のつき 死からはじめる逆向き人生論

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(4)

 第三章「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」は約60ページあり、本書で一番多くの紙数が割かれており、岩田氏がもっともいいたかった部分であろうと思われる。そしてそこでいわれるダイヤモンド・プリンセス号でおきていたことには、日本が持つある根源的な欠陥が露呈していると岩田氏は考えるが故に、続く第4章は「新型コロナウイルスで日本社会は変われるか」と題されることになる。
 わたくしのような感染症の公衆衛生学的側面にきわめて疎い人間にとっては、今回の新型コロナウイルス感染症につて、おれが何かただならぬもののようだなと感じるきっかけになったのは、一つは武漢の閉鎖であり、もう一つがダイヤモンド・プリンセス号での感染の急速な拡大の報道ではなかったかと思う。
後者はクルーズ船という閉鎖された空間での出来事であるから、素人からみればきわめて監視が容易で感染拡大防止対策がやりやすい状況であるように思えたからである。そして専門家が多数投入されているにもかかわらず、まさにあれよあれよという感じで感染が拡大していく報道をみて、わたくしなどは、このウイルスは空気感染をするのだろうか?などというまことにお粗末なことを考えていた。
 以下、岩田氏の主張を見ていく。
 2020年1月25日に香港でダイヤモンド・プリンセス号を下船した乗客の中から新型コロナウイルス感染者がみつかった。そのクルーズ船には3000人以上の乗客が乗っていた。当初、国は「とりあえず横浜港に停泊させて調べましょう」というくらいの軽い思いで多寡をくくっていた。ところが、横浜港で乗客数十人のPCR検査をしてみたら、なんとそのうちの10名から陽性の反応がでた。政府はそれで驚いた。
実は、クルーズ船は感染症に弱いというのは感染症の専門家の間では昔からの常識であったのだそうである。
しかし日本の官僚はそれを知らなかったから、「感染者は一人なのか、それなら大きな事ではない」と甘くみた。ところが案に相違して、感染者が多数見つかったので、厚生労働省はあわてた。それでDMATを呼んだ。これは災害派遣医療チームのことで、災害時のリスクマネジメントを専門としている部隊である。(もっとも、厚生省の直接の管轄下にいる医師団はDMATしかなったから、それを送るしかなかったということもいわれている。)
 一方、アメリカでは最初からCDC(疾病予防管理センター)を動かした。だから、専門家集団としてのCDCアメリカに寄港したロイヤル・プリンセス号から乗客をさっさと下船させた。
 厚生省の管轄下にはFETPという感染症の現状分析のプロもいるが、彼らは臨床の専門家ではなく、一時、ダイヤモンド・プリンセスに入りはしたのだが、すぐに出ていってしまっている。
 DMATは救急医療の専門家ではあっても感染症のプロではない。船内では厚生省とDMAT、さらにDPATという精神科の専門家集団までが配置された。
しかし、感染は拡大する一方である。そこで厚生省は日本環境感染学会を招集した。はじめて感染症の専門家が登場することになった。彼らはレッドゾーンとグリーンゾーンを分け防護服の正しい着脱法などを指導した。しかし、彼らも「もう船内には入らない」といって、三日で退去してしまった。自分たちの本来の職場が多忙になってきたからというのがいわれている理由であるが、こんな感染リスクが高いところにはこわくていられないというのが本当の理由だったのではないかと岩田氏は推測している。
 その後は国際医療福祉大学の専門家が入れ替わり立ち代わりはいって、さまざまな問題の指摘をしている。しかし、彼らには対策を命令する権限が与えられていなかったので、抜本底な改善をすることができなかった。
 ここまでのさまざまな専門家の出入りは、厚生労働省的にいえば、専門家がつねに配置されていたということになる。しかし、二次感染がどんどんとひろがっていたのであるから、岩田氏にいわせれば、形式だけはととのっていても内実がまったくともなっていなかったということになる。
 このように、ダイヤモンド・プリンセス号で感染がどんどんと拡大していたにもかかわらず、その情報は表にはでず、その解析も表にはでてこなかった。それを不安に感じた岩田氏はファイスブックにダイヤモンド・プリンセス号の中に入りたいと何度も書いた
 (それを見て?)厚生省の高山義浩氏から連絡があった。高山氏も対策本部が船内にあるのはおかしい。船外に本部を出すべきであると考えていた。
日本環境感染症学会の一員でもある岩田氏ははじめその会員として船内に入ることを考えたが、日本環境感染症学会はもう船内には入らないと宣言していた。DMATの一員として入ることも考えたが、岩田氏はDMATのメンバーではなかった。いろいろ曲折があったが、最終的には高田氏から「DMATとして入ってください」といわれた。
 それで船にいってみると、厚生省の人から、「DMATの下で働いて下さい。しかし、感染管理はやらないでください」といわれた。それでDMATのほうにいったが、「そんな話はきいていないな」としてDMATのトップのところにいってくれといわれた。
そのトップからは「感染管理をしっかりやってください日本環境感染学会はたちかに三日間でいろいろと指導をしていったけど、でも逃げちゃった。俺たちは感染症の専門家を信用していない。本当に怒っている。だからあなたは好きなことを全部やっていいです」といわれた。
それで国際医療福祉大学のひとと一緒に船内をみてまわることになった。そうすると、すぐに感染症対策が構築できていないことがわかってきた。たとえばPCR検査をするのに検疫官が同意書を検査対象のすべてのひとから紙でとることをしていた。検疫所では紙で同意書をとるというきまりがあり、それがここでも続けられていたのである。感染防御よりも形式。実際にそのために何人もの検疫官が感染してしまっている。なぜ口頭での了解ではいけないのだろうか?
 また精神科医の集団であるDPATも船内の入る必要があったのか? 通常、精神科の面談は対面でおこなう。しかし、この場合はテレビ電話ではいけないのか? DPATのメンバーも防御服は着ていた。しかし、かれらはその正しい着脱法を訓練されていない。だからDPATのメンバーからも感染者がでている。船内は、確かにゾーニングはされていた。だがゾーニングの意味は理解されていなかった。
 そういう指摘をしていると、「みんな一生懸命にやっているのに、それに水をさすのか。今まで自分たちがやってきたことは全部、意味がなかったというのか? そういうやつは出て行け。」ということになって入船からわずか二時間で船から追い出されてしまった。
 ここまでが、岩田氏によるダイヤモンド・プリンセス号での顛末である。

 ここからはそれについての岩田氏の解釈。
 クルーズ船のような感染症に弱いとされている環境で感染症がおきた場合に、まず考えるのが下船させるか船にとめおくかということである。3千人の乗客をどこで隔離するかという問題があり、船に留め置く判断はやむをえなかったかもしれない。それなら二週間の経過観察期には感染を拡大させないという強い覚悟が必要である。感染が拡大していけば、観察期間がどんどんと延長されていってしまうからである。しかし、厚生省は専門家を配置するといった形式にこだわって、実際の感染拡大策が機能しているかには十分には留意しなかった。典型的な官僚の形式主義である。これを岩田氏は安富歩氏の造語(安富歩「原発危機と東大話法 傍観者の論理・欺瞞の言語」明石書店 2012年)を引用して「東大話法」と呼んでいる。その特徴はああいえばこういうで決して失敗をみとめないことである。
 よく知られているように、岩田氏は下船後、氏が見てきたことを伝える動画を発信している(日本語と英語で)。なぜ英語でも発信したかというと、日本のメディアは読者や視聴者がみたいと思うことを発信するのが自分たちの使命であると思っているので、岩田氏の動画は「日本はちゃんとやっている」という視聴者が見たいと思っているニーズから外れるものであり、日本語だけだと無視されたり矮小化されたりすることを危惧してであったという。
この動画はわりとすぐに氏自身によって削除されているのだが、これは何かの圧力によってではなく、氏が入船した翌日から、日本の感染対策がとてもよくなったということを多くきいたので、自分が動画を出した効果が確認できたと思ってであるという。(もっとも動画に対する圧力はなかったが、自分が所属していたある学会のガイドラインメンバーからまったくしらないうちに外されていたといったことはあった・・)
 最近刊行された高橋洋一氏の「FACTを基に日本を正しく読み解く方法」にも、このエピソードについて言及されていて、岩田氏の論に沖縄県立中部病院の高山医師が反論したことが述べられている。岩田氏は日本ではエピカーブ(流行曲線・・感染症の発生の時間、場所などの感染状況をデータ化したもので、感染症が発生すれば必ずとる基本データ)を取っていないとしていたが、それに高山氏は反論したのだという。高橋氏によれば、岩田氏の動画投稿が2月18日、国立感染症研究所のホームページにエピカーブが掲載されたのが19日、ここからわかることは、感染研は当然のことながらエピカーブを作っていたが、それを岩田氏の投稿があるまでは公表していなかったということである。
 岩田氏は、世界中のどこもがさまざまな失敗をした新型コロナウイルス対策において日本もまた失敗したことなど問題ではない。問題はうまくいかなかったにもかかわらず「ちゃんとやった」という論法でそれを直視しないことである、という。事実、岩田氏のしたことを日本の恥を世界にさらしたといった受け取りかたをするひとがでてくる。
 そういう態度が何より問題となるのは、日本が何を主張しても、本当のことをいっているのか?という目でみられるようになることである、と岩田氏はいう。
 ダイヤモンド・プリンセス号で検疫がはじまった2月5日から2月18日まで、検査の件数と陽性者数以外は対外的には何も発表されていない。岩田氏によれば、それは日本にCDCがないからおきたことである。専門家が対応するシステムがなかったのである。
 要するにシステムの問題である。たとえば新型コロナウイルス担当大臣は感染症のことなどなにも知らないひとである。感染症の対策は、感染症の専門家がやるべきであって、素人が手を出すところではない。

 岩田氏のいうように、感染症の対策は、感染症の専門家がやるべきであっても、その対策によって経済活動はとんでもないことになっているようであり、現在のような委縮した行き方はそうそうは続けてはいられないという声が日増しに大きくなってきている。そうなれば、もう狭義の感染症対策の問題ではなく、政治の領分となってくる。
 ダイヤモンド・プリンセス号での感染対策は完全に狭義の感染症対策の範囲である。しかし、日本全体を、あるいは一つの自治体単位を大きなダイヤモンド・プリンセス号とみたてて、ダイヤモンド・プリンセス号でとるべきであった対策をそのまま適応するとしたら、そこでは否応なしに政治の問題がでてくる。

 そしてダイヤモンド・プリンセス号での対応が失敗したことの原因も、現在の日本の新型コロナウイルス対応がそれなりにうまくいっているように見えることも(次章で岩田氏もそう評価している)、ともに日本の持つ特質が関係しているということはあるかもしれない。例えば、人間関係がすべてに優先する相互監視社会的な日本の特質である。
 昔、山本七平氏の本を読んでいて、今次大戦末期、輸送船のほとんどが沈められ、戦地への物資の補給がほぼ不可能になっていた時点においても、補給の担当の部門は淡々と物資の運搬計画を作り続けていたということが書かれていたのを読んで驚嘆したことがある。その部門の仕事は移送の計画を作ることで、輸送船を準備する仕事はまったく自分の管轄外であって、何ら自分の知ったことではないのである。
 同じ山本氏の「日本はなぜ敗れるのか 敗戦21ケ条」においては「日本の敗滅をバシー海峡におく」ということがいわれている。バシー海峡というのは日本の輸送船が敵の潜水艦によって次々に沈められたところで、そうでありながら日本は移送の経路を変えることはなく、同じ海峡を相変わらず通り、次々と沈められていった。日本では戦場での戦果と消耗は問題にされても、戦場にたどりつくまでの消耗は問題にされなかったようなのである。
 日本の軍隊は失敗しても失敗しても、いつも同じ作戦でくるので、敵からみると、動きがきわめて読みやすかったといわれる。しかし個々の兵士は強く、特に有能で部下の信頼の篤い中隊長のいる部隊はそうであったのだそうである。日本の軍隊の序列は陸軍士官学校などの学業の成績できまり、その後の戦功などはほとんど関係がなかったらしい。

 日本の官僚も出身大学と公務員試験の成績でその後が決まり、現場においての成果などはあまり問われず、なにかをすることが大事なのであって、すれば仕事は終わりであり、それがうまくいったかどうかはほとんど問われないのだろうと思う。
 確か、小室直樹さんの説だったと思うが、日本では機能集団はただ機能集団であるだけでは機能せず、それが共同体化してはじめて機能することになるのだという。とすれば共同体の和を乱す人間は、いくら有能でもダメであるとされることになる。

 岩田氏が最近上梓した「ぼくが見つけたいじめを克復する方法」に、2015年の日本化学療法学会総会で学会場での専門書売り場から岩田氏の著作が一切排除されていたということが書かれている。岩田氏自身の著作ばかりでなく、岩田氏が推薦文(帯文)を書いた本までも排除されていたのだそうである。学会長から出版社や書店に岩田氏の名前がはいった本は一切展示販売しないようにという要請があったためなのだそうである。随分と大人気のないことをするものだと思うが、その学会長は岩田氏の著作のどこかで自分のことを批判されたと感じたことがあったのであろう。
 今度のダイヤモンド・プリンセス号でのことも、船内で氏がおこなった言動によって氏が排除されたというのではなく、岩田氏がそこに来ること自体を面白く思わないひとがいて、「岩田が来たらすぐに追い出せ」というようなことになっていたのではないかと思う。そうでなければ入船後わずか二時間で下船させられるというのはあまりに早すぎると思う。「岩田ってやつは変だと思ったらたとえ目上の人間でも平気でずけずけと批判するとんでもないやつだ。今度も何言いだすかわからない」というようなことだったのではないだろうか?
 有名な、『論語』の子路第十三。「葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊をぬすみて、子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと其の中(うち)に在り。」
 おそらく、岩田氏は一部の人にとっては葉公のように見えるのである。まさか、この学会長が自分は孔子の列に連なると思っているということはないと思うが。

 抗生物質の使い方の指南書の著者としての岩田氏の名前は以前から知っていたが、医療のありかたについて発言する人としての岩田氏のことを知ったのは、たまたま何かのことで氏のブログ「楽園はこちら側」に行き当たったのがきっかけだったと記憶している。確か、ディオバン事件のころではなかったかと思う。それで日本禁煙学会の行動への情理兼ね備えた(?)揶揄であるとか、あるいは近藤誠氏の変貌と現状への同情に充ちた批判であるとかを大いに納得できるものとして読んだ。
 近藤誠氏はもともと放射線科の医師(それも放射線診断学ではなく放射線治療学の専門家)であった。日本では血液系のものを除けば、悪性腫瘍は従来は基本的には外科医が治すべき疾患とされてきた。放射線治療とか抗がん剤治療とかは外科医がもはやできることがなくなった場面になったとき、姑息的に行われる敗戦処理というような位置づけであった。
 近藤氏はその当時の日本の乳がん治療の現状への批判者として学界に登場したのではないかと思う。日本は世界でも最後まで乳がん手術にハルステッド手術をおこなっていた国の一つではないかと思う。現在でこそ、乳房温存手術が標準治療になっているが、かつては乳がん部位だけでなく周囲のリンパ節や大胸筋までもふくめ広範に切除するハルステッド手術が広く行われていた。それは基本的にがんは原発部位から遠心的に広がっていく疾患であるという理解を背景にしている。近藤氏は、乳がんはしばしば早期から遠隔に広がることがあるので局所のみをいかに大きくとるかということの追求には意味がなく、それよりも原発巣切除+放射線治療(あるいは抗がん剤治療)をするべきであるということを主張して、そのためほとんどの外科医から蛇蝎のごとく嫌わられることになった。外科医たちはいかに安全に広範囲に切除を行えるかという手術の腕を競ってきたので、「俺たちのシマに口をだすのか! 俺たちが一生懸命やっていることに意味がないというのか!」というような反応をしたのである。外科医たちは、自分たちは孔子の側の人であり、近藤氏は葉公の側の人、直くない人であるとしたのである。それで近藤氏は医学界全体から「いじめ」(岩田氏)を受け、「がんもどき」理論などというおかしな方向にいってしまったという。
 日本化学療法学会総会で学会場での専門書売り場から岩田氏の著作の一切排除であるとか、今回のダイヤモンド・プリンセス号からの排除であるとかも岩田氏は一種のいじめととらえている様である。
 たとえ間違った方向であっても一生懸命に努力しているひとは批判すべきではないとするのが日本の風潮があるが、それは間違っている。サイエンスの場での議論は正しいか間違っているかであって、一生懸命に努力しているか否かではない。
 それなのにあるひとの主張が間違っていることを指摘すると、主張者の全人格を否定したようにとられ、あるいは学会全体の空気を乱したとされて、いじめられ排除されるのはおかしい、というのが本書での岩田氏の主張の一番の根幹であるように思う。
 前述の高橋洋一氏は、両論がある場合どちらか一方が正しいということはまずなく、あちらが6割、こちらは4割正しいというのが通常であるという。
科学の営為において何が真理であるかをわれわれは認識できるのかということについては、古来多くの議論がなされてきている未だ解答がえられていない(あるいは永久に解答が得られることがない)問題であるが、その問題については、わたくしはポパーの立場を自分の立場としてきている。
 われわれは何が正しいかを決して知ることはできない。知ることができるのはあることは間違っているという個別の判断だけであるというのがポパーの論である。だからあるときに今までの説では説明できない事象がみつかったときに、その説には問題があることがわかることになる。《われわれは決して真理にいたることはないのだから、われわれは謙虚でなければならない》、それがポパーの主張である。(もっとポパー自身は謙虚など薬にもしたくない偏屈なひとであったようだが。)
 おそらく岩田氏の論にもし問題があるとすれば、科学の正しさにいささか信を置きすぎているとことにあるのではないかと思う。もちろん、岩田氏を“いじめて”いる側が謙虚であるなどということではまったくなくて、単に俺の領分に口を出すやつは許さないぞ、というだけなのであろうが・・・。
 「ぼくが見つけたいじめを克服する方法」で、岩田氏は医療ミスがおきた場合、ミスをした個人を責めてはいけない。ミスがおきた要因を解明していくことこそが大事であるといっている。
 もしも岩田氏が“いじめられた”のであり、それが日本社会の病理に起因するのであれば、いじめたひとを糾弾しても意味はなく、その病理を変えられるかが問題になる。それで次章は「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」と題されることになる。
 (わたくしも、おそらく陸軍内務班での私的制裁などからの連想で、いじめというのがかなり日本に特有な現象ではないかと思っていたのだが、ある時ダールの何かの短編小説(たぶん「あなたに似た人」)を読んでいて、イギリスのパブリックスクールにおいても、上級生による下級生のいじめがほとんど伝統のように行われているのを知り驚いたことがある。いじめというのが日本社会の病理とかかわるという見方も検討の余地がある問題であると思う。)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(3)

第二章「あなたができる感染症対策のイロハ」
 主な感染経路は二つ。飛沫感染接触感染。飛沫感染は患者がくしゃみとか咳をしたときに生じる水しぶきによって生じる感染。飛距離は2mくらい。接触感染は、患者から飛んだ飛沫が何かの表面につき、そこに別の人が触ることから生じる感染。
 「空気感染」はほぼ生じないと考えられている。
 感染経路をブロックできない感染症への対策はワクチンのみである。
 飛沫感染予防の最善手は患者の隔離。そして手指の消毒。
エレベーターのボタンやドアノブを何分おきに消毒すべきかなど、議論をし出したらきりがない。それであれば、手指消毒を徹底するほうがいい。
 免疫力を有意にあげることが可能な方法はワクチン接種だけである。
 マスクは自分に症状がないのであればつける意味はない。
 要するに、手洗いの徹底、何か自分に症状がでたら家にいること。風邪をひいたら自宅で休み、会社や学校にはいかない。
 ゼロリスクは求めない。われわれが希求すべきなのは、「より低いリスク」である。
 ゼロリスクを求めるなら、家からあるいは部屋から一歩もでないことであるが、それはそれで病的で不健康な状態である。

 多分、この章で一番問題なのは、無症状のひとはマスクをつける意味はないという部分であるかと思う。このウイルスに感染しても何ら症状がなく経過するひとは多いらしい。そのひとが、それでも他への感染源となることはないかということである。まったくゼロとはいえないがそのリスクはきわめて低いというのが岩田氏の見解なのであろうと思う。しかしまったくゼロではないのであれば、やはりマスクはしたほうがいいのではという見解もあるのではないかと思う。
 日本だけではなく、世界のいろいろなところの報道を見てもマスク着用者はきわめて多い。昨今の日本ではマスクを着用していないひとはそれだけで目立つくらいである。わたくしもまた目立ちたくないから外出時にはマスクをしている。
 そういうほとんど意味のないことであっても、巨大な数になれば、ある程度は感染拡大を防いでいるということはあるのだろうか?
 風邪をひいたら仕事や学校を休めという部分もおそらく問題である。風邪をひいても仕事や学校を休まないという従来の日本の風土はおかしいとして岩田氏はこの主張をしているのであろう。単に感染予防ということであれば、現在の在宅勤務推奨の環境下ではむしろ在宅での勤務は可能ということになるのかもしれない。
 わたくしの産業医としての経験からいえば、風邪で休むひとは、また喘息の発作で休み頭痛で休み、生理痛で休むのである。なんだかんだとその積算として月の半分も欠勤するひとがいる。風邪をひいたら休むというのはその人の仕事への姿勢を何らか反映している部分があるようにわたくしのような旧弊な人間は感じてしまう。そう感じるのは旧来からの日本の《24時間働けますか的風🉇》に毒されているということなのだろうが・・・。
 ということで、次章の「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」以下が岩田氏の本書で述べたかったことの核心であり、今度のコロナウイルス感染で露呈されてきた日本が抱える様々な問題点についての岩田氏の指摘とそれへの見解をこれからみていくことになる。
 そうすると、狭い意味での臨床からは離れることになるので、稿をあらためたほうがいいと思う。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(2)

 本書での岩田氏の関心はかならずしも狭義の新型コロナウイルス感染の問題にはなく、この感染流行から露呈されてくる日本の抱える様々問題を指摘することにもあるように思うが、まず巻頭におかれた狭義の医学的論議から見ていく。

1)ウイルスとは何か?: 専門家でない人間にとっては、ウイルスは抗生物質が効かないもの、その反対に細菌とは抗生物質が効くもの、と理解していれば間違いない。
2)新型コロナウイルスとは?: コロナウイルスは従来からは4種が知られていて、普通の感冒の原因となっていた。5番目がSARS(2002年)、6番目がMARS、7番目が今回の新型コロナウイルス。(わたくしは誤解していたが、COVID-19というのはウイルス名ではなく、疾患名らしい。)
3) 新型コロナウイルス感染症は、a)最初の症状はほとんど通常の感冒と同じ。感線しても無症状のまま終わってしまうひとも多く、8割の人は無症状か軽症でおわる。残りの2割は1週間くらいの感冒様症状の後、症状が重篤化する。無症状者、無症状期の感染者も他への感染源となりうる。
4)新型コロナウイルス感染症では高齢(といっても40歳以上をいう)ほど重症化しやすい。亡くなるのは80代から90代に多い。
5)今回のウイルスでは(北海道の経験からは8割のひとは他に感染させない。残り2割がたくさんのひとに感染させている。したがってクラスターが問題となる。岩田氏が本書執筆の時点では患者さんのほとんどはクラスターから感染している。電車やバスでの感染はそれほどないし、街をあるいていて感染することはほとんどない。
6)PCR検査の問題:PCR検査の感度は6~7割程度。ということは陰性であっても3割の患者は見逃される。(逆に、陽性であれば、ほぼ感染していることは確実といえる。)
7)以上から100パーセント確実にコロナウイルスへの感染を言い当てる方法はない。とすれば従来からの医療のスキームである《早期診断、早期治療》という方向を今回はとれない。
8)したがってわれわれが従来から持っていた価値観や世界観を捨てないと、今回のウイルスには立ち向かえない。立ち向かえないならその方向をすてなければならない。
9)必要とされるのは「正しい診断」ではなく「正しい判断」であり、その根拠になるのは検査データではなく、症状である。
10)正しい診断名を求めるのではなく、そのひとにどのような対応が必要とされているかの判断が大事である。家に帰して経過をみてもいいか、入院をさせるべきかの判断である。
11)従来からある疾患でこれに似た感染症としてインフルエンザがある。なぜならインフルエンザ診断キットの診断精度はそれほど高くないからである(6割程度)。日本の医者は検査好きなので、すぐに検査をして検査の結果で陽性ならインフルエンザ、陰性ならそうではないと診断している。の場合でも求められているのは正しい診断ではなく、正しい判断なのであるが。
12)今度のコロナウイルスの流行によって、インフルエンザ・キットでの検査過程で患者さんの飛沫をあびて、その結果、医者がコロナウイルスに罹患したケースがでてきて、今年3月、日本医師会はみだりにインフルエンザの検査をしないこと、臨床症状で判断するようにというということを言い出した。(これは岩田氏がもう何十年も前から主張していたことであるのに、ようやくそうなったと岩田氏は本書で書いている。大事なのはインフルエンザ治療薬を出すべきか否かという臨床判断であって、検査が陽性かどうかではない、それがようやく認知されるようになった、と。)
13)だから、日本政府のコロナ対策は概ね正しいと考えると岩田氏はいう。4日間症状が続いたら病院にいくといった方針は、最初から正しい診断を放棄するということであって、もともと正しく診断するという方法論に無理があるのだから、日本のやりかたは間違っていない、と。

 とりあえずここまでが第1章で、本書の「あとがき」の日付が3月23日であるから、すでにそれから1ヶ月以上がたっている現在、上記の内容について岩田氏が見解を変えた部分もあるかもしれない。それはこういう緊急出版的な書物のもつ宿命であって、それはやむを得ない。それを前提に以下、少し感想を書いてみる

 まず、従来からあるインフルエンザ診断キットの診断精度が60%くらいとは思っていなかった。もっと高いような気がしていた。外来で臨床経過からまずインフルエンザをうたがって検査をする場合、キットで陽性とでる確率は80~90%はあるように思っていた。発症からあまり早期では診断能が下がるとされているが、発症から半日くらいたっていれば臨床的にインフルエンザを疑う場合の陽性率はそのくらいあるように感じていた。「日本の医者は検査好きなので、すぐに検査をして検査の結果で陽性ならインフルエンザ、陰性ならそうではないと診断している。」というのも事実であると思うが、検査が好きなのではなくて、臨床に熱心なのだと思う。
 診療所で患者さんを診ている場合、心電図やレントゲンはそこで検査できるとしても、検体検査は通常は外注であるので結果がでるのに半日から一日かかる。しかしインフルエンザ・キットはその場で10分たらずで結果がでる。インフルエンザには特効薬がある。とすると診断から治療までが外来に患者さんがきたその時点で完結する。それが熱心な先生方にとっての快感なのではないかと思う。
 インフルエンザには特効薬があるといっても、高々、発熱の経過を1~2日短縮できるだけである。そうであるなら基礎疾患をもたない患者についてはインフルエンザと診断がついても特にインフルエンザ薬を処方せず、家であたたかくして寝ていなさいという対応もありうるわけである。事実、インフルエンザ薬の処方の半分は日本でされているという話をきいたことがある。それは日本が医療機関へのアクセスへの敷居がきわめて低いことも多いに関係していると思うが、日本では診断がついてそれへの薬がある場合に、その処方をしないということはまず考えられないからである。
 『今年3月、日本医師会はみだりにインフルエンザの検査をしないこと、臨床症状で判断するようにというということを言い出した』というのは事実ではあるが、それはインフルエンザの確定診断の利益より新柄コロナウイルス感染のリスクのほうが大きいという現時点での判断による臨時的な対応であり、日本医師会が方針を変えたのではなく、今回のコロナウイルス感染の流行がおさまれば、また従来のやり方の戻るのだとわたくしは理解しているのであるが、違うのだろうか?
 ここでも一番の問題は《正しい診断ではなく正しい判断》が大事なのであるという主張、ひいてはPCR検査をどの程度積極的におこなうべきかという問題である。日本のPCR検査数は先進国としては例外的に少ないといわれていて、それが感染者数の見掛け上の少なさということにつながっているとして、感染の実態が把握されていない、日本の感染者数は過少に評価されているのではないかという批判を世界からうけているらしい。この点については岩田氏は大筋においては今までの日本のやりかたは間違ってはいなかったという立場のようである。
 この点については、わたくしはまったくの不勉強で特に意見を持たないが、一般に今回のような感染症の場合には、感染の拡大の時期と広がりによって対応の方向が変わるらしい。感染拡大の初期においては、クラスターの把握とそこに関係したひとの網羅的な検査が重要であるらしい。しかしある程度広がってしまった場合には、現在行われているような行動変容の要請をしながら、その効果をみていくという方向に転換することになるらしい。そしてその効果判定の一つのツールとしてPCR検査も使われうるということのようで、現在の日本でのPCR検査数は明らかに他国と比べても少なく、それによって感染の実態が過小評価されているという批判を他国から受けるようになっているらしい。
 臨床の末端にいる人間の実感としてはやはりもう少し普通にPCR検査ができるほうが臨床の自由度は増すように思う。通常の臨床において念のための検査というのはしばしばおこわなれている。まず、この病気ではないと思うが、万一そうであるといけないから念のための検査というのはよくおこなわれている。せめて、それに使える程度には検査ができる体制になってもらいたいと思う。わたしのような竹の子医者は、念のためと思ってCTをとったらびっくりというような経験を少なからずしているからである。
 「必要とされるのは「正しい診断」ではなく「正しい判断」である」のだとしても、正しい判断をつねにおこなえるわけでもないのだから、検査を出すというのも正しい判断を下せなかった場合の安全ネットとして機能することもあるのだろうと思う。
 この患者さんの病気は何かということを議論しだしても意見が一致しないことはしばしばある。その場合どこからか機械仕掛け神様がでてきて、超越的な立場から裁定をしてくれないと議論は無限退行に陥ってしまう。現在、医療の場において、その神様の役割をしているのが病理診断である。病理診断もしばしば過つ。それは臨床をはじめてしばらくするとどんな医者でも痛切に感じるところである。しかし、そうであっても生検の病理診断が胃がんとかえってくれば、「ぼくの判断は胃がんではない」といってそれを無視することはなかなかできるものではない。病理診断ほどではないにしても、血液検査をふくむ検体検査もそれに近い役割を臨床で果たしていると思う。
 もちろん、岩田氏がいうのは臨床で大事なのは、「インフルエンザ治療薬を出すべきか否かという臨床判断であって、検査が陽性かどうかではない」ということであり、「家に帰して経過をみてもいいか、入院をさせるべきかの判断であるか」ということである。昔、ある確か電解質バランスについて書いた本を読んでいて、その著者が「医者が外来をやっていて考えているのは、ただ一つ、この患者ひょっとして急変して夜、救急車で舞い戻ってくるということはないだろうな!」ということだけであって、診断名は何かなどということはほとんど念頭にない」ということを書いていて、妙に記憶に残っている。たいがいの病態は医者の診断や介入とはかかわりなく自然に勝手に治ってしまう。新型コロナウイルス感染症も多くは不顕性感染であり、発症しても軽微な症状の場合が多いが、一部症例ではある時から急激に悪化するとされている。だから、「家に帰して経過をみてもいいか、入院をさせるべきか」の判断が非常に難しい。もしも、ある程度の確率で感染の有無を簡単に判定できる方法があれば、「家に帰して経過をみてもいい」症状の患者であっても、「もしこういうことが出てきたら、すぐに相談のこと」といったアドヴァイスをあらかじめしておくことが可能となる。
 今朝の新聞に「37.5度以上が4日続くこと」といった従来の検査推奨基準が変更されたことが書かれていた。従来からの方針は明らかに検査抑制を意図してきたように思われる。私見であるが、それが必要とされた最大の理由が、検査の必要の可否の判定や検体の運搬に保健所が主としてかかわる体制で検査体制が構築されたことにあるのではないかと思う。私見では保健所というのは独自の指揮命令の権限をほとんどあたえられていない。そこに過重な負荷をかけるような仕組みでは、それがうまく機能しないのもやむをえないと思う。
 かりに日本のコロナウイルス対策がそれなりにうまくいったのだとしても、それは意図した結果としてそうなったのではなく、日本の従来からの保険医療体制の制約からたまたまそうなったのであって、いわば怪我の功名に過ぎないかもしれないということは十分にありうることのように思う。これは本書の後半(p130以降)で論じられる「日本にCDCに相当する機関がない」という問題ともかかわると思われるが、その点についてはまた別に論じたい。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(1)

 奥付では2020年4月20日刊になっているが、先々週から書店には並んでいたように思う。「あとがき」の日付は3月23日。出版を急いだため、口述したものから文章を起こしたものらしい。
 「はじめに」、第一章「「コロナウイルス」って何ですか? 約35ページ。第二章「あなたができる感染症対策のイロハ」 約30ページ。第三章「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」 約60ページ。第四章「新型コロナウイルスで日本社会は変わるか」 約55ページ。第五章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」 20ページ弱。「あとがき」からなる。
 ここから見てとれるように、新型コロナウイルス感染とその対策の一般論についての記述は最初の70ページほどで、本書の著者が岩田氏でなければならなかった理由は第三章以下にある。そしてダイヤモンド・プリンセス号での氏の経験が第四章を書かせることになるわけであり、第五章も「どんな感染症にも向き合える心構えとは」も、そのタイトルから受ける印象とはいささか異なり、日本社会はこれからどのように変わらなければならないかについての氏のささやかな提言をふくんでいる。
 つまり、本書は日本論、日本人論という色彩を色濃く持っているのであり、岩田氏が本書を書こうとした動機もそこに根ざしているのだろうと思う。
 さて、雑誌「Voice」の最新号は、総力特集「どうする! コロナ危機」と題されていて、ここでも、新型コロナウイルス感染をきっかけに露呈されてきた日本の問題を指摘する論も多く、新型コロナウイルス感染拡大防止への日中韓の対応の差にそれそれぞれの国の歴史の反映を見る論もあった(日本では政府からの強制や強要がなく、呼びかけやお願いにとどまっている(躊躇鈍重の日本))。
 さらにこの「Voice」では、たまたま別に「韓国の教訓」という企画も組まれていて、小倉紀蔵というかたが「後手後手」「いきたたりあったり」「ぐずぐず」の日本を果断の韓国や台湾と比較して論じている。氏は日本のやりかたを帰納的な世界観であり、経験主義的な現場主義であるとし、それは戦後ずっと日本政治や日本社会の欠点とされてきた官僚主義、前例主義、事なかれ主義の表れであるともいえるし、法治主義、手続き絶対主義の枠内でのやりかたであり、平時の社会の安定には寄与してきたともいえるとしている。要するに日本社会は独裁的な政権が私権の蹂躙や強権の発動をする社会にはなりたくないと思っているのだ、と。
 しかし、これは何も日本だけの特徴ではなく、イギリスもそれに近いとし、ヨーロッパ大陸的な理性主義的人間観にそれは対立するのだといって、ヒュームの名をあげる。氏は、それを群島文明と呼んで、普遍主義、理念主義、本質主義、超越主義などを基盤とするヨーロッパ大陸主義と対比させている。この大陸的な演繹主義は日本の歴史においてはただ一度1930年から1945年の間に実現し、日本人はそこでの悲惨な記憶を絶対に忘れないだろうという。
 本書で岩田氏が述べていることは、官僚主義、前例主義、事なかれ主義、手続き絶対主義のために新型コロナウイルス感染流行への対応がさまざまな局面で後手にまわっている日本の現状の問題点の指摘と批判であり、それに代替する、もう少し普遍主義的なやりかたへの転換の提言ということになるのかと思う。
 そもそも科学は普遍主義への傾斜を持つ。医学があるいは医療が科学に属するか?といえばそれはそれで大問題であるが、本書での岩田氏の論はさまざまに考えさせるものがある。以下、稿を変えて、論じていくことにしたい。

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

新型コロナウイルスの真実 (ベスト新書)

VOICE(ヴォイス) 2020年 5月号

VOICE(ヴォイス) 2020年 5月号

  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 雑誌

ある日の中小病院での外来

 昨日は、雨風が強い荒天ということもあったのかもしれないが、外来の患者さんが異様に少なかった。一つには先週から容認された患者さんと電話で連絡して問題なければ患者さんが指定する薬局に処方箋をファックスで送るというやりかたへの対応として10人くらいの患者さんには電話で対応したということがある。しかし、それでも少なかった。おそらく患者さんの側に現在最大の感染リスクがある場所(の一つ)が医療機関であることが広く認識されてきたためではないかと思う。
 不要不急の外出を控え、可能な限り在宅勤務が推奨されているなかで、医療機関への通勤と通院は例外であるとされている。わたくしは中央線で杉並から都心に通勤しているが、先日、自分の通勤人生ではじめて新宿-お茶の水間で座ることができた。在宅勤務の推奨はそれなりの効果はあげているのだろうと思う。
 一方、患者さんの側からみると、現在のいくつかの病院でのクラスター発生の報道をみれば、なるべく病院に近づきたくないと感じるのは当然である。現在、内科通院患者の多くを占めると思われる高血圧、糖尿病、脂質異常症の患者さんのほとんどには何ら自覚症状はないと思われる。そうであれば通院の目的のほとんどは検査をうけることと薬をもらうことである。であれば、電話で病状を確認して患者さんの地元の調剤薬局で薬を出してもらうという今回コロナウイルス対応のため一時的に容認されたやりかたはきわめて合理的である。高血圧の場合、すでに自己測定は自宅で可能である。検査についていえば、一定の地域ごとに検体検査とレントゲン・心電図などを請け負うセンターをつくれば、迅速性には欠けるかもしれないが、これまた対応可能と思われる。現在在宅勤務が推奨されているが、いわば在宅診療である。
 現在、一時的な措置として容認された電話での診療の体制が新型コロナウイルス感染の収束がなかなか見られないために長期化するようなことがあるとすると、患者さんの側につぎのような疑問が生じてくることは避けられないと思う。「今まで、毎月あるいは、二月・三月に一度、通院していたけれど、それは本当に必要だったのだろうか? 一年に一度の通院でも十分だったのではないだろうか?」 在宅勤務推奨が長期化すれば、働くひとの間で、「今まで毎日、会社に顔を出していたけれど、それは本当に必要だったのだろうか?」という疑問が生じて来ることが避けられないであろう、それと同じように。
 現在、不要不急の外出の自粛要請によって飲食店などの利用者が減るといったことで、様々な中小企業の経営が立ち行かなくなることへの懸念が多く報道されているが、実は日本の医療機関の多くも中小の零細企業である。最近、永寿総合病院とか中野江古田病院などでの新型コロナウイルスクラスターの発生が報道されている。報道でみるかぎり、その対応はきわめて拙劣であり、対応は完全に後手にまわっている。しかし、これらの病院はバックを持たない独立採算で運営されているのではないかと思う。院内で感染が確認された当初、これが報道されると、病院の経営が立ちいかなくなる。このまま数名の感染でおさまってくれないだろうかと祈っているうちに、感染がひろがってしまい、どうしようもなくなってしまった、というような経過なのではないかと、あくまでも推測ではあるが、思う。同じように院内感染が報道されている慶応大学病院、慈恵会医科大学病院や国立がんセンター病院などではそれにくらべれば、クラスター的な大きな感染拡大が今のところおきていないように思えるが、それはこれらの病院がバックを持ち、かりに新型コロナウイルス感染が報道されても病院が潰れるというような懸念を持つことなく早目の対応ができたということがあるのではないかと思う。また独立運営の病院はぎりぎりのスタッフでまわっており、不測の事態に対応できる人的な余裕に乏しかったというということも、それらの病院の対応が後手にまわることになった一つの原因であったかもしれないとも思う。
 現在、医療崩壊の危機ということがいわれているが、それは今後まだまだ増加する懸念のある新型コロナウイルス感染患者に対応できる医療機関のキャパシティがなくなってしまうということへの懸念である。しかし、不要不急の受診の抑制というそれ自体は正しい行動が続くと、多くは中小の零細企業からなりたっている日本の医療供給体制自体にもじわじわとその影響がでてくる可能性もないとはいえないのではないかと思う。
 アメリカやイタリアの医療の現状を報道でみていると、それぞれの国で抱えている医療供給体制や保険医療体制の問題点が浮き彫りにされていているように感じる。さまざまなに批判されてきた日本の医療供給体制であるが、それでもそれが存外、諸外国にくらべればまだ増しな体制であるのか、やはり根本的な対応を要する脆弱性をかかえているのかといったことがここ半年くらいのあいだに明らかにされてくるのではないかと思われる。