与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(6) 第4章 砕けゆく帝国 1995

 最初に三島由紀夫の「太陽と鉄」からの美文の引用、次に「新世紀エヴァンゲリオン」への言及。
 「太陽と鉄」は昭和43年(1968年)講談社刊。裏表紙には篠山紀信氏の撮った、褌一つで鉢巻きをし、日本刀を半ば抜刀してこちらを睨んでいる三島氏の写真。エピローグとして「、F104」という自衛隊機搭乗記。エピローグの最後に〈イカロス〉という詩のようなものが付されている。
 いまから思うとこれは明らかに三島氏の遺書であると思うが、その当時は縦の会も映画の「憂国」もこの「太陽と鉄」も、みんな一種の三島美学の表明ではあっても、世間をからかう氏の優雅な遊び、道楽だと思っていた。
 わたくしが何か変だと思い出したのは1970年4月に「新潮」に連載が開始された「豊穣の海」最終巻の書き出しを見た時である。もっとも後から見ればすでに第3巻の「暁の寺」からおかしくなっていたのだが、いずれ完結したら読もうと思って読んでいなかった。最終巻は当初「月蝕」という題が予告されていたが「天人五衰」という変な題に変わっており、しかも安永透という安っぽい、作者の愛情が微塵も感じられない名前がつけられた人物がいきなり主人公として登場してくる。ああ、三島さん小説書くのがいやになってしまったのだな、とその時思った。三島氏は1970年の日本が左右勢力の激突で大混乱となることを予想しており、第4巻はその騒乱をリアルタイムに取り入れながら書いていき、そして騒乱が頂点に達した時点で盾の会のメンバーともども切り込んで死ぬ、それで、小説は未完で終わるということを想定しており、にもかかわらず70年には何も起こらなかったことに絶望した結果があの行動だったのだと思う。死の少し前に「デーパートで家具を買っている人をみると吐き気がする」というようなことを言っていた。それでは小説など書けるわけがない。

 与那覇氏は2007年に大学教員になって日本文化史を講じるためにはじめて「エヴァ」を読んだのだそうであるが、大学教員ではないわたくしは読む義務など当然ないわけだし、これからも読むことはないだろうと思う。(息子は高校生のころ「エヴァ」にはまっていたようなので、父親に対して複雑な感情を抱いていたのだろうと思うが、今頃そんなことがわかっても、あとの祭りである。
 本章の最初の副題が、「エヴァ、戦後のむこうに」であり、そこに「「団塊親」としての碇ゲンドウ」が続くのであるが、なにしろ碇ゲンドウなんていわれても何もわからない。仕方がないので、この辺りはスキップして、106ページ、江藤淳が出てくる辺りに飛ぶことにする。
 しかし「特務機関ネルフと国家ごっこ」といわれても・・。ネルフって何?

 さて与那覇氏によれば、1960年の安保は「戦後民主主義を守れ」の運動だった。
 だが、1070年の安保は「戦後民主主義なんて糞くらえ」という運動だった。平和とか民主主義とか、そんな聞こえのいいことばかりを安全な教壇・論壇の中からお説教をたれている奴らはみな偽善者だ!
 その観点からは彼らは三島由紀夫にも共鳴した。しかし、無数の碇ゲンドウエヴァンゲリオンに出てくる主人公のお父さんらしい)は「父」になれるか?というのが、与那覇氏がここで提示する問題である、あるは与那覇氏がみた当時の一番根っこにあった問題である。
 江藤淳がこの問題に対して示した回答は「米国に従属するのではなく、安保を改定して米国と対等になること」であったが、与那覇氏は、戦前の満州に注目する。あまり勉強しているわけではないが戦前満州というのは実に興味深い場所で、岸信介らが、満州というミニ国家で自分のやりたいことを好きなように実験している感じである。
 江藤淳の「成熟と喪失 ―“母”の崩壊―」(河出書房1967)はいわゆる「第三の新人」論であるが、同時に“治者”をも論じたものでもあって、まず安岡章太郎を導入として、小島信夫の「抱擁家族」を主たるターゲットとし、遠藤周作吉行淳之介に寄り道して、最後、庄野潤三夕べの雲」にいたるという構成である。
 吉行にもっとも辛く、庄野への評価が高い。ここに論じられるのは表題通りの“母”の崩壊なのであるが、その論の前提として「父の不在」ということがある。明治大正の日本文学の大きな主題であった「父との対立」はどこかに消え去り、戦後には「家」の束縛などどこかに霧消してしまった。
 おそらく戦後日本では父の役割はアメリカになってしまった。だから「拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙」(袖井林三郎 岩波現代文庫 2002)ということになる。「米国代表マッカーサー閣下 謹啓誠に申兼ね候へ共日本之将来及ビ子孫の為め日本を米国の属国となし被下度御願申上候・・・」
 袖井氏はいう。「マッカーサーは占領下の日本人にとって父であり、男であり、告白聴聞僧であり、ついには神の座にあるとさえ思いかねない存在であった。」
 「エンタープライズ入港反対!」というのもアメリカという父への反抗期の子供の叫びであったのかも知れない。
 さてp109からは「慰安婦問題とフェミニズム」。そこで議論されるのが、上野千鶴子氏。また大澤真幸氏。大澤氏は「学生との不適切な関係」で2009年、京大教授の地位を追われたかたという以外には多くをしらないが、その当時は東浩紀氏や宮台真司氏らとともにニューアカデミズムの旗手といわれていたらしい。オウム事件などについても論じていたようである。
 細川政権は唐突な消費税の7%(3%から)への増税を提案して自壊した。増税の根拠をきかれて「腰だめで」などと言っていたことを覚えている。ブレーンから吹き込まれたことを口にしただけで、自分でもよくわかっていなかったのだと思う。なにしろお殿様だから、ワーワー批判されて、うるさいなあ、もう辞めるよ、ということになったのではないだろうか?
 これで94年、村山富市を首班とする自社連立政権が発足。このころ、社会党の人間をトップに据えるという自民党の策略を見て、なんて凄いと思った。社会党より何枚も上手。なにしろ村山氏は自衛隊の閲兵までさせられた。踏み絵である。95年すぐに、阪神淡路大震災。すぐの3月にオウムによる地下鉄サリン事件。ついでに同年11月には、Windows95発売。
 思想の世界ではこの年1月に加藤典洋氏の「敗戦後論」。しかし5月には野口悠紀雄氏の「1940年体制」も刊行された。
 社会党は1945年の結党当時から英語での党名は、Social Democratic Party of Japan 日本社会民主党!だった。しかしタテマエではマルクスレーニン主義を掲げ続けた。
 このあたり、小室哲哉さんとかは華原朋美さんとかいった名前がでてくるのだが、この方面にもまったく疎いので、よく理解できない。(大体、華原朋美って名前、全然聞いたことがない。有名な人?)
 ここでいきなりドゥルーズ(の自殺)の話が出てくる。自殺については病気を苦にしてなのであるから一私人の行動であり、はたからとやかくいうことではないと思うが、現在の管理社会、すべてがデータ化される世界のを予言したものとして、ある短い文が引用されている。
 時代は「自由な個人」の方向に向かっているのではなく、われわれが戴いていると思っている「西欧の思想」のその本家本元のヨーロッパでさえ、それへの信頼が崩れようとしていることを、その時の日本論壇の人達は捉え損ねた。それが、その後の反=知性主義~「知識人の凋落」に繋がると与那覇氏はしている。

 昭和48年にサンケイ新聞に連載された司馬遼太郎の「人間の集団について」というベトナム紀行(中公文庫 1974)に、氏の友人の元曹長が「まったく目に力のない若者がおおぜいで笑いさざめいているのを見て、十年前はこうではなかった」と慨嘆した話を紹介している。
 しかし司馬氏は、日本は昭和30年代の終わりになってやっと飯が食えるようになった。飢餓への恐怖をお伽噺としか思えない世代がやっと育った。国家的緊張はなく、社会が要求する倫理も厳格さを欠く。キリスト教国ではないから神からの緊張もない。そういう泰平の民がようやくできあがった。痩我慢を必要としない時代がやっと来たのだ、と。
 三島由紀夫は「目に力のない若者」など軽蔑し嫌悪しただろうと思う。(盾の会の若い会員たちは目に力があったのだろうか?)三島の死の直後、ああいうファナティシズムに巻き込まれるな!とかなり強い調子の文を司馬氏が書いていたのを思いだす。
 倫理というのは確かにどこかで「臥薪嘗胆」といったものと結びつくのだろうと思う。

 さて全く関係ない話であるが、本日の国葬における菅前首相の追悼の演説はなかなかのものであったように感じた。菅氏はとても口下手なひとだと思っていたのだが、「剛毅朴訥仁に近し」ということなのだろうか? 「剛毅」という印象はない人だが・・。政治家というのは皆「巧言令色 少なし仁」のひとばかりということでもないのだろうか?
 それにしても、最近の国葬についての議論をみていると、日本人がどんどんと子供っぽくなってきているように感じる。杞憂だろうか? それとも子供のままでも生きていけるいい時代になったということなのだろうか? 江藤氏が「成熟と喪失」で描いた時代がまだそのまま続いているのだろうか? 江藤氏もまたかなり子供っぽい人であったようにも思うのだけれど・・。

 さて、次は「第5章 失われた歴史 1996-1997」 丸山眞男の写真が出ている。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(5) 第3章 知られざるクーデター奇妙な主体化 1993-94

 与那覇氏は1993年の細川連立政権発足が日本の政治の分水嶺だったことを否定するひとはいないだろうとするが、国民の政治改革熱が高まった要因はその5年前の1988年のリクルート事件だったという。
 確かリクルート社というのは、1960年3月、 江副浩正氏がまだ大学在学中に学生仲間と、「東京大学新聞」の広告代理店として設立した、「大学新聞広告社」がルーツになったと聞いている。企業と学生を仲介する会社である。物を作る実業ではなく、人と人を結びつけるという虚業?の方向に目をつけるあたり、やはり並みのひとではない。
 1985年には、「フロムエー」を発刊。そして、1988年に- リクルート事件、バブル景気の崩壊に伴い、不良資産問題が顕在化したため、1992年江副氏が保有株式を中内㓛氏に譲渡、というような経過であったようである。
 田原総一郎氏は後年、リクルート事件を冤罪であるといっているのだそうである。未公開株を有力者に譲渡して、会社に箔をつけるのは当時広く行われていた慣行であったが、ある有力代議員に渡す場面が隠し撮りされていたから問題が大きくなって検察も動かざるを得なくなった。しかも95年のオウム真理教事件の報道でのマスコミのおかしなやりかたへの不信がたかまり、メディア先行であった細川護煕内閣にも厳しい目がむけられるようになったのだと。
 この細川氏の政策を影で立案したのが香山健一氏であったのだという。香山氏は「未来学」などいうわけのわからないことを論じていたひとで、わたくしは何だかつまらんひとと思っていたのだが、96年に64歳で亡くなられているようである。
 わたくしは当時の政治をみていて、裏で動いていた小沢一郎が細川を担ぎ上げるのを見ていて、うまいなあと感嘆していた。いかにも「悪人面」「政治家面」をした小沢一郎が裏にまわって、なんにでも「よきにはからえ」といいそうな茫洋とした熊本藩主末裔を祭り上げてくるというのは何という「政治の才」なのだろうと思った。
 ここで小選挙区制の話がでてくる。当時は中選挙区制であったわけだが、中選挙区制であれば、3人区で自民党から2人当選などということは普通に起きうるわけで、これが自民党政権を延命させている。小選挙区であれば、政党が掲げる政策の選択になりようやくまともな選挙になるといったことがいわれていたように記憶している。
 1993年に小沢一郎の「日本改造計画」は出たことは知っていたが、読もうとは全く思わなかった。安倍さんの「美しい・・」と同じである。
 この頃の政治論壇におきた世代交代のことが詳しく論じられているが、多分に大学人としての与那覇氏の関心に偏しているように思うので、ここではスキップするが、86ページからの「転向者たちの平成」については個人的な興味もあり見ていきたい。
 香山健一氏は60年安保で活躍した共産主義同盟(一次ブント)の創設者、西部邁の先輩。
 佐藤誠三郎氏は都立日比谷高校で民青同盟のキャップ。
 「転向」とは戦前は官憲の弾圧により起きたが、戦後は左翼思想への「失望」を契機にしたものが多い。
 戦後初期;渡邊恒雄・氏家斉一郎・・共産党への入党歴あり。
 共産党の武闘闘争への反発から:網野善彦
 60年安保の挫折から:香山健一・西部邁、あるいは江藤淳石原慎太郎も?
 70年安保の挫折から:猪瀬直樹(信州大で全共闘議長)

 わたくしなどは転向とか関係なく、この辺り、60年安保の時の「若い日本の会」を思い出すのだけれど。
 石原慎太郎谷川俊太郎永六輔大江健三郎黛敏郎福田善之寺山修司江藤淳開高健浅利慶太・羽仁進・武満徹・・。
 実に錚々たる顔ぶれである。
そして、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」。これは1965年の「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたものだそうだけれど・・。
 1994年のベストセラー?「知の技法」の編者の小林康夫船曳建夫両氏も東大紛争(与那覇氏の記載に従う。これを「紛争」とするか「闘争」とするかは、このことを論じる場合にいつも問題となる)の闘士だったのだそうである。
 さてここでいきなり「幻冬舎」の話になる。その創立者見城徹氏もまた慶応大学での全共闘運動闘士だったのだそうである。
 さてこの当時に時代に抗する学者として登場した人として挙げられるのが宮台真司氏と上野千鶴子氏である。ともに「女」を論の中心においた。宮台氏は当時ブルセラ云々を論じていたと思うが、最近、氏の論を読む機会があり、ゴリゴリの「共同体主義者」「コミュニタリアン」に変貌しているのを知って一驚した。どうしたのだろう?
 上野氏については、とにかく氏が自信満々なのが嫌いなのだが、平安女学院短期大学講師から出発し、「セクシィ・ギャルの大研究」というきわものでデビューした人間が、東大教授にいたるまでの道のりがどれほど障害の多い苦難に満ちたものであったかは想像に難くないわけで、まああまり嫌ってはいけないのだけれども・・。「いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ」というのはまた上野氏の境地でもあったかもしれない。
 氏の「おひとりさまの老後」(法研 2007 表紙には 東京大学大学院教授 とある)は全くタイトルに偽りありで、氏はおひとりさまでもなく寂しくもないひとなのである。大晦日にはシングルの男女4人と年越しソバとシャンパンでカウントダウンパーティー、新年にはシングルの女性ばかりの新年会で、渡辺淳一の「失楽園」にならって、鴨とクレソンの鍋。流石にシャトーマルゴーは続かなかったと書いているが、いい気なものである。
 要するに「上級国民」である。上野氏によれば、こういう会を続けられるのは己のコミュニケーション能力の賜物ということになるのだろうが、シルバー起業せよとか、年金はあてにならないから少しは稼げとか、もう言いたい放題である。
 2015年にでた「おひとりさまの最期」(朝日新聞出版)では随分と大人しくなっていて、終末期医療などについてああでもないこうでもないといろいろと迷っているようである。在宅医療に携わる医師などとつきあううちに、医者は「社会性のない高ピーなひとびと」という先入観が壊れて来たと書いている。個人的には「社会性のない高ピーなひと」というのは上野氏のことのような気もしないでもない。あるいは「社会性はあるが高ピーなひと」
 なんだが、厳しいことを書いているが、上野氏が論じているような分野というのは絶対に正解がない、あるいは正解に到達していても、われわれはそれが正解であるとは知ることができない分野なので、そのややこしさから逃げて、氏もフェミニズムの分野から段々身をひいて、介護の分野に逃げたのかもしれない。介護の分野であれば、まだ正解を論じることが不可能ではないかもしれないから。
 上野氏はその頃「正気の、醒めた理想主義を、私は新保守主義と呼ぶ。・・新保守主義者は、現状の変革を認めるが、・・それは一つの悪夢が少しだけましなべつの悪夢にとって代わるだけだということを、知っている理性のことなのである。」と書いていることが紹介されている。
 これは保守主義の定義そのものであると思うが、上野氏がこれを是としているのかはわからない上記はフェミニズムとは真逆の考え方であり、フェミニズムというのは観念論の極致にあるものとえあたくしは考えるからである。
 なお1989年、平成元年の流行語大賞の新語部門は「セクシャルハラスメント」、流行語大賞が「オバタリアン(旋風)」であったのだそうである。
 宮台氏の当時の立場は「少女マンガのほうが少年漫画よりえらい」だったというのだが、マンガと映画というのはわたくしのまったく苦手で縁遠い部門なので、これについては何もいえない。大分昔、大岡昇平の「成城だより」を読んでいて、そのどこかに少女マンガを論じているところがあり、「えっ、大岡さん、こんなものまで読んでいるんだ!」と驚いたそんな旧弊な人間なので、この後でてくる「エヴァンゲリオン」がどうとかの話にまったくついていけないので甚だ困っている。

 次は「第4章 砕けゆく帝国 1995」であるが、今まで2年きざみで進行してき本書がここだけ1年である。それにしてもまだ100ページである。500ページの本書を論じると後どの位かかるか? まあ、頑張るしかない。 

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(4) 第二章 奇妙な主体化 1991-92(その2)p67から73

 まず山本七平氏が論じられる。氏は1991年に69歳で亡くなっている。氏の本は随分と読んだが、一番印象に残っているのは初期の「ある異常体験者の偏見」「私の中の日本軍」といった日本陸軍の問題を扱った本である。なんでこれほどの不合理が一向に是正されなかいまま続いたのか? おそらくこの不合理なしには軍を維持できなかったわけで、とすれば、それは戦後の会社組織でも違う形で継続していったはずである。「空気」の支配であり、なぜあのような組織決定になったのかはその場の「空気」を知らないものには絶対に理解できない世界・・。
 氏は矛盾したところのある人で、きわめて合理的な人でありながら、神棚に毎日手をわせる小さな町工場などをこよなく愛した。(わたくしが産業医をして驚いたことはいろいろあるが、ほぼどの会社にもどこかに神棚があり(屋上に鳥居がある会社もあった)正月には神田明神あたりに商売繁盛の祈願にゆくことをほぼどこでもしていたこともその一つである。べつにそれを信じていたわけではないだろうが、何かあったときに「参拝しなかったからだ」などといわれないための布石であろう。人事を尽くして天命を待つ?
 山本氏の言で一番考えさせられたのは、日本の会社はある程度大きくなると機能集団から共同体に転化しないと組織が動かなくなるという指摘である。収益の最大化を目指す合理的な組織から所属する人の互助組合と化すという指摘である。
 山本氏は砲兵で、司馬遼太郎は戦車隊であった。どちらも合理性が要求される部署であった。それが員数をあわせるといった非合理なことに固執している組織の中におかれたわけである。
 山本氏も司馬氏も日本への愛憎半ばの複雑な感情を抱いていた。だから司馬氏はノモンハンをついに書けなかったし、山本氏は「日本人とユダヤ人」で、「安全のためにホテル住まいをしているユダヤ人」を創造しなくてはならなかった。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思っている」ことを指摘するために。
わたくしはこの本で恩田木工の「日暮硯」を知った。「斯く云ふは理屈といふものなり」・・。わたくしの持っている「日本人とユダヤ人」は昭和46年の初版のその62版の昭和57年刊行の角川文庫版である。その頃の文庫本は紙質が悪かったらしく、もう紙焼けが酷くなっている。10年で62版というのが凄いが、まだイザヤ・ベンダサン著になっている。
 「日本人とユダヤ人」には「日暮硯」からの長い引用があったり、旧約聖書からの3編の詩の引用があったりで一冊の本に足る分量にするのに苦心している感じが強い。
 山本れい子 良樹(奥さんと長男)共著の「七平ガンとかく戦えり」(KKベストセラーズ 1994年)によれば山本七平氏は膵臓癌でなくなったようである。1990年に手術(おそらく膵頭十二指腸切除術)、翌2月退院。91年12月に69歳で永眠している。この本を読むかぎり、従容として死を受け入れたという印象はない。まだまだ生きたい、まだまだ書きたいことはたくさんあるという感じである。
 稲垣武氏の「怒りを抑えし者 【評伝】山本七平」(PHP 1997)によれば上記手術は16時間におよんだらしい。術後、「MSコンチン」という経口モルヒネ剤を使用したとある。これは1989年に臨床に導入されたもので、これによって癌などの疼痛管理が随分やりやすくなった記憶がある。なにしろわたくしが医者になったばかりのころは癌の疼痛に対しても麻薬は極力使うなと教えられた。「麻薬中毒になるといけないから」と。
 この稲垣氏の本は500ページに近い大著であるが、その内の400ページはベンダサン以前にあてられている。そして30ページほどの「ベンダサンとその時代」のあとは最後の「終焉」の章になる。
 不思議なのであるが、山本氏はアカデミーの世界ではほとんど議論されることもなかったようである。丸山真男氏など読んだこともなかったらしい。

 次が村上奏亮氏。こちらはアカデミー内部の人。氏は93年に62歳で亡くなっている。肝臓の腫瘍だったと思う。若年時に受けた輸血により肝炎から肝細胞癌になったと記憶している。今なら完治が期待できたはずである。(吉行淳之介氏なども)
 村上氏は公文俊平氏などの仲間の駒場学派のひとだったと思うのだが、わたくしは駒場教養学部時代に公文氏のゼミなどに少し参加したことがあり、それでその人達の動向に関心があった。村上氏のこの著書もそれで視野に入ってきたのだと思う。法学の長尾龍一氏とか、社会学の折原浩氏(このかたの書いたものは「マックス・ウエーバーの犯罪」への反論?か読んでいないが・・・)などが今でも記憶に残っている。それは、本郷に進学してからは人間的に魅力のある、その人の言葉に耳を傾けたいと思う教え手についぞ出会うことがなかったためだろうと思う。本郷では、何かといえば「ノーベル賞!」と叫ぶ変わった人達ばかりであった。
 ちなみに92年にはフクヤマの「歴史の終わり」の原著が刊行され翻訳も出版されていることも紹介されている。   フクヤマは確かコジューブのお弟子さんのはずで、ポスト・モダンへの道筋が既にここに始まっているわけである。
 「反古典の政治経済学」は「進歩史観の黄昏」と題する上巻と「二十一世紀への序説」と題する下巻からなる。
序では自著は「マルクス主義的社会科学」もっと一般的に「進歩主義歴史観に対する疑問」を述べたものであるが、その先にあるはずの肯定的世界の像を十分に述べる時間は自分にはもう残されていないかもしれないのでとりあえず否定部分をまとめたと書かれている。
 進歩主義歴史観への疑問は主に思想的にされていて、進歩主義歴史観の人はそもそも人間観を持たないという見方がされている。それが氏の論の一番の根っこにあるものであると思うが、そもそも人間観を持たない人は、それを指摘されても、キョトンのキョンのはずであって、何のことやらだろう。だから、村上氏の「進歩主義歴史観に対する疑問」はほとんど敵陣営には響かなかったと思う。自陣の人達の勉強の指南書となったというのがこの本の実際の効用だったのではないだろうか? 
 村上氏は21世紀を生き延びる鍵は「インテグリティ(筋道)を確立した一人一人の人間が自由に考え、行動する方向しかない」としていたという。
 しかし、福田恆存氏の「平和論に対する疑問」もまた反対陣営の人には一向に刺さらなかった。「進歩主義歴史観」の持ち主というのは「頭が悪い」のだと思う。そして「心がない」。
 「平和論に対する疑問」や「常識に還れ」が収められた「福田恆存評論集6」(新潮社 1966)に「進歩主義自己欺瞞」という文も収められている。そこではⅭ・P・スノーの「二つの文化と科学革命」が論じられている。現代西欧世界における「文学的知識階級」と「物理学者を頂点とする科学者たち」の分裂を論じたものである。クーンなどが言った「通約不可能性」であって、要するに相互にまったく話が通じない。
 わたくしは「進歩主義歴史観」の持ち主というのは一般には「文化系」とされていると思うが本当には「物理学者を頂点とする科学者たち」の末席に連なっているのだと思っている。末席だから頭が悪い。
 この「進歩主義自己欺瞞」には昭和30年10月號の「世界」に載った「冷戦終結の経済的基礎」という座談会についても論じられている。大内兵衛、有澤廣己、木村禧八郎、美濃部亮吉都留重人といった錚々たる経済学者たちが、昭和31年(つまり翌年)にはアメリカが恐慌におそわれるは必至というソ連の学者の予言を「そうだそうだ」と同意していたことが記されている。しかもとても本気とは思っていない口調で。
 ここではさらに、彼らへの批判として、フォースターの「私の信粂」も論じられているが、要するに「進歩の陣営」の人は「自分の信条」を持っているの?という問いかけであろう。
 わたくしが若いころ、何回「今度こそ恐慌だ!」という言葉を聞いたかわからない。要するに経済が行き詰まって二進も三進もいかなくなくなり、それを打開するには海外にうってでるしかなくなり、その手段としては戦争ということになるが、それは労働者の利益とは真っ向から反するものだから、労働者が立ち上がり、革命にいたるというような話だったと思う(レーニンの説だったと思う。帝国主義論?)。
 今から思うと全く馬鹿のような話であるが、当時の左派の人たちは労働者が困窮化していくことを切に願っていたのである、というか資本主義の体制下ではそれ以外の道筋はないことになっていて、ただそれがいつくるかだけだと本気で信じていたわけである。で、何らかの経済指標が悪化すると、今度こそ恐慌だ!と嬉しそうに騒いだわけである。

 さて次は第3章「知られざるクーデター 1993-1994である。いきなり若き日の田原総一朗さんの写真がでてきてびっくりする。リクルート事件の話である。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(3) 第二章 奇妙な主体化 1991-92(その1)p50から67

 最初は、91年4月に柄谷行人浅田彰が「批評空間」を創刊したこと、92年1月から漫画家小林よしのりが「SPA!」で「ゴーマニズム宣言」の連載を開始したことの指摘から始まる。
浅田氏は1983年「構造と力」でデビュウ、ニュー・アカデミズムのスターとされた。1984年には「逃走論」が発表される。
 今、本棚を見たら買ったはずの「逃走論」が見つからなかった。「逃げろや、逃げろ」といった文言があったような気がする。記憶では「ドロップのすすめ」の本、既成の体制にまきこまれるな! という煽りの本であった。それが可能であるのは日本が経済的に世界のトップの豊かな国になったからで、そうであれば正社員になるなど愚の骨頂、遊んで金がなくなったらバイトする生き方をこそ選択すべきである!
 1980年代のバブル期には、アルバイトの賃金も上がり、就職しなくても生きていくこと生計を立てるが可能になったように思う人が増えた。このころにフリーターという言葉もできた。この言葉が出来た頃のフリーターは“不安定な雇用”ではなかった。フリーターの選択はナウい生き方だった。
フリーターの状況が一変したのは、アルバイトの賃金が急速に落ち込んだバブル崩壊後で、フリーターとして生きていくことは困難になった。就職氷河期が到来した。
 ニート( Not in Education, Employment or Training, NEET)という言葉が日本で人口に膾炙するようになったのは、2004年、玄田有史氏がその言葉を日本に紹介したのがきっかけとなったようである。
フリーターからニートへ。ちょうどその端境期に浅田氏の本は書かれているわけである。

 さて、小林氏の「ゴーマニズム宣言」はまったく読んでいないので何も言えることはないが、当時のインテリ・知識人の偽善を撃つという点でそれなりの影響力を持ったのであろうと思う。「ごーまんかましてよかですか?」(この言葉くらいは聞いていた)というのは「インテリの傲慢」を撃つ!ということであり、その傲慢のあらわれが1991年初頭の湾岸戦争に際して発表された「湾岸戦争に反対する文学者声明」であった。

 声明1 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。
 声明2 戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

 この声明のあやうさをもっとも的確に指摘したのが加藤典洋氏であったと与那覇氏はしている。
 わたくしが加藤氏に抱くイメージは何よりも精緻な小説の読み巧者というものあるが、ここでは、「敗戦後論」(講談社 1997年)をとりあげる。これは3つの論「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の論を収めるが、「敗戦後論」は95年の発表である。わたくしの記憶ではこの論で氏は論壇からボコボコにされたというか集団リンチにあって満身創痍という印象であった。
 「三年前(1991年)、湾岸戦争が起こった時、・・さまざまな「反戦」の声があがったが、わたしが最も強く違和感をもったのは、その言説が、いずれの場合にも、多かれ少なかれ、「反戦」の理由を平和憲法の存在に求める形になっていたことだった。
 わたしは、こう思ったものである。
 そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。」
 「それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。」これは明白な嘘であって、「それは当時の連合国総司令部の発意により、その力で作られ、わたし達、占領下の非独立国である戦後日本の国民、政府に、手渡された。正確にいえば、押しつけられたのである。」
 草案が日本に提示された時、日本側に検討のためにあたえられた時間は15分!(すでに日本側がつくった松本案はGHQから拒否されている。)司令官マッカーサーはこれ以外のものを容認しないだろうとの言明つきで。この草案は原子爆弾という権力によっても裏付けられていた、と加藤氏はいう。GHQ案の手交の相手は白洲次郎
 そして押し付けられた憲法を日本人はいつの間にか「案外使える」と感じ出した。この憲法を強制されたが、そして根こそぎそれに説得された。それならもう一度自発的に選び直せばいいはずなのだが、しかし、押し付けは事実としても、現在のわれわれはそれをよきものと肯定しているのだから、それでいいではないかという方向で現在にいたっている。
 しかし、当時それに抵抗した学者がいた。美濃部達吉である。「帝国憲法ポツダム宣言を受け入れた時点で無効になっている。」「改正案で否定されている枢密院が、改正を議論するのは不可解。」「前文に「日本国民が制定する」と記されて改正案が、勅命により政府が起草し、議会の協賛、天皇の裁可で公布されるのは、「虚偽」。美濃部の改正案。「第一条 日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇コレヲ統治ス」 美濃部は新憲法が満場一致ではなく反対者がいたことが「新憲法」を正当化するものと考えていた。
 「敗戦後論」37ページに林達夫の「Occupied Japan 問題」への言及がある。林氏が敗戦の直後に提示した問題は現在に至るまでまったく解決していない。
 さて与那覇氏の本に戻る。大学改革についての議論はスキップ。
 67ページから「昭和の老兵が去りゆく」として山本七平氏やや村上奏亮氏が論じられるが、長くなったので稿を改める。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(2) 第一章 崩壊というはじまり 1989-90

 1989年 6月 ポーランド 自主管理労組「連帯」選挙で圧勝。
      10月 ハンガリー 社会主義放棄
      11月 チェコスロバキア ビロード革命
      12月 米ソ 冷戦終結宣言
          ルーマニア 独裁者チヤウチェスク処刑
 
 上記で明らかなように、実質的にはこの年に社会主義は終わる。従って、昭和天皇社会主義はこの年に一緒に死を迎えたことになる。
 冷戦の終結はひとつの「思考」の崩壊でもあり、マルクス主義は機能しなくなり、旧時代の遺物になってしまった。
 一方、左翼的ではない日本の国民多数に思考や行動のモデルを提供していたのは「天皇のふるまい」だった、と与那覇氏はする。教育勅語には「朕爾臣民ト倶ニ」とある。この「倶ニ」がポイントなのである、と。上にたつのではなく共にある存在としての天皇

 一時流行した言い方での「《大きな物語》の死」が平成におきた。
 1970年に三島由紀夫が死んだが、その少し前に東京では初のウーマン・リブの集会が開かれていることを橋本治が指摘している、と。
 ここで脱線すれば、わたくしがウーマン・リブというのをはじめて知ったのは「中ピ連」という変な運動を通してである。
 正式にはこれは「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」というのらしい。この名称だけみると性の解放という方向の運動のように見えるが、具体的に何をしていたのかというと、♀のマークのつけたピンク色のヘルメットを被って徒党を組んである会社を訪れ、「シュプレヒコール! お前の会社の○○は●●と浮気をしているぞ!」などと叫ぶのである。○○さんはたまったものではないだろうが、ひょっとすると芸能人やスポーツ選手のラブ・アフェアが悉く糾弾される時代の先駆けの運動だったのかもしれない。

 わたくしなどは、この人たち、「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」という言葉をしらないのか? あるいは惻隠の情という言葉をしらないのか? と思ってみていたのだが、当時の一般的な見方は「ウーマン・リブ」というのは「もてない女」が徒党を組んでいる運動というものではなかったかと思う。
 丸谷才一さんがどこかのエッセイで「一度ウーマン・リブの集会を見にいこうか? 少しは美人もいるかもしれない」といったことを書いていたのを思い出す。今なら即、没になるはずの文である。
 「男は女を美醜だけで判断している! もっと能力で評価せよ!」というのがウーマン・リブの運動の根底にあるものかと思うが、なにしろそれは「観念論に門構えとしんにゅうをつけた」、理念だけのウルトラ観念論だと思うので、議論しても無駄で、男は敬して遠ざけるしかないものと思っている。
 さて本題に戻る。平成期の日本では、野党もマルクスレーニン主義のような「大きな物語」を掲げる日本社会党から、「リベラル」?な民主党へと移っていった、と与那覇氏はしている。
 ここで紹介されているのが、当時の大塚英志氏の文「少女たちの「かわいい」天皇」である。「少女たちは聖老人の姿の中に傷つきやすくか弱い自分自身の姿をみている。・・」「天皇ってさ、なんか、かわいいんだよね」・・それは日本の近代社会が生み出したいかなる天皇像から見ても全く理解できないであろう不思議なまなざしである」と大塚氏はしていた。
 昭和の末期、晩年の昭和天皇の治療にかかわった某東大教授がたまたまわたくしの勤務する病院に訪れたことがあり、雑談をしていたら、天皇のことが話題になり、「本当はこんなこといっちゃいけないのだけど」との前ぶりで、「まったくただのおじいさん。テレビばかりみている」というようなことをいっていた。
 これが当時の普通の人の感じかただったのだろうと思う。わたくしもまた前稿で書いた「ゴルフ場で喪章」である。

 夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな
 あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

これは昭和天皇最晩年の歌である(中井久夫「昭和を送る」みすず書房2013年 から)。後者は昭和天皇が最後に詠んだ歌。だれがみてもここにあるのは一人の孤独な老人の姿である。
 外からはただのおじいさん、内からは孤独な老人というのはどこにでもごく普通に見られることであろう。
 少女たちの見る昭和天皇像を、「孤独を抱えて内閉した世界に引きこもっている点では、自分たち自身の似姿」と少女たちは感じていたと大塚氏は説明している。
 少女マンガの世界というのをわたくしは全くしらないのだが、その世界に昭和天皇をおけば、「なんか、かわいいんだよね」ということになるのだろうか?

 平成になってすぐに東側は崩壊しマルクス主義という「大きな物語」は世界のどこででも力を失っていった、そう与那覇氏はいうのだが、わたくしから見ると、日本では「大きな物語」的な何かが完全には崩壊せず、極論すれば、大きな物語の崩壊さえも「疑似大きな物語」となり、ポスト・モダン思想さえもそこに組み込まれて、「社会主義」「マルクス主義」の中核にあるものはたとえ東側が崩壊しても生き残り続けるといった方向のマルクス主義への未練が学者世界・インテリ知識人の閉鎖的世界のなかでは生き残り、いろいろな人によって手を変え品を変え様々な説・見解が唱え続けられることによって、日本の思想界が世界から離れた鎖国状態で独自な衰退の過程をたどっていったのではないかと思っている。
 与那覇氏もインテリが世を指導するというフィクションが揺らぎながらも続き、それにインテリがしがみついたことが日本の知識人の立場を独特のものとしたとしている。
 「大きな物語の消失」ということ自体が「中くらいの物語」になり、ポストモダン思想さえ「大きな物語」の代替物となってしまったのかもしれない。
 さて次は「第2章 奇妙な主体化 1991-1992」 いきなり話題は「浅田彰とスキゾ・キッズ」である。それは次稿で論じたい。

 ところで、わたくしは、昭和56年(1981年)末、大学を出て市中病院に就職している。1991年といえば丁度、就職後10年である。1990年ころの記憶にあるのはバブルの崩壊であり、あるいはその前の地価の高騰である。90年代になっての「バブルの崩壊」で無限の地価上昇というようなおかしな時代は終わった、これからはようやく少しは地に足がついた生活に戻れるという感じを多くの人が感じていたのではないだろうか?
 浅田氏も「経済の時代」は終わった。あくせくと働かなければ食べられない時代は終わった、フリーターこそナウい生き方というような当時の風潮(正規社員は会社の奴隷・・社畜、フリーターこそ自由人という風潮)に適合していたゆえに歓迎された側面があったことは否定できないだろうと思う。
 バブルの時代は看護師さんが転職の挨拶にきて、「次はどこの病院?」ときいたら「銀座」というようなことが普通にあった時代である。
 この頃聞いた話に「経済学者が考えているのはひたすらどうやってインフレが起きないようにするかである。デフレの対策を考えなければいけない時代が来るなど思ったこともなかった」というのがあった。一寸先は闇。

 ということで、次回はまず浅田彰さん。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(1) 序 蒼々たる霧のなかで

 この本は昨年入手したのだけど、読まずに置いてあった。今度、池田信夫氏との共著「長い江戸時代のおわり」を読んで、この本を思い出した。「平成史」というタイトルではあるが、平成の通史を述べるとともに、それに対して知識人がどのように反応したかの記述の方に重点が置かれている。
 知識人などという言葉は現在ではもう死語になっているのかもしれないが、与那覇氏はその存在と意義を信じている方で、例えミネルヴァの梟であったとしても、世の中の動きをその表層ではなく、深部から根底から見定めることこそ、その役割であると信じている方である。

序 蒼々たる霧のなかで
 昭和については、(悲惨な戦争、復興、公害、学生運動マネーゲーム、ディスコ・・、といったものが共通の記憶としてある。しかし、平成にはそういうものはない。
 平成の時代に最も信用を失ったのが「学者」と「知識人」である。彼らは何一つ達成できず、反知性主義の風潮のなかで嘲笑される存在へと転落した。
 しかし、この風潮は日本だけの現象ではない。世界で、少なくとも西欧ではどこでもおきたことである。それはなぜか?

 「序に」につぐ「第一部」の第1章「崩壊というはじまり」の最初のページに、ツヴァイクの「昨日の世界」(みすずライブラリー 1999)への言及がある。本書のタイトル「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」が、このツヴァイクの「昨日の世界」を意識したものであることは明らかだと思う。「昨日の世界」は、ナチス台頭により崩壊しつつあった「古きよきヨーロッパ」への郷愁をつづった回想録であると与那覇氏は紹介する。ナチスという「野蛮」によって蹂躙されようとしている古き良きヨーロッパの「文明」・・・。
 ツヴァイクの遺書。「・・友人のみんなに挨拶を送ります! 友人たちが、長い夜の後になお曙光を目にすることができますように! 私は、この性急すぎる男は、お先にまいります。」 
 ナチスに追われ、疲れはてて亡命先のブラジルで妻とともに服毒自殺したこの偉大な文人の残した「昨日の世界」は実に美しい本で、「私が育った第一次大戦以前の時代を言い表わすべき手ごろな公式を見つけようとするならば、それを安定の黄金時代であったと呼べば、おそらくいちばん的確ではあるまいか。」とその第一章は始まる。ある意味ではヨーロッパの最良の時期であった第一次大戦以前の文明を知るのにもっともふさわしい本ではないかと思う。

 与那覇氏は、日本の「昨日の世界」がヨーロッパでの世界大戦とは違い、20世紀から21世紀では静かに変わっていったとする。
 氏はこの変化に知識人がうまく対応できなかったという見方をしており、どこかにインテリの力が凋落し、本来インテリが果たすべき役割を果たせなかったという意識があるのだと思う。
 しかし、われわれが「これからも世界の主人公でいることを望むならば」知識人の役割は少しも減ずることはないという信念を与那覇氏は持っていて、その氏から見ると、平成の時代はインテリの堕落と劣化の時代に見える。それが本書執筆の動機となったのだと思う。
 ということで、わたくしから見ると、風車に突撃するドン・キホーテ的なところもいささかあるようにも思える本であるが、これから少しずつ読んでいきたい。

 それで、わたくしにとっての昭和から平成とへの移行と20世紀から21世紀の移行についてのきわめて私的な経験を以下に記して本稿は終わりとしたい。

 昭和から平成へ;実はこの日、勤務する病院のゴルフコンペが予定されていて、数名の同僚と車でゴルフ場に向かっていた。なにしろ昭和天皇の病が篤いことは連日報道されていたので、そしてまだ携帯などない時代だったので、誰かが「車のラジオでニュースをきこう」といいだした。それでつけてみたら「崩御」のニュースが流れていた。で、「やっぱり、今日ゴルフはまずいですかね?」などといっていたが、現地集合の他の組もいるので、とりあえずゴルフ場にむかった。ゴルフ場につくと、そこの方が厳かに?「今日はこれをつけてプレーをお願いします」と喪章を差し出した・・・。

 20世紀から21世紀へ:この日は病院に泊まり込んでいた。当時「2000年問題」というのがいわれていて、コンピュータは日付をⅩⅩYYZZという6桁で認識していて、1980年であれば19を省いて80。とすると2000年は00となり、コンピュータはそれを1900年と認識してしまい。暴走をはじめる可能性があることが懸念されていた。当時わたくしは院長であったので、病院にいても何の役にもたたないが、責任者として現場にいたわけである。時計が進み、20世紀から21世紀になっても何事もおきなかった。朝までまっても何事もおきないので帰宅した。

You Raise Me Up

 「You Raise Me Up」という歌がある。わたくしは偶然「you tube」でみつけたのだが、Martin Hurkens という少し頭が薄くなったおじさんが歌っていた。このおじさん、50歳過ぎて、テレビオーディション番組で優勝しデビューしたのだそうで、当時は失業中のパン職人であったのだそうである。

 さて、この歌は以下のような歌詞である。

When I am down
and oh my soul, so weary
When troubles come
and my heart burdened be

Then I am still
and wait here in the silence
Until you come
and sit a while with me

You raise me up
so I can stand on mountains
You raise me up
to walk on stormy seas

I am strong
when I am on your shoulders
You raise me up
to more than I can be.

(以下 略)
 
 わたくしはこれを自分を支えてくれるパートナーへの感謝の歌だと、単純に考えていたのだが、そうではなくこの歌は宗教的な含意を持つといっているひとがいたので、少し驚いた。ここでの you は神様あるいは救い主を指すのだというのである。

 旧約聖書の『詩編』に次のようなところがあるのだそうである。
 But you, Yahweh, have mercy on me, and raise me up

 Yahwehとはもちろん「神」で。「have mercy on me」の「me」とは、この詩編の作者。 わたくしにわからないのが、「神」をyou と呼ぶだろうかということである。もちろん対話だから二人称で、二人称ならyou なのだろうが・・・。
 「oh my soul」もまた宗教的含意があるのだろうか?