デノンのCDプレイヤー DCDシリーズ

 デノンのこのシリーズは外観がコンパクトでスマートということで購入したのだが、暫く使ってい てトラブル続出となった。
 この機種はCDの出し入れがトレイ式ではなく、挿入口にデスクをある程度までいれると機械があとは引き入れてくれる方式なのだが、まず引き入れてくれないことが多々ある。入っても、unsuported とか no disk とか出て演奏してくれない。はいったCDはでてこない。それで引き出すための小さなピンセットを買った(笑)。 
 困ったな、不良品かなと買い替えかなと思ってネットで見て見ると、不良品とか欠陥品とか悪評さくさくである。確かにこの製品、CD挿入部に問題があるらしい。

 しかしその中で、挿入前にCDの表面(曲目などが書いてある面 裏のCD情報が記録されている面ではなく)を眼鏡ふきのようなもので拭いてから挿入するとトラブルが相当に減るということを報告している方があった。
 それで早速試してみると、あら不思議、数回に一度であったトラブルが数十回に一度にまで減った。一回で演奏してくれないCDでももう一度拭いてから試すと今度は演奏してくれた。

 それにしても、CD面ではなく表面を拭くといいというのが不思議である。そこにも何らかの情報が刻まれているのだろうか?

 この機種を購入してトラブルにお悩みのかた、ぜひ眼鏡ふき方式を試してみることをお勧めする。


 

そうですねえ

オリンピックのテレビをみていると解説者がやたらと「そうですねえ」といっている。「いや違います」というひとはまずいない。同調圧力? 

パラリンピックというのをみていると、あらゆる競技が男女別であることに疑問がわいて来る。男女をわけずにしても、たまには女性が勝つこともあるだろうと思う。男女平等社会を目指すというのであればそうでなければいけないと思う。
そしてドーピングも何でもありにしなければ、おかしいと思う。車椅子などの性能が向上していることで差がでるのであれば、外部だけでなく内部の改造も認可されるべきではないだろうか?

客観的な医療

今、コロナウイルス感染の増大のため、疾患の重症度によって入院の適応を決めるという提案がなされている。
その適応を決めるのがパルスオキシメーターによる酸素飽和度の数字なのである。

医師であれば、この提案をみて唖然としないものはないだろう。
病気が数値化されている。95を越えたら中程度とか。

時に癒し しばしば支え つねに慰む

これは出典がわからない言葉らしいが、いまだに医者に出来ることなど限られている。しかし、患者さんを支えること、慰さめることならできる。
「先生、苦しいです。」 おもむろにパルスオキシメーターで測定し、「94%ですな。もう少しお家で様子を見てください。」というだけなら機械でもできる。

今度の騒動をみて、お偉いさんは医療をそういう目でみているのだなということがわかった。
 国会議員も各大臣、総理大臣、都知事・・みな同じである。
 おそらく、そういうかたがたは患者を慰めるロボットでも作ることでも考えているのかもしれない。

オリンピックへの暴論(2) 勝って来るぞと勇ましく

 高校野球などで、出場校の地元の公民館などで地元のひとが集まって旗などを振っているのをテレビで見ることがあるが、死ぬほど不愉快である。これは現在批判の的になっている同調圧力そのものである。

勝ってくるぞと勇ましく
ちかって故郷を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか

 今のオリンピックのテレビでの放映をみて、この軍歌を思い出す。別に“死なりょうか”ではないにしても、とにかく悲愴かつ、お涙頂戴。それをもう朝から晩までやっている。

 日本は根本のところで、昭和16年以前と変わっていない。

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため

 これも日本の会社社会にまだ脈々と受け継がれているのではないだろうか?

一億白痴化

テレビが日本に普及し始めた1957年、これを『一億白痴化運動』と評したのは大宅壮一である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。」
— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」

 「日本中がテレビを囲んで 放心している。」(飯島耕一詩集「バルセロナ」 1976 思潮社

 テレビは一日中オリンピックばかりである。

日本中がテレビを囲んで 放心しているのだろうか? それとも、刺青の品評会でもしているのだろうか?

アトランティスのこころ

このところ暇しているのでアマゾンで映画「アトランティスのこころ」をみた。
 これはスティーブン・キングの「Hearts in Atlantis」を映画化したもので、「黄色いコートの下衆男たち」「アトランティスのハーツ」「「盲のウイリー」「なぜぼくらはヴェトナムにいるのか」「天国のような夜が降ってくる」の五つの微妙に繋がった話の中から最初の一番長い「黄色いコートの下衆男たち」を中心に映画化したものである。映画は「アトランティスのこころ」というタイトルで上映され、映画と同時に出版された翻訳も「アトランティスのこころ」というタイトルで出版されたが、翻訳では「アトランティスのハーツ」となっているようにこのハーツはトランプ遊びである。ここではヴェトナム戦争を背景に、「ハート遊び」に惑溺して自堕落な大学生活を送る大学生活が絵が描かれる。
「黄色いコートの下衆男たち」がキングが「スタンド・バイ・ミー」(原題は「死体」)などで得意とする少年が大人になる物語であるので、それに特化したあるいは純化した映画はそれなりに成功しているが、キングの原作はその子供時代と対比して子供と大人になりかけの大学生時代・その後のただの大人としての苦い生活という成長あるいは対比という苦さを欠いたものとなっているので、その点やはりキングの原作よりは浅いものとなっているように感じた。

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藤田紘一郎さん

 藤田さんの「もしも、私が「がん」になったら。」(光文社新書 2021 4月)を読んでいたら、その藤田さんの訃報が報じられた。誤嚥性肺炎ということであった。誤嚥性肺炎は相当抵抗力・体力が落ちた高齢者の病気だから、「癌」とか何らかの基礎疾患がある場合が多いが、藤田さんはこの本を4月末を刊行しているのだから、最近までお元気だったはずで、ちょっとわからない。

 藤田さんについては、「今の人間は清潔を指向しすぎている。寄生虫を駆除なんかするからアトピーなどが起きる」ででといったことを主張していて、面白い人だな、と思っていた。
 こういうことをいうひとだから当然変わった人なはずで、医学の主流の見解などを述べることはないはずで、そういう藤田氏が「がん」についてどんなことをいっているのかなと思い、この「もしも、・・・」を買ってきた。
 当然、標準治療は受けない。早期がんでも手術がしないなど、医療の主流からはずれたことを書いている。
 おそらく、氏は自分は自分なりの健康法でやってきてそれはうまくいったので、最後はがんで死ぬのかなと思ってこの「もしも、・・・・」を書いたのであろう。しかし、どうもそうではなく、高齢者のありふれた疾患でなくなったようである。
 自分の考えた通りに生きるということはなかなか難しいようである。