小熊英二「日本社会のしくみ」(2)第一章日本社会の「三つの生き方」

 第1章 日本社会の「三つの生き方」
 最初に「不安な個人、立ちすくむ国家」という2017年に「経産省若手プロジェクト」が作成した文書が紹介されている。随分と評判になったものらしいが、わたくしは知らなかった。これを知っただけでも、本書を読んだ意味があったかなと思う。
 最近、厚生労働省改革若手チームによる「厚生労働省業務・組織改善のための緊急提言」という90ページほどの文章も発表された。「働き方改革」を主導する立場である厚生労働省であるが、その労働環境がいか劣悪であるかを指摘し、様々な改革を提言している。
 こういう若手官僚が様々な声をあげるようになってきているというのも、日本が直面している状況への危機感の表れなのであろう。
 「不安な個人、立ちすくむ国家」では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をした男性は、1950年代生まれで34%であったものが、1980年代生まれでは27%になると予想されることが紹介され、小熊氏は「昭和の時代」でもそういう生きかたは34%に過ぎなかったのだということを指摘している。「経産省若手プロジェクト」のメンバーにもこれは意外だったらしく、もっと高い数字になるだろうと思っていたので「自分たちは分かってなかったんだ」とショックを受けたのだという。
 ではその34%以外のひとはどういう生き方をしているのか? 小熊氏は現代日本の生きかたを、「大企業型」「地元型」「残余型」の3類型にわけて考えることを提言している。
 「大企業型」とは「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をした人とその家族である。「地元型」とは「地元から離れない生き方」で、ある地方の中高をでて地元の自営業、地方公務員、建設業、地場産業、農業などに従事するものをいう。(小熊氏はあくまでこの分類は理念型であり、現状分析のための補助線であるとしている。)
 地元型:収入は「大企業型」より少ないが、親から受け継いだ家に住み、地域の人間関係にめぐまれ、近隣からの(農作物などの)おすそ分けがあるため支出は少なく、定年がなくずっと働くひとが多い、という類型と小熊氏はする。地元型は上記のように経済力では「大企業型」に劣るが、地域に立脚しているので政治力は持つのだという。
 「大企業型」は定年後の生活に問題があり、地域に地盤がないために育児などに問題が生じがちである。
 よく日本の住宅は狭いといわれるが、それは大都市の住宅、特に賃貸住宅の場合である。従来、日本を論じるときに「大企業型」が前提に議論されることが多かった。それは論じるひとの多くが「大企業型」の生き方をしていたからである。
社会保障制度を考えてみる。日本人は「企業」か「地域」かに所属しているという前提でその制度はできている。厚生年金は「企業」に勤める人を前提にしている。「国民年金」は「地元型」を想定している。
 バブルの余波が残っていた1993年でさえ、年金だけで暮らせるひとは1/3だった。
 「残余型」とは、長期雇用もされていないが、地元にも基盤を持たないものである。「大企業型」と「地元型」のマイナス面を集めたような存在である。
 「残余型」は政治的な声をあげにくい。(地元を持たない「大企業型」のひとであっても、労働組合を通して政治的要求を主張することはできる。)
 日本はこれから「残余型」が増えていくと思われる。それは、今までの日本の制度設計が困難に直面していくということである。
 定住という観点からみた「地元型」は31%~36%くらいである。
 一方、「大企業型」は26~30%くらい。
 日本では20~30%の「大企業型」とそれ以外の格差が開いている。
 非正規雇用が増えているといわれるが、正規雇用の比率はそれほど減ってはいない。しかし非正規雇用は増えている。それは自営業種や家族従業員の数が減っているため雇用労働者数が増えているからである。(自営商店や自営食堂が減って、スーパーや飲食チェーン店が増えている。)
90年代から2000年初頭にかけての「就職氷河期」に遭遇した「団塊ジュニア」は非正規雇用の増大の象徴とされている。その背景には、この時期に高卒が減って大卒が増えているということがある。その大卒者の急増に対して大卒労働市場は一定であったので、結果として大卒就職率が下がったのである。
 1985年ごろに問題とされていたのは、正規雇用者が減るであろうことよりも、団塊の世代では役職者昇進の機会が減るということであった。
 日本ではまず高校進学率が伸び、その後で大学進学率が伸びたということがあるが、それにもかかわらず、最近になっても大学院進学率は伸びていない。それは大学院進学率の増加という現代世界の動向に反しており、そのため日本は世界からみると低学歴の国になってきている。
 日本の就職で評価されるのは大学で何を学んだかではなく、大学入試を通過できたかどうかということにある点がその大きな原因となっている。日本では就職時、存在能力が問われるのであって大学で学んだ専門知識ではない。だから、語学力などは重視されない。とすれば、大学院進学の実績は就職には特に有利にははたらかない。
 なぜ日本では専門的な学問知識が重視されないのかは、次章でくわしく議論される。
 雇用労働者の増加分は、日本では自営業の減少から供給されているが、アメリカでは移民、イギリスでは人口の増加によっている。それは日本が英米よりも遅れて近代化したことの反映である。
 また1970~80年代にかけて、日本では小売店の数が非常に多かった(イギリスや西独の3倍、アメリカの2倍)。それは自民党政権が小規模小売店を一つの支持基盤としてきたことにもよる。しかし80年以降、日本の非農林自営業は減少してきている。この頃から自営業から非正規労働への移行がおきているが、それはまず女性からおきてきている。
 2000年以降、小企業の雇用者が減って大企業の雇用者が増えてきている。
日本の問題は「大企業型」でも「地方型」でもない「残余型」が増えてきていることである。「残余型」の増加は貧困の増加につながるからである。
 日本は「会社」と「村」を基盤に社会が形成されている。しかし、それは万国共通のことではない。日本がそうであるのは日本の大企業の雇用慣行によるところが大きい。大企業は広域から人を集めるし転勤も多いため、終身雇用と地域で暮らすことは両立しにくい。
 大企業と中小企業の労働市場は分断されているし、しかも大企業は中途採用者には封鎖されている。
 それでは、このような日本の労働慣行はどのようにして形成されてきたのか? 第一次世界大戦後の1920年ごろからとするものが多い。
 欧米では、企業の規模よりも、工員か事務職なのかといった職種のほうが収入の決定要因としては大きい。「大企業型」という類型が成り立つのは大企業の正社員であれば、どんな職種であっても収入が保証されるという構造がある場合においてのみである。
 ドーアは、1973年に、ある調査に基づいて、英国ではどんな仕事をしているかと尋ねると、「自分は鋳造工でありどこそこに住んでいて〇〇社で働いている」と答えるのが普通であるが、日本では「○○社の社員である。どこそこの工場で働いて、鋳造工をしている」と答えるのが通例であるとしている。イギリスでは自分のアイデンティティは鋳造工であることにあるが、日本ではどの会社で働いているかにあるのだ、と。
 このような違いがなぜ生じたかを、第2章以下で考察していくことになる。

 大分以前の本であるが山本七平氏の本のどこかで、銀座の老舗の菓子屋の息子が後をつがずに三菱(だったか)の社員になることを選んだ話がでてきて、日本では有名な菓子店の店主よりも有名企業の平社員のほうが世間的な評価が高いのだというようなことが書いてあったのを思い出す。
 山本氏自身は山本書店という一人出版社の店主であり、印刷や製本といった中小の業者とのかかわりの中で長く生きてきたひとなので、氏の労働観は多分にそういう自身の経歴に影響されていると思うが、鈴木正三などというひとを見つけてきて、江戸時代において農業に打ち込むことが仏行につながるとしたということの指摘などは、多分にウエーバーのプロテスタンティズムの精神が資本主義をつくったという説を意識したものであろうが、同時に日本においては会社をその筆頭とする機能集団はそれが共同体へと転化していかないかぎりはうまく機能していかないという 小室直樹氏が「危機の構造」などでいう論とも通じるものがあって、そもそも会社というのが利益の追求を第一にするものではなくて、成員それぞれに生きる意味をあたえる場であることを第一義とするのであり、そういう組織に転化しない限り会社というおはうまくまわっていかないという論などにも通じるものがあるように思う。
 あるいは内田樹さんが「村上春樹にご用心」でいう「雪かき仕事」、何かを作り出すという創造的な仕事ではなく、ただ現状を維持するだけの仕事であっても立派な仕事である、あるいはそれこそが実は肝要な仕事であるとするような見方、あるいは、中井久夫さんが「分裂病と人類」で二宮尊徳などを例としていう「執着気質」の問題(「天道非なり」という見方、われわれが手を入れてようやく自然というのは現状が維持されるのであって、何もしないでいたら自然は見る間に荒廃してしまうという見方(エントロピーの増大?)など、わたくしは様々な日本人論に親しんできて、もっぱらそういう視点から日本人の仕事を考えてきた。
 産業医という立場からいえば「執着気質」の問題、うつ病の背景としての「メランコリー親和型」の性格というのが、日本とドイツ以外ではそもそも医学界でも認知されていない概念である(笠原嘉「精神科医のノート」)という指摘になるほどと思ったものだが、その「メランコリー親和型」も、絶滅危惧種といわれるくらいにこの10年くらいの間にわれわれの周囲から姿を消してしまい、それにかわって「新型うつ」というのが一時騒がれたがそれもまたあまり見られなくなり、現在みられるのは「働く」ということ自体に適応を欠くのではないかと思われる人たちになってきている、そういう場で仕事をしている。
 現在われわれが直面しているのは、そもそも職場にそこが共同体であることを求めていない人たちである。共同体は職場といった実体からネット上といった仮想の空間へと移ってしまったらしい。
 「大企業型」と「地域型」の違いは、働くひとがどこに根を持つかという問題である。最近あまり使われなくなった言葉を使えばアイデンティティの問題である。大企業に勤めながら意識は「残余型」というような人が増えてくると、小熊氏の提唱する「大企業型」「地元型」「残余型」の分類の持つ力は薄れていくかもしれない。

 第2章以下では日本の雇用慣行と他の国の雇用慣行が比較検討される。本書の大きな主張は日本の労働慣行が明治期の官庁制度に根があり、それが軍隊の階級制度と共鳴して「大企業型」の労働慣行を生んだとするものである(第4章)。軍隊組織も広義の官僚組織・官庁組織であるとすれば、日本のマインドはいまだに官優位ということなのかもしれない。それについては第2章以下をみながら考えていきたい。

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

精神科医のノート

精神科医のノート

小熊英二「日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学」(1)

 600ページ近い新書としては異例の厚さの本で、正直、非常に読みにくい。「雇用・教育・福祉の歴史社会学」という副題がつけられているが、主に論じられるのは雇用の問題で、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といったいわゆる世界から見てかなり特異とされる日本の雇用のありかたが、日本の近代の歴史のなかでどのように形成されてきたかを論じたものである。したがって学術書という側面も持つ著作であるが、学術書としての通常の書き方である、まず先行研究を紹介し、それを批判的に検討した後、自説を展開していくといった書き方はされていない。
 そうかといって新書という形式の要請で、読者の関心をつないでいくために適宜興味深いエピソードも交えていくといったサービス精神はほぼゼロである。
 しかもあることが論じられると、そのあとに、「ただし」とか「とはいえ」とか「しかし」とか「だが」とか「実は」とか「もっともこれは」とか、前段の議論を限定したり、ひっくり返したりする論が続くことが多く、なかなか議論が直線的に進んではいかない。
それは学問的良心なのかもしれないが、読み物としての側面も持つ新書としてはかなりつらい本となっている。
 それでは、なんでわざわざそんな本を読んでいるのかというと、それはもっぱらわたくしが現在産業医という仕事をしていることによる。産業医というのはある規模以上の事業所では任用が義務づけられている、そこで働くひとが業務を遂行することによって健康を害さないように管理することなどを主たる業務とする仕事である。
 しかし医者という仕事はもともときわめて一匹狼的な色彩が強い業務なので、凡そ組織といったものにはなじまないので、会社という組織体そのものが一向にぴんとこない。まして、わたくしのように産業医の仕事を60歳すぎてからはじめたものにとっては、会社という組織ではたらくひとも気持ちというのが根っこのところではよく理解できないところが多いし、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といったシステムのそとで生きてきているので、そういうシステムが会社で働くひとにとって持つ意味というのが実感としてはわかっていない。
 さらに個人的事情がある。前の東京オリンピックが開催されたのはわたくしが高校3年の時で、どういうわけかそのころ根性といった言葉が猖獗をきわめていた。日紡貝塚という女子バレーボールのチームがあって、その監督の確か大松博文というひとがいて、その言葉の旗振りというか震源地だったような記憶がある。
 その頃、ニュースなどを見ていると少なくとも一部の日本人は根性とかいった言葉が大好きなようであって、会社という組織でも新入社員に自衛隊体験入隊を強制するとか、寒い時に滝に打たれさせたりている報道がやたらと目についた。小さい時から運動神経ゼロの根性なしであった人間として、高校一年のとき、それまでの文学部志向をやめにした時、さて将来どうしようかと考えたときに、すでにはじまっていた、体育会系志向のような風潮をみて、ヤバイ、とにかくサラリーマンにだけはなるまいと思った。しかし当時は「13歳のハローワーク」といった本はなく、会社員でない仕事というのも具体的なイメージがつかめず、たまたま父もまた勤務医であったという身近なモデルの存在から医者という道を選んだ。したがって、医者になるといっても、開業するといった選択を考えたことは一度もなく、研究者になるということを考えたこともない。
 医者になって数年は大学で学位の取得のための研究と称することをしていて、その学位がとれる目途が34歳ごろについたので、どこか外の病院にでて臨床の仕事をすることを考えていたところ、たまたま卒後の臨床研修でお世話になった病院の先生から、学位もとれたのなら大学にいてもしょうがないから、うちにこないかという誘いを受けて、じゃあということで出た病院にでて、結局30年以上も務めることになってしまった。
 そしてさらに特殊な事情があって、その勤めた病院というのが某大企業が設立した病院でいわゆる企業律の病院で(ある時期の大きな企業は中根千枝さんがいう「ワンセット構成」で本業以外に物流から金融までなんでも自前で一式もとうとしていた)、つまりわたくしはその企業の構成員、つまり会社員にその時点でなったはずなのだが、勤めて半年くらい自分はその病院に就職したのであって、その会社に就職したという意識がなかった。事実、就職時に労働契約書のようなものを交わした記憶もない。
 病院に勤めはじめて半年くらいしたときに、ある先輩から、「君は会社員なのだから転勤もあるよね?」といわれてはじめて会社員になったことに気が付いた(その企業はその下にいくつかの病院を持っていたので、後から考えれば、その病院間での移動はありえたわけである。しかし就職時、その企業が他にいくつも病院も持っていることさえ知らなかった)。
 いまから考えると、最近、雇用の問題でよくいわれる「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という区分でいえば、わたくしは典型的な「ジョブ型」の採用であったのだと思う。命令により転勤があるなどということは微塵も考えなかったし、「君は内科で採用したけれど、明日から外科をやってくれたまえ」といわれることもないだろうし、ましてや「来月から医者ではなく病院事務をやってくれ」といわれることもないだろうと信じていたわけである。
 日本的な雇用形態とはまったく異なるかたちで某大企業の社員であったという特殊な履歴をもつ人間が、産業医という仕事にも携わるようになったため、日本の会社組織というものにいやでも関心をもたざるをえないことになった。それで、このかなり読みにくい本も職業上の必要から、何とか読み通した。
 そして以前から日本人論のようなものに関心をもってきたということも、もう一つの本書を読む背景となったかもしれない。山本七平小室直樹内田樹といった人たちの論を面白がって読んできたこと、特に山本氏の本から日本の軍隊組織が日本の組織の原型になっているのではないか、という示唆を与えられたこと、あるいはもっといえばやくざ組織のようなもの、一宿一飯の恩義、義理と人情、俺の目を見ろ、何にもいうな、黙って俺について来い、の世界が、会社という組織の一番根っこにあるのではないかというようなことを以前から漠然と考えてきたことなどもあって、あるいは村上奏亮氏らの「文明としてのイエ社会」のような本、あるいは河合隼雄氏の「中空構造日本の深層」のような本にも親しんできたこともあって、それについて考える補助線として本書の主張が使えるかもしれないと考えたことも、なんとかこの本を読み通すことができた背景の一つにあったかもしれない。(小熊氏は日本文化論的なものに批判的である。)
 せめてこの後、第一章だけでも見ていこうかと思ったが、その章だけでも100ページもあるので、稿をあらためることにする。

13歳のハローワーク

13歳のハローワーク

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)

痛快!憲法学 (痛快!シリーズ)

痛快!憲法学 (痛快!シリーズ)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

中空構造日本の深層 (中公文庫)

中空構造日本の深層 (中公文庫)

週刊文春の橘玲さんの論

 「週刊文春」の最新号での連載「臆病者のための楽しい人生100年計画」の「ロマンス小説の読者が‟欲情”する男性像」で、橘玲氏が、「女には男とは別のポルノがある」という説を紹介している。ハーレクイン・ロマンスなどのロマンス小説がそれにあたるという。
 このような話題にかんしては、昔、「女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密」という「進化論の現在」というシリーズのうちの一冊を読んだことがあって(2004年)、そこに「ロマンス小説は「女性向けポルノグラフィ」と呼ばれている」ということがすでに書かれている。
 橘氏の論が気になったのは、現代的なロマンス小説の原型がマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」であると書かれていたことである。動物学でのアルファ・オス」と「ベータ・オス」を転用して、ロマンス小説ではヒロインが、アルファとベータの間で揺れ動き、最後にアルファと結ばれるという構造なのだという。
 ハーレクイン・ロマンスは一冊も読んでいないので大きなことはいえないけれど、ロマンス小説とは、アルファ・オスが数あるメスの中から自分を選んでくれるというストーリーなのではないかと思う。「風と共に・・」のアシュレーのようなうじうじとした造形の人物がでてくるとは思えない。
 ロマンス小説の原型は、「いつか王子様が・・」であって、「白雪姫」から「シンデレラ」まで、その基本の構図は「玉の輿」なのであると思う。男の富対女の美貌であって、普通、富のある男は特定の女を求めるのではなく、多くの女を求めるものなのであるが、どういうわけかそうではない男もいて、自分という特定の女に求愛してくるという夢を飽かず描くのがロマンス小説なのだと思う。「風と共に・・」のアシュレーのような生活能力をまったく欠くが教養だけはいっぱしもっているなどという男が一時的にせよヒロインから愛されるなどということはロマンス小説ではありえないと思う。
 そしてレット・バトラーがアルファ・オスであるかというのも疑問である。レット・バトラーは自分は二流である、本物ではないという意識を持っている人間で、大部分の人間は三流なのであるから、それよりは自分は上であるが、本当の一流という人間が稀にはいてそれには敵わないと思っている人物である。そして、「風と共に・・」で一流の役割を振られているがのがメラニーで、ロマンス小説に例をとるならば、ヒーローがメラニーでヒロインがレットということになるのではないかと思う。レットはスカーレットが上等な二流であるという点で自分と同類と思っているわけで、その世界が成立するためには本物の一流がどこかにいるのでなければならない。メラニーは寧ろ「永遠に女性的なるものが、われらを引きあげて、高みに昇らせてくれる」というゲーテファウスト」にあるような男の困ったロマンティック幻想を体現したような像で、だからわたくしには「風と共に去りぬ」を書いたのが女性であるということが何だかうまく理解できないのである。
 スカーレットは生活力のある、自分の足の上に立っているindependent な人間で、別にどこからも王子様がやってくる必要はない。どうも「風と共に去りぬ」がロマンス小説の原型という説には納得できないものを感じた。
 橘氏は進化論的見方から人間のさまざまな行動が説明できることを啓蒙しているかたで、本論もその一環であるが、わたくしは男は自己批評的な性、女は自己肯定的な性であると思っていて、「風と共に・・」はむしろ、男女のその側面を典型的に描いたものではないかと思っている。男は自分を笑うことができる性であるが、女性はそれが苦手であって、だからこそユーモアというのは男の属性なのである。レット・バトラーはわたくしが12歳にして初めてであった偽悪的人間像で、とすれば偽善は女性の特徴、偽悪は男の属性ということになる。これもまた進化論的に説明可能なのだろうか?
 バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」の巻末にふされた自己テストをやってみると、わたくしは男性としては著しく女性性が高いという結果になる。バロン=コーエンはもちろん進化論的観点から男女の差をみているのであるが、自己を笑うということは批評性の表れであるとすると、やはりシステム化の方向であり、男性側の属性ということで、これもまた進化論的にも説明できるのかもしれない。
 本論の末で、日本ではロマンス小説の方向が、宝塚から「やおい」(ボーズラブ)という同時の発展をとげたとあるが、「女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密」では、スラッシュ小説というアメリカを中心に進化をとげた一種のボーズラブの世界を描く作品群が紹介されている。その読者もほとんど女なのだそうである。ここでは日本では「少年愛」という少女向けのコミックジャンルがあることもちゃんと紹介されている。
 「やおい」については日本のおいてその方面をほとんど一人で立ち上げたという中島梓さんの「コミュニケーション不全症候群」なども読んだことはあるが、なにしろマンガというのかコミックというのかの世界にはまったく疎いので、あまり理解できていないだろうと思う。
 最近、映画になった「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」などというのも多分、ロマンス小説の変形で、原作者は多分、女性だったと思う。

女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密 (進化論の現在)

女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密 (進化論の現在)

共感する女脳、システム化する男脳

共感する女脳、システム化する男脳

コミュニケーション不全症候群

コミュニケーション不全症候群

浅田次郎「日本の「運命」について語ろう」

 二時間位、汽車(死語?)に乗る機会があり、そのための読みものとして、駅の書店でもとめたもの。200ページくらいの薄い文庫本である。
 随分と大きく構えたタイトルであるが、浅田氏の講演の記録である(ただし文字で読んでも違和感がないように編集されている)。
 浅田氏のものをはじめて読んだのは「プリズンホテル」シリーズで、これが氏の作が世に評判になった最初のものかと思うが、大分売れなかった時期があったようであるにもかかわらず、一切、手を抜いていないというか、実に正統的な物語を真剣に紡いでいるのに感心した。つぎが「蒼穹の昴」で、これはもうただただ感嘆した。とはいっても氏の評判になる作は何となく人情噺という印象があって(映画化されたものが、いかにも泣かせますという感じのものが多かったためかもしれない)、それであまり他には読んでいなかった。
 本書で氏がわたくしとほぼ同世代(わたくしより4歳下)であり、父親が戦争にいっていて、杉並在住(氏は中野、わたくしは荻窪)であるなど、いろいろな点で共通していることがわかった(それで、地下鉄丸の内線が荻窪まで延伸したときの幼い日の記憶がある点でも共通している。)氏の父は、新橋から地下鉄に乗って、青山の歩兵第三聯隊に入営したのだそうで、それが「地下鉄に乗って」の原点になったらしい。戦前にもすでに地下鉄はあったわけである。
 中央線の歴史も書いてあって、明治22年に新宿・立川間が開通した時には、間の駅は中野、武蔵境、国分寺だけだったのだそうである。ところが荻窪の住民からぜひ駅を作ってくれという運動がおきて、それで明治24年に荻窪駅ができたのだそうである。
 氏の父は戦争中の経験を一切、子供には語らなかったらしい。これもわたくしの場合も同じであることも興味深かった。文字通り、筆舌に尽くし難い経験をしたということなのだと思う。
 明治以降の日本をどうみるかについては、大きくいって司馬遼太郎史観と山田風太郎史観の二つに大別されるように思うが、浅田氏の明治維新の見方はどちらかといえば、司馬遼太郎よりのように思えた。
 中国近代史から参勤交代の話などまで、歴史の大きな流れからトリビアまでいろいろと教えられた。
 これを読んで、「地下鉄に乗って」を読んでみようかなと思った。

本棚の整理(4) 倉橋由美子

 倉橋由美子はもう忘れられた作家、今となってはほとんど読む人のいない作家なのではないかと思う。まだ一部、倉橋ファンというのがいるのかもしれないが、それは倉橋初期の「聖少女」あたりのファンであって、わたくしのように後期の倉橋に専ら関心があるという人間はあまり多くはないように思う。
 まだわたくしが教養学部の学生のころ、わたくしなどの何倍も本を読んでいた友人が、その頃、確か「海」に連載が開始されたところだった「夢の浮橋」を読んで、「倉橋がおかしくなっているぞ」というようなことを教えてくれたのが、倉橋の名を耳にした最初だったかもしれない。何だかスワッピングの話だったのである。
 この「夢の浮橋」から次の「城の中の城」あたりの10年あたりが倉橋の転換期であったのだと思う。「夢の浮橋」連載開始ごろに「ヴァージニア」が刊行されていて、「夢の浮橋」刊行時(1971年)に「反悲劇」が刊行されているが、その後、約10年後の「城の中の城」(1980年)まで小説は発表されていない。どうも1970年というのが問題で、三島由紀夫が死んだのが1970年11月、その同じ月に吉田健一の「瓦礫の中」が刊行されていて、翌71年には「絵空事」が刊行されている。
 「シャトー・ヨシダの逸品ワイン」(「最後から二番目の毒想」所収)に倉橋氏は以下のようなことを書いている。「一九七〇年産の『瓦礫の中』、一九七一年産の『絵空ごと』、それに一九七三年産の『金沢』。いずれも吉田氏自身が推奨していたシャトー・ディケムを思われる逸品で、これを読んだあとは小説を読むのも書くのもいやになってしまった。」 これは本当なのだろうと思う。それで、10年の沈黙があり、「夢の浮橋」からの微妙な転換が図られる。「夢の浮橋」では桂子と呼ばれていた主人公は、「城の中の城」では桂子さんと呼ばれることになる。
 倉橋由美子が敵としたものは文学青年・文学少女的な何かとでもいったもので、三島の死に際しては「英雄の死」という三島を神とたたえるようなオマージュを捧げたものの、吉田健一がその死を事故死と呼んだのをみて転向、三島の中にも文学青年の残渣をみるようになり、以後、吉田健一一筋の路線でいくことにしたのだと思う。
 倉橋が後期の小説で描こうとしたのは貴族たち(すなわち文学青年の対極にあるもの)の肖像だったのだろうと思う(書き方の直接のモデルは「絵空ごと」だったのではないかと思う)。しかし、氏の後期の小説では、この貴族たちが日本の上流階級であるとともに同時に支配階級でもある設定になっていたのがいささか困ったところで、いくら倉橋氏の筆力をもってしても、現実感が希薄なのである。「三島君はいい子だったけど、一つだけとんでもない誤解をしていた。日本に上流階級があると思っていた」と吉田氏がどこかで書いていた。存在しないものをペンの力で作り出すというのが小説の基本であるとしても、一個人ならいざしらず、一階級ということになると、いささかつらいものがあったのではないかという気がする。しかし、倉橋氏はまず自分が読みたいと思う話を書いていたのであって、自分としては満足してのではないかと思う。
 倉橋氏ほど露骨なくらいに吉田健一へのオマージュを捧げ続けたひとはほかにいないと思うので、健一ファンのわたくしとしては、倉橋氏への関心はつきることはない。本棚には三十冊くらいの倉橋本があった。わたくしが選ぶとすると、ベストは「ヴァージニア」? あるいは「城の中の城」。後は「偏愛文学館」といった後期のエッセイだろうか。第一エッセイ集である「わたしのなかのかれへ」の巻末のおさめられた「文学的人間を排す」も素敵で、「「しかし蠅というものは一匹いても不愉快だ。これは精神衛生上の問題ですからね。ほら、あそこにも蠅がいる。」 そういって彼が指さしたところをみると、長髪で顔色のよくない若い男たちが、「日常性に埋没することを拒否して・・・」といったことを話あっていた。そのとき新手の数人連れが店にはいってきたのをみれば、初老の、一見温厚で知的な大学教授風の紳士、しかもそのなかの二人まではベレーをかぶっている。出ましょう。進歩的文化人だ」と友人はいい、そこで私たちは他日を期してその日は別れたのであった。・・要するにひげをふくむ長髪は、新左翼のみならずその周辺のあらゆる文学青年的精神のシンボルなのである。」 ということでもういいたい放題である。大変失礼ながら、わたくしはここのところを読むたびに何故か池澤夏樹氏の顔が浮かんでくるのである。
 「城の中の城」を書いた倉橋氏は宗教が嫌いであって、氏にとっては宗教もまた文学青年的な何かの延長線上にある。たしかに大部分の人間にとっての信仰は飾り物あるいは偽物であるとしても、まれには本物の信仰というものも存在するのであって、しかし、倉橋氏はそれを認めることに抵抗する。「ピンフォールドの試練」には満腔の賛辞を呈する倉橋氏も同じウォーのカトリック小説「ブライズヘッドふたたび」については歯切れが悪い。そしてこれは吉田健一の翻訳のなかでもとびきりの名訳の一つであり、吉田氏もこの小説を愛読していたことは、倉橋に葛藤を生じさせたのではないかと思う。
 後期の倉橋氏は文学青年的人物はいっさいでてこない清浄な世界をひたすら書き続けた。だが、そういう葛藤のない世界というのが小説に適するかというのは問題で、吉田氏が「瓦礫の中」や「絵空ごと」でやってみせたのは、一回かぎりの奇蹟のようなものだったかもしれないのである。

夢の浮橋 (1971年)

夢の浮橋 (1971年)

城の中の城 (1980年)

城の中の城 (1980年)

ヴァージニア (1970年)

ヴァージニア (1970年)

偏愛文学館 (講談社文庫)

偏愛文学館 (講談社文庫)

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

本棚の整理(3) 三島由紀夫

 三島の本もそれほど多くは持っていない。(単行本25冊くらい。短編全集6巻。文庫本10冊で、計40冊くらい。) わたくしが大学2年の時に三島がもう死んでしまったためで、晩年の「豊穣の海」4巻とか、「太陽と鉄」といったものは刊行当時に入手しているが、それ以外はさかのぼって単行本を購入したり、文庫本で読んだりであるので、読んでいないものも少なくない(「金閣寺」や「午後の曳航」なども読んでいない)。
 読んだ範囲で面白いと思うのは、「美徳のよろめき」とか「永すぎた春」とか「美しい星」とかいった方向のもの、あるいは「愛の渇き」、「豊穣の海」でいえば「春の雪」と「奔馬」。しかし、三島としてはそういうものだけでは満足できなかったはずである。というか、そういう作品を書いていただけでは、日本の文壇からは決して本流とはみなされなかったわけで、だから「仮面の告白」とか「金閣寺」とかが必要になった。また「鏡子の家」が書かれることになった。あるいは「豊穣の海」では「暁の寺」が書かれなくてはならなかった。
 本当は「愛の渇き」の路線でずっといけばよかったのだろうが、そういうものだけでは、作り物を書く人、もう少し極端には、大衆小説作家とみなされてしまうことになっただろうと思う。だから「仮面の告白」の様な作を名刺代わりに書いて提出することが必要になった。「自分へのこだわり」というものがどこかにない作家は日本では信用されないのである。「豊穣の海」でも第一巻と第二巻は明らかに作り話であるが、「暁の寺」でそれまで狂言まわしであった本多繁邦が「認識の不毛」という命題を背負って物語の表にでてくることによって、はじめて「本物」の文学の列に加わることができるようになる。日本では文学を書くということが倫理的行為となってしまう。「作り物」の話を書くというだけでは「男子一生の仕事」たりえないのである。
 周到な準備のもとに書き降ろしとして出版された「鏡子の家」が評価されなかったことが、その後の三島に決定的な影響を与えたといわれるが、最初わたくしが二十歳くらいで読んだときは面白いとおもったこのニヒリズム研究とでもいった小説はその後読み返せばやはり失敗作である。登場人物のすべてが作者に動かされていて、作者の手つきが露骨に見えてしまう。ボクサーの俊吉、画家の夏雄、俳優の治、会社員の清一郎はのちに「豊穣の海」で夏雄が松枝清秋に、俊吉が飯沼勲に、そして清一郎が本多繁邦になっていったのだと思うが、石坂洋二郎的な戦後民主主義的明るさへのアンチたることをめざしたのであろう本書は、その後の氏を規定していったのだろうと思う。(渡部昇一「戦後啓蒙の終わり・三島由紀夫」(「腐敗の時代」所収)
 わたくしは三島の一生を考える場合、氏が東大法学部を出たということが決定的に大きかったのではないかと思っている。文学部を出ればよかったのである。東大法学部は官僚養成機関である。将に「実」の世界である。それなのに自分は文学という「虚」の世界にいる、という引け目を氏はずっと感じていたのではないかと思う。そして氏は「絹と明察」をめぐる裁判で有田八郎氏に敗訴した。東大法学部をでているのに裁判に負けたと世間は笑っているのではないか、というような過剰な自己意識があって、今に見ていろ、世間をあっといわせてやるとずっと思っていて、それが氏の最期に繋がったのではないかと思う。氏は最後まで文学は虚であるという思いがあって実の世界への引け目を感じ続けていたのではないだろうか? だから、氏の最期は氏としてはじめての実の行為だったのだと思う。
 11月15日の氏の最期のことはよく覚えている。内科診断学の授業が午後にあって、例によって午前の講義はさぼって、昼ごろ大学にいって何か食べようと食堂にいったら、テレビで「盾の会、自衛隊に乱入、三島由紀夫自殺」というテロップが流れていた。別に大して驚かなくて、ふーんと思った。三島が世間をからかうためにやっていた「盾の会」の会員が、愚かにも三島の冗談を真にうけて自衛隊に乱入した。それを知った三島は責任をおって自殺した、というのがまず第一に頭に浮かんだことだった。しかし、テレビをみているとどうも三島も一緒らしい、ことがわかった。それで、縦の会の会員に「先生! 立ちましょう!」などといわれてつきあったといいのが次に考えたことだった。とにかく「盾の会」などというのを三島が真面目にやっているとは少しも思っていなかったのである。これで「豊穣の海」も未完で終わってしまったな、とも思った(その年の4月から「新潮」に「天人五衰」の連載がはじまったばかりだった。その連載開始の号を本屋で立ち読みして、「あれ? 変だな」と思ったことを思い出した。当初「月蝕」という題が予告されていて、それにくらべて、「天人五衰」という題名は何か弱弱しい感じで、しかも巻頭からいきなり転生した主人公がでてくるのである。予告では本多繁邦が転生者を探し回る話だった。しかもその主人公がとても物語を支えられるとは思えない冴えない人物なのである。しかし、そんなことはすぐに忘れていた)。家に帰って、夕刊を読んで、三島がその日の朝、「天人五衰」の最後の部分のを編集者にわてしていたという記事を読んで、「何か、女々しいじゃないか」と感じた。「文学よりもっと大事なものがある!」ということで死んだはずなのに、作品を完結させることにもこだわった、というのは何か清々しくないように思った。
 松浦寿輝氏の「不可能」は事件で死に損なって生き残った三島が吉田健一のようになっていくとでもいった趣の小説である。
 三島というひとは日本の文学風土の犠牲になったのだと思う。ヨーロッパにでも生まれていれば、高踏派の作家・劇作家の一人として天寿をまっとうできたのではないかと思う。

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

腐敗の時代 (PHP文庫)

腐敗の時代 (PHP文庫)

不可能

不可能

本棚の整理(2) 福田恆存

 福田氏の本はそれほど持っていない。新潮社の評論集7巻、文藝春秋社版の全集8巻、後は単行本(主に戯曲)5冊ほど、文庫本5冊くらいで、併せて25冊ほどである。
 福田氏はわたくしが最初に遭遇した思想家で、大学の教養学部時代に読んで圧倒された。ここで何度も書いていると思うが、読んだきっかけは吉本隆明の「自立の思想的拠点」に、「味方の陣営には碌な奴がいないが、敵側にはなかなかのひとがいる」と書いてあって、江藤淳福田恆存の名前があげてあったことである。江藤氏の本はすでに「夏目漱石」などを読んでいたが、福田氏は紀元節復活運動などという馬鹿なことをしている貧相なおじさんとだけ思っていたので、なぜそういうひとを吉本氏が評価しているのかが不思議だった。それで読んでみたのだが、一読、打ちのめされることになった。
 それで、この昭和41年ごろ刊行の新潮社版の「評論集」は繰り返し読んだものだが、中でも、第1巻「芸術とは何か」、第2巻「人間・この劇的なるもの」は何回も読んだ。また第2巻に収載された西欧の作家を論じた文章、特にチェーホフ・ロレンス・エリオットなどについての論も繰り返し読んだ。「チェーホフの恐れたのは虚無ではない―虚無の観念をすらのみこんでしまふこの平凡な常識(絶望的な虚無思想をいだきながらも、ひとはやはり三度の飯を食ふのであるという事実)なのである。」「ロマンティックなもの、メタフィジックなもの、センティメンタルなものを、なぜチェーホフは憎んだか。理由はかんたんだ。これら三つのものに共通する根本的な性格―それは他人の存在を忘れることであり、他人の注意を自分にひきつけることであり、他人の生活を自己の基準によつて秩序づけることである。チェーホフはそのことにほとんど生理的な嫌悪感をいだいてゐた。」「これでチェーホフが敵としてゐたものの正体が明らかになつた―自己完成、良心、クリスト教道徳、そしてその背後にひそむ選民意識と自我意識。ロレンスがヨーロッパの伝統たるクリスト教精神のうちに認めた矛盾もまたそれであつた。なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するためにーひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾に固執した。」「ところで、問題はソーニャだよ、カチューシャだよ。つまりスラブ人といふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャ、西欧対スラブといふことなんだ。」「われわれにとつて必要なのは不幸に対する羞恥心である。原因を探すやうでは、それが見つかつたら、大手をふつて不幸を自慢にするつもりなんだらう。」「『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだつて?―冗談もいゝ加減にしたまへ。あのなかでロレンスが説きたかつた福音はかんたんなことだ。男は女にとつて、女は男にとつて、魅力ある生物になれ―たゞそれだけなんだよ、いゝ教へじやないか。従ひ甲斐のある教へじやないか。愛や誠実とちがつて、これは自分も相手も苦しめずにすむ。・・人間が愛や正義や法律や論理を動員して、自他を縛らうと決心したのは、つまり男が女に、女が男に魅力を失ひかけたといふ事実を自覚しだしたからなんだ。性の魅力の恢復―人間の幸福はそれだけさ、とロレンスはいつてゐるんだよ。・・」などなど。
 福田氏を読む前、大学初年度のころにいかれていたのは吉行淳之介で、吉行氏の小説(特に初期の娼婦もの)では他人を傷つけることの警戒、他人と深くかかわることは即他人を傷つけることになるという構造への過敏な意識が目立つ。さらに、その前の高校時代に読んでいたのは太宰治で、太宰にも人間関係への過敏は明らかである。どうもそういう人間関係への意識過剰、他人を傷つけることへの恐れのようなものが自分にあることを当時は感じていて、それをスラブ対西欧という気宇壮大な大きな構図のなかで説明する福田氏の鮮やかな論法にすっかりといかれてしまったのだろうと思う。そいこうしているうちに、福田氏がいう全体感覚とか宇宙感覚というものが、本当には福田氏自身にも信じるられていないのではないかと感じるようになって(ロレンスは、それを間違いなく感じ取っていたはずである)、福田氏から距離を置くようになったのではないかと思う。たしか氏の「億万長者夫人」を三百人劇場かで見たことがある。しかし、そのあまりの演技の拙さ、ほとんど学芸会のような出来の舞台をみたことが、福田氏から決定的に離れる一つのきっかけになったように思う。
 大学紛争のあおりで入試が中止されたころに発表された庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、まさに福田恆存思想を小説化したものなどと思い込んだりしたのも、今から思うと微笑ましい思い出である。
 晩年の福田氏はT・S・エリオットを神輿にしていたように思うが、イギリス聖公会に帰依したエリオットとカトリック無免許運転を自称していた福田氏ではやはり勝負は自ずから明らかなのだと思う。もっともエリオットの信仰についてはいろいろと議論があるところであろうが。
 おそらく福田氏は文学者としてよりも劇作家あるいは演出家としてより、保守思想家として世に知られたのだと思うが、それはその当時の進歩的文化人というのがあまりにお粗末であったからで、福田氏が主張したことはごく当たり前の常識論に過ぎなかったのだと思う。氏の進歩的文化人をからかう姿勢がうまく表現されたのが「解つてたまるか!」であると思うが、それも進歩的文化人というものが往時の勢いを持たない存在になってしまえば、その役割を終える。進歩的文化人が論壇で力を失っていったことに、はたして福田氏がどの程度の枠割りを果たしたのか? まあ、ある程度のブレーキをかけるくらいの効果はあったのかもしれないが、福田氏がいようといまいと進歩的文化人などというのは文明開化の仇花なのであるから、早晩表舞台から消えていく運命であったわけである。
 福田氏の一番の問題は文学者でありながら文学それ自体を愛する、あるいは楽しむひとではなく、文学を思想表現の手段としてみていた点にあるのではないかと思う。
 福田氏の書いたもので一番後世に残るのは「私の国語教室」ではないかと思う。しかし、そこに書かれていることは議論の余地なく正しいのだとしても、それでも旧字旧かなで書く人間は今後そう遠くない将来に絶滅してしまうのではないかと思うので(短歌の世界などでは生き残るのだろうか?)、やはり福田氏は過渡期の人であったという思いを禁じえない。
 そういうことで、いづれ読み返すかもしれないと思って揃えた文藝春秋社版の全集もまだほとんど目を通していない。

福田恆存全集〈第1巻〉

福田恆存全集〈第1巻〉