本当の事を言おうか

 谷川俊太郎に「鳥羽」連作という詩があって、その最初の「鳥羽 1」に
 本当の事を言おうか/ 詩人のふりはしてるが/ 私は詩人ではない
 という部分がある。第二連の3行である。
 わたしがこの「本当の事を言おうか」を知ったのは、大江健三郎の「万延元年のフットボール」のどこかの章の頭にこれが引用されていたからで、次に、三島由紀夫中村光夫との対談で、この「本当の事を言おうか」が日本の文学を駄目にしてきたというようなことを言っていたのを読んだときである。谷川俊太郎の詩自体は最後に読んだ。
 第1連は「何ひとつ書く事はない/私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい/私の子供たちは健康だ」である。これは谷川氏が、その詩にそう書いているというだけのことであって、本当のことを書いていることは一切保証されていない。だからこそ「本当の事を言おうか」の二連に繋がるのだが、だれも谷川氏の個人的な生活のことなどには関心をもたないかもしれない。

 氏の「誕生」という詩の冒頭。「頭がでかかったところで赤ん坊がきく/「お父さん生命保険いくら賭けてる?」/あわてておれは答える「死亡三千万だけど」/すると赤ん坊が言う/「やっぱり生まれるのやめとこう」/妻がいきみながら叫ぶ/「でも子供部屋はテレビ付きよ!」・・・/
 これは読んで楽しい大人の童話であって、誰も本当のこととは思わないが、それでもいささか身につまされるところもあるのかもしれない。
 さて、今日は、わたくしの誕生日で、谷川さんの初めての詩集「二十憶年の孤独」の同名の詩の一節をなぜか思い出した。

 万有引力とは/ひき合う孤独の力である

 谷川さんは三好達治に見出されて世にでたのだったと思う。
 晩年の三好さんはこんな詩を書いている。
 -さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな/ 諸君の前でまたしてもかうして捕縄はうたれたが/ 幕は下りてもあとはある 毎度のへまだ騒ぐまい/ 喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性-けふ日のはやりでかう申す/ おれにしたつてなんのまだ 料簡もある 覚えもある/ とつくの昔その昔 すてた残りの誇りもある・・(「駱駝の瘤にまたがって」部分)
 なんと見事な七五調のみえだろうか。

 誰も「本当のこと」など聞きたいとは思っていない。
 だから、以下のような詩が書かれる。

 だまして下さい言葉やさしく
 よろこばせて下さいあたたかい声で。
 世慣れぬ私の心いれをも
 受けて下さい、ほめて下さい。
 ああ貴方には誰よりも私が要ると
 感謝のほほえみでだまして下さい。

 その時私は
 思いあがって傲慢になるでしょうか
 いえいえ私は
 やわらかい蔓草のようにそれを捕えて
 それを力に立ちあがりましょう。
 もっともっとやさしくなりましょう
 心ききたる女子になりましょう。
 
 ああ私はあまりにも荒地にそだちました。
 飢えた心にせめて一つほしいものは
 私が貴方によろこばれると
 そう考えるよろこびです。
 
 これは永瀬清子さんの詩「だまして下さい言葉やさしく」の前半部分で、谷川俊太郎選の「祝婚歌」にも収載されている。

 看護師さんの結婚祝いなどに「祝婚歌」を贈呈していたのだが、どうもこの詩はうまく理解されないようであった。「だまして下さい」ってどうして、おかしい、といって看護師さんたち、みなけらけらと笑うのである。そんなことで患者さんの気持ちが解るの?といささか心配にもなるのだが。

 さて、わたくしも76になった。

 われわれにも 若くて どうしようもなく
 おっちょこちょいの時代はあり

 それはつい先日まで続いた感じだが
 ようやく落ち着いた――と思ったらさにあらず

 疲れただけだったんだ
   (辻征夫「ラブホテルの構造」部分)

山の手育ち(3)

 庄司薫の「赤頭巾ちゃん 気をつけて」は、安田講堂落城の後、東大入試の中止が発表されてしばらくして発表された。入試の中止などを背景にした作品であるからリアルタイムに書かれた作品である。この小説を読んで、それまでかすかに残っていた「小説でも書こうかな」という色気は完全になくなった。わたくしが20歳前後のことである。
 わたくしの人生を前後に分けるできごとがあったとすれば、それは公的には東西の対立の終焉、東側の崩壊、マルクス主義の終焉であり、私的には大学闘争(紛争)であったと思う。前者はもちろんマルクス主義そのものの終焉である(それについては終焉したのは偽の社会主義、偽のマルクス主義であって、マルクスの思想が目指した本質はまだ生き続けているという見方ももちろんいまだ存在している)。
 一方、大学闘争(紛争)とマルクス主義がどの程度かかわっているのかについては様々な見解があるだろうが、当事者が「革命的マルクス主義」とか「社会主義青年同盟」とか名乗っていたとしても、基本的には、マルクス主義から受け継いだものは多くはなく、もしも受け継いだものがあったとすれば、それは「前衛」という考え方だけであったのではないかという気がする。革命党をどう作るかにのみ関心が集中して、大衆の組織化にはほとんど考えがいかなかったのではないだろうか? だから極端になると一人一党。
 この「赤頭巾ちゃん・・」はマルクス主義と縁もゆかりもないが、この騒ぎを都会対地方という視点から見たものである。「赤頭巾ちゃん 気をつけて」の主人公の薫くんは都会のひとであり、その作者庄司薫もまた都会のひとである。(三省堂専務の息子さんだそうである。)
 庄司薫というひとは不思議なひとで、これをふくむ「薫ちゃん4部作」を書いた後は、少々の雑文を書く以外には不動産売買や株を生業にしていたらしい。あの時代に不動産売買や株で利益を出すなどというのは至難のことであったらしい。あとは中村紘子の旦那さん業だろうか。
 わたくしは「武士は喰はねど高楊枝」という言葉に惹かれるところがあって、金儲けということを真正面から考えるのを避けてきたところがある。それをしも都会的というのかはわからないが、根無し草意識がどこかにあるのは間違いない。
 少しでも自分を高く買ってくれるところを求めて職場を転々というようなことは思ったこともなくて、35歳で学位がとれ、大学には用がなくなったので、特に深く考えたわけでもなく初期研修でお世話になった病院に就職して、結局そこでそのまま70歳まで務めることになった。
 このとき、一部の人から不思議がられた。大学から出るというのはそこで頑張ってももはや出世の目がないと思った時に選ぶ道なのに、なぜまだまだ先のわからない35歳であわてて外にでるの? ということのようだった。父も勤務医で、医者というのは病院勤めというイメージがあって、研究者になるなど思ったこともなく、医学部に入れればどこでもよかったのだが、父も一介のサラリーマンであり、資産などなく、私立医大の入学金というのはなかなかのもので、確か慶応大学が一番安く、ここなら払えるかなということで受けたが落ちてしまった。わたくしの最大の点がとれる国語が受験科目にないのである。それでも一次試験は通って面接にいったが、「尊敬する人物は?」ときかれて、「森鴎外」などと答えた。つくづくと馬鹿である。こちらとしては、文武両道というか、こちこちの医者ではなく、文学などもたしなむ医者になりたいというくらいのつもりだったのだが、考えてみれば、森鴎外は官の典型のような人物である。面接官も「鴎外ですか?」などと笑っていた。
 なにしろ東大というところは変なところで、ひょっとしておれはノーベル賞をとれるのではないかと思っている人が少なからずいるのである。これも地方から出て来た人に多い現象なのだろうか?

 自分のことを山の手の人間などと言ってはいるが、いたって世間知らずなお坊ちゃんとして生きてきたというだけである。それにくらべれば庄司薫はもっと洗練された都会人である。わたくしもせめてもう少しは洗練された人間としていきてきたかった。
 あまりにものをしらずに無防備に生きてきたので、だれかがどこか見えないところでわたくしをまもってくれてきたのではないかという思いがしないでもない。もちろん、ただ運がよかったというだけのことなのだろうが。
 昼は義務としての仕事をし、夜は鍵のかかる部屋で本を読んだり音楽を聴いたりする、そんなことがずっと許されてきたのが不思議である。
 自分が貰う給料が自分がしている仕事にどのように見合うのかということはまったくわからないまま、路頭に迷うこともなく今日まで生きてきた。
 何だか庄司薫からどんどん離れてくるが、「赤頭巾ちゃん・・」では「いまや・・中島みたいなやつの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかあげるんだ。」ということがいわれる。
 これは薫くんではなく、その友人の小林の言であるが。とにかく都会で生まれ都会で育ってくると、年上の人間に「てめえ!」なんてことはなかなか言えないのである。
 教養が邪魔をするという言葉があるが、小林秀雄ランボーに憧れたのも、ランボーが教養ある野蛮人だったからではないだろうか?
 都会人(わたくしにいわせれば山の手の人)の一番困ったところは自分のルーツがヨーロッパにあるような気がしているところである。
 もちろん林達夫のような「洋学派」を自称する碩学にとっては、ヨーロッパが自分のルーツであるとすることはまったく当然のことであろうが、おそらく氏は漢籍についてもわれわれの何百倍ではきかない素養をもっているはずである。
 おそらく庄司薫がもっとも敬愛していた人物の一人であろう丸山眞男ワーグナーを溺愛していたらしい。
ヨーロッパを考える場合一番困るのはクラシック音楽と哲学である。それがほとんどヨーロッパの僻地ドイツの産であるからである。バッハ・モツアルト・ベートーベン・シューベルトブラームスワーグナー・・・ブルックナーマーラーとなると評価もわかれるであろうが、哲学もカント・ショーペンハウエル・・。
 もしもベートーベンというたった一人の人間がドイツに生まれていなかったら、西洋クラシック音楽は日本の能や狂言のような古典芸能になっていたのではないだろうか?
 小林秀雄の「モツアルト」はベートーベンを否定して、ロマン主義的なものをモツアルトに代表させようという無茶な試みであると思う。
 庄司薫中村紘子の旦那さんであるから、西洋クラシック音楽についても断然一家言を持っているのであろう。西洋音楽もまた都会と結びつくのだろうか? 西洋音楽はわれわれの生活にすでに根をはっているだろうか?
 退職してひまになり、you tubeでいろいろな番組をみているが、ヨーロッパに各地にある小さな名もない教会でおこなわれているささやかな演奏会などを見ていると、その厚みに圧倒される。多分、楽器の弾けるひとの厚みが日本とは桁違いで、普通の家庭で弦楽四重奏などを楽しむようなことが普通に行われているのであろう。
 われわれ都会に暮らす人間のほとんどはヨーロッパのある意味では精華、ある意味では上澄みと共に生きている。本当はもっとありふれたもの、どうということのないものの方が大事なのかも知れないが・・・。かつては伊丹十三さんなどがそういう物の啓蒙役をになっていた。今の日本ではもうあちらの生活を紹介することなど必要なくなっているだろうが・・。
 わたくしにとってのヨーロッパは個人が尊重される場であり、個人を抛っておいてくれる場である。個人が鍵のかかる部屋にいてもゆるされる場である。そのイメージが庄司薫のイメージとどこかで結びついている。

ネクタイ

 中学・高校と制服だった。一浪した時は、親が買ってくれた洋服を着ていたが、ネクタイを締めた記憶はない、大学に入って親が嬉しがって作った制服を少しの間は着たが、すぐに着なくなり、後はラフな格好で通していた。
 医者になり研修をはじめた時に指導医から白衣を着ている時はネクタイもしていた方がいいよといわれ、以来、70過ぎて現役を外れるまでは、50年以上、通勤時も仕事中もネクタイをする生活だった。
 まあ、それだけでいいのだから女性に較べればずっと楽なのだが、ネクタイというのがなぜ必要なのかわからないままこの年まで来た。だからネクタイを自分で選ぶ場合の基準はただ一つ、目立たないこと。
 そんなところで目立つと人中の孤独が楽しめない。何が人中の孤独だといわれそうだが、都会のいいところは匿名性で、わたくしが田舎になじめないのはそこではお互いが顔見知りで相互に監視しあっているというような偏見を思っているからである。
 最近はネクタイへの強制が緩んできたようで(小池さんがクールビズとか言い出した辺りから?)ネクタイをしない人も増えてきた。ネクタイ屋さんも大変だろうなと思う。しかし、大正時代の男がみんな帽子を冠っていたが今ではそういう人をほぼ見なくなっている、それに比べればましで、公人は公の場ではネクタイをし背広を着ている。バイデンさんもプーチンさんも(人民服をきていないときの)習近平さんも(毛沢東さんの背広姿というのはあっただろうか?)。
 わたくしは数年前からようやく裃を脱いで一私人になることができたわけである。
 「えー今日は〇〇の創立☓☓年にあたり、かくも多くのかたに御参集いただきましたことまことに慶賀にたえません。・・」なんてことを言わされることもなくなった。
 男にとって、自由とはネクタイを締めなくてもいということなのかもしれない。さて、女性は現役を退いても相変わらず化粧をするのだろうか?
 「女は鏡の前でのみ素顔になる」というのは堀口大学だったか?

ロシアあるいはスラブ2

 前稿で、『おそらく西洋思想の核心は啓蒙思想であり、啓蒙思想の根は「何が正しいかをわれわれは知ることは出来ない」というものである。われわれになにが正しいかをしることができないがゆえに、われわれは互いに許し合わなくてはならない。』というようなことを書いた。

 しかし、われわれに何が正しいかをしることができる分野があると、今では考えられるようになってきている。それが科学の領域であり、中でも自然科学の分野である。(人文科学の分野では、何が正しいか、真であるかを知ることが出来るとするものは多くはないだろうと思う。)自然科学でも真理に達することはできないとする立場もあって、例えばポパーである。ポパーは自然科学で真とされているものも現在までは反論されていない仮説に過ぎないとする。ニュートンからアインシュタインへ。わたくしはポパーの信者だけれども、この説は自然科学の分野よりも人文学の分野でより有効だろうと考えている。ポパーがそこで意識しているのはマルクス主義フロイト精神分析だろうと思う。マルクス主義は科学的を僭称することで多くのひとを惑わせてきたし、人文方面の論を読んでいて面食らうのはフロイトの説をフロイトの発見した真理と思っているかたが少なからずいることである。 

 自然科学はモノをあつかう。一方人文科学はココロをあつかう。しかし、自分達こそココロをあつかうと自称するもう一つの分野があり、それが宗教である。かつて宗教は森羅万象すべてを、モノもココロも説明するものであったが、自然科学の発達により、宗教による自然の説明は急速に説得力を欠くようになってしまった。しかし幸福とは?というような議論は自然科学には手が出せない領域であり、そここそ宗教の領域の出番であるとする宗教者はいまだに多いかもしれない。

 さらにやっかいなのは、宗教はかつては民族のものでもあったが、それが次第に個人のものへと収斂していったことである。おそらく西欧においては、いまでは宗教は個人の内面を担当するものとされている筈である。
しかし、ロシアはどうなのだろう? そこではまだ宗教が国家の動向を左右するほどの力を残しているのだろうか? あるいは宗教というより《スラブ》とでもいうほかない何かがいまでもロシアの根っこを動かしているのだろうか?

 わたくしにわからないのが、ロシアは長い間マルクス主義を標榜する党による独裁の下で運営されていたはずで、マルクス主義によれば、宗教は阿片なのであるから、ロシア正教が厚遇されたなどということがあるとは思えない。
 レーニンは宗教を弾圧したようだが、スターリンは今次世界大戦を乗り切るために正教を利用したらしい。ということはマルクス主義を党是としたソヴィエトにおいてもロシア正教は多くの国民の間では依然として信仰の対象であり続けていたのであろう。それがスラブとでもいうほかないものとどう結びついているのだろう。

 福田恆存がこんなことを書いている。
 チェーホフは自己の内部に、本来的にかれ自身の属するものと、そうでないものを発見した。さらにスラブの魂とヨーロッパからの借物とを識別した。そして生まれながらかれ自身に属さぬもの、西欧に帰すべきもの、それをひっくるめておのれの敵とみなしたのである。(福田恆存 「チェーホフ福田恆存評論集 2 1966年 新潮社 歴史的仮名遣いを新仮名にあらためた。)
 ここでは、スラブは魂であり、当然ヨーロッパは魂以外の何かである。

 福田はまたいう。
 いうまでもなく、トルストイドストエフスキーとの偉大はその原罪意識にささえられている。チェーホフにはそれがない。――かれは生まれながらにして無我の善人であり、生まれながらにして教養人であり、生まれながらにして野性を欠いていた。ということは歴史と伝統をもたなかったということである。階級のそとにあったということにほかならぬーなぜなら歴史と階級とは悪と罪との堆積であり、その凝固点であり収斂点であるからだ。(同上)

 スラブは歴史と伝統を超越した何かなのだろうか?

 さらに福田はいう。
 原罪の悪を仮説としなければ偉大と栄誉とを獲得しえないヒューマニズムとはなにものであるか。稚児のごとき無我の純粋な人間が天才や偉人や善人や賢人よりも尊ばれぬ世界、・・それが存続するかぎり、芸術も科学もよくなりはしない。

 やはり、スラブという問題も、個々人にとってのスラブと、民族あるいは国家にとってのスラブに分裂するのだろうか?

 民族あるいは国家にとっての宗教のおぞましさを端的に示すものとして「ヨハネ黙示録」がある。わたくしは 聖書もろくに読んだことのない人間で、当然「ヨハネ黙示録」も読んでいない。
日本でクリスチャンを自称するひとだって「右の頬を打たれたら・・」というようなところは読んでいても、「黙示録」はどうなのだろう? これは信仰を持たず、快楽にふける人たちが神の裁きをうける話で、不信心者は神の業火に焼かれる。

 黙示録についてのわたくしの知識はもっぱらD・H・ロレンスの黙示録論(福田恆存訳「現代人は愛しうるか -アポカリプス論―」 筑摩叢書 47 1965年)と、福田による「ロレンス論」(福田恆存評論集 2 1966年)による。そしてこれを読む限り、9・11の事件はまさに「黙示録」の再現を目指したものであることがよく理解される。

 集団にとっての宗教はとにかくおそろしい結果を生むことがある。

 ウクライナの戦争が始まった時、ロシアからマクドナルドなどが撤退し、それを惜しんで、ロシアの人々がそこに多く参集している映像が流れた。それを見て西側の人々は、そして日本人も一種の優越感を感じたのではないだろうか? われわれは物質においてロシアを凌駕したとでもいったような。
 実際、多くのロシアの人が世俗化したのであろう。しかし、それを苦々しい目でみていたひともいるはずである。お前らはスラブの魂を西側に売ったのかとでもいったような・・・。プーチン大統領もそういう目で見ていた者のひとりなのだろうか?

 ブルマらの「反西洋思想」で最初に取り上げられているのは、1942年に日本でおこなわれた座談会「近代の超克」である。この座談会に出席した知識人たちは、西洋が気に食わない点では一致していたが、何が気に食わないのかよくわかっていなかったのだ、とブルマらはいう。そうであっても、とにかく西洋の物質文明がいけないのだという点では一致した。「日本の血」対「西洋の知」。日本は明治開国以来、ひたすら西洋文明を追いかけて来た。それによって日露戦争に勝利した(実際には、勝利でなく、辛うじて引き分けに持ち込めたということだったのかもしれないが・・)
 トルストイ日露戦争を「日本の勝利は、ロシアのアジア的魂が、西洋の物質主義に屈した結果」だと評しているのだそうである。アジア的魂とはスラブのこと? 
 「反西洋思想」では、この「近代の超克」座談会で取り上げられた問題が、そのまま一部の勢力による西洋嫌悪に連続していることがいわれている。「大和心」対「漢心」? とすれば、スラブとは「大和心」のことであり、西洋とは「漢心」のことなのだろうか?
 われわれは(少なくともわたくしは)、多民族国家であるはずのロシアをなんとなく白人の国であるように思っている。そしてロシア正教キリスト教の一つの派である以上、広い意味でのキリスト教をその根幹とするヨーロッパ(西欧)の流れに属するもののように思っている。ではロシア正教とは西側の教会+スラブ?
宗教は阿片であるとするマルクス主義の下でロシア正教がそれでも生き残ってきたのは、ロシアの一番根っこにあるものがスラブだからなのだろうか?

 おそらく、今回、ロシアがはじめた戦争は80年近く前に日本がはじめた戦争の繰り返しという側面をどこかで持っていると思う。

 しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 スラブとは日本語に翻訳すれば大和心(ロシア心?)

 そんなことを考えていたら、小林秀雄の「本居宣長」を思い出した。「本居宣長」は宣長の遺書と墓の話からはじまり、それが延々と続く変な本で、おそらくここで小林は大和心というものと苦闘していたのである。小林秀雄が昭和33年から38年まで「新潮」に連載し、未完のまま放棄したベルグソン論の「感想」は小林が上梓を厳禁する旨を述べていたにもかかわらず、新潮社が様々な理由をつけて平成十七年刊行したので、現在ではわれわれはそれを読むことができる。
 そこでは小林がハイゼンベルクやボーアの量子論にまで苦心惨憺取り組んでいるさまも書かれていて何だか痛々しい。これが未完としておわらざるをえなかった理由がよくわかるわけだけれど、東洋に対するものとしての西洋を追求していくとこうなってしまうのだろうか? なんだか「らっきょうの皮むき」という言葉を思い出す。そんな無理をしなくてもいいのに。

「 和める心には一挙にわかる」というのは中原中也だっただろうか?

 中野重治の「豪傑」では、豪傑は「恥しい心が生じると腹を切り」「生きのびたものはみな白髪に」なるのだが、これもまた大和心なのだろうか?
 わたくしはとても豪傑にはなれないけれど、せめて「武士は食はねど高楊枝」くらいのこころがけはもっていきたいと思っている。この諺?が昔から好きなのである。
 スラブからどんどん離れてくるみたいだけれども、まったく無関係ではないような気が自分ではしているので、もう少し続ける。

ロシアあるいはスラブ

 2年前から、大腸がんステージ4で化学療法を継続していたが、その効果が頭打ちになったため、1月11日から本日まで、別の化学療法の副作用チェックのため入院していた。
 前回入院時は急な入院で本をもちこまなかったので、スマホキンドルで読むあまり読書には適さない状態だったが、今回は予定の入院だったので、たった三日の予定だったが、たまたま目についたI.ブルマ&A・マルガリ―トの「反西洋思想」(新潮新書 2006)を持ち込んでみた。
 この本は以前にもとりあげたことがあるが、今回はロシア正教(スラブ)ということを考えるうえで何かの参考になればというようなことを考えて読んでみた。
 日本人ほどロシア文学を愛するものはいないのだそうである。トルストイドストエフスキーチェーホフ・・。そこには確かにスラブと呼ぶしかない何かがあるように感じられる。そしてそれはヨーロッパと対抗するものである。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」はヨーロッパといいながら、論じられるのはほとんどフランスとイギリスである。ドイツはほとんど言及されない。(ゲーテの詩がわずかにとりあげられていた?) 吉田健一にとってのヨーロッパにはドイツは含まれないのである。というか浪漫主義はドイツが生んだもので、その浪漫主義を氏は嫌悪する。
 そしてI.ブルマ&A・マルガリ―トによれば、ドイツ生まれの浪漫主義はロシアに輸出された。
 キリスト教においては、西欧は神学論争に走り、ロシアは儀式の様式に固執した。西欧は「頭」であり、ロシアは「心」であり、「魂」である。
 このブルマらの本は9・11の後に書かれており、「反西洋思想」として意識されているのは主としてイスラムの思想である。西欧は堕落している! そして今ロシアがその思想をひきついでいるのかも知れない。
 おそらく西洋思想の核心は啓蒙思想である。啓蒙思想の根は「何が正しいかをわれわれは知ることは出来ない」というものである。だからわれわれは互いに許し合わなくてはならない。
 しかし、何が正しいかのかを自分は知っていると考えるものもまたある。とすれば正しいものは邪悪なものを滅ぼさねばならない。そしてまさにそのことを鮮明に描いているのが聖書の「黙示録」なのである。
 話がどんどん拡散してくるので、稿をあらためる。

山の手育ち(2)

 吉行淳之介に「戦中少数派の発言」という文がある。昭和十六年十二月八日の太平洋開戦の日の中学五年生の吉行氏の姿を描いた文である。氏は中学は麻布のはずだからわたくしの先輩であるが、当時の麻布はあちこちの学校に落ちた生徒を救済する学校であったようである。
 その日の休憩時間にラウドスピーカーから真珠湾の戦果が流れると、生徒たちは歓声をあげて教室を飛び出していった。教室のなかに残ったのはただ一人吉行氏だけ、氏はスピーカーの前で歓声をあげる生徒たちを教室から一人暗然と眺めていた、という。
 わたくしには1968年の大学の騒動に参加した人の多くが、この十二月八日、スピーカーの周りに集まった生徒たちとどこか似ているような気がする。
 わたくしは大学の最初の教養学部時代、多分、江藤淳の『成熟と喪失』などの影響かと思うがいわゆる第三の新人たちを読んでいて、特に吉行淳之介にいかれた。吉行氏の言葉を用いれば自分と同じ「生理」をもったひとだと感じた。氏の他人との距離のとりかたに共感したのだと思う。自分は他人を理解しているが、その他人が自分の中に入り込んでくるのは許せないとでもいうような。大分後に橋本治が「三島由紀夫とは何ものだったのか」で三島を「塔の中の王子様」と呼んでいるのを見て、同じことを言っているのだな、と思った。
 こういうのを都会的な感性というのか難しいと思うが、とにかく付和雷同を嫌い、自分という個をまもりたいと思う。前稿ではそれを「山の手」的な感じ方といってみたが、同じ都会でも下町ではお祭りのようなものがあり、そこで神輿をかついだりする。
 山の手でも祭りのようなもので何とか地元という意識をそこに住む人間に持たせようとしているようであるが、そこに住むインテリたちが嬉々として祭りに参加しているようには見えない。何か地元で商売を営んでいる人達の集いであって、そこから都心の会社に通っていて地元には寝に帰るだけというひとはそういうことにはあまり関心を持たないようである。
 荻窪のすぐ近くの高円寺では、毎年「高円寺阿波踊り」というのをやっていて、年々盛大になっていくようであるが、まだ歴史にはなっていないようで、これが地元の祭りとして定着するにはそれなりの時間がまだかかりそうである。
 自分がその町の住人になるためには、地元にいきつけの呑み屋のようなものをつくるのが一番手っ取り早いのかもしれないが、「センセイの鞄」(川上弘美)のセンセイのように(あるいはツキコさんのように)「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」というわけにはなかなかいかない。
 うっかり地元の呑み屋さんなどにいくとご近所さんがいるかもしれず、そうなると人中の孤独も楽しめない。なにが人中の孤独だ、偉そうにといわれそうだが、確かにその通りで、結局、自分の住んでいる町は単なる寝にかえる場所であるのが一番気楽なのである。そうであれば、「(センセイの)鞄の中には、からっぽの、なにもない空間が、広がっている」ということになるのもいたしかたないことになる。「センセイの鞄」は都会に住む孤独な人間同士の束の間の接触の物語である。
 吉行淳之介が山の手育ちかどうかは知らないが、氏もまた父が作家の二代目であることは間違いなくて、都会的な感性の持ち主であることも間違いない。
 前稿でわたくしが述べた「山の手育ち」というのは、都会的ということであり、わたくしの偏見では「下町」は都会ではないのである。
 ということで、わたくしの山の手理解は偏見に満ちたものであることは間違いないが、わたくしにとっての都会的人間の典型はたとえば庄司薫なのである。その「赤頭巾ちゃん 気をつけて」には「田舎から東京に出てきて、いろいろなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかをあげるんだ。・・・」とある。
 でつぎは庄司薫

山の手育ち(1)

 わたくしは杉並区荻窪で生まれ、結婚して数年音羽に住んだ後、また荻窪の家に戻り、数年前に杉並区成田に転居したので、ほとんどを山の手で暮らしてきたことになる。
 では自分が住んできたところに愛着があるかというと、そもそも無味無臭の場所で生きてきたという感じで、例えば荻窪はおそらくわたくしが住むようになる少し前までは田圃であっただろう場所だから歴史というものを持っていない。(当時、井の頭線沿線は一面の田圃で、小学生にとっては、ざりがに採りの場であった)
 同じ東京でも下町は江戸からの歴史をそれなりに引きづっているわけだから、そこに住むひとは、住んでいる土地への愛着があるだろうが、山の手に住む人間にはどうもそのようなものは希薄であるか、あるいはほとんどない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、今、もう何度目になるか、鹿島茂さんの「吉本隆明1968」を読み返しているからである。
 ここで鹿島さんが言っているのは、1968年のあの騒動をおこしたのは、親が店屋などの商売をしている人間(鹿島氏の親は酒屋さん)のその子供が、その一族として初めて大学に入ったというような人間がおこしたものであるということである。
 わたくしの父は医者であるが、その親は群馬県四万温泉にある味噌問屋の跡継ぎだったのだが、東京に出てきて仕事もせずに財産を蕩尽してしまったというなかなか立派なひとで、父もそれなりに苦労はしたようである。
 しかし父は医者だから当然大学は出ているわけで、わたくしは鹿島氏のいう「一族のなかでのはじめての大学出」というわけではない。父は戦地に「奥の細道」を持っていたという大正文化の尻尾を引きづっていたひとで、まあ「蒼白きインテリ」である。(母の父は厚生官僚であったので、これまたインテリ)
 わたくしは麻布中高に通ったが、その生徒たちの親もほとんどすべてが大学出であったのではないだろうか?と思う。
 そういう家庭の子弟からは、1968年の闘争に参加する人間は出ないということに鹿島理論からはなるが、もちろんそういうことはない。しかし、徒党を組むというようなことは山の手の二代目は、とても苦手としているのではないだろうかと思う。
自分の人生を振り返ると山の手生まれの二代目ということがかなり大きな影響を与えたと思うのでしばらくその周辺のことを書いていきたい。