勢古浩爾「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語」(1)

 谷沢永一氏の「人間通」(1995 新潮社)を何となくぱらぱらと読んでいたら、この勢古氏の本(2011年 ちくま文庫)を思い出した。「人間通」は、組織の要となり世の礎となりうるための必要条件は「他人の心がわかることである」とする谷沢氏が、その「他人のこころ」について縷々論じている本である。谷沢氏は、人間が最終的に欲するのは「世に理解される」ことであるとし、それを実現するのに必要な「他人の気持ちを的確に理解できる人」を「人間通」と謂う、としている。

 ここで人間とされているのは、ほぼ組織ではたらく男である。女性はあまり視野に入ってきていないように思う。そして男たるもの「野心」を持たねばならぬとする。「人間はいつも自分と他人とを比較している」という。

 さて、比較すると生じてくる感情が嫉妬である。嫉妬の感情から他人を「引き降ろそう」とする。社内の人事には嫉妬の感情が常につきまとう。
 会社の人事もさることながら、特に嫉妬の対象になるのが性をめぐる鬱屈で、谷沢氏は「男という男は出来ることなら此の世の女すべてを知りたいと願っている」ともいっている。(本当かね?)
 確かに最近のマスコミでは誰それには愛人がいる、といった報道に満ちている。別に犯罪行為をしたわけではないのになぜそれほどいわれなければならないのかと思うが、谷沢氏は「これからは政治家も経営者も芸能人も、およそ世に顕われでる程の人は、性的奔放に対する集中砲火を避け得ないであろう」としている。
 最近のマスコミによる相互監視社会化は、なにもフーコーパノプティコンなどをもちださなくても、人々の「あいつばっかりいい思いをしやがって」という嫉妬心から簡単に実現してしまうわけである。いやな世の中になったものである。

 谷沢氏の本を読んで、人間ってそんなに情けない存在なのかなと思って、それで思い出したのが勢古氏の「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語」である。
 吉本さんという人はよくわからない人で、「言語にとって美とはなにか」などというのは完全に欧文脈で日本語ではないと思うし、「自立の思想的拠点」などというのも変てこな日本語である。だが、鹿島茂さんとか糸井重里さんとか信者がたくさんいるし、勢古さんもまたその一人である。
 この本は吉本氏のいろいろな著作から勢古氏が選んだ吉本の言葉とそれへの勢古氏の感想から構成されている。その最初が、

 結婚をして子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。

 なにかこれは谷沢氏の人間観の真逆にあるもののように感じる。

 ということで、これからしばらく瀬古氏が選んだ吉本隆明の言葉のいくつかをみていきたいと思う。

読んで来た本 9 (番外) 音楽関係

 わたくしは昭和22年の生まれで、小学校入学時にも(今から思えば)まだ敗戦後であり、音楽などというものに接触する機会もほとんどなかった。せいぜいラジオから流れてくる音楽で、今でも覚えているのが、「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 が鳴ります キンコンカン メイメイ仔山羊も鳴いてます。」(「鐘の鳴る丘」主題歌)、あるいは「少年探偵団」の主題歌、「勇気りんりん、瑠璃の色・・・」 調べてみると「鐘の鳴る丘」などわたくしが3歳くらいのラジオドラマだからおぼえているはずもないのだが、再放送でもされたのだろうか? とにかく難しい言葉がつかわれていたのに驚く。

 さて妹が小学校に入るころには少しは日本が豊かになって来たのか、我が家にもピアノが入って来た。それで初めて音楽に接することになった。
 中学に入ると親にねだって、当時ステレオといわれていた安いオーディオ装置を買ってもらった。まだLPの時代である。それでベートーベンの「熱情」を聴いて1、3楽章はともかく2楽章なら弾けるのではないかと思い楽譜を買ってきたら、♭が5つもある変二長調でびっくり、とかいろいろと馬鹿なことをやっていた。

 そのうちある時、高一位だろうか、滝廉太郎が西洋風の歌曲を日本で初めて作曲をしていた1900年ごろ、西洋ではすでに後期ロマン派の時代になっていたことに気づき、明治維新以降の日本の西洋受容の歪みということが音楽に典型的にあらわれているのではないか、というようなことを時々考えるようになった。

 西洋音楽の本流はドイツで、フランスなど完全に傍流である。イタリアが問題であるが深刻な音楽こそ正統と思っているドイツ派の人からみるとオペラなど娯楽音楽に過ぎないらしい。まあどれだけ高い音がでるかを競うなどというのはほとんど曲芸の世界ではある。

 ロシアやフィンランドのようなヨーロッパ辺境の地の音楽はロマン派から始まっていて古典派を欠いている(と思う)。つまりその当時のドイツの音楽と同時並行で進行していた。それが可能であるのは、音楽の根にあるものが同じであったからである。

 しかし日本では、なにしろ音楽の基礎となる音階や和声まで全く異なっていたのだから、まず音楽の根っこから教育によって国民を変えるという途方もないことを試み、兎に角も成功させたわけである。これにはおそらく戦争するための必要ということも少なからずあったはずである。あちらから日本の軍を指導に来た人は進軍ラッパを必要としただろうから。

 とにかくそういう日本の西洋音楽受容の特殊性ということから、片山杜秀氏のような日本近代思想史の専門家にして、かつ日本の近現代クラシック作曲の批評家というような人があらわれてくることになる。その二つは深く一体になっていて、決して別々のものではない。だから片山氏の「鬼子の歌 偏愛音楽的日本近現代史」のような本が書かれることになる。

 日本の作曲家としては世界的にも最も名が知られているのは武満徹であろうが、「遮られない休息」から「弦楽のためのレクイエム」、「ノベンバー・ステップス」から「小さな空」や「波の盆」へと、氏は前衛から正統へと回帰していった。

 バッハからモツアルトまでの音楽をドイツ以外の国の音楽は欠いていて、どこでもベートーベン以降の音楽の模倣と追及から音楽が始まっている(と思う)。

 日本ではどうかというと、ベートーベンの古典的部分とロマン派的部分の双方を見本とする派が両立していたように思う。そこにさらに民族音楽派が加わり、三つ巴になっていた。ロシアやフィンランドの音楽がロマン派そのものであるのに比べると、やはりヨーロッパとの距離ということを感じる。

 その点、ヨーロッパの歴史と地理からの距離が微妙な北米の音楽、バーバーとかピストンとかの音楽はヨーロッパで完成した音楽理論の素直な実践という感じで微笑ましいい、

 ベートーベンがロマン主義を作った。ベートーベンがいなかったなら西洋古典音楽は今頃は古典芸能化していただろうと思う。
 しかし、ロマン主義というものは西洋の病根でもあったわけで、マーラーの「千人の交響曲」などというのはそれが咲かせた最後のあだ花なのだろうと思う。

 おそらく明治以降の日本人作曲家にもベートーベンはいつも背後から見張っている存在であったのだろうと思う。

 では、そんな頭でっかちに聴いてきて、こちらはどんな作曲家を好むのかといえば、今のところブラームスである。内に籠ったロマン主義? モツアルトはあまりに隙がなさすぎる気がするし、ベートーベンの後期は弦楽四重奏とかピアノソナタは誰もがいいというのだろうが、この曲と同じ時期に「第九」とか「荘厳ミサ」も書いているというのがよくわからない。
 そしてロマン主義?などといいながら、シベリウスなども好きなのだから、わたくしの好みも首尾一貫はしていない。

 それにしても、諸井三郎の交響曲3番のような作品が終戦間際に書かれていたというのはいろいろ考えさせられる。この曲については「鬼子の歌」の第6章で詳しく分析されている。
 日本のものでは尾高久忠の「フルート協奏曲」や芥川也寸志の「弦楽のための三楽章」なども好きというのだから、正統派・民族派おかまいなしという無節操である。

 明治からの日本の西洋受容を考える場合、日本の作曲家が西洋文明とどう対峙してきたかというのは大変面白い問題であると思うが、いかんせんその作品が舞台にかからない。あるいは初演のみで再演されることがない。
 今のクラシックの演奏会には若いかたが少ない。高齢者ばかりである。とすると、あまり名の通っていない日本人作曲家の作品など取り上げたらお客さんが来ないのかも知れない。だから相変わらず、古典派からロマン派の作品をとりあげることになるのかもしれない。ブラームスが好きなどといっていながら、こんなことを書いているのはおかしいと思うが、現代のアクチュアルな作品と一緒に演奏されてこそ、ブラームスも生きるのではないだろうか?

 昔々、まだ20代のころ、ブーレーズの「主のない槌」が演奏されるのに立ち会ったことがある。まるで宗教儀式であると思った。知り合いの作曲家にいわせると、ブーレーズの作品は譜面がとても美しいのだそうである。

 若いひとを演奏会場に引き戻すには、そこを社交場にする、見合いの場にするというような方向があるように思うのだが、さてそれにはどんな演目がいいのだろう? やはりオペラ? ラ・ボエームあたり?

 わたくしの若いころはLPの時代で、それがCDの時代になり、やがて配信の時代になって、you tubeなどできわめてマイナーな曲まできくことが出来る時代になった。諸井三郎の交響曲3番だって聴ける。やはりいい時代になったのであろう。

千葉雅也「現代思想入門」(終) 「ポスト・ポスト構造主義」

 この文章を書く関係で本棚をごそごそやっていたら、T・イーグルトンの「ポストモダニズムの幻想」が出て来た。1998年刊行だが、わたくしが持っているのは2003年刊の7刷。ポストモダン批判というのは結構売れるらしい。
 さらに驚いたのは雑誌「現代思想」の昨年6月号「いまなぜポストモダンか」というのが出てきたことで、巻頭の座談会には千葉さんも参加されている。なぜ買ったのかはまったく記憶にない。

 それでパラパラとみていたら、横田裕美子さんというかたの「メデューサはどこに消えたのか」という文があり、ある大学の過去のシラバスに次のような記載があったことが紹介されている。
 「少なくとも哲学の分野においては、現在真っ当な研究者であればもう「ポストモダン」という語を使うことはない。・・・曖昧でいかがわしい標語で何かを語った気になれる空気は、もはや過去のものになりつつある・・・」

 「ポストモダン思想」は「レトリックによって読者を煙に巻く記号の戯れ」だと正統派哲学からは見なされているらしい。
 「ポストモダン思想」は従来の正統派哲学とは全くことなるもので、根拠や起源は問題とされず、書き方や文体という意味でのスタイルが問題にされる、とされていたと。
 というのは、「「〇〇」について書く」ための基準となる私(主体)を、ポストモダン派は事前には定立しえないとしていいたからである。何かすることのなかから「私」は事後的に立ち現れてくるのであって、その前には「私」は存在しない、と。

 横田さんの論は「メデューサを見るためには、正面から彼女を見るだけで十分である。そうしても、彼女は死をもたらしたりしない。彼女は美しく、笑っている。」というわたくしの知らない誰かの文(詩?)の引用で結ばれる。
この文を末尾におくことで横田氏は何事かを読者に伝えられると考えていると思うが、私見では、このメデューサ云々の原典を知っているごく一部の限られた人を除けば「なにか気取っているな」という印象だけだろうと思う。この最後の引用は業界内部への目配せであって、一般読者に開かれたものではない。普通の読者には、「何か馬鹿にされた」というか「置いておかれた」「自分は相手にされていない」といった感じが残るだけではないだろうか?

 しかし、それは措いて、ここで考えたいのは「大学紀要」の方である。紀要の著者は「私」の存在を信じているのである。もちろん哲学史のなかで自分を疑う思想は繰り返し現れているが、西洋近代は「我思うゆえに我あり」なのであって、その紀要でいわれていることは「その伝統の擁護の方向で自分の研究室は仕事をしている」ということで、そうであるなら西洋近代(モダン)を根源的に疑うというポストモダン思想(千葉氏のいう現代哲学)は西洋のこれまでの哲学の歴史の全否定になるから、哲学を追求していると自称している教室としては受け入れ難いというということになる。「そんな話は哲学じゃないよ。フランス文学科あたりでやったら?」
 もしもそれが日本の哲学業界の現状であるのなら、日本で「現代思想」を研究しているひとがおかれている立場はなんとも微妙なものとなるはずである。千葉さんのようなかたが研究者として生きていくのは、とんでもなく厳しい ことになる。だとすると、この「現代思想入門」も実はわたくしのような市井の人間にではなく、現在の哲学の本流の人に、せめてフランス現代思想についてこのくらいは最低理解してから批判してほしい! お前らの不勉強は見るに堪えない!という怒りのようなものが書いているうちにこみ上げてきて、一般読者はどこかにおいておかれて、専門家なら理解できる難解な専門用語のまま最後まで進んでいくことになったのではないかと思う。

 ポストモダン思想というのは西洋近代の物の見方・考え方を根底から疑うということで、なぜならその西欧近代の思考法がわれわれを不幸にし、世界を不幸にしているという認識がその前提になっているからである。つまり「啓蒙思想」の全否定である。

 ポパーは「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」(未来社 1995)の「寛容と知的責任」で、ヴォルテールの「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯していると洞察から必然法に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」を紹介している。
 また同書の「西側は何を信じているか」で、「ヘーゲル的大言壮語」ということを言っている。そうではなく「客観的真理への接近」を目指して検討するという方向が西欧の目指すものなのだ、と。「真性の啓蒙家は論理学と数学という部門以外にはいかなる証明も存在しないことを知っている。そして西側が誇るべきは、一つの正しい理念ではなく「多数の理念」を持っていることなのだ、と。しかし、千葉氏は「客観的」などいう言葉には眩暈がするのではないだろうか。「百年古いよ」と。

 イーグルトンは「宗教とはなにか」でドーキンスの「神は妄想である」(早川書房 、2007)などを小気味よくからかっていて、読んで爽快だった。人文学の教養のレベルが全然違うのだから、イーグルトンの一方勝ちは当然である。
 しかしドーキンスとは違って「ポストモダン」陣営の方々はみな大変な物知りで、大読書家の論客たちばかりである。そのためか、「ポストモダニズムの幻想」は穏当というか、正統派からの批判の最大公約数を集めた感じで、イーグルトン独自の見解というのはあまり見られないように感じた。

 さて、第七章では「ポスト・ポスト構造主義」が論じられる。
 しかし読んでいくと、「一者とは実在であり、ただそれ自体に内在的である。」といった難しい話が相変わらず続いていく。
 「今ここに生きるしかないのです。今ここで、何をするかです。・・・」 これを読んで、わたくしが若い頃に流行った「実存主義」というのを思い出した。これもフランスの思想だった。だが実存主義というのはもう少し言葉がわかりやすかった。「投企」などというよくわからない言葉もあったと記憶するが。
 実存主義は何だかわからなかったが格好よかった。「見る前に飛べ!」 現代思想もこのような一般人にもなんとか通じる用語を作り出さないと、じり貧になっていくような気がする。(本当は実存主義も「勢い」勝負の説であって、内容があったかどうかは疑わしいと今になっては思うけれど。)

 サルトルカミュも小説や劇を書いた。読まれたのはその哲学書ではなく「嘔吐」や「異邦人」の方であり、それが直感的にでも実存主義の理解に資するとされたのであれば、千葉さんも小説が大ヒットして、千葉さんの名前が日本中に広がり、その小説は「現代思想」から見たわれわれの姿を描いているといわれるようになれば、それが日本の現代思想を一般の人に近づける一番の近道なのかもしれない。

 本書では付録として「現代思想の読み方」が論じられており、その最後は「このように、綴り間違いに見える言葉を新概念として提示することの自己正当化、つまりは言い訳を繊細に書くことで、みんなが信じているものへのひじょうに嫌味ったらしい挑発が行われるのです。僕は、これこそが知性だと思いますね。」となっている。

 しかし、これは無限後退へと通じる道なのではないかと思う。このような「新概念」はいくらでも提出可能であり、あらゆるものを否定することが可能である。しかしそうだとするとわれわれは動くこことが出来なくなってくる。

 昔々読んだ清水幾太郎の「倫理学ノート」(岩波書店 1972年)に妙に忘れられない一節がある。ヴィットゲンシュタインの「哲学探究」を論じている部分で、そこにヴィットゲンシュタインの「私たちは氷の上へ入り込んでしまった。ここには、摩擦がなく、ある意味では条件は理想的なのであるが、それだけに進むことが出来ない。私たちは進みたいと思う。それには摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻ろう。」という部分(論考107)が引用されている。(p213)
 清水氏は「学問に縁のない人」は、ザラザラした大地にいるほかはないとしている。では学者は? 大部分は「すべすべした大地」にいるのだと思う。おそらく千葉氏はそれに反発して「ザラザラした大地」をめざしているのだと思うが、にもかかわらず、わたくしには氏はまだ「すべすべした大地」にいて「ザラザラした大地」にはいないと感じる。清水氏はヴィットゲンシュタインの転向は、かれが小学生を教えた経験がもたらしたとしている。もしも、小学生に何かを教えようとすれば千葉氏も変わるだろうか?

 この「倫理学ノート」は功利主義を論じたものだから、千葉氏には全く合わない本であると思うが、その最後は「飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向って「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう。」という恐るべき「反動的」な文で結ばれている。

 そして時代はひょっとすると「飢餓の恐怖」がふたたび現実のものとなるかも知れない時代、ヨーロッパ啓蒙という伝統が根源的に否定されるかもかもしれない時代に直面してきているのかもしれない。
 千葉氏の本は本年2月に刊行されているが、ことしの2月と3月の間でわれわれの世界の見方にはある変化がおき ていると感じる。いくらドーキンスさんが怒り狂っても、もはや西側では「宗教」は根源的な力は持たなくなっていたはずである。しかし、うすめられた西側と思われていたロシアは実はそうではなかった、という問題にわれわれは直面することになった。ソヴィエトはマルクスという西側の人の思想に立脚していたのではなかったか? 中華人民共和国もまた。

 ドイツというのは西側でも特別な国で、ヒットラーのような人がでてくると元気になる国かと思うが、いずれにしてもこの本が書かれた時と今とで、ヨーロッパの内部の人も、日本のような極東に住む人間も、世界にたいする見方が微妙に変わってきたように思える。言葉の争いではなく、武器での勝負である、西側の優位は思想ではなく、武器生産能力にあるというとになると、千葉さんのような言葉の人、「現代思想」の方々の立ち位置は今よりも格段に難しくなるのではないかと思う。

 わたくしがこの本を買ったのはメモでは今年の4月28日となっている。これから世界がどうなるかはわたしのようなものには予想もつかない。しかし、わたくしから見ると、いろいろな見方を許容するところが西欧の良いところであるはずであるのに、西側が狭い単一の思考に収斂しようとしているように見えることには危機感を抱いている。

 この本を読むことで、久しぶりに過去に読んだいろいろな本を思い出すことが出来た。あまり自分は変わっていない、進歩していないことを改めて確認できた。その機会を与えられたことについて、千葉氏に大いに感謝したいと思う。

 また、千葉氏の意図ではないと思うが、現在日本で思想を業として生きることの大変さということも教えられた。世界がメカニックになり、「思想」?そんなもの過去の遺物でしょ! 今、だれがそんなもの必要としているの? とい方向が世界の大勢となり、争いは思想ではなく、ミサイルの飛行距離の長短などで競われるようになると、思想には表層的な問題についてではなく、100年単位での問題に腰をすえて取り組んでいくことが要請されることになるのではないかと思う。(千葉さんの本書執筆の意図とはまったく異なる方向であると思うが・・)

 「世界は開かれている」(ポパー)、「政界 一寸先は闇」(川島正次郎)であるとすると、われわれはその場その場でアドホックな対応をしていくしかないことになる。千葉さんの論を読んでいると、広くはヨーロッパ、狭くはフランスというお父さんは容易に倒れることのない強固なものであると安心して、それにいろいろな難癖をつけることでアイデンティティを確保している子供というようなイメージを感じる。
 だが、お父さんはそんなに強いのだろうか? それが意外ともろく簡単に崩れてしまうということはないだろうか? そうなると「現代思想」も一緒に崩れてしまうことはないのだろうか?

 書棚の後ろからはステイナーの「トルストイドストエフスキーか」(白水社 1968)も出て来た。(わたくしが持っているのは1971年刊の第二刷でこの頃の本はまだ箱入りである。)
 スタイナーの本は「ハイデガー」が滅茶苦茶面白かった。「現存在」などというのはあいかわずさっぱりわからなかったが、でもハイデガーという人について朧気にでもイメージがつかめたように思えた。「大地に立つ農夫」
本人はギリシャ正統の哲学をおこなっていたと自負していたと思うが「蒼白い人」ではない。ナチスへの傾斜もそこから来るのであろうが、さて正統派の哲学はトルストイの系列で、異端派はドストエフスキーの系列というようなことになるのだろうか? ドストさんはそんな軟なひとでないが、異端派というのは、正統派が存在してくれないと困るというのが大きな問題であると思う。世界のすべての哲学が「現代思想」一色になってしまったら「現在思想」の立ち位置は失われてしまう。

千葉雅也 「現代思想入門」(8) 現代思想の作り方

  第6章は「現代思想の作り方」と題されている。
 本書がわかりにくい原因の一つが「現代思想」と「フランス現代思想」という二つの用語が使われていることにあると思う。
 この章の冒頭ではこれまで「フランス現代思想」について説明がされてきたとされている。この本は日本人のために日本語でかかれた本である。それがなぜフランス現代思想の展開を理解しなければいけないのか?
 千葉氏は「自分には他の人とは違う独自性があると主張しなければ学者だってやっていけない」などといっているが、わたくしもその他の読者も学者ではなく素人なのだから、「現代思想の作り方」などということに参加しなくてはいけない義務は一切ない。その必要性を読者に理解させることが本書執筆の大きな目的だと思うが、そうであればスランス現代思想の用語をわれわれが日常用いている言葉に近似的にでも置き換えていくことが求められるはずである。勿論、厳密性は失われる。しかし、こういう入門書では目指すべきは、(フランス)現代思想が決して学者さんのお遊びではなく、われわれが日常遭遇する様々な問題とかかわっているということを読者に納得させることのはずである。

 しかし千葉氏は本書の後半にある本章でも、フランス現代思想をつくるときの原則は、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、であるなどといっている。読者が見えていないように思う。

 哲学というのは考えることで、われわれは何か納得できないもの、受け入れ難いものがあると感じた時に、考えることを始めるわけだが、何もそういうものがないときに「フランス現代思想」を学ぶなどというのは、ただの「お勉強」であって、生産的なものがそこから出てくるとは思えない。
もちろん、千葉氏はわれわれが二十一世紀初頭においておかれている状況を提示し、それに対応するために「前代思想」が有効であることを縷々のべている。
 しかし、そこでいきなり、①他者性の原則」、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、などと言われても読者はとまどうばかりである。
 他者性云々は「(フランス)現代思想」業界内部でのみ通用するジャーゴンで、わたくしからみると「頭でっかち」としか思えない。「議論のための議論」であり、地に足がついていないと感じる。

 「排除されていた他者性Ⅹが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する」などというのは、とにかくまずこの表現を「普通の日本語」にすることに努めてからでないと、読者にとどくわけはないと思う。

 「実は世界は、根本的にはエクリチュール的な差異がいたるところにあるのにそれを否認している。ということを世界の超越論的な前提として発見する。そしてそれはいたるところにあるのだ、というかたちで極端化する。」というような文は、千葉氏としては「有意味」な言明として記していと思うのだが、読者には「意味不明な戯言」と受け取られるのではないかとわたくしは思う。そういう表現は「他者への配慮」をあまりに欠いているように思う。
王子様は城壁の中に閉じこもったままなのである。(橋本治三島由紀夫」とはなにものだったのか」新潮社 2002年)

 「こうなると哲学はほとんど、詩が行おうとするような、常識的な言葉遣いでは表現できないものを表現するという領域に踏み込んでいます。」ということなのだが、いくら谷川俊太郎さんが頑張っても、現代詩の読者はなきに等しいわけなのだから、千葉氏の言はほとんど理解されることを拒絶しているようにみえてくる。

 とにかくこの本は後にいくほど読解が困難になっていくように思う。読者に届くことをあきらめたように、業界内部でしか理解されないような言葉遣いがどんどん増えてくる。

 「ここが、哲学が数学とは違う仕方で到達する独特の抽象性の世界です。」というのはおかしいと思う。数学では用語は厳密に定義されており、それが理解できる人の間では正しいか否かの議論が可能である。抽象的ではあっても厳密である。
 しかし哲学の世界の用語はそのような厳密さを持ちえない。数学の用語がわれわれの頭のなかにあるのか、われわれのそとにあるのかは議論のあるところだろうが、自然数→負の数→有理数無理数虚数といった数の拡張は数学者の中では自明であって、素人がそんなことは認めない、虚数なんてものは俺には必要ないなどといっても無駄である。
 おそらくラカンは学問の厳密性を求めたひとで、精神分析の曖昧性に苛立って、精神疾患を無理して数学の概念と対応させることで、自分の学の厳密性を保とうとした人だったのだろうと思う。

 昔、P・Ⅽ・W・デイヴィスというひとの「ブラックホールと宇宙の崩壊」という本を読んだことがある(岩波現代選書 1983)。その第二章は「無限大とはなにか」と題されている。その前章からメビウスの輪などのトポロジーの説明が始まっているが、そこでとにかくカントールの「無限大」の濃度とかいう話が、なんとなくではあっても理解できるように感じた。
 そのような理解、少なくとも何となくでもわかったという感じが本書ではほとんど得られなかった、そこが問題なのだと思う。
 本書で言われていることは、千葉氏の「頭」から来ていて、「体」から来ていないようにわたくしには感じられる。

 次章は「ポスト・ポスト構造主義」と題されている。構造主義はどこまでも続くのである。いずれ「ポスト・ポスト・ポスト構造主義」「ポスト・ポスト・ポスト・ポスト構造主義」・・・? 
 しかもそれを担保するのが100年以上前に提唱されたフロイト精神分析理論なのである。どこかおかしいのではないだろうか?

千葉雅也 現代思想入門(7) 精神分析

 第5章はそのはじめに「現代思想の前提としての精神分析」という項がおかれている。そして現代思想がわかりにくい原因の一つはラカン精神分析現代思想の前提になっているにもかかわらず、それがとてもむずかしいからだ、ということがいわれる。精神分析批判という方向もふくめて精神分析の胸をかりるかたちで現代思想は成立しているという側面がある、と。

 千葉氏は自分の立場を、1)精神分析の意義をある程度認めながら、2)その外部を目指すような欲望理論を持つ、という姿勢としている。
 その外部を目指すというのが微妙な点で、精神分析を超えるということなのか? 精神分析では説明しきれない、あるいはまだそれが手をつけていない分野に進出するということなのか?曖昧である。
 「精神分析は人間精神についての一つ仮説であり、実践的には有用であることが当事者から報告されている」と氏はいう。
 わたくしは、精神分析を臨床の場で行った場合の有効・無効・有害の比率は、1;5:4位ではないかと思っている。せめて有効率が3割くらいはないと臨床の場で精神分析をおこなうことは倫理的には許容されないのではないだろうか?
 そもそも現在の日本で精神分析治療はどの位行われているのだろう? (健康保険では認められてはいない治療法だから統計を取ること自体が難しいと思うけれど、そもそもその費用は相当に(法外に?)高いのだそうで、この治療費の交渉?から精神分析治療は始まるという話も聞いたことがある。)
 いずれにしても、精神分析は明らかに現在の医療においては異端的なあるいは辺境的な治療法である。
 精神分析は医療への応用という点では見るべき成果をだせなかったが、それにもかかわらず、われわれの人間理解について重要な示唆を与え続けている、とでも考えたほうがいいのではないだろうか?

 内科臨床医からみると現在日本の精神疾患の動向として感じるのは、1)統合失調症患者をみることがほとんどなくなった。2)ヒステリー患者をここの20年から30年まず見ることがなくなった。3)古典的なメランコリー親和型鬱をみることが非常にすくなくなり、わたしは鬱ですといって外来にくるひとの大半は単にやる気がしないというだけの病気でもなんでもない人が多い、というようなことである。
 以前からヒステリーは精神分析により改善することが多いとされていたと思う。そうすると実地臨床では、精神分析の出番はほとんどなくなり、「本当の自分を知りたい」などという趣味的なお金持ちをその主な対象にしているのだろうか?

 わずか50年ほどで精神科疾患患者の様態が大きく変わるということは、精神疾患が深く社会の変化と関係していることの証左であると思うけれど、同時に精神疾患をどうみるかという視点の混乱(ひとによっては進歩というのかもしれないが)がとても大きいのだと思う。

 精神疾患は「心」の病気か?「体」の病気か?というのが今でも精神科での大きな論点である。「精神」というのも所詮は脳という臓器の働きのことであって、その証拠に脳内伝達物質を増やしたり減らしたりする効能のある薬の投与で多くの精神疾患は改善するではないかというのが「体派」の主張で、現在の日本の精神医療での多数派であると思う。

 わたくしは「体」派の精神医学というのが大嫌いで、脳内伝達物質なんてもので精神(こころ)が解ってたまるものか?という古い人間である。それは自分が文学青年のなれの果てあるからであると思うし、そうであるなら、文学への志向を持つ千葉さんとも近いところも大いにあると思う。

 わたくしが読む日本の精神科医の本はまず中井久夫さんのものである(その「西欧精神医学背景史」や「分裂病と人類」などは、その見識の広さに茫然としてしまう。その氏にしてギリシャの詩人やヴァレリーの詩を翻訳刊行するというのは氏が文学青年の尻尾を引きづっているわけで、ヴァレリーのいう「弱さ」の証左であるように思えて、こちらとしてはうれしくなってしまう。

 あとは、岸田秀さんであり、あるいは計見一雄氏である。
 岸田氏は「ものぐさ精神分析」1977年」で「詩人のなりそこね」などという年少時に書いた詩?などまで公表しているので、やはり文学青年を根っこに持つ心理学者だと思う。
 わたくしの記憶に一番残っているのは、伊丹十三氏が岸田氏らとともに発刊した「モノンクル」という雑誌で1981年創刊の毎月刊行の精神分析を前面にだした雑誌だったが、6号で挫折している。まあモノンクルなどというフランス語をタイトルにするあたりが高級志向をあらわにしていて、読者層を読み損ねたということかもしれないが、とにかくこういう一般誌が刊行されるくらいには精神分析的な見方が日本のその時点での状況と何らかの接点を持っていたということなのだろうと思う。
 それで、伊丹氏の「女たちよ!」「再び 女たちよ!」「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」なども読んで、精神分析的なものの見方というのを教えられたように思う。ここで氏が男というものは毎日他の男との闘い、馬鹿にされてたまるか!といった構えで日々を送っているとしていたのだが(三島由紀夫もどこかで同じようなことを言っていた)、どうも自分にはそういう傾向はないなと思ったことを記憶している。そういう場面に遭遇したら「お先にどうぞ」でずっと生きて来たように思う。これは女性的傾向なのだそうである。(以前読んだ男脳・女脳といった本には自己採点チェックというのがあって、これでもかなり重度の?女性脳と採点された)。
 「他人の足をひっぱる」ということがさっぱり理解できなかったらしい吉田健一を教祖にしているわたくしとしては、この男性脳・女性脳という視点は「精神分析」を考える場合にかなり重要なファクターになるのではないかと思っている。

 計見一雄氏は精神科救急という修羅場にずっと携わってきた人であるが、氏の「現代精神医学批判」(平凡社2012)は「からだに触ってください」と副題されている。
 「まえがき」に「心はどこにあるか」として「頭と胸のどちらにあるか?と氏の若いときに看護師の卵に聞いたところ、1/3が胸としたという話が出てくる。プラトンの魂の三分説では、気概の座は胸にあるとされていると思うが、この1/3の人は「こころ」とは気概のことだと思っているのかもしれない。さらにプラトンは欲望の座を腹としたと思うが、「臍から下には人格がない」などということではないにしても、現代の哲学は理性より気概や欲望のほうを重視する方向へと進んでいるのかも知れないと感じる。

 計見氏の本では臨床の場での患者さんとのやりとりが紹介されているが、そこでは、患者さんの症状である体重の減少、食欲の低下、不眠、かりに寝られても朝起きてもおききられない、などはすべて患者さんの「身体」の不調であるということを指摘している。
 あなたは「からだ」の病気である。これらは「日夜リズムの乱れ」の症状であって、脳にある「歩調取り装置」の故障によるので、やはりからだの異常です、と。
 氏は「精神の実在などは信じていない」という。「鬱は心の風邪」という薬屋さんのキャッチ・コピーの効果で抗うつ薬の投与量は飛躍的に増えた。しかし大事なことは「肉体の回復です」という。
 ここで紹介されている患者さんは、この本は10年ほど前に書かれたものなので、今ではなぜかあまり目にすることのなくなった「メランコリー親和型」のうつと思われるが、患者さんが目の前にみえた場合、とりあえず原因がなにかではなく、現在の症状に対応することが大事であることは内科でも精神科でも代わりはないと思う。

 わたししが計見氏を信頼できると思うのは、氏がわたくしの敬愛する吉田健一氏の「時間」からの引用を多くしていることで、「現代精神医学批判」では「我々がどれだけ生きてゐるかはどれだけ現在の状態にあるかで決る。・・・我々が生きてゐると感じる時には現在の状態にある」の部分、「脳と人間」では「時間」の冒頭部分と50ページあたりのかなりの部分。氏は「この本は人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられている書物である。私にとっては一種畏敬の感情の対象である。読者子は全編を読まれんことを願う。」と言っている。
そして吉田氏がいう時間をわすれるが時間は正確にたっていくというような感覚が決定的に失われるのが精神分裂病なのである、としている。

 1990年刊行の「吉田健一頌」という本があって、そこに丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの論が収載されている。そこに中井久夫さんの「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という論文が紹介されていている。丹生谷氏の論のタイトルは中井氏の論のタイトルそのものであるのだが、ここでの吉田健一観は、その以前にあった篠田一士さんあたりの「健全な生活者」の文学という見方、あるいは丸谷才一さんなどの従来の日本の貧相な私小説とはことなる「大人の文学者」による成熟した文学という方向とはことなる、もっと切実でわれわれの生きている現実に対応する文学者という見方で、わたくしには教えられることが多かった。じつは中井さんの名前も恥ずかしながらこの本で初めて知った。

 計見氏は、「精神病理学の議論にはフッサール現象学に始まり弟子のハイデガーが嗣いで以降の超難解哲学をマスターしないと、議論できないような風潮が我が国の精神科医の間に強い。」としている。
わたくしが千葉氏の論を読んでいて強く感じるのもそのことで、ヨーロッパの伝統にはプラトンイデアの哲学からキリスト教の「罪」の意識が常に根底にあるわけで、それを一切欠く、「あなたは罪人だなどといわれても「きょとんのきょん」である日本人にはその必要性はほとんどないはずであると思うのだが・・・。

 さて、千葉氏は「20世紀になって脱秩序的なもののクリエイティティビティが言われるようになった」という。しかしクリエイティブであるということに価値をおくという考えこそが20世紀の病であり、そういう方向から身を引くというのが21世紀の方向ではないかとわたくしは思っているのだが、現代思想は今までとは違うクリエイティブの創造を目指すようなのである。 

 精神分析は「人間は過剰な動物」だとする。過剰な犬とか過剰な鳥などというのは意味をなさないから、現代思想では人間と人間以外の動物を峻別するのであろう。
 それは言語の有無によっておきる差異である、と千葉氏はいう。犬や猫や鳥は言語を持たないであろう。ということは、人間は特殊ということで心臓病や肝臓病は犬にでも猫にでもあるだろうから、精神疾患がもしも人間にだけに起きるとすれば、すべての疾患は人間にだけでなくすべての動物におきるという医学の根本的な前提に反することになり、精神科医療が医療の行為のなかで非常に特殊なものとなってしまう。それは現在の医療の動向に根源的に反することになるから、現在の精神科医療においては「体派」が優勢になっているのだと思うが、それで「心派」は追い込まれて「難解な哲学」に逃げ込んでいるのではないかと思う。
 批判に対して、「もうちょっとラカンをきちっと読んでから出直してこい!」などといっていると、専門外の人間を排除した閉鎖した蛸壺内での議論になっていってしまうのではないだろうか?

 千葉氏は人間と人間以外の動物は言語を持つかどうかによって区別されるとする立場をとるという。「人間は認知エネルギーを余している」 精神分析の用語での「欲動」の過剰。「欲動」の可塑性。これらはすべて「本能からの逸脱」であると。

 といった議論のあとでラカンへと話が進む。想像界象徴界現実界と言ったラカン独自の用語。それがカントの「純粋理性批判」に類似するとか、「鏡像段階」がどうとか、「創造力のリゾーム的転回と言語的分節性」がどうとか・・・ここら辺はまったく理解できなかった。ラカンという人は平易に語ろうとする意志をまったくもたない人であることだけはよくわかった。

 ところでソーカルらの「知の欺瞞」で最初にとあげられている個人がラカンである。
ラカンのある講演が紹介されている。
 「このメビウスの帯の図形は主体と客体=患者を構成する結び目の原点における一種の本質的刻印の基礎と考えることができます。この対応は、みなさんがはじめに思うよりもはるかによく成り立つのです。というのも、みなさんはこのような刻印を受容するある種の面を探すことができるからです。かの全体性の昔からの象徴である球が不適当であることは、おわかりになるかもしれません。トーラス、クラインの壺、クロスカットはこのような切断を受け入れることができます。そしてこの多様性は、精神病の構造について多くのことを説明するので、大変重要なのです。もしも主体=患者をこの基本的な切断で象徴できれば、同じようにしてトーラス上の切断は神経症の主体=患者に対応し、クロスカットの上のそれは別の種類の精神病に対応することが示されるのです。」
 わたくしのような数学に無知なものからみても、これはまったくの戯言である。ここに書いてあることからは、統合失調症躁うつ病神経症といった精神疾患が完全に独立したものとして考えられているとおもわれるが、その根拠はまったく示されていない。
こんな戯言を神妙な顔をして聞いて一生懸命に理解しようとしているお弟子さんは気の毒としかいいようがない。これではある種の宗教団体での教義伝達の儀式と少しも変わらないように思う。

 ということで、わたくしにはラカンというのは唯の「はったりの人」としか思えない。だれの話か忘れたが、ラカンの講演をきいたとき、ラカンは弟子にささえられ気息奄々といった風情で会場に入ってきたのだが、講演が終わって会場をでてしばらくするとすたすたとラカンが階段を下りてきたのだそうである。その人はラカンを「食えない人」といっていた。

 このあとルジャンドルというきいたことのない人が紹介されるのだが、省略。

 168ページあたりに「否定神学的」という言葉が出てくる。日本の現代思想ではと書いてあるが、否定神学というのは長いキリスト教の教義論の中で出てきたものだと思うので、それとの関係をしめさないと、日本人が作った概念と誤解されるおそれがあるのではと感じた。どうも「現代思想」にも「日本の現代思想」という分派があるらしい。なんだかややこしい。

 多分、ラカンには言いたいことがたくさんあるのだろうが、それを説明する言葉を見つけられなくて、仕方なく数学の語彙を借りたのであろう。もしもわれわれがラカンを理解しようとするならば、新しい語彙を発見することをめざすべきで、難解な数学を理解する方向を目指すなどというのは、迷路に迷い込むばかりであろう。
わたくしは哲学においては明晰を目指すべきであると思っている。いくらカントの哲学が難解であってもそれは明晰を目指していないということではないはずである。
 そしてラカンにおいて、その難解を何とか排除すると後にはほとんど何も残っていないということも十分ありえるのでないかと感じる。
 

千葉雅哉「現代思想入門」(6) 「現代思想の源流―ニーチェ、フロイト、マルクス」

 千葉氏はこの3人を現代思想の源流であるとする。この人選をみるとマルクス?だがそれは後でみるとして、ニーチェフロイトを較べたら断然、ニーチェ>>フロイトであるように思うのだが、千葉氏(あるいは千葉氏をふくむ現代思想の陣営の人)は異様にフロイトに甘いように感じる。フロイトの説が否定されてしまうと現代思想の骨組みが壊れてしまうという危機感のようなものさえ感じる。

 フロイトの説そのそのものは反論不能である。そしてフロイトが自分のたてた仮説を実践した「精神分析」という方法はほぼ有効性を否定されているというのが現状であると思う。

 文学の方面の方々は、いまだにフロイトの説を「真」としているるいは「有効である」としている人が多いと感じる(そして進化論は完全に無視されていると感じることも多い)。
 つまり人間は他の生物と連続した一生物なのか、それとも他の生物とは完全に隔絶した特別な生き物なのか、ということである。
 どうも思想・哲学系の方々は、「人間は他の生物とは完全に隔絶した特別な生き物」と思っている方が多いように感じる。
 わたくしは医者なので、人間も一生物であるとしなければ仕事ができない。もちろん、仕事をしていれば、フロイトのいう「転移」のようなことを経験することだってないではない。
 だからフロイトの主張したことの一部に貴重な洞察がふくまれてことを認めるにやぶさかではない。しかしわたくしはポパー信者なので、あらゆることをすべて説明できるとする理論(ポパーが挙げるのはマルクス主義フロイトの理論)を信奉する人は論破することは不可能であると思う。あらゆる抗弁がそこでは可能なのである。
 ニーチェの論は本人にはもはや批判には反論ができない。だから、それを現在のわれわれの具体的な行動にそれを適応するといっても具体的にどうしたらいいか雲をつかむような話であるが、千葉氏は、ニーチェは「混乱つまり非理性を寿ぐ方向を初めて打ち出したはじめての哲学者」だったという。千葉氏はディオニュソス的なものはアポロン的な秩序とのパワーバランスが重要だというのだが ニーチェはそんな柔なことをいったのだろうか?
 そして、フロイトの論もマルクスの論も(ポパー的見地から見ると)反証不可能な主張である。それだからこそ、マルクスの主張が現実の政治の論としてほぼ否定された現在でも、マルクスの理論に生産性を見出すひとが出てきても何ら不思議ではない。
 なにしろソ連崩壊の後でもそれは「真のマルクス主義ではなかった」「真のマルクスの思想を体現した社会はまだこの地球上のどこにも実現していない」と主張することは依然可能なのだから、不敗の論であることになる。

 ここに、あるフーコー研究者の文が紹介されている」。
 「表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩退いた場所に措定された事物が、まさにそのことによって、ありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されない客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々は、そうした基礎への到達を目指す「終わりのない任務」へと呼び戻されるのである。」
 もちろん前後の文を読めばもう少し理解できる部分もでてくるのかもしれない。しかしこの文章には学者仲間内でしか通じないジャーゴンと思わる言葉にみちあふれていて、普通のひとを対象として書いたものとは思えない。
 「いままで当たり前と思っていた日常生活の場から一旦離れて、自分という自分にもよく理解できないものとむきあうようになると、同時に他の様々なものも何だかよく理解できないものとしてわれわれの前に現れてくるようになる。事物も以前とは異なる新しい様相をまとっている。そういう体験こそがわれわれが当というような然と思っていた世界の像を一旦すてて、まったく新しいものとして世界を探究していく上での出発点となる。」というようなことなのだろうか?
 これでも何だかよくわからないが、ある深刻な体験をすると世界が今までとは違ったものになるというありふれた話のように思える。しかし、そういう体験なしに、世界への見方を変えろ!というのが現代思想ということになるのだと思うが、「余計なお世話だ! ほっておいてくれ!」というひとも多いのではないかと思う。

 さて、マルクス
 ここでの千葉氏の論じる「マルクス」が、マルクス自身が書き、主張し、そのことを通じて実現しようとした社会とどのようにかかわるのかが残念ながらほとんど理解できなかった。

 以上この章では、虎の威を借りて自分を大きくみせるという方向が現代思想のどこかにあるのではという疑念を強く感じた。

 さて、次章は「現代の精神分析」の方へ。

千葉雅也 「現代思想入門」(5) フーコー

 わたくしがフーコーというと想起するのは「パノプティコン」である。われわれはソフトな監視システムによって管理されているというようなことだったのかなと思っている。学校・軍隊・病院・家族などの近代の様々な制度はみなそうで、支配者が不可視化されていくのが特徴である、と。
 こういうのを読むと、イリイチの「脱病院化社会」などという本があったことを思い出す。1998年に翻訳された本である。どうも重要な本は20世紀にでている気がする。21世紀の思想は小粒になっている。
 キリスト教社会では自分の内心をどうするかという問題が昔からあったと千葉氏はいうのだが、そんなことを言えば、仏教では輪廻転生を離れて自分の人生を取り戻すということが根本にあると思うし(橋本治さんは「宗教なんかこわくない」(1995年)で「ゴーダマ・ブッダの開いた悟りの根本は、「我思う、ゆえに我あり」なのである」なんてとんでもないことをいっている)、「生政治」(これは生はバイオらしいので「なまで剥き出しの政治」ではなく「生物学的政治」のことらしい)なんて言葉も出てくる。即物的な政治(内面にかかわらない)のことを指すらしい。今のコロナ対策のワクチン接種もその例として例示されている。
 それは生物としてだけの方向から人間をみている、心とか意識のことは無視されるのだ、と。
 喫煙の問題も例としてとりあげられている。喫煙に反対するひとも「喫煙して健康を害するのは個人の勝手、自己責任」という議論には配慮はしている。だからこそ間接喫煙が問題とされる。自分が死ぬのは勝手だが、周りに迷惑をかけるな!と。

 生政治などという言葉がでてくると、そこでは数値化できるものがすべてにならざるを得ないので、最近の風潮は「ひたすら長生き」である。
 ここで書かれている「人間の再動物化」というのもよく理解できなかった。再動物化すると社会がクリーンになるなどということがあるだろうか?
 フーコーは「個人」というのは「歴史の産物」としたのだという。103ページに「キリスト教的な反省性」という言葉が出てくるが、世界にはキリスト教圏から外れた国はたくさんあるはずで、例えば日本はキリスト教圏なのだろうか? わたくしはそうは思わないが、広い意味で西欧の思想が普及した国をキリスト教圏といっているのだろうか?
 どうも千葉氏が考える世界とはフランスのことなのではないかという疑念が消えない。
フーコーの「自己への配慮」という言葉が紹介され、これは本来はギリシャ・ローマの人々の生き方だったが、キリスト教が「罪の意識」を持ち込むとそこから「個人」という不幸がうまれてきた、そうフーコーはしたという。
 そんなことを言えば、D・H・ロレンスだって、反プロテスタントだった。反カトリックであったかどうかは微妙だが。

 フーコーはヨーロッパの人だからキリスト教の問題は切実な問題だろうが、日本人が、「あなたは罪人である!」などといわれてもキョトンのキョンである。とすれば日本人は「古代的」なのだろうか?
 
 どうもこの本を読んでいると「あなたは自覚してだいないだろうが、あなたは本当は不幸な人なのだ!」という色調が色濃く感じられ、「余計なお世話だ」と返したくなるところがある。

 千葉氏は読者に、あなたのことはあなたよりわたしのほうがよくわかっているといいたげなところがあって、ちょっとそれはどうなの?と感じる。
 千葉氏はヨーロッパ20世紀の思想に深く傾倒しているので、スランスあるいは西欧の社会がすべての思考の前提になっていて、現実の日本の社会の独自性というのが無視されるところが散見されるように思う。

 ここまでで前半が終わり。次に、ニーチェフロイトマルクスが「現代思想の源流」として論じられるので、稿をあらためる。