ご報告
前回9月25日の外来受診の後、あまり調子がよくなく、当初は治療の副作用の遷延かと思っていたがなかなか回復せず、原疾患の悪化の要因もあるかと考えていたが、昨日の外来受診の結果でも、それが裏図けられたので、明後日から短期間入院の予定となった。それで、記事の更新がしばらく滞るかも知れない。
一応、ご報告まで。
小説が苦手
小説を読むのが苦手である。もちろんまったく読まないわけではないが、わざわざ架空の話を作って、そこで自分の持つ考えをのべるというのが何かまだるっこしい気がして仕方がない。
それには、わたくしが私淑してきた吉田健一氏がアンチ小説派であったことが大きいと思う。
その吉田氏も「酒宴」のような短編から、「瓦礫の中」「絵空事」「ほんとうのような話」のような長編まで小説と分類されるものまで、いくつかの作品をのこしている。
「酒宴」は書き出しの方で、「本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。」とか、末尾で、「神戸の町では消防自動車や救急車がサイレンを鳴らして行き来し、自衛隊の戦車に立てて松明をかざした一隊が、麓の方からこっちに登って来るのが見えた。」とか書いている。
長編のタイトルも「絵空事」や「本当のような話」であり。「瓦礫の中」は「こういう題を選んだのは寡て日本に占領時代というものがあってその頃の話を書く積りで、その頃は殊に太平洋沿岸で人間が普通に住んでいる所を見廻すと先ず眼に触れるものが瓦礫だったからである。そしてそういう時代のことを書くことにしたのは今では日本にそんな時代あったことを知っているものが少くて自然何かと説明が必要になり、それをやればやる程話が長くなって経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合だからである。他意ない。」という書き出しである。
ようするに作り話であることを明白に宣言している。
作り話でしか表現できない真実があるというのは19世紀から20世紀前半までに通用した神話であるが、前世紀の後半からはその神通力は最早失われたのではないだろうか?
もちろんかって小説にさしていた後光は今でも完全には消失したわけではないが、以前のようには「個」というものが信じられる時代ではなくなって来ているので、現在において小説を書くというのは一工夫も二工夫も工夫することが必要になって来ているのではないかと思っている(例:「悪童日記」?)。
ブログを始めたころ
わたくしがブログを始めたのは野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィースを作る」(「光文社新書 2001年11月」)読んでであるから今からもう20年以上も前のことである。)
そこで野口氏が言っていたのは「ホームページを作っても誰も読まない。しかし自分は読む。ホームページは自分に必要な資料をネット空間上に置き、何時でも自分が参照できるようにすることである。ネット上に自分のオフィースを作ることである。」
確かに出先で、何かわからないことが出てきて、そういえばこのことは何かあの本出ていたというような場合にそれを参観できれば便利である。
今ではある本の内容を出先で調べることは容易であるが、当時はそれは簡単ではなかったし、それに自分がどういう感想を抱いたかはそこには書いてはいない。
ということで始めた当初は他人から読んでもらうなどまったく期待していなかった。
もう一つ梅田望夫氏の「ウエブ時代をゆく ―いかに働き、いかにまなぶか」(ちくま新書 2007年)がある。梅田氏はネット世界のトラブルでこの世界から身を引かれてしまわれたようであるが、当時はその世界にまだ希望を抱いておられたようで、以下のようなことを書いておられる。
「あるとき私は「これは凄い書評だ」と目を瞠るような文章に出会った。ブログ筆者は内科医を三十年以上続けてきた団塊の世代の方だと知った。・・・教養レベルが高く中間層の厚い日本社会には、そんな潜在知が顕れ始めている。」
わたくしは少数派であることを自認しているわけで、多数派であると思うのであれば、屋上に屋を重ねる必要はない。
今では一日100名程度の方からのアクセスがほぼコンスタントになっているが、どのような方に読まれているのか想像もできない。
検索エンジンの発達によってたまたまヒットするのだろうか?
本を読む あるいは文を読む 昔々看護師さんと読書会をしたときの話
看護師さんというのは難しい立ち位置の仕事で、まず患者さんからは医者の単なる補助役のように思われていることが多い。看護という独自の役割を医療の場で果たしているというような認識が、患者さんの側にはあまりない。(医者の側にも、それがない人は少なからずいる。)
それでたくさんの看護論が書かれることになるのではないかと思う。
医者で医学概論とか医療とは何かといった論を読むひとはあまり多くはないと思うが、看護の分野では多数の看護論が書かれている。
その中で面白いのは私見では(ナイチンゲールのものを除けば)ベナーによるものかと思う。(ベナー「看護論」 医学書院 もし読まれるのであれば新装版を。最初の翻訳はかなりの悪訳で、読みづらい。図書館などには古い版しか置いていないところもあるかもしれないので。)ベナー看護論―初心者から達人へ 2005/9/16 パトリシア・ベナー (著), 井部 俊子 (翻訳)
そんなこともあって、昔、看護師さんたちと「患者を治すのは医者ではない、看護師なのだ!」といったアメリカの看護師さんの書いた勇ましい本の読書会を企画したことがあった。しかし数回で挫折してしまった。多くの看護師さんは本を読めないのである。
どう読めないのか? 文を読まずに一語一語単語として読んでいくみたいなのである。それで、意味がわからない単語があるとそこで止まってしまう。
文章を読む。文意を汲むといった読み方ができない。これは、わたくしなどは想定もしていなかった事態で、とても読書会どころではないことがわかった。読書ではなく読字あるいは読語なのである。
自分に当たり前のことが誰にでもあたり前ではないのだということをそのとき痛感した。
看護師さんのために書かれた本には医者が読んでも面白いものもたくさんあるのだけれど(たとえば中井久夫氏の「看護のための精神医学」)、これも看護師さんよりも医者に読まれているのかもしれない。(看護のための精神医学 第2版 医学書院 2004)
このブログを見ている方で文章を読むのが苦手というような方はまずいないだろうと思うが、世の中にはそういう人も少なからずいるわけである。
そういう人が、いきなり学校で「走れメロス」とか「雨にうたれるカテドラル」などという読まされたときの困惑はいかばかりかと思う。
だから、大岡信 谷川俊太郎などが編集した「にほんご」(福音館書店 1979)というような本も生まれるのだが、これはしかし文学者の作った本である。
その書き出しは「わたし かずこ」である。つぎのページは「ないたり ほえたり さえずったり、こえをだす いきものは、たくさんいるね。けれど ことばを はなすことの できるのは、ひとだけだ。」
わたくしにはどうしてもこれは文学者の書いた文に思えてしまう。
日本は識字率ほぼ100%という世界に冠たる国である。
むかし何かの外国の小説でストーブがあるのに、ある男が凍死してしまうという話があった。文字が読めず、ストーブの操作説明書を理解できなかったのである。日本ではありえない設定であろう。
われわれが何かするときにわすれてはいけないことは、自分には当たり前のことが決して誰にでも当たり前ではないということではないかと思う。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
これは三好達治の有名な「雪」の全部だけれども、これを全く理解できないひとも少なからずいるのではないだろうか? 太郎の屋根? 太郎の家の屋根のこと? なんで雪が太郎や次郎を眠らせるの?
わたくしの知人が英国人に「以心伝心」という言葉を教えたら、とても感心していたそうである。
「俺の目を見ろ、何にもいうな! 黙って俺について来い。悪いようにはしない!」というのは、日本社会の後進性を表すものとして小室直樹氏が「痛快! 憲法学」で痛罵していた言葉である。(痛快!憲法学 小室 直樹 、 佐藤 眞 | 2001/4/26)
しかしわたくしは、日本はいまだに「俺の目を見ろ、何にもいうな!で動いているように思う。
いわゆるジャニーズ問題についての門外漢の見解
わたくしはポピュラーミュージックの分野にはまったくの門外漢であるので、以下にかくことはほとんどが見当違いであろうと思う。
わたくしはジャニー老が発掘したといわれる男性タレント(女性はいない?)は主として若い女性にアッピールすることによって売れたのではないかと思う。つまりジャニー老は若い女性にどういうタレントが売れるかということを見抜くことにおいて天才的な?才能を持っていたのではないかということである。
そしてその見抜く目というのが、たまたまジャニー老人の特殊な性癖である“少年愛”と合致したということなのではないだろうか?
いくらジャニー老に愛されてデビューしても、主たるターゲットである若い女性が「なあに今度デビューした子? 鈍くさい!」などと評されるようではおしまいである。
わたくしの偏見かもしれないが、少女たちはジャニーズ・タレントの歌や踊りが上手いから贔屓にするのではなく、そのタレントのルックス故にファンになるひとも多いのではないかと思う。(もちろん歌や踊りが上手ければ、それに越したことはないのだろうが・・)
この問題が長年に渡り看過されてきたのは、ジャニー老以上に少女の好みを敏感に感じ取れる人材が業界にいなかったということも、案外と大きいのではないだろうか?
ジャニーズ事務所が業界の巨大権力であったということがもちろん大きかったことは間違いないのだろうが、その売れるタレントの選択眼が抜群であったということもまた大きかったのではないだろうか?
わたくしは今度の報道をきいて《衆道》などという言葉をおもいだす時流から完全に外れた人間なのだが、どうも報道が極端から極端にふれるように見えるのが気になる。しかもその人が亡くなった後において。
ジャニーズのタレントのファンのなかには自分が贔屓にする歌手を世に出してくれたジャニー老に多大な感謝を捧げているひともいないではないように思うのだが、そんなことはないのだろうか?
以上、暴論であろうが・・・。
昔 進歩的文化人という人達がいた(4)
稲垣武さんに「「悪魔祓い」の戦後史」という本がある。ここでの悪魔とは進歩的文化人(あるいは進歩思想)のことだから、かなりえげつないタイトル。(文春文庫 1997年8月) 92年に書かれたものに加筆したものらしいが、いわゆる進歩的文化人についての悪口雑言を書き連ねたような本である。
今から25年前だからもう進歩的文化人は敗色濃厚、退却戦に入っていた時期だから、いくらでも悪口が書けるわけである(今わたくしもおなじことをしているわけだが・・)。
しかし、稲垣氏は悪魔というのだが、わたくしからみると進歩的文化人の方々はみな善意の人たちで、だからこそいろいろ困ったことがおきるというのが、わたくしの基本的な見方である。カール・マルクスが善意の人だったことは間違いない。イエス・キリストもまた。
どうも日本のキリスト教徒は新約聖書しか読んでいないのではないかと思うことがある。旧約は古くからの言い伝え程度にしか思っていないのではないだろうか?
しかし「ヨハネ黙示録」の6以降 サタンは敗北し、バビロンは滅亡する。新しい天と地が現われ、キリストが再臨する。
これがまさにマルクスの描いた図式なのではないだろうか?
こういう根本的に世が改まるという思考が進歩的文化人の少なくとも一部の方々にはあって、だから自分はそのあらたまった世を地上にもたらそうとしている善意のひとということになる。
世に性善説と性悪説というのがあって、基本的に進歩的文化人はひとの性を善と信じるひとなのだと思う。人間は基本的に善なる存在であるが、たまたま資本主義という制度によって悪に傾いている。
「地獄への道は善意で舗装されている」という諺がヨーロッパにあるが、善意というのは、しばしば地獄に通じる。
一時期、中核派と核マル派の抗争といった党派間の争いがあり(まだ続いているのだろうか?)、凄惨な内ゲバが続いていた。キリスト教においてもまた教義の解釈をめぐって膨大な血が流された。
進歩的文化人は(自己認識においては)世をよくしようとしているひとなのだから、自分に対立するひとは、世が改まることに対立する度し難い反動ということになる。
今、汚染水云々が騒がれている。進歩の側のひとは、世の中には根本的な対策があると信じているから、対策はすべての原発の廃絶である。原発がなくなれば汚染水の問題もなくなるというのは論理的にはまったくその通りである。
しかし処理したものがどんどんと溜まっているという現実をどうするのかといえば、それは原発を運営している側が考えればいいことであって、自分達の責任ではないことになる。
しかし、世の中にはどうしようもないこともあって、その筆頭が人間が死ぬということである。さすがに進歩の側の人間もそれに対する反対運動を企図するひとはいないようである。