ワクチン3回目

 昨日3回目の新型コロナワクチンの接種を受けた。接種部の軽い痛み以外には特に副反応はない。(1・2回目も同じで、わたくしは、副反応は軽いほうのようである。)接種は3回ともファイザー製のワクチン。
わたくしの場合は、少し特殊なケースで、1・2回目の接種は医療従事者として、昨年4月5月に早めに受けた。昨年10月ですべての仕事から離れたので、医療従事者ではなくなったわけだが、昨年5月から8ヶ月後ということで1月接種の連絡が自治体から来たのだろうと思う。昨年6月に第一回目を受けた配偶者にはまだ自治体からの連絡はない。
 わたくしは最初の2回は住んでいる自治体の外の病院で接種を受けたわけだが,自治体から来た3回目接種の案内には、勤務先で受けた1回目・2回目の摂取の記録、受けたワクチンがどの会社のものかまできちんと記載されていた。このようなシステムを構築するのはとても大変であっただろうと思う。
 多分、一番大変なのはワクチンの需要予想で、ワクチンが足りなければ、いくらシステムをしっかり構築してもうまく運用できない。そしてウイルスがいつどのような変異をおこすか、それがどのような変異であるか?は誰にも予想できないわけであるから、ほとんど予想は博打のようなものになるのではないかと思う。
 誰でも損はしたくないから、大量に備蓄しておいて、結局使わずに廃棄したというようなことは避けたい。それで状況をみてワクチンを追加発注するということになり、感染が拡大すると後手にまわるというようなことになるのであろう。
 ウイルスの専門家というひとがいろいろなところでいろいろなことを言っているが、彼等は一般論の専門家であって、個々のケースについては別に占師と変わるところはない。
 未来のことは誰にも分らないので、一寸先は闇である。養老孟子さんがいう「都市主義」、ああすえばこうなる、あらゆることが(科学の知見で)操作可能であるという信憑が揺らいだわけである。
 昔、地震予知連絡協議会というのがあったが、予知が不可能だと解り、地震予知の看板を外したという話をきいたことがある。本当は地震の予知など不可能であることは最初からわかっていたが、研究がすすめばそれが可能になるような顔をして政府から金を巻き上げていたのだという見方をするひともいるらしい。
 今「新型コロナウイルス感染終焉時期予知検討協議会」などというものを作り、喧々諤々議論を戦わせても、結局、サイコロを投げるのと特に変わらないということになるはずである。
 あらゆることに科学による操作で対応が可能である(ワクシン接種ももちろん科学による対応の一つである)という信憑がゆらぎ、人間がもう少し謙虚になれば、一連の新型コロナウイルスパンデミックへの見方も少しは変わってくるのではないかと思う。

読んできた本(5)福田恆存

 福田氏の本を読むようになったのは、前に書いた通り吉本隆明が薦めていたからであるが、最初に読んだのは当時新潮社から刊行されていた「福田恆存評論集」の1と2におさめられていた「芸術とはばいか」と「人間・この劇的なるもの」で、特に後者に驚いたように記憶している。
 評論集1は昭和41年11月刊行となっており、2も同じ日付となっている。「人間・・・」は昭和30年に発表されたものらしいから、わたくしが八歳のときである。一方、評論集の刊行が昭和41年だから、東大に入学した年の秋である。
 「人間・この劇的なるもの」はサルトルの「嘔吐」からの引用で始まる。そこで主人公の女友達が語る「特権的状態」という言葉をめぐって論が進む。
 そこで語られているのは、「私たちは私たちの生活のあるじたりえない」ということなのだが、一方「私たちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」ということもいわれる。自由というのは人間を幸福にするものではなく、日常性も同様である。「演戯によつて、ひとは日常性を拒絶する」のであり、「自由の原理は私たちに快楽をもたらすかもしれぬが、けつして幸福をもたらさぬ」とされる。
 それまで読んできた小説の世界とはあまりに異なる言説であり、ただただ驚いた。要するに「個人」のつまらない日常の話ばかり読んできたところに、いきなり「全体」をつきつけられてびっくりしたのであろうと思う。
しかし、昭和41年本評論集が刊行されたころの福田氏は第六巻に収められた「平和論に対する疑問」(昭和30年刊)のほうで時の人であったのではないかと思う。
 この「平和論に対する疑問」で洞爺丸転覆事件について論じている部分が未だに和売れられない。(まだ本州と北海道がつながっておらず、青函連絡船という船で青森から函館をつないでいた時に、台風で洞爺丸という連絡船が沈没した事件であるが。これに材をとったのが水上勉氏の「飢餓海峡」である)
 氏はいう。「もつとも笑止だつたのは、この間の洞爺丸転覆事故のときです。私たちは次の日の朝刊ではじめて事件を知りました。だが、驚いたのは、その最初の事件の報道と同時に、著名な「文化人」数名の転覆事故についての意見が掲載されてゐたことです。・・・かれらは「堂々たる卓見」を吐いてゐました。あるひとのごときは、海の事故は、船長の指揮さへよろしきを得、救命具をつけてゐさえすれば、・・かならず助かるものだなどという珍無類の意見を述べてゐる。・・・だが、「運がなかたった」といったひとはひとりもありませでした。・・・それにしても、かれらは、「自分にはよくわからない」とか「その問題には興味がない」とか「いままで考へたこともないから、にはかに答へられない」とか、さういつた返事をなぜしないのでせう。」
 もう文化人という言葉はとっくに死語になっていると思うが、今ならテレビのコメンテーターであろうか?
あらゆることに解決策があるはずだという考えが日本の「(世界の?)共通の了解事項になってきているのかもしれない。
 これは養老孟司さんがいう「都市主義」の問題である。「ああすればこうなる」で、あらゆるものが操作可能であるという信憑が今ではいきわたってきていて、なんだか人間が一生物ではなく神様に近い特別な存在になってきているようである。

 それに対して福田氏が提示したのが、一種の「天」というようなつかまえどころがない人間をこえる何かであったように思う。
 晩年の氏はエリオットの詩劇「カクテル・パーティ」や「長老政治家」のような世界をめざしていたのではないかと思う。
 しかし、氏が晩年主宰していた劇団「雲」や「欅」がその目的に叶うものだったのかどうかというと、それがよくわからない。
 わたくしは氏が書きかつ演出した芝居を一回だけ見たことがある。「億万長者夫人」で三百人劇場で見たのだと記憶する。単行本は昭和43年刊だから、おそらく本郷に進学した頃である。
 冒頭、A「お客です。」 B「お客様と言ふんだ。「です」ぢやない。「ございます」-「お客様でございます」-さもなければ「お客様がいらつしやいました。」 A「お客様でいらつしやいました。」 B「畜生。それでも大学生か?」・・・
 どう考えても、ここは客席から笑い声がきこえなければおかしいとところでる。しかし、客席からはせきとして声がない。何の反応もない。ようするに演じる俳優同士のセリフの受け渡しの間が悪く、会話がはずまないのである。
言っては悪いが学芸会とまでいわないとしても、ゼニがとれる以前の段階なのである。いくら福田氏が理想を語っても現実がこうだとなあ、と思った。なんだか氏がとても気の毒な感じがした。わたくしは観なかったが、「解つてたまるか!」はプロ?が演じたので、観ればもっと楽しめたかも知れないと思う。

 「蛸と芝居は血を荒す」というのが誰の言葉か忘れたが、芝居の世界というのはなかなか大変な世界のようである。(わたくしとしては、氏の戯曲としては「キティ颱風」などの初期のもののほうが面白いと思う。)

 「解つてたまるか!」などのような今では死語である「進歩的文化人」をからかう作品や評論において福田氏の筆はもっとも冴えていたのかもしれない。とはいっても、否定という作業は所詮虚しいものである。もっと肯定的な方面では、氏は初期の「芸術とは何か」「人間・この劇的なるもの」を越えるものをついに残せなかったような気がする。

 今となっては、もう記憶がはっきりしないところがあるが、氏の本を集中して読んだのは教養学部の2年のころであったと思う。そして本郷に進んで暫くして東大闘争(紛争)がはじまるわけであるが、当時の学生運動というのは、マウンティング合戦のようなところが大きかったので、そういうものの虚しさを説いていた福田氏の本をその前に読んでいたことは、このころの自分の周囲の様々なことに対峙するのに随分と支えになったように思う。

東大医学部進学過程(理科Ⅲ類)を受験するということ

 報道を見ているだけでは何だかよくわからないところがあるのだが、大学受験をめぐる事件がおきたようである。
事件をおこしたとされる高校2年の学生さんは東大医学部を目指していたが、成績がいま一つになって、ここからが理解不能なのだが、それで死のうと思い、さらに意味不明なのだが、死ぬときは罪の意識を抱いて死にたいと思い、今回の犯行に及んだのだと報道されている。

 まず分からないのが、この学生さんが医者になりたいと思っていたのか? 東大医学部に合格したいと思っていたのか?理科Ⅲ類(受験時の医学部進学過程)に受かりたい思っていたのかということである。
前者なら名古屋在住の人らしいので、名古屋周辺には医学部のある大学もいくつかあるはずで、何もわざわざ東京まで出てこなくてもいいはずである。
 しかし後者の東大医学部(理科Ⅲ類)にただただいきたいと思っていたということであれば、それがよくわからないことになる。

 高校でかなり成績がいい生徒がいると、学校側で東大理Ⅲ受験を薦めるというケースが少なからずあるらしい。東大理Ⅲ合格者が出た高校というのは(特に地方においては)かなりその学校の志望者集めには効くらしいのである。
実際、そのような学校側の勧めによって東大理Ⅲを受験し無事合格したが、そこで人生の目標は達成で、そこで燃え尽きてしまい、大学で留年を重ねるというケースも(少なからず?)あるのだそうである。

 わたくしの後輩で、自称家庭教師の達人というのがいて、頼まれた学生はすべて希望校にいれてきたという(その学生さんの趣味をきき、例えば、ある歌手が好きといわれれば、その歌手の歌は全部聴くとか、なかなか大変な努力も必要らしい)。
 しかし大学にはいって暫くすると親御さんがまたやってきて、「大学にはったら全然勉強しません。このままでは進学できそうもありません。また家庭教師をしてもらえませんか?」といってくるケースが少なからずあったのだそうである。
 「僕は大学受験のプロであって、その先のことには一切責任を負えません」と冷たく突き放したのだそうであるが、そもそも家庭教師を引き受ける時点で全員に「自分は大学受験のプロなので、志望校合格のために全力を尽くすが、大学に入った後のことは責任は持てません」と釘を刺して説明はしておくのだそうである。しかしその時点では、お父さんはニコニコして「もう何々大学に合格させていただければ、後はこちらでいかようにも」などといって、大学にはいった後のことなどまったく気にもしていない親御さんがほとんどであったのだそうである。

 さて、ここで何を言いたいのかというと、一つには「臨床をやるのに頭脳は必要なのか?」ということである。
わたくしは勤務医だったが、医師会の会合などで開業の先生などとお会いすると、開業されている先生がしばしば「医者に頭はいりません。患者さんにニコニコする能力さえあれば充分です。」などとおっしゃるのである。
間違いなく、臨床をやるのに微分積分はいらない。多分、三角関数もいらない。足し算・引き算・掛け算・割り算ができれば充分であり、それなら小学校の算数の範囲である。
 統計学は医学の臨床に必須だし、そこでは高度の数学が必要とされるが、医療統計学の専門家になるのでなければ、結果を理解できれば、日々の臨床には十分である。
 もちろん、基礎医学に進むのであれば、高度の数学も必要になる。しかし、東大理Ⅲに入学した者は、ほとんどが臨床医になる(わたくしの学年は少し異常で、卒業の時点では全員が臨床医学を選択し、基礎医学の方面にいったものは一人もいなかった。(後に臨床から基礎医学に転じたものは何人もいたが)。
 医学部の講義で印象に残っているのが、とにかくノーベル賞にこだわる先生が多かったことである。東大理三志向が継続すると今度はノーベル賞にいくのだろうか?

 ひょっとして、東大理Ⅲを志しているかたがこの記事を読まないとも限らないのでわたしの受験のことについても少し書いておく。もう60年近く前の話であるので大学受験の実態もまったく今とは異なると思うが・・・。

 1965年 現役で東大理三のみ受験して不合格。(この不合格は当然と感じて少しも驚かなかったが、その後に受けた駿台予備校の試験にも落ちたのは大きなショックだった。この試験は数回あり、次の試験では何とか下のほうに紛れ込めたが・・・)
 1966年 慶応大学医学部不合格 (一次試験には合格し、面談?(二次試験?)までは進んだものの不合格。
慶応経済学部 合格。
東大理科Ⅲ類 合格
 東京医科歯科大学にも願書を出していたが、東大に合格したため、受けず。おそらく受けていても不合格だったと思う。東大より一科目試験科目が多かったのだが(社会も2科目 東大は1科目・・現役の時は2科目だった。)、東大の受験科目にあわせ、世界史しか勉強していなかったため。
 少し、注釈をつけると、わたくしは高校1年の夏まで文科系志望で、そのため、受験で一番の得意科目は国語であった、一切国語の受験勉強はしなかったにもかかわらず、一番点がとれたのが国語だった。しかし慶応医学部受験では困ったことに、受験科目には国語がなかった。
 二浪する気はなかったので、慶応の経済は滑り止めに受けたのだが、さすがに文科系の数学は理科系にくらべればやさしく、おそらく満点がとれたのではないかと思う。社会と数学どちらかの選択だったように思うが、社会で満点をとるのは難しいだろうから、ここでは大いに得をしたと思う。

 わたくしの受験当時と今ではまったく受験の様相が違うだろうから、上に書いたことは今の受験生には何の参考にはならないと思うが(まだ当時は理科Ⅲより理1のほうが難易度が高かったように記憶している)、中学生や高校生が考える自分の進路や将来の職業選択などというのは、いたって根拠薄弱なものなのだから、将来医者になろうなどというのも、あまり思いつめないほうがいいと思う。
 しかし逆に、理Ⅲにはいることが目標となると、かりに合格してもその後が心配である。
国立大学のほうが私学より圧倒的に授業料が安いので(わたくしのころは月千円だったように記憶している)、家計に余裕がない家庭の子弟が進学できる先として国立大学という選択肢もあることは大事であると思う。しかし、東大の場合、受験難易度のもっとも高いのが理Ⅲであるというのが、どうにも腑に落ちない。東大受験は文系(文1、文Ⅱ、文Ⅲ、それぞれ法学部系、経済学部系。文学部系)、理系(理Ⅰ、理Ⅱ、理Ⅲ、それぞれ工学部系、理学部・生物学、医学系)に分かれるが、理Ⅲだけが特異で、ほぼ職業選択に直結している。勿論、医学研究者という道を選んでもいいのだが、現実には入学者の大部分が臨床医になっている。
 今度の事件をおこした高二の生徒さんは、医者になりたかったから東大理三を目指したといっているのだそうである。
 どうしてもその理屈が理解できないので、少しここに書いてみたが、やはり依然として理解できないままである。

 今、橋爪大三郎氏と佐藤優氏の「世界史の分岐点」という本(SB新書 2022年1月)を読んでいるが、その対談にこんなことが書いてある。
 橋爪:なぜ文系・理系を中学高校で分けるかと言えば、大学入試のことしか考えていないから。」
 佐藤:就活なんていうのは空虚もいいところです。大学の3回生から、そんなことに時間を、使っているなんて異常ですよ。
 橋爪:大学入試だとか就活だとか、そんなことはいくらでも取り返しがつく。
・・・
 橋爪;学生諸君がパッションを持ってないと駄目です。
 佐藤:そこで邪魔になるのが偏差値です。
 葉蹄:何かが根本的に間違っている。

 ひとのことは言えないので、一浪して東大に入った時に最初に頭に浮かんだのは、「もうこれで勉強をしなくてもいい。」ということだった。
 それで駒場の二年間、教科書は読まず、小説を読んだりする自堕落な生活を送っていたが、そこに降ってわいたのが《東大闘争》あるいは《東大紛争》である。この一年有半の経験があったので、東大にはいった元がとれたと思う。沢山の本を読み、人と議論し・・・。疾風怒涛の時だった。
 今の若いかたにはそういったものがなく、高校生には大学受験、大学生には就活位しか情熱を捧げる対象がないとすれば、どこかで歪んだ方向にいく若者がでてくるのも避けられないのかもしれない。
 そして日本の若者がそのような状態にあるということは、とりもなおさず日本の将来は絶望的に暗いのだと、橋爪氏も佐藤氏も口を揃えて憂いている。
(この橋爪氏と佐藤氏の本はあらためて単独でとりあげるかもしれない。)

読んできた本(4)

 
 例年、大体3月には終わっていた医師研修制度反対ストライキが4月になっても終結せず、例年より長引いていたが、それでももう1~2月で終わるだろうと多寡を括って、4月からアテネ・フランセに通いだしたりした。(これは半年ほどで挫折した。もう10月頃には周囲がとてものんびり語学を学ぶという雰囲気ではなくなってきたからであるが、もう2年くらい続けていれば、自分にとってある程度使える唯一の外国語にフランス語がなっていたかもしれないと思うといささか残念である。)

 さてこの1年間くらいいろいろな本を読んだことはなくて、当然どの本をいつ読んだという記憶もはっきりしない。福田恆存とか吉田健一とかを中心に読んだのだと思うが、チェーホフ全集とかフロベール全集とかも書棚にあるから、そういった本もそのころ読んだのではないかと思う。チェーホフ福田恆存経由だと思うがフロベール中村光夫経由であろう。しかし、今書棚にある中村の本は、「人と狼」「汽笛一声」「パリ繁盛記」「雲をたがやす男」といった後期の戯曲が中心で、あと「戦争まで」といったフランス留学記も面白かったが、反=私小説の闘士としての中村光夫の本はあまり見当たらない。
 しかし、考えてみれば中村光夫も、福田恆存も、吉田健一も皆、反=私小説派であるわけで、その頃わたくしの周囲に吹き荒れていた《政治》運動といわれていたものは(共産党の下部組織である「民青」系の運動を除けば)実は政治運動ではなく、きわめて文学的な運動、徹底的に自分にこだわり、自分はかくあるべき存在であるか?を問い続ける、ほとんど宗教運動に近いともいえるような動きであるとわたくしは感じていた。したがって、ものを考えることをいやでも強いられた1968年前後の政治の季節を潜り抜けた人の中から加藤典洋さんや鹿島茂さんや糸井重里さんのような人たちが出て来たのも当然であると思う。吉本隆明氏のその後の変貌そのものが、全共闘運動がどのようなものであったかを如実に示しているようい思う。
その当時の自分としては、福田恆存中村光夫吉田健一を読むことが、周囲でおきていたことを自分なりの目で見るためにどうしても必要であったのだろうと思う。
 「いふまでもなく、トルストイドストエフスキーとの偉大はその原罪意識にさゝへられてゐる。チェーホフにはそれがないーかれは生れながらにして無我の善人であり、生れながらにして教養人であり、生れながらにして野生を欠いてゐた。といふことは、歴史と伝統とをもたなかつたといふことであり、階級のそとにあつたといふことにほかならぬ・・・」(福田恆存チェーホフ」)
 こういう言葉で1986年前後の疾風怒濤の時代を乗り切れると思っていたのが今から思うと微笑ましいが。当時は真剣にそれが可能と思っていた。

 そうこうしているうちにまた事件がおきた。1969年8月に刊行された庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」である。これが頭をどやしつけられるように読んだ最後の本であると思う。
 1969年8月といえば、医学部での授業が再開されてまだ二ヶ月くらいで、授業を受けていても、授業粉砕!を叫んでヘルメットを被ってゲバ棒を持った人達が乗り込んでくるという状況で、まだまだ紛争(闘争)の熱気は沈静していない時期である。
 この小説は安田講堂封鎖解除とそれを受けての東大入試中止を背景として書かれている。主人公はその入試中止に遭遇した日比谷高校生の薫くんで、その当時の日比谷高校のいやったらしさを背景に(わたくしも麻布にいたので、そのいやったらしさというのはある程度は理解できるが、その当時、もっともいやったらしい高校といえば、筑波大付属高だったのではないかと思っている。付属駒場がその次?)
 都会対田舎、文明対野蛮という観点から、当時の混乱を二十歳前の若者の薫くんの目を通して描くというものだが、あろうことか、「赤頭巾ちゃん・・」を福田恆存の思想の小説化だと思ったのである。
とにかく、こういう手もあったのかと心底驚いた。今から思うとなぜそう思ったのかよく分からないところもあるが、とにかく当時はそう思っていたのだから仕方がない。
 庄司薫の著作については、「赤頭巾」以前に本名の福田章二名で書いた「喪失」を含め、ほぼすべてを読んでいると思うが、そこから受けたショックはとても大きかったようで、このブログでも繰り返し庄司薫の名前が出てきている。その中で一番まとまったものは、2004年3月30日のブログであるようである。もし興味があればお読みいただければ。

読んできた本(3)

 一浪して大学に入る前後に読んだ本については記憶が混乱していて、前後関係がはっきりしないところが多いが、おそらく大学に入ってすぐに読んだのが、江藤淳の「成熟と喪失」であったのだと思う。
 大学に入ったのが昭和41年(1966年)で刊行も同年、おそらく氏の「夏目漱石」や「小林秀雄」などを読んできた延長として手に取ったのではないかと思う。
 「成熟と喪失」は、小島信夫安岡章太郎吉行淳之介庄野潤三などのいわゆる「第三の新人」達を論じたもので、江藤氏は小島信夫庄野潤三を評価していたのだが、わたくしは吉行にいかれてしまった。
吉行の小説の主人公は、中学時代読んだ「風と共に去りぬ」のレット・バトラーや後年読んだ三島由紀夫の主人公たちなどとも共通する、橋本治が「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」でいった「塔の中の王子様」である。
とは言っても、レット・バトラーは「塔の中の王子様」ではない。塔からは出ている。ただ、スカーレットにはレットという人間が全く理解できないのに対し、レットにはスカーレットという人間が全部解ってしまう。そういう非対称性にあこがれたのだろうと思う。
他人が自分の内面にずかずかと入り込んでくるのが嫌、だから。そんなことが起きないように「鍵のかかる部屋」にこもって本でも読んでいたい。吉行の小説でも主人公と娼婦との関係はそのようなものであると思う。

などとグダグダと吉行あたりの本を読んでいる内に事件がおきた。まあ事件などというのは大袈裟なのだけれど。

 1966年大学入学だから、日本に限らず世界が燃えた1968年の2年前、当然、日共系、反日共系の学園闘争が周囲でも渦巻いていた。
 当時、反日共系のスターは吉本隆明で、それでおそらく、その「自立の思想的拠点」を読んでみたのだと思う。この本は昭和41年の初版だが、わたくしが持っているのは第五刷 昭和42年11月10日発行のものである。ということは教養課程2年の後半であるはずである。なにしろ、「プロレタリアート」とか「階級」とか「マルクス主義」とか「ルカーチがどうたらこうたら」といった生硬な言葉がてんこ盛りの本である。
 啖呵を切ったり、喧嘩を売るのがうまい人だなとは思ったが、内容は少しも理解できないし、感心もしなかった。
しかし、その中の「情況とは何か Ⅳ」というのに、こちらの陣営には碌なやつはいないが、敵の陣営にはまともな奴もいるとして江藤淳福田恆存の名前が挙げられていた。
 江藤の本はすでに読んでいたので特に驚かなったが、福田については心底驚いた。「紀元節復活運動」などというアホなことをやっている貧相なおじさんとばかり思っていたからである。
 しかし、そこで薦められていた福田の「芸術とは何か」や「人間・この劇的なるもの」を読んですっかり頭をどやしつけられてしまった。
 今から思うとカトリック的な世界観というか宇宙観というのに初めて接してびっくりしたということなのだろうと思う。福田にいかれたあまり通った、「福田恆存評論集」がおいてあった渋谷の大盛堂書店の棚もありありと思いだせるくらいである。レジの左側の中段の棚。
 そして同じ福田の「チェーホフ」にもいかれた。
 「これでチェーホフが敵としていたものの正体が明らかになった。なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するためにーひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾を固執した。」「問題はチェーホフの性格にある。彼には絶対他人を裁けないのだ」。

 福田恆存は「鉢の木会」という作家の親睦会?にも属していて、そこには大岡昇平三島由紀夫吉田健一なども参加していていた。それで、それらの作家も読むようになった。
 という流れで吉田健一も読むようになり、ついにはそれに帰依するようになった。
 しかし福田の場合と違い、脳天をどやしつけられるのではなく、じわじわと説得されるという経過だった。
 その頃刊行されていた原書房版の「吉田健一全集」は後年の「ヨーロッパの世紀末」以降の著作とは異なり、新聞などに連載されたエッセイなども多くおさめられていた。
 もちろん、「英国の文学」「東西文学論」「英国の文学の横道」「英国の近代文学」「三文紳士」「酒宴」「文学概論」などの早期の代表作は網羅されていたのだが、そこに氏の代表作の一つである「文学の楽み」が欠けている。どういうわけか本棚には第7巻が欠落している。そこにおさめられていたのだろうか? ということで「文学の楽み」はかなり後でよむことになった。
 「英国の文学」も面白かったが(まず、英国の気候から説き起こすところ(「真夏の世の夢」の真夏とは6月を指すとか 有名なソネットのshall I compare thee to a summer’s dayの夏も同じ、とか)、要するに、文学は頭で読むのではなく、体全体で読むという方向を初めて教えられた。文学は思想伝達の手段ではなく、もっと豊かで広い世界を伝えるもので、とすれば、文学の究極は詩であるというようなことである。
  とはいっても、この頃面白がって読んでいたのは、エッセイ集のほうで、例えば「乞食王子」の所収の「傍観者」。そこでの王子様の演説。「えー、本日、この記念式典に臨みまして、・・・甚だ欣快と致す所、・・・申すまでもなく、製糖事業は、・・・爾来十余年、・・・ここにお集まりなりました皆様も、・・・一言述べさせて戴いた次第であります。・・・」 今読みかえしてみたら、「鴎外が、女というものは行動を起すと、眼隠しで道の両側が見えなくさせられた馬車馬のやうに一直線に進む」という一節もあった。今ならなかなか書くのに勇気がいるかもしれない。
 吉田氏の翻訳にも随分と楽しませてもらったが、特にウォーのもの「ブライズヘッドふたたび」「ピンフォールドの試練」「「黒いいたずら」など。
 「黒いいたずら」には「黒んぼの牝」ななどという言葉も出てくるので、現在では廃刊になっているのではないだろうか? この原題は「Black Mischief」で、要するに「黄禍」に対する「黒禍」。それを「黒いいたずら」と訳すところも吉田氏ならではで、氏はこの小説の大きな特徴が雅(elegance)ということにあるといっている。
 この実に面白い優雅な小説を今の読者が読めないとしたら本当にお気の毒である。原著なら読めるのだろうか?と思い、今アマゾンでみてみたら、原著は入手可能なようである。
 この頃の氏の文章は、晩年のものに比べれば、句点がしっかりと打ってあって読みやすい。

 さて、教養課程の2年が終わるころ、本郷では例年、インターン制度廃止のためのストと称する授業ボイコットを数年前から年度末に行っており、先輩が来て「お前らもストに参加するんだぞ」というので、唯々諾々とそのストというものに参加することになった。
 例年、このストというのは、5月から6月には解除されており、わたくしは、これは年度末の試験をレポートに変えさせるという密かな目的もあったのではないかと勘繰っているのだが、期末試験がレポートになるのは有難いし、どうせ数か月で解除されるのだからということで何も考えずに、ストにはいった。それが東大闘争(紛争)として翌年まで続くことになるなどとは夢にも思わなかった。
 ということで、1年を超えるモラトリアムが始まることになった。「魔の山」に登ったまま、そのまま閉じ込められてしまったようなものである。
 この1年くらい沢山の本を読んだことは後にも先にもないと思う。

二つの正直

 「論語子路篇、十八」に以下のような有名な(だろうと思う)一節がある。

 葉公が孔子に自慢気に話しかけてこう言った。
 わたしの村に正直者の躬と呼ばれる男がいます。なぜそう呼ばれるのかというと、どこからか迷いこんで来た羊を躬の父親が自分のものにしてしまったのを、子でありながら、父が盗んだと証言したからです。
 それに対して、孔子がこう言った、
 わたしの村の正直者はいまの話とは違うのです。
 父は子のためにその罪を隠し、子は父のためにその罪を隠します。それこそがわが村での正直ということなのです。
 隠すということは、一見すると不正直のようにみえるかもしれません。しかしこれが父子の間の情愛の自然というものであって、その互いに隠しあうということの中にこそ正直ということの本当が備わっているのです。

 有名といってもわたくしがこれを知ったのはもう五十歳をとうに過ぎての頃で、渡辺昇一さんの本でであったと思う(「正義の時代」文藝春秋社 1977年 のな中の「公的信義と私的信義」)。
 最近の自民党の新潟でのごたごたとか、あるいは日大の騒動を見ていると、今から2500年ほど前の中国の文人のこの言葉を思い出す。
 身内の恥を外に晒さない、ということを組織人として当然の弁えと考えるか? そんなのは前近代の話であって、もはや現代では通用しないと考えるか、である。
 山本七平氏は「日本では、会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく、あるいは共同体化に成功しないと存続できなくなる」といっていた。
 日本のかなりの問題は「会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく」ということに根ざしているのではないかと思う。これは会社にだけみられる問題ではなく、ある程度の規模の組織では常にみられることではないだろうか?
 現在、労働の形態について「日本に固有の「メンバーシップ型」雇用から世界標準の「ジョブ型」雇用への転換」ということが議論されているが、「日本では、会社という機能集団はある規模にまで大きくなると必ず共同体化していく」という問題を抜きに議論をしても、実のある議論にはならないのではないかと思う。
 そして、自分のことを考えてみても孔子様の論のほうが葉公さんの議論よりずっと情味があるように感じる。
 葉公さんの議論は、中華人民共和国のほうへと引き継がれているのではないだろうか?

読んできた本(2)

 中学に入ると、算数少年から文転して小説ばかり読んでいる怠惰な中学生となった。
 最初に読んだのが、そのころ河出書房から出ていた世界文学全集の別巻の「風と共に去りぬ」だった。なぜこれを読んだのかはその時刊行されていたからとしかいえないが、この小説の主人公の一人であるレット・バトラーにぞっこんいかれた。「あー、これは僕だ!」というか、彼の言動の一つ一つが我事のように感じられた。今から思うと偽悪家というものの像に初めて出会ったということなのだろうと思う。これは大学教養学部時代にいかれた吉行淳之介の像ともどこか通じるものがあるだろうと思う。
 しかし、ここで世界文学全集の路線の方にいったことは、後から考えるとわたくしの文学理解を大きく一時的にではあれ歪めたと思う。文学=小説、あるいは物語と思い込んだこと、世界文学全集路線だから翻訳で読むわけで、日本語での表現にほとんど関心がいかなかったこと、詩とか評論といったといった本来なら文学の中心にあるはずのものに全く目が向かかなかったことなどである。
 だから、「戦争と平和」も「カラマーゾフの兄弟」も「罪と罰」も「赤と黒」も「ファウスト」も「ボヴァリー夫人」も一通り読んだけれども何も残っていない。(40歳を過ぎて「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」などを読み返してみたらとても面白かったけれど)
 さてわたくしは中学に入り図書室の管理のようなことをしていたが(図書室で覚えているのが書架のかなりを占めていた「スターリン全集」や「レーニン全集」である)、毎年ある文化祭で太宰治をとりあげることになった。どなたの発案だったか覚えていないが、あるいは二年先輩の川本三郎さんだっただろうか?

 それで太宰の小説を読んで、文学とは言葉の力によって初めて成立する世界であることを少しは知ることになった。「津軽」とか「ヴィヨンの妻」とか・・。


「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。(桜桃

「ノックする。「だれ?」 中から、れいの鴉声からすごえ。 ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。 乱雑。悪臭。 ああ、荒涼こうりょう。四畳半。その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁へりなんてその痕跡こんせきをさえとどめていない。部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。 「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」 そのまた、キヌ子の服装たるや、数年前に見た時の、あの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。 部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。カーテンさえ無い。これが、二十五、六の娘の部屋か。小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。(「グッド・バイ」)

津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」(津軽

「曰く、惚れたが悪いか。
 古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。」(お伽草紙

 これらは文章というつっかえ棒をなくしたら面白くもおかしくもない単なる言説である。それを読めるものにしているのが文章の力であるのに、翻訳の文でひたすら筋を追っていた中学時代の読書というのは後から考えるとほとんど時間の無駄であったのかも知れない。
 とは言っても、通常、我々が小説を読むのは、そこで作者によって造形された登場人物とその行動に興味を惹かれるからで、例えば「戦争と平和」のアンドレイやピエール、そしてナターシャなどは中学生が読んでも何事かを感じさせる人物像であった。有能なニヒリスト?であるアンドレイ、善意であるが無能な理想主義者のピエール、男とは全く違う存在である女性というもの存在をのエッセンスを示すナターシャの像など、人間がこの地上に存在する限りは「戦争と平和」は読まれ続けるであろうが、一方、現在ではすでに誰も読まないであろうと思われるのがその人生論とか「新しき村」に通じるような著作である。わたくしが中学生の頃は、白樺派とか武者小路実篤とかが現役であだまだ読まれていた。つまり、文学とは思想書あるいは社会のありかたを示す書物でもあるとされていたのではないかと思う。

 ところで、その当時の大学受験の国語には小林秀雄からの出題がやたらと多く、受験対策として、あの何が書いてあるのか一向にわからない文章もやむをえず読んでいた。その当時も今もちんぷんかんぷんであることには少しも変わりはないが、それでも氏が敵としていたのが〈観念論〉の系譜であることは朧気ながらわかったような気がした。そして1960年代にはまだ大きな勢力であったマスクス主義も壮大な観念論の一種(千年王国説の変奏として、最終的にわれわれが到達するであろう地上で実現される天国。それを導く生産力)であるということは何とはなしに感じるようになっていた。
 これはその後、大学に入ってすぐに遭遇することになる大学紛争(闘争)へのいささかの免疫にはなったのではないかと思う。