昔 進歩的文化人という人達がいた(4)

 稲垣武さんに「「悪魔祓い」の戦後史」という本がある。ここでの悪魔とは進歩的文化人(あるいは進歩思想)のことだから、かなりえげつないタイトル。(文春文庫 1997年8月) 92年に書かれたものに加筆したものらしいが、いわゆる進歩的文化人についての悪口雑言を書き連ねたような本である。
 今から25年前だからもう進歩的文化人は敗色濃厚、退却戦に入っていた時期だから、いくらでも悪口が書けるわけである(今わたくしもおなじことをしているわけだが・・)。
  
 しかし、稲垣氏は悪魔というのだが、わたくしからみると進歩的文化人の方々はみな善意の人たちで、だからこそいろいろ困ったことがおきるというのが、わたくしの基本的な見方である。カール・マルクスが善意の人だったことは間違いない。イエス・キリストもまた。
  
 どうも日本のキリスト教徒は新約聖書しか読んでいないのではないかと思うことがある。旧約は古くからの言い伝え程度にしか思っていないのではないだろうか?
 しかし「ヨハネ黙示録」の6以降 サタンは敗北し、バビロンは滅亡する。新しい天と地が現われ、キリストが再臨する。
 これがまさにマルクスの描いた図式なのではないだろうか?
  
 こういう根本的に世が改まるという思考が進歩的文化人の少なくとも一部の方々にはあって、だから自分はそのあらたまった世を地上にもたらそうとしている善意のひとということになる。
  
 世に性善説性悪説というのがあって、基本的に進歩的文化人はひとの性を善と信じるひとなのだと思う。人間は基本的に善なる存在であるが、たまたま資本主義という制度によって悪に傾いている。
  
 「地獄への道は善意で舗装されている」という諺がヨーロッパにあるが、善意というのは、しばしば地獄に通じる。
  
 一時期、中核派と核マル派の抗争といった党派間の争いがあり(まだ続いているのだろうか?)、凄惨な内ゲバが続いていた。キリスト教においてもまた教義の解釈をめぐって膨大な血が流された。
  
 進歩的文化人は(自己認識においては)世をよくしようとしているひとなのだから、自分に対立するひとは、世が改まることに対立する度し難い反動ということになる。
  
 今、汚染水云々が騒がれている。進歩の側のひとは、世の中には根本的な対策があると信じているから、対策はすべての原発の廃絶である。原発がなくなれば汚染水の問題もなくなるというのは論理的にはまったくその通りである。
 しかし処理したものがどんどんと溜まっているという現実をどうするのかといえば、それは原発を運営している側が考えればいいことであって、自分達の責任ではないことになる。
  
 しかし、世の中にはどうしようもないこともあって、その筆頭が人間が死ぬということである。さすがに進歩の側の人間もそれに対する反対運動を企図するひとはいないようである。