昔 進歩的文化人という人達がいた(3)

 竹内靖雄氏に「経済思想の巨人たち」という本がある(新潮選書 1997)。
 その中にはもちろんカール・マルクスも入っているわけだが、竹内氏は「マルクスが露骨に暴力革命を鼓吹したふしはない」として、マルクスは《「科学的世界観」を確立した「予言者」》としてふるまい、その言葉を信じた信徒たちがもっと大きな暴力的破壊に立ち上がるようにしむけたのだ、としている。
 
 今も存在している(とわたくしが思う)進歩的文化人のほとんどはもう暴力革命によって世を改めるという立場はとっていないだろうと思う。
  
 しかし、現在の社会には様々な問題点があるのでそれを指摘し、ある場合には改善の仕方を提示することによって、すこしでも世をあらためていくことをその人達は目指しているのだろうと思う。善意の人たちなのである。
  
 その場合の参照点としてマルクス主義を、あるいはかつてのソヴィエト連邦、現在の中華人民共和国、あるいは朝鮮民主主義人民共和国を範としていることもまたないのではないかと思う。
  
 日本共産党の党員の場合は微妙で、かつてのソヴィエト連邦、現在の中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国を範にするものではなく、マルクスの思想を現在正統にひきついでいるものこそがわれら日本共産党であるとしているのではないかと思う。しかし他人がそう評価するのではなく、自分でそう評価するというのが(わたくしかたみると)困ったところで、つまり自画自賛
  
 「前衛」という考えが(わたくしから見ると)いけないのだと思う。
 もちろん、進歩的文化人のほとんどは共産党員でもなく、マルクスの思想の信奉者でもないだろう。ただ世にはおかしな点は多々あるぞということ指摘する善意の人たちである。

 今、処理水とか汚染水とかかまびすしい。
 昔、アメリカやソ連が核実験を繰り返していた時があり、ガイガーカウンターという放射線測定器があって、実験後に降る雨を測定するとガーガーとカウンターが鳴るという話があった。
 (アメリカの実験の後の雨は汚いがソ連の場合はきれいという変な話もあった。これを唱えていたのも、進歩陣営の一部のかただったような記憶がある。)

 「経済思想の巨人たち」で、竹内氏はマルクスのことを「科学的世界観」を確立した「予言者」としてふるまったのであり、暴力的破壊を扇動したわけではないのだが、マルクスを信じた信徒たちがそうするように仕向けたといっており、この教祖の存在が二十世紀に数千万の犠牲者という、はかりしれない厄災をもたらした、としている。
 (カンボジアポルポト政権下での犠牲者は150万から200万といわれ、当時のカンボジアの人口の1/4に相当するのだそうである。スターリン粛清では800万から1000万、文化大革命では2000万の犠牲者だそうである。併せると3000万・・・。一人の思想家がこれだけの人を殺す。)
 (ところでイエス・キリストが後世にもたらした犠牲者はどのくらいの数だろう。愛の宗教が人を殺す。信念と正義感をもって・・。)

 竹内氏の本には、「ユダヤキリスト教」と「マルクス主義」の対照表が示されている。(オリジナルはバートランド・ラッセルらしいが・・。)
 そこではキリスト教でのプロテスタントマルクス主義での(反共産党系の)新左翼であるとされている。なるほど!!
 日本共産党がローマ公教会! 新左翼プロテスタント! (ウクライナプロテスタント ロシア≒ローマ・カトリック??)

 現在の進歩的文化人はもはや「革命」を希求する人たちではないだろう。つまり昔なら「改良主義」といって嘲笑された考え方のひとがほとんどであると思う。しかしどこかにまだ世直しへの憧れのようなものも捨てきれずにいて、要するに《損得だけで動く世界、利害関係だけで動く世界》への嫌悪感を拭い去ることがどうしてもできない。

 おそらく文学というのはそういう人間の負の側面、暗い側面から目をそらさないということを自己の存在理由の一つにしているのだと思うが、わたくしはどうもそういうのが苦手で、吉田健一の「絵空ごと」の世界のほうが好きである。たとえそれが「絵空ごと」であるとしても・・。

 今ではもう誰も読まなくなった作家である倉橋由美子氏に「城の中の城」という反宗教小説があったのを思い出した。今さら反=宗教などと力むところが倉橋氏の変わったところだったと思うのだが、宗教というのはわかりやすい事例なので、要するに「何かを信じる」ことを笑う(嗤う?)というのがテーマであった。
 
 何かを信じてこちこちになるということ自体がはたからみると滑稽なのだが、「こちこちにならない」ことに「こちこちになる」というのもやはり別種の滑稽であるのかも知れない。一種の無限退行なのだろうか?