池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (3)

 10年前の1951年に米国との間に締結された旧日米安保条約が改定の時期を迎え、時の宰相岸信介は旧条約の不平等部分の改定をすすめようとしていた。しかし、社会党が安保改定は米軍の恒久的な日本駐留を許すものであり、台湾や朝鮮の有事に日本は戦争に巻き込まれるとして猛反対し、共産党も同調したことで、「安保改定阻止国民会議」が結成されることとなった。(「激動」p49) もしこれが実現すれば、いずれ米軍は日本から撤退し、台湾や朝鮮の有事にも日本は関わらないですむことになるはずである。
 今、台湾がきなくさい状況になっているが、(少なくとも、この安保改定当時では)もしも中国が台湾をせめれば、それは「解放」であって「侵略」ではないとみる人が左派では少なからずいたのではないだろうかと思う。

 わたくしの偏見かもしれないが、この当時の左翼の方々には「軍備が戦争を招く、丸腰でいれば戦争はおきない」という見解の方々が少なからずあったように思う。さらにまた、「当時の日本よりソ連中共のほうがはるかにいい国で、そういう国が日本を支配してくれて、その主導のもとに日本の改革が進めば日本は一気に天国に近づく」と思っていたひともいないわけではなかったようにも思う。なにしろ、きれいな水爆などという話もあったくらいである。アメリカの核実験からは有害な物質がまき散らされるが、東側の核でそんなことはない、とか。
日本に米軍がいて自衛隊もいれば、東側からの日本への侵攻には著しい妨げになる。

 私見によれば、「科学的社会主義」の「科学的」がいけないのだと思う。これは「空想的」の対語で、今までの「社会主義」は善意の個人が貧しい人々を救済するという方向であったが、社会には発展法則というものがあり、社会の生産力は時間とともに増加していき、その時代の生産力には適合的であった社会の体制が、生産力がさらに増大すると不適合になることで次の体制へと移行していくというものである。

 そうであれば、天国がくるのを寝てまてばいいように思うが、地上の天国を一刻も早く実現したいと思うのも人情で、それで天国実現までの方法をめぐって「正統」と「異端」の激しい争いがおきることになる。

 キリスト教歴史観マルクス主義歴史観が近似しているということはしばしば指摘される。世界の共産主義化というのは最後の審判なのである。ただ問題なのは共産主義を実現させるのが、「生産力」という物質的なものであるとされていることで、そのために一見、その運動は宗教などとは無関係に見える。
しかし、マルクス主義は宗教なのである。「宗教は阿片である」のかもしれないが、少なくとも、ソヴィエト建国の1917年からソ連崩壊後しばらくまで、日本ではマルクス主義が宗教として機能していた時代があったことは間違いないと思う。
 この点について佐藤氏は「新左翼の運動は「ロマン主義」である」としている。「単純な「正義感」や「義侠心」でした」と。確かに当時、彼らが東映やくざ映画を熱心にみていたことはよく知られている。「激動」p256では「新左翼」の心理を理解するには映画『仁義なき戦い』を見るのがいい、と佐藤氏はいっている。

 さて脱線が続いたが、60年安保である。岸首相が新条約の自然成立のため採決を急ぎ、それを強行した。それで反対運動がにわかに高まった、と。しかしそれを主導したのは社会党であった、と。なぜなら当時の共産党は「歌声運動」の方向にむいていたからである。
 60年安保のころは、わたくしは真面目な中学生だったから歌声喫茶などというものに近づくこともなかったが、これはわたくしが大学にはいったころもまだ続いていたように思う。しかし、「歌ってマルクス、踊ってレーニン」っていったい何を考えていたのだろう。何だか新興宗教の勧誘みたいである。
 わたくしが大学にはいったころの歌声喫茶ロシア民謡が中心だったように思うが、芥川也寸志氏なども『祖国の山河に』といった曲を作っている。紺谷邦子という一般市民からの歌詞に芥川氏が曲をつけたもので、「晴れ晴れとした秋空に平和の鳩が飛んでいる 美しい祖国の 祖国の山河にまばゆい光が注いでいる 僕らの町を 世界の国を 明るく楽しくするために 世界の仲間と手をつなごう しっかり がっちり肩を組もう」といった歌詞である。   (今、you tube などで聴けるこの曲音源はラッパがなったり、とにかくえらく勇ましい。しかし、この曲はもっとゆっくりとしみじみと歌う曲でのはないだろうか?)
 芥川氏は1954年、日本と国交がなかったソ連密入国し、ショスタコーヴィチなどに会っている。だが氏は当時のソ連の作曲界の事情やショスタコーヴィチのおかれていた非常に微妙な立場などは、その当時は理解できていなかっただろうと思う。
 わたくしは一時期、芥川氏のつくった合唱団「鯨」というので歌っていたことがある。氏の意図は、とにかく音楽をもっと市民のものにということであったはずで、氏の創設した「新交響楽団」はアマチュアオケとして現在、日本でもっとも評価されるものとなっている。
 ベトナム戦争のさなかの1965年に「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ歌としては「死んだ男の残したものは」がある。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲である。

 本筋に戻って、本書による「60年安保の概要」。
 6月15日に全学連の国会乱入と樺美智子さんの圧死がおきる。だが安保は19日に自然成立。23日岸内閣総辞職

 さてこの頃の日本共産党の対応について佐藤氏は、「こういう体質の組織はある日状況が一変して、トップが「やはり武装だ」と方向転換すればあっさり武装するんですよ。任侠団体と一緒で、黒いものでも親分が白だといえば今日から白になるからです。この点が共産党の原則である民主集中制(わたくしの理解では、あることが決まるまでは自由に議論するが、一旦決まったら、それに従って異論は唱えないというもの)の特徴であり、私が共産党を「普通の党ではない」という一番の理由です。」という。ある政党の構成員全員が同じことをいっているなどというのは、それだけで、とにかく気持ちが悪い。

 片や、日本共産党は任侠団体、こなた新左翼側は、『仁義なき戦い』に心酔する「ロマン主義者」。そうであるなら、今になって60年安保を振り返って、当時の日本共産党新左翼の動向について検討することのどこに意味があるのだろうか?

 ここまでで「激動」の第1章が終わり、次に「1965年~69年」の学生運動の高揚になるわけだが、そもそも学生は労働者ではない。学生が行うストというのも変なものである。授業をボイコットするということなのだが、大学の事務方はいろいろと困るだろうが、労働者のストとは違い、経営側(?)には困ることは何もない。

 しかし、わたくしも一応は当事者となった学園紛争(闘争)はまだ先の話なので、もう少し読みすすめなければならない。