池上彰 佐藤優 「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」 「漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972―2022」 講談社現代新書(2022) (2)

 さて、佐藤氏は現在われわれが直面している格差や貧困などの問題の多くは左翼が掲げてきた問題そのものである、という。そうであるとすると「左翼の思考」をとりもどさなければならないのだ、と。

 その問題に60年以降は、旧来の社会党共産党に加えて「新左翼」が加わってきて、「新左翼」の運動は1968年の安田講堂事件、日大全共闘による日大闘争でピークを迎えた、と。

 ここで疑問なのが、安田講堂事件、日大全共闘による日大闘争などは「格差や貧困」などという問題とは何のかかわりもないのではないか、ということである。日大の闘争は明確な目標があった。その当時の日大が(そして今も?)大学のありかたとしておかしいのではないか?ということである。

 では東大闘争は? 私見では、大学での闘争の過程でなぜか生じて来た、ある空間、バリケード封鎖の中に生じた祝祭的空間が、今まで過ごしてきた退屈な人生とはあまりに異なる血沸き肉躍るものであったので、ただただ、それが少しでも長く続くこと求めたのであって、格差や貧困などという問題は彼らの頭の片隅にもなかったはずである。

 「新左翼共産党系の青年組織である民青と激しく対立し、主に革命の方法論をめぐって激しく憎み合うようになった」と書かれているが、そもそも彼らは、本気で「革命」などということを考えていたのだろうか? 確かに看板は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」であったり、「革命的共産主義者同盟全国委員会」であったとしても、この革命というのは現状否認ではあっても、なにかを作り上げていこいと志向は皆無であったと思う。もちろん日本共産党の獄中何十年の幹部は、真剣に考えていたというだろうが、なにしろ革命のためにはソ連や中国の支援が(特にソ連の支援が)絶対的に必要であったので、ソ連の方向が変わるたびにそれに振り回されて右往左往したわけである。
 新左翼の側にあったのは「理論」だけで、現実の方法論はまったく持っていなかったと思う。

 それなのに、理論の争いから、角材や鉄パイプでの殺戮になっていったとされる。(対機動隊ではゲバ棒と投石) しかし、投石と角材でどうして革命ができるのだろう?

 池上氏は「なぜ、左翼は失敗したのか」を本書で徹底的に追及したい、とする。
 しかし、そこからいきなり「講座派」と「労農派」の話になり、前者が共産党、後者(向坂逸郎や山川均ら)が日本社会党へとつながるという話になる。向坂氏や山川氏は日本で社会主義革命を実現しようと本気で考えていたとされる。ただし暴力革命ではなく、と。
 しかし、向坂氏は非暴力の路線だったのだろうか? 三井三池の闘争は九州大学教授の向坂氏が現地におもむいて「資本論」などを現場の作業員に教えたことで先鋭化したわけで、向坂氏などは、一時期、ここから日本の「革命」が始まると本気で信じていたはずである。p23に「社会党左派は本気で日本で社会主義革命を実現しよう考えていたとある。ただし「非暴力」で、と」 しかし「非暴力」での革命というのは具体的にどんなものなのだろうか? 選挙で多数をとる? しかし選挙というのは「何が正しいかをわれわれは知ることができない」ということを前提にした制度である。だが、向坂氏は何が正しいかを知っている人である。氏は「前衛」の人なのである。(因みに日本共産党の理論誌はいまだに「前衛」という名前ではないだろうか?「日本共産党中央委員会理論政治誌」なのだそうだが。
 さて日本共産党については、池上氏は、戦後すぐの時点で、占領軍をファシズムから日本人民を解放してくれる「解放軍」であると規定してしまったことで、以後占領米軍に逆らえないことになるという致命的ミスを犯したとする。

 林達夫氏に「新しき幕明き」という文がある。少し長めに引用する。
 「戦後五年にしてようやく我々の政治の化けの皮もはげかかって来たようであるが、例によってそれが正体をあらわしてからやっと幻滅を感じそれに喰ってかかり始めた人々のあることは滑稽である。人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と健気な覚悟のほどを公衆の面前に示しているのを見かけたが、そういう口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思えない軽挙妄動をぬけぬけとやっていたのだから、唖然として物を言う気にもなれない。えてして、政治にうとい、政治のことに深く思いを致したことのない人間ほど、軽はずみに政治にとびこみ、政治の犠牲になるというのが、わが国知識階級の常套である。政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない。真のデモクラシーとは、この政治のメカニズムからくる必然悪に対する人民の警戒と抑制とを意味するが、眉唾ものの政治的スローガンに手もなくころりと「だまされる」ところにどうでも人が頼らねばならぬ政治のおぞましい陥穽があるといえよう。・・その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がOccupied Japan 問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。・・・籠の中の日本共産党-私はその運命には満腔の同情をそそいだものだが、その「籠」を忘れて大言壮語するものに、たまたまその籠の存在を注意すると、わたくしは極まって嘲笑され、叱咤されたものである。・・戦争後の精神的雰囲気の、あのうそのような軽さこそ、人民の指導的立場にある知識階級の政治的失格を雄弁に物語るものである。」

 池上氏の終戦直後の日本共産党の占領米軍への対応批判というのは、当時のOccupied Japan 問題がすっぽり抜けた、どうにも軽い議論としか思えない。
 1950年にコミンフォルム日本共産党の平和革命路線を幻想として切ってすてたため、日本共産党は分裂することになる。それで「山村工作隊」などの火炎瓶などを投げる闘争?を開始することになる。しかし1955の「六全協」でそれが放棄されるなどの迷走を続け国民の支持を失っていくことになる。「山村工作隊」などというのは、後の「あさま山荘事件」と同じ茶番でしかないと思う。

 このあたりのことを描いた小説に柴田翔氏の「されどわれらが日々―」がある。1964年の出版で芥川賞をとったようである。わたくしが中学3年か高校1年くらい? 前稿で述べた国語のS先生が「この柴田さんたぶんアルバイトで大衆小説誌に書いていますね。拾った簪が物語を動かしていくってパターンが大衆小説には多いんですが、この小説でも蔵書印のある古本が物語を進行させていますよね・・」

 しかし学校あるいは予備校でならった?ことで覚えているのがこういうことばかりというのはどうしてなのだろう? 予備校で習ったことで覚えているのは、数学の先生が「君らがやっているのは数学じゃない。本当の数学というのは「50cmの定規一本で100cmの二点間に直線を引けるか」というようなものなんだ。」 以来50年以上、未だに解がわからない。

 さて1956年に「スターリン批判」と「ハンガリー動乱」という二つの事件が起きる。これが日本の左翼が理想的な国と考えていたソ連のイメージが大きく変わることになる。

 それはさておき、向坂氏はハンガリー動乱でも、ソ連は地上に実現した天国なのであり、そのすることに間違いはないとする立場を変えなかった。この動乱は西側工作員の活動の結果なのであり、断固粉砕すべきとした。

 1959には三池闘争がおき、翌60年には「安保闘争」が起きる。ということで、ようやくわたくしの中学の時代に話が進むのだが、話はブントがどうとか、という方向に進んでいく。佐藤氏は「あらかじめ言っておくと、新左翼の離合集散に関する細かい経緯を理解する必要は全くありません」といっているが、同時にこの時期の左派の議論は知的水準が高かったとしている。そしてなぜ過去の遺物と化した新左翼の思想を今読むのかと言えば、「自分の命を投げ打ち、時には他人を殺すことも正当化した思想の力というものを、現代に生きる読者に反省的に学んで欲しいから」だとしている。そうすれば「危険な思想への免疫ができるから」と。ここまでが序章で、ようやくここから第一章なのだが、まだ43ページである。前途多難である。

 とにかく、ここで描かれている新左翼というのが「左翼」であるとはわたくしはどうしても思えない。その党派間の議論は、「一本のピンの先に天使が何人止まれるか」といったキリスト教神学での論争と少しも変わらないものとしか思えない。しかし、「一本のピンの先に天使が何人止まれるか」という議論でも多くの血が流された。思想というのは本当に恐ろしいものである。しかし、どうも池上氏にはほとんどそういう視点がないようにみえる。

 小室直樹氏は「危機の構造 日本社会崩壊のモデル 」(中公文庫 1991年 原本は1976年ダイヤモンド社)で「析出せられざる個人から成る集団の機能的要請にもとづく、盲目的予定調和説と構造的アノミー」という舌を噛みそうなことをいっている。
 浅間山荘事件で彼らはわずか十数名で東京を占拠することを計画し、そのための射撃訓練を山中でしていたわけであるが、その射撃能力たるや機動隊員も舌をまくほどのものであったという。
 盲目的予定調和説とは以下のようなものである。⓵自分達こそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。②この努力は、所与の特定した技術の発揮においてなされる。③したがって、この所与・特定技術の発揮においてのみ、全身全霊を打ち込めば、その他の事情は自動的にうまくいき、日本は安泰となる。
 連合赤軍を名乗る十数名は、自分達が訓練し射撃の腕をあげれば、あとは自動的に日本の革命は成就すると思っていたとされる。
 もしもそうであれば、革マル派中核派の理論の系譜などということを論じることはまったく意味がないことになる。
 とは言え、まだ先は長い。この左翼史はようやく60年安保にたどりついたばかりである。