本を読む あるいは文を読む 昔々看護師さんと読書会をしたときの話

 看護師さんというのは難しい立ち位置の仕事で、まず患者さんからは医者の単なる補助役のように思われていることが多い。看護という独自の役割を医療の場で果たしているというような認識が、患者さんの側にはあまりない。(医者の側にも、それがない人は少なからずいる。)

 それでたくさんの看護論が書かれることになるのではないかと思う。
 医者で医学概論とか医療とは何かといった論を読むひとはあまり多くはないと思うが、看護の分野では多数の看護論が書かれている。
 
 その中で面白いのは私見では(ナイチンゲールのものを除けば)ベナーによるものかと思う。(ベナー「看護論」 医学書院 もし読まれるのであれば新装版を。最初の翻訳はかなりの悪訳で、読みづらい。図書館などには古い版しか置いていないところもあるかもしれないので。)ベナー看護論―初心者から達人へ 2005/9/16 パトリシア・ベナー (著), 井部 俊子 (翻訳)

 そんなこともあって、昔、看護師さんたちと「患者を治すのは医者ではない、看護師なのだ!」といったアメリカの看護師さんの書いた勇ましい本の読書会を企画したことがあった。しかし数回で挫折してしまった。多くの看護師さんは本を読めないのである。

 どう読めないのか? 文を読まずに一語一語単語として読んでいくみたいなのである。それで、意味がわからない単語があるとそこで止まってしまう。
 文章を読む。文意を汲むといった読み方ができない。これは、わたくしなどは想定もしていなかった事態で、とても読書会どころではないことがわかった。読書ではなく読字あるいは読語なのである。
自分に当たり前のことが誰にでもあたり前ではないのだということをそのとき痛感した。

 看護師さんのために書かれた本には医者が読んでも面白いものもたくさんあるのだけれど(たとえば中井久夫氏の「看護のための精神医学」)、これも看護師さんよりも医者に読まれているのかもしれない。(看護のための精神医学 第2版 医学書院 2004)

 このブログを見ている方で文章を読むのが苦手というような方はまずいないだろうと思うが、世の中にはそういう人も少なからずいるわけである。

 そういう人が、いきなり学校で「走れメロス」とか「雨にうたれるカテドラル」などという読まされたときの困惑はいかばかりかと思う。

 だから、大岡信 谷川俊太郎などが編集した「にほんご」(福音館書店 1979)というような本も生まれるのだが、これはしかし文学者の作った本である。
 その書き出しは「わたし かずこ」である。つぎのページは「ないたり ほえたり さえずったり、こえをだす いきものは、たくさんいるね。けれど ことばを はなすことの できるのは、ひとだけだ。」

 わたくしにはどうしてもこれは文学者の書いた文に思えてしまう。

 日本は識字率ほぼ100%という世界に冠たる国である。
 むかし何かの外国の小説でストーブがあるのに、ある男が凍死してしまうという話があった。文字が読めず、ストーブの操作説明書を理解できなかったのである。日本ではありえない設定であろう。

 われわれが何かするときにわすれてはいけないことは、自分には当たり前のことが決して誰にでも当たり前ではないということではないかと思う。

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
 
 これは三好達治の有名な「雪」の全部だけれども、これを全く理解できないひとも少なからずいるのではないだろうか? 太郎の屋根? 太郎の家の屋根のこと? なんで雪が太郎や次郎を眠らせるの?

 わたくしの知人が英国人に「以心伝心」という言葉を教えたら、とても感心していたそうである。

 「俺の目を見ろ、何にもいうな! 黙って俺について来い。悪いようにはしない!」というのは、日本社会の後進性を表すものとして小室直樹氏が「痛快! 憲法学」で痛罵していた言葉である。(痛快!憲法学 小室 直樹 、 佐藤 眞 | 2001/4/26)

 しかしわたくしは、日本はいまだに「俺の目を見ろ、何にもいうな!で動いているように思う。