関川夏央「ドキュメント よい病院とはなにか 病むことと老いること」(小学館 1992年 講談社文庫 1995)

 このところ、緩和医療ホスピスに従事する医師の著作をとりあげ、少し辛口なことや悪口?のようなことを書いた。そうしているうちに、関川さんの「よい病院とはなにか」にも緩和医療をしている病院を取り上げたところがあったことを思い出した。
 この「よい病院・・」の刊行は1992年だが、取材は1986から1990年末におこなわれているとのことだから、もう30年以上も前の日本の医療の現場の取材の記録である。だから内容は古いといえば古い。なにより癌の告知がなされていない。胃癌を胃潰瘍などと説明している。医師も看護師も特にそれを疑問にも思っていない。
 緩和医療について、この本でとりあげられているのは東札幌病院という病床数170というやや小規模な病院である。(今、検索したら立派な総合病院になっているようであったが、緩和ケアも継続されているようである。)

 「患者さんが感謝しながら亡くなる、そういうナースは若い准看護婦だったりするんですよね」とある。「日本でターミナル・ケアという言葉がいちおう認知されるようになってまだ三年です」ともある。看護婦という言葉が使われているし、ブロンプトン・カクテルという言葉もでてくる。

 亀田総合病院の心臓外科の項で、ある患者の話として以下のような記述がある。亀田総合病院ではなく、別の病院でのことらしい。原著p41からそのまま引用する。

 「ある病院の心臓外科病棟に彼は入院していた。手術前日だった。入眠する前に、ナースが一人病室に入ってきた。もう消灯したあとのことである。それまであまり話したことのないナースだった。彼女はベッドにかがみこみ、彼に薄く口づけした。なんの予告もなかった。翌日彼は手術し、生還した。その後は病棟で会っても彼女の態度は従前とかわらず、まったく元どおりの関係を平静に保ち、やがて彼は退院した。
彼はいった。
 「あれほど深く感動したことはありません。忘れられません。かりに人間愛というものがあるなら、あれがそうでしょう」

 上記について、わたくしは評する言葉を持たない。

 この辺り、関川氏はナースという業務への社会的評価の低さという視点から論じている。
 関川氏はいう。「社会はナースに対し、その献身に見合う評価を必ずしも与えていないようだ。彼女たちは労働の目的を誰の助けも借りずに発見し、患者の感謝という、掴まえにくくうつろいやすいものと義務感だけを頼りに、過酷なローテーション勤務に耐えている。ナース向けの専門誌や専門書を読んでも技術論の充実に較べ、彼女たちの職業的拠り所を提示しようと試みる企画や文章は少ない。・・」
 この文章が30年以上前に書かれたものだなあ、と思うのはナースという言葉を受けるのに「彼女」が使われていることである。今なら「彼&彼女」としなければいけないところである。

 おそらく「ナース」を業務としているひとに潜在するコンプレックスは、自分達がしていることは「誰にでも出来ること、専門性を要しないこと」ではないかという思いなのではないかと思う。患者さんの傍にいること、患者さんに慰めの言葉をかけること、そんなことは誰にでも出来ること、専門性を必要としないことではないか? そういう思いがあり、それで看護の専門性をことさら強調する論文が書かれ、IV ナース(医師の指示を仰がず、自分の判断である範囲の薬剤を注射する資格をもつ看護師)といった資格取得を希望するものが多くあらわれるようになる。

 わたくしは緩和医療とかターミナル・ケアというのは、従来の医療の見方に看護の視点を取り入れていくことで、医療行為の幅を広げていく試みをいうのではないかと思っている。中井久夫氏が「看護のための精神医学」でいう「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。」である。

 p203に「ゆえなく誤解されているナイチンゲール」というところがある。ナイチンゲールの「看護覚え書」(残念ながらいい翻訳はまだない?)を評して彼女は比類のない現実家であり革命家であったといっている。
 三好春樹さんの「介護覚え書」(医学書院 1992)(この書名はもちろん「看護覚え書」のもじり)に「歩いて入院した老人が寝たきりで帰ってくる」という話がでてくる。「病人は病院で駄目にされている」?
 三好氏の本で紹介されるナイチンゲールの言葉。「病院がそなえているべき第一の必要条件は、病院は病人に害を与えないことである。」「病気のうちの多く、それも致命的な病気は病院内でつくられる・・」「ベッドがソファーより高くてよいわけがない」・・・
 三好さんはいう。「看護学の基礎は科学ではなく、生活なのだ。」

 「人間の長命化に、実は医学はほとんど貢献していないのではないか」ということも書かれている。関川氏があげるのは、たとえば石鹸の普及である。わたくしは日本が豊かになったことによる栄養状態の改善が一番大きいのでないか、と思っている。
 人間はいずれ死ぬという見方からは、医学は敗北の科学である。しかし、どのように治すかばかりでなく、どのような死を迎えるかということについても、医療にはまだ出来ることもあって 、ターミナル・ケアとか緩和医療はその試みの一つなのであろう。

 本書を読んで感じるのは関川氏も含めて、癌=痛みという思い込みがとても強いということである。わたくしは診断がついてもう2年近く、原病による痛みを一回も経験していない。例外なのだろうか?
 がん性疼痛は、がんと診断された時点で20~50%の患者に、進行がんの患者さん全体の70~80%に痛みがあるのだそうである。やはり例外かもしれない。