Roald Dahl 「 Matilda」その他

 20日くらい前の記事で、Dylan Thomas の「あの快い夜へおとなしく入っていってはいけない」に言及した。
その時、そういえばダールの「マチルダ」にもトマスの詩が引用されているところがあったなと思い出した。何となく「Poem in October」と思っていたのだが、そうでなくて「いなかの眠りのなかで」 In country Sleepだった。

 Never and never, my girl riding far and near
 in the land of the hearthstone tales, and spelled asleep,
 Fear or believe that the wolf in a sheepwhite hood
 Loping and bleating roughly and blithely shall leap, My dear , my dear,
 Out of a lair in the flocked leaves in the dew dipped year
 To eat your heart in the house in the rosy wood・・・

  ホニー先生が朗誦するこの詩をきいてマチルダは「音楽みたい」という。
最近、政治のことをしばらく書いてきたが、なんだが、心が干からび、がさがさしてくるようで、それが続くと、詩とか音楽とかに話を転じたくなる。

 わたくが一方的に私淑する文学の師匠は吉田健一で、それで詩といってまず頭に浮かぶのが、氏の訳詩集である「葡萄酒の色」(岩波文庫 2013)である。
 それで、そこからいくつかを・・。

 まず、イエイツの「墓碑銘」から。

ベン・バルベン山の裸の頂を背に、
ドラムクリフ教会墓地にイエイツは葬られた。
その先祖の一人が長いこと前に
そこで牧師をしてゐて、傍に教会があり、
道端に古い石の十字架が立つてゐる。
大理石も、あり来たりの文句も墓にはなくて、
附近から切りだされた石灰岩に、
イエイツの命令でかういふ言葉が刻まれた。
       生きてゐることにも、死にも
       冷い眼を向けて、
       馬で通るものは馬を走らせて去れ。

Cast a cold Eye
       On Life,on Death
       Horseman,pass by!

 もう一つ、ハウスマンの「シュロツプシャ州の青年 第六〇番」。

今や焚き火は燃え尽きようとしてゐて、
   灯し火も消え掛つてゐる。
肩を張つて、背嚢を背負ひ、
   友達と別れて、立ち給へ。

何も恐れることはないのだ。
   右も左も見ることはない。
君が果てしなく歩いて行く道に
   あるものは夜だけなのだ。

 これは第一次大戦に向かう若者に向けて書かれたものらしい。

 また、有名なシェイクスピアソネット第一八番。
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:

 これは大学の教養学部の時、英語の先生が、「きみたち、将来、英国にいくことがあったら、この詩くらい知っていないと向うの偉いさんとはつきあえないよ」といって教えてくれたものだった。
 なにしろ、シェイクスピアと言えば戯曲しか知らず、詩人でもあったことさえ知らない無知蒙昧な人間であったので、「へー?」と思っただけで、その後、イギリスの偉いさんとも会う機会もなく現在に至っているが、このソネット18番の訳もいくつか見て来た。贔屓の引き倒しかもしれないが、吉田氏の訳がもっとも自然というか、翻訳臭が感じられない訳になっていると思う。(そうでもないかな?)

君を夏の一日に喩へようか。
君は更に美しくて、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。・・・

 「夏の期限」といのは日本語として少し変だろうか? And summer's lease のlease は今もわれわれが使うリース、貸すという意味らしい。自然がわれわれに恵んでくれる夏という期間が、という意味?
 吉田氏の「英国の文学」だったかに、英国の冬は醜く厳しく長く、それにくらべて夏は言葉に尽くせないくらい美しいが、ごく短い、というようなところがあった。「夏の夜の夢」の夏とは五月ごろを指すらしい。ここでの「夏の一日」もそうなのであろう。

 最後にもう一つ、ホプキンスの「天国の入り江」

     私は泉が涸れず、
      固い雹が
 降ることもなくて、百合が幾輪か咲いてゐる
      野原がある所に行きたかつた。

     又、嵐が来ることはなくて、
      入り江に
 緑色をした波のうねりが収り、
      海とは思へない辺りにゐることを願った。

 これは、一人の女が尼になる時の気持ちで書かれたのだそうである。

 ホプキンスはイギリスのカトリックである聖公会の人であった。その「ドイッチュラント号の難破」の一部も吉田氏の本で読んだことがある。(「英国の近代文学」(岩波文庫 1998))

   ・・・
   イエス、心の光。
   イエス、処女の子。
  この尼が貴方に栄光を与えた夜、
   どんな祝祭がそれに続いたか。
それは、ただ一人の汚れがない女の祝祭。
・・・

 キリスト教、特にカトリックというのは凄いものだと思う。とてもわれわれには太刀打ちはできそうにない。