長谷川郁夫「吉田健一」(4)第3章「二都往還」

 
 この章は、ケンブリッジ入学後の時期をあつかう。
 ケンブリッジにいくことを目指して、その準備のため入学の半年前に渡英したときには建築家を志望していた青年が入学の時には英文学専攻へと希望を変えている。入学試験対策で、シェークスピアの「十二夜」や論語の丸暗記のようなことをしたらしいが、それによって志望が変わったのだろうか? この理由については長谷川氏の本にもかかれていず、吉田健一自身も語っていない。
 フェローのディッキンソンとは日本の知人からの紹介状を介して知ることになったらしい。しかしこの日本人は特にディッキンソンと親しいというわけではなく、「日本から知り合いの若いものがいくので、ひとつよろしく頼む」というような安直な紹介状であったらしい。
 ディッキンソンは中国にはいったことがあって、その地の知識人と親しく接し、中国が大文明国であることを知っており、当時の英国人がもっていた中国は野蛮国であるとの認識を糺すために、匿名で小冊子を書いていた。それを初対面の健一青年に署名した上でくれたらしい。
 ディッキンソンは古典学を専攻し、プラトン学者として名をなしたひとであるが、経済学や国際関係の専門家でもあって国際連盟の設置にも尽力したという人で、ケンブリッジでは国際政治について講じていた。フォースターはこのディッキンソンを深く尊敬し、死後その伝記を書いているとのことである。フォースターの「ハワーズ・エンド」の巻頭にあるフォースター自身の言葉「only connect」という言葉はまたディッキンソン自身の信条でもあり、この世のすべてについての相互の結びつきを知ることがその目指したものであると、吉田健一はいっている。健一氏留学当時は68歳、使徒会の一員でブルームズベリー・グループの多くと親交があった。
 ディッキンソンはウェイリー訳で老子荘子陶淵明あるいは李白の詩に親しみ、当時刊行中であったウェイリー訳の源氏物語にも親しんでいて、日本という文明国にも関心をもっていた。それで日本からきた健一青年にも興味をもったということがあるらしい。
 スーパーヴァイザーとしてルカスを選んだのは健一氏のほうであり、「交遊録」を読んでもルカスの影響は決定的であるが、なぜルカスを指導教官として選んだのかもまたわからない。ルカスは当時36歳、使徒会の一員でブルームズベリー・グループに近く、フランス文学をふくむヨーロッパ文学全般に通じていた。長谷川氏はルカスによって、ケンブリッジ入学時には「観念」であった文学がもっと血のかよったものとなっていったとしている。
 ヨーロッパ全般の文学に該博な知識を持つ師の下にいれば、生徒としては自分はまだあれも知らないこれも読んでいないという焦りが生じることにもなる。吉田氏によれば、そのような混乱と焦慮がこそが若さであるのだが、若さのもつ唯一の利点はその混乱を生き抜けるだけの体力をもっていることであり、混乱と焦慮自体はただもう無残なのである。このような自分の無知の自覚から生じる焦慮と、近代という時代がもたらす焦慮の区別が吉田氏の書いたものでは今一つはっきりしない。だから自分の若い時の未熟であるが故の焦慮も近代のもたらした必然とも読めるような部分が散見する。
 さて、65ページが問題である。フォースターに会ったのはただの一度であることを述べる記載で、フォースターのことを「「モーリス」の作者」と書いている。「モーリス」はフォースターの死後に公になった同性愛をあつかった小説である。そのフォースターと過ごした時間を「少年の知的緊張の背後に、喩えばギリシャの竪琴が奏でる音楽が流れていた、と私には想像される。少年は、“使徒会”の名前に象徴されるケンブリッジの学統の核心を覆う、透明な闇と向き合っていたのだった」と長谷川氏は書く。そしてその後で、キングという人のフォースター伝から「このほとんど男性ばかりの環境は−同性愛そのものではないにしても−当時のキングス・カレッジでは、おおむね同性愛を好むものであった」という記述を引用し、キングの本でディッキンソンも男色者であったと明記されていることを指摘して、「ホモ・セクシャルの精神性は、ギリシャから中世、ルネサンスを経て、古きヨーロッパの大学内で純粋培養された」と書く。長谷川氏は筆を抑えているのだが、吉田健一がわずか半年でケンブリッジから帰ったことの原因(の少なくとも一つ)として、このキングスの「濃密な雰囲気」になじめなかったということがあるのではないかということを示唆したいのであろうと思う。
 英国の文学者なら英国の文学に親しんでいることは当たり前であるが、しかしその伝統は重荷でもあり、国外の文学を導入することによりそこを切り抜けようとするのが当時の英国の文学の傾向だった、とされる。このことを吉田氏は「ケンブリッジにも近代が訪れようとしていた」という言い方で表現している。吉田氏も混乱していたが、その当時の英国の文学界もまた混乱していた。しかし誰でもがそこに焦慮を感じるわけではないわけだから、焦慮を感じるものこそがその当時の先端にいたことになる。それ故、自分もまたその先端にいたのだと健一氏自身が回想している。
 こういうあたりがわからないわけで、英国留学当時の吉田氏は、若さ故の無知の自覚の焦慮の中にいたのか、完璧を求める時代としての近代の性格故に焦慮の中にいることになったのか、この辺りが長谷川氏の本の記載によっても不分明であるように感じる。なにより師のルカスが近代の焦慮というようなことには全然無縁のひとのように氏の書くものからは読めるのである。「交遊録」の福原麟太郎の章で、自分は英国から帰ってからしばらく英国の文学に興味ををなくしていたが、それはその頃の英国のでは文学が沈滞期に入っていたのに対して、同じ時期のフランスは文学史上でもまれな豊穣な一時期をむかえていたことが関係すると言っている。
 同じ「交遊録」のルカスの章で吉田氏は「併しルカスがこの一派(T・S・エリオット派)の欺瞞、見方によっては自己欺瞞に苛立たずにいるにはその古典文学の知識が正確であり過ぎた。既に「荒地」が出た時に書評でこれを認めなかったのは先ずルカスだけだったのではないかと思う」と書く。「荒地」の発表は1922年ごろらしい。健一氏10歳のころである。「荒地」を吉田氏がどう評価しているかは微妙であるが(「プルフロック」は○、「荒地」は△、「四つの四重奏」は×というような感じだろうか?)、「文学の楽み」の第1章の「大学の文学科の文学」はそのような方面を論じていて、「荒地」が「褒められ、今でも褒められているのは、そこに神があるとか、ないとか、現代人の絶望がそこに窺えるとか、現代そのものの姿がそこにあるとかいう点でである」といって、「詩の対象、或は材料が議論の中心になっている」ことを批判し、「一般的な問題に個別的な作品を結び付けて何かと意見を述べるのは・・文学というものに惹かれてこの詩を読むもの」は決してしないことであり、「エリオットの詩をなしているその温みとか、言葉遣いの魅力とか、優雅というもの」こそが大事なのだと言っている。ルカスがどのような方向から「荒地」を認めないとしたのかはわからないが、エリオットの詩に「現代人の絶望がそこに窺えるとか、現代そのものの姿がそこにある」とかと読んでほしいような何かが間違いなくあることは確かで、それを嫌ったのかもしれない。福原麟太郎氏が「エリオットにはどこか信用し切れないものがあると言った」ことが「交遊録」に記されている。
 吉田健一が留学した当時の英国は第一次大戦後の英国である。今でこそわれわれは歴史の知識によって、ファシズムが生まれナチスドイツが生まれ、そしてそれがその後どうなったかを知っている。しかしブルームズベリー・グループもその一つであったかもしれない反=19世紀西欧の数多の思潮の一つとしてファシズムもあったのかもしれないわけで、事実、相当多くの西欧の先端的な知識人がその陣営に加担した。
 長谷川氏が引用している「チャーチルと文学」という吉田氏のエッセイで、氏が留学していた当時の英国の知的な分子(ディッキンソンやルカスも含む)には反チャーチル熱が横溢しており、健一氏もまたそれに浮かされていたことが書かれている。チャーチルも当時は「ファッショの権化」とされ、ヒットラーの脅威に対し軍備の拡張を主張したこともその評判を悪くしていたと書かれている。
 当時の英国の文学上の寵児はT・S・エリオットで、その応援団?としてリーヴァスやリチャーズがいた。ルカスはそれに反対する側にいたわけで、上に引用した「文学の楽み」や後年の「東西文学論」や「文学概論」はルカスの文学論そもままといえないこともない。そして日本でもエリオット的な「文学を恐しく真面目に、鹿爪らしく扱う態度に徹した一派」が主流であり、だからこそ吉田健一はいつまでも、傍流の変わり者の文学者というあつかいをされ続けたという見方がでてくる。
 「二都往還」という章題は健一青年がロンドンで鬱屈した健一青年が冬の休暇を利用してパリに旅行したことをいっている。しかしケンブリッジで学びはじめて数ヶ月でなぜこのような鬱屈が生じたのかがよくわからない。そしてパリからロンドンに戻った健一青年はもう日本に戻ることを考えはじめていたとされる。それは「日本人としてのアイデンティティーを恢復するためであった」と長谷川氏はいう。日本語より英語のほうがうまい18歳の健一青年はデラシネで根を持たなかったのだ、と。
 しかし、それがなぜ、「文士になりましょう」に直結するのか? 「日本に帰ることと「文士になる」ことが説明抜きに同義であるこという飛躍のなかにこそ、「吉田健一」は胚胎した。 /少年は、詩も小説も批評も一篇たりと日本語で発表したことがない。日本の文芸界の現実を知らない。一九二〇−三〇年代の“近代”の嵐が渦巻くその状況については全くの無知であり、かれの思考回路には英語(だけ)の血が流れれいた」と長谷川氏は書くが、これは氏もいうように「無知で幼稚な夢」で、端的に理解不能な行動であり、理工系の学問を英国で学ぶはずであった息子が「文学をやりたい」といって勝手に日本に帰ってしまったことに父茂が激怒したのも当然である。
 結局、ここまで読んできても、なぜ建築家志望でケンブリッジに渡った青年が、文学志望にかわり、その勉強も勝手に放り出して日本に帰ってしまい、文士になりましょうなどと思うようになったのか、その肝心のところは何も明らかにされていないように思う。こういう行動をする人間を通常は世間知らずのお坊ちゃんと呼ぶ。こういうお坊ちゃんはいくらでもいて、その大半はものにならない。われわれは後にこの青年がものになったことを知っている。だから、この当時のその行動が意味ありげに見える。
 一人の青年がいて、彼は父の仕事の関係で小さな頃から中国や英国ですごすことが多く、日本語よりも英語のほうがうまく、母国語が英語であるような青年に育った。彼は建築家になることを希望してケンブリッジ大学に留学した(日本よりも英国でのほうがよりよく学べると思ったため?)、しかし受験準備のためにシェークスピアの戯曲の丸暗記などをしているうちに英文学研究者になる方向へと志望を変えた。一つの仮説を立ててみる。この青年は生来並外れた言葉への豊かな感受性を持っていた。それで受験準備で英文学に親しむうちに、その天賦の能力が花開きかけてきた。それを自覚した青年は文学の方へと志望を変えた・・。
 しかし天賦の才などというのは履歴をいくらたどっても説明できるものではない。「交遊録」の福原麟太郎の章で、文章か学問かの選択をせまられた時、文章の方を選んだのは結局は「体質」の問題だったというようなことを言っている。そういう言葉しかないのだと思う。才能があってもそれが必ず花を開くとは限らない。氏の場合、後からみてそれが開花したことが確かであるとすると、それがなぜ可能となったのかの一端は履歴をたどることで明らかになるかもしれない。評伝が明らかにできることはそこまでである。
 そしてこの評伝を読むと、氏が世にいれられるまでに異様に長い時間を要していることのほうがむしろ印象的である。とすると、なぜ氏がなかなか世に出ることができなかったのかのほうが問題となる。たとえば、その当時の日本文学界にあった歪みが正統的な文学者である吉田氏を異端者あつかいして容易には仲間として認めることをしなかったというような見方で、多くの吉田健一論はそのような方向にある。時代が成熟することにより、ようやく本物の大人の文学者としての吉田氏が正当な評価をうけるようになったのだ、といったものである。長谷川氏のこの本もその流れの中にあるのかもしれない。それは追々本書を読みながら考えていくことにするが、後年、大人の文学者というような言われ方をする吉田氏は青年時代がとても長かったひとなのである。
 本章で描かれている健一青年はまだ父親の掌の中にいる。もしも大人になることの一つの条件が自立して自分で食べていくようになることであるとすれば、本当に吉田健一が父から独立するのは戦後のことではないかと思う。かりにそれを昭和20年とすれば、健一氏は三十三歳である。大人の文学者どころか青年の文学者だった時期が随分と長かったひとなのである。
 「乞食王子」という氏の随筆集がある。1956年(昭和31年 氏44歳)の4月から7月まで西日本新聞に連載された随筆を集めたものである。この頃は、もう青年でなくなっている。(思い返してみると吉田恵一に文章に親しみだした頃、一番よく読んだのが随筆だった。「東西文学論」とか「文学概論」とかは随分と変なことが買いてあるような気がしてなかなか納得できるものではなかった。随筆の類だって随分と変というか、その当時に常識とされていたこととに一々逆らっているようなことが書いてあって、意表をつかれることが一再ならずあったが、それで目を開かされた思いをすることも度々で、読んでいるとこちらの頭が刺激された。要するにいろいろと考えることになった。そういうことで吉田氏を信用できる書き手を思うようになった。)
 その中に「色々と華やかだった頃」という文がある。第一次世界大戦が終ってからの10年ばかりの日本について、「当時のヨオロッパで位日本という国が持てたことは、有史以来ないかもしれない」と書いている。そして、「その頃、英国に留学した日本人などが受けた待遇には非常なものがあって、ウエィレイの「源氏物語」の翻訳が進行し、日本は文明国であることが証明されているのであるから、最高級の知識を身に付けた人間と勘違いされ、芸術と文化の夢の国から来た使者として扱われて、向うは何も知らないから、何をしても相手の感銘を深めた」というのは多分に自分のケンブリッジ留学時代の経験を戯画化して描いたものであると同時に、戦後のアメリ進駐軍への日本人の接し方への皮肉もふくまれているのかもしれない。
 その時期のことを氏は「明治の盛代が過ぎて大正期の沈滞と思い上りに変り、時代が昭和になって漸く一切が崩れ去ろうとしていている時だった」と書く。司馬遼太郎の路線だろうか? 「現代文学と言っても殆ど見るべきものはなくて、思想を茶の湯や生花と同様に一種の身嗜みと心得ていた人間がマルクスの流行に薙ぎ倒され、治安維持法が議会で可決されて、馬鹿面をした華族が貴族で通っていた。」 ここらは林達夫
 それに続いて「英国の今昔」というのがあって、最初ケンブリッジに留学した頃の英国は「兎に角暗い感じがする国だった」という。「失業者が多くて、そういう人間の打ちひしがれた生活と、金のある連中の派手な遊び方の対照がどうにもひど過ぎた」ので「貧乏しているものの生活のひどさは、顔色や体格を見るだけで相手の身分が大体解った。・・望みを失った人達が作り出す空気がどれだけやり切れないものか、今でも印象に残っている」という。しかし、戦後ふたたび英国を訪れた時には、見違えるようになっていて、「英国が一皮剥いた姿でそこにある感じがした。その一皮を張っていた垢や埃は貧苦から来る絶望であり、自棄になった有閑階級であり、英国の支配を受けていた各民族の怨み」であったので、そういうすべてのものが消えていた、と。
 さらに「今の英国」という文がある。そこに「可愛がられて飼われている犬は直ぐに解る。それは毛並みや肉付きで、と思うものがあるかも知れないし、それも勿論あるが、何よりもそのことがはっきりするのは犬の眼付きである。それは必ず沈んだ色をしたもので、喩えて言えば、風がなくて曇った日の空がそこに映っている。野良犬や、いじめられつけている犬はなすべきことや、避けるべきことが多過ぎて、沈痛な眼付きをしている暇などない。眼は終始動いていて、肉の切れ端を咥えて逃げたりする時は寧ろ溌剌とさえしている。 /何故、可愛がられている犬があんな眼付きになるかと言うと、情を籠めた扱いの温かさとか、喉が乾いた時の水とか、よく乾いた寝床とか、なければ努力して得なければならないもの凡てに恵まれていて、後は人生とか、退屈とか、孤独とか、努力して見た所でどうにもならないものと対決するばかりであり、それでいつもそういうものと向き合っているからである」というのがある。この最後の文は丹生谷貴志氏の「獣としての人間」と題した吉田健一論(吉田健一集成 5 月報)に引用してあって、丹生谷氏のこの論はいままでに読んだなかで一番説得的であった吉田健一論なのであるが、ここでの犬は実は戦後の英国人のことなのである。
 これらの文のもっと前の方には「文明と野蛮」という文があり、「併し文明人ならば、原子爆弾がそれまで人間が築き上げて来た文明の結晶であって、この発明が火薬の出現よりも更に画期的なものであることを認める筈だと思う。従来の観念にこだわらずに、頭を自由に、縦横に働かせることで、人間は原子を発見し、次に原子を分裂させることに成功した。今日、われわれは火薬なしで生活することは出来なくなっている。音が聞こえないだけで、世界のどこかで毎日、どの位の量に上る火薬が我々の生活を支える為に爆発しているか解らない。そしてその点では、核兵器の原理は火薬と蒸気と電気の発見を兼ねてこれを遥かに上回っているものである。」 この辺りは吉本隆明かもしれない。
 この人、「東京の昔」などというのを書いて、昔はよかったと書くわりには、暮らしやすさの向上ということは無条件で肯定をするのである。
 吉田健一がいう「近代」が「貧苦から来る絶望」とか「自棄になった有閑階級」というのとどのような関係にあるのか、それがよくわからない。「ブルームズベリー・グループ」とか「使徒会」とかいうのは間違いなく有閑階級のひとたちである。D・H・ロレンスは貧しい炭鉱夫の息子であった。「近代」の重苦しさがそれとどのような関係があるのだろう? 何しろ後年の「ヨウロツパの世紀末」では「貧苦」というようなことはどこにもでてこなくなるのである。
 次の第4章は、「文士になりましょう」といって日本に戻ったがなかなか芽がでなかった時代の吉田氏を描く。というか、第7章「海軍二等主計兵」まではずっと氏は芽がでなかったのである。
 

吉田健一

吉田健一

交遊録 (講談社文芸文庫)

交遊録 (講談社文芸文庫)

乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)