長谷川郁夫「吉田健一」(7)第8章「宰相の御曹司」 第9章「「鉢ノ木会」異聞」

 
 戦後しばらくの吉田健一をあつかっている。
 昭和20年(終戦) 33歳。
 「終戦直後の吉田さんは、ぽっかりと穴のあいた“空白”の状態にあったように観察される」と長谷川氏はいう。
 この頃、外相であった父茂の秘書役のようなことをしていたという。しかし父茂への接触を図る人間が自分にも接触してくるなどがいやになり、現実政治に適さない人間である健一氏は早々にこれを辞めたらしい。(なおこの辺りで、健一氏の英国留学は父茂よりも母雪子の意向が強かったことがいわれている。)
 
昭和21年 34歳。
 父茂が宰相となる。祖父牧野伸顕の回顧談の聞き役が戦後初めての仕事となった。「牧野伸顕回顧録」で、中村光夫と共に聞き役となって本をつくった。
 
 昭和22年 35歳。復刊した「批評」の同人として福田恆存を知る。「新夕刊」という新聞の渉外部長となる。この頃は占領下で新聞刊行には占領軍との折衝がいろいろと必要であり、英語が達者なひととして吉田氏が選ばれたらしい。
 吉田満の「戦艦大和ノ最期」の刊行をめぐってもGHQの検閲部門との折衝に吉田氏がかかわったらしい。
 ラフォルグの短編の翻訳に吉田氏自身のラフォルグ論をくわえた「ハムレット異聞」が刊行される。この本が大岡信飯島耕一杉本秀太郎などといった人たちにあたえた影響が述べられる。
 鎌倉アカデミアで英文学を講義した。
 
 昭和23年 35歳。
 ようやく雑誌などへの寄稿がはじまる。延原謙が編集する「雄鶏通信」で「イギリス通信」の連載をはじめた。吉田氏の回想によれば、自分の文章の書き方は延原謙氏に指導によりやっとまともなものとなった。その延原氏の依頼で「英国の文学」を書くことになり、翌24年に刊行されることになる。この頃から中村光夫福田恆存らとの会がはじまる(後の「鉢ノ木会」)。
 
 昭和24年 36歳
 牧野伸顕死去。
 國學院大學文学部非常勤講師をしばらく勤める。
 「あるぴよん・くらぶ」に参加して、福原麟太郎を知る。
 「英国の文学」刊行。はじめての自著。これまた大岡信辻邦生江藤淳などに大きな影響をあたえたことが指摘される。
 
 昭和25年 37歳
 前年、池田書店の編集者である天野亮から「シェイクスピア」執筆を依頼されたのに応えて「ロメオとジュリエット」などを雑誌に発表。この天野亮は後の吉田健一の本の刊行に大きくかかわるひととなる。
 東京新聞の匿名コラム「大波小波」に寄稿をはじめる。これが文士たることを志向した吉田氏の文士としてのかろうじての仕事ではあった。この当時の氏は世間からみれば「時の総理大臣の長男である“ディレッタント”に過ぎなかった」と長谷川氏はいう。
 この年から翌年にかけて、ロレンスのチャタレイ裁判にかかわることとなる。「チャタレイ夫人の恋人」は小山書店から刊行されているが、その店主の小山久二郎は吉田氏に文学原論の執筆をすすめてくれた人らしい(のちの「文学概論」)。「チャタレイ・・」を論じた文から「そこで輝いてゐる太陽は、ヨオロツパを支配する神の被造物たる太陽ではなく、地上に人間が生存している限り、どこの空にも昇る太陽である。この太陽の下に、万物は国籍を脱して美しい」という部分を長谷川氏は引用している。
 
 昭和26年 38歳
 スティーブンソンの「旅は驢馬をつれて」などの翻訳。この頃の「酒を道連れに旅をした話」「旅の道連れは金に限るといふ話」などの随筆はのちの紀行随筆作家としての吉田氏の誕生をつげるものであったと長谷川氏はしている。このころ吉田氏の“戦後”は終わったと長谷川氏はいう。
 
 もしも吉田氏が「ヨオロツパの世紀末」でブレイクすることがなく、それ以降の著作も書かれなかったとしても、「英国の文学」は後世に残るものとなったかもしれない。
 わたくしは氏の戦後最初の刊行物である「ハムレット異聞」をもっている。学生時代、神保町の古本屋さんで吉田氏や福田恒存氏の本などを探していて、偶然に見つけた。実に汚い本であった。昭和25年5月刊行で定価九十圓となっているから、昭和22年に刊行されたとされるものとは別な本かもしれない。映画か何かのハムレットの場面が表紙に書かれている。あるいはこの頃ハムレットの映画でも上映されて、それを当て込んで再刊されたのかもしれない。同じ角川書店からの刊行ではある。学生であった当時のわたくしにはとても高価な値付けがされていたと記憶している(二千円以上?)。それでも無理して買った。その「ハムレット」とか「パンとシリンクス」などは実に面白かったのだが、そこに付された吉田氏の「ラフォルグ論」はまったく読めないというか日本語以前という感じさえした。翻訳文の流麗と氏の論の文の晦渋のあまりの落差がどうにも理解できない思いがした。
 「鉛の格子で菱形に区切られてゐる黄色い硝子がはめてあつて、あけると軋つて微かな音をたてるお気に入りの窓から、奇妙な人物に違ひないハムレットは気がむいた時に水の上をあちらこちらと眺め廻すことが出来た。それは水の上でも空でもどちらにも通用することで、彼の瞑想や錯乱はさういふ場所を出発点としたのだつた。」(「ハムレツト」冒頭)
 「私がラフォルグの作品を読んで最も頭に浮ぶものは、「近代」といふものゝ正体に就てゞある。近代は、いはばなくてもよかつた時代であり、因果関係によつてその存在を説明することしか出来ない時期なのである。すなはち理想論的に言へば、また近代以前までは恐らく事実であつたことに従へば、過去はある時代に於て歴史的なものであり、それを史的に統一出来る材料に於て貧困であり、之に反して現在は現実に充足してゐて、その無碍の現実感は過去を現在の見地より観照し、未来を現在の出発点として想見することを許すものなのである。」(「ラフォルグ論」第二センテンス)
 「それは水の上でも空でもどちらにも通用することで・・」この最後の「で」が健一節で、翻訳ではすでに後の氏の文体が予告されている。一方、「私がラフォルグの作品を読んで最も頭に浮かぶものは・・」というのは日本語になっていない。「過去を現在の見地より観照し・・」というのは何なのだろうか? 先に英語が浮かんでそれを翻訳しているのだろうか?
 この「ハムレット異聞」が大岡信氏にあたえた衝撃が、後年「ユリイカ」復刊にさいして、吉田氏に依頼する新連載は「ヨオロツパの世紀末」しかないという大岡氏の提言につながるわけで、氏の生涯はうまく円環をなすわけであるが、ラフォルグに心酔する吉田氏と「ヨオロツパの世紀末」以降の氏にどうしても連続しない部分があることを感じる。というか「ハムレット異聞」と「英国の文学」のつながりも今一つ見えないのである。どうも二人の吉田健一がいるように思えてしまう。後年の氏の随筆は明らかに「英国の文学」の延長線上にあると思う。それならチェタレイ裁判での氏はどうなのだろう? ロレンスはラフォルグなどには何の関心ももたない人間だったであろう。そんなものは生命力の衰弱であるとして、それで終わりではなかっただろうか?
 長谷川氏が引用している「そこで輝いてゐる太陽は、ヨオロツパを支配する神の被造物たる太陽ではなく、地上に人間が生存している限り、どこの空にも昇る太陽である」云々は「英国文学の横道」の中の「ロレンスの思想」の一部であるが、講談社文芸文庫版で13ページほどのこの論は奇妙な論で、後半の8ページはロレンス論というよりもヨーロッパ論になっている。「ロレンスの作品を読んでいると、彼ほどいつも気難しくて、いらいらしている男はないという感じがする」というのが書き出しで、「或る得体が知れない情熱が、凡て彼が書いたものを貫いてい」たので「生前、彼がどんなに付き合い難い男だったろうという気がする」とされる。ロレンスは社交などということは薬にもしたくない人間だったわけである。「ルソーとヒューム」という区分からすれば、明らかにルソー側の人間なのである。そして吉田氏はヒューム。
 しかしと吉田氏はいう。「それは、厭世家の不機嫌に似ている」がロレンスはおよそ厭世家とは異なった人間で、それは彼の作品に出て来る自然の風景、とくに動物の描写を読めば解るということがいわれる。そして「動物を愛するように、人間も愛することが出来ること、それが聊かの妥協も峻拒するロレンスの念願だった」というところからヨオロッパ論になっていく。「我々の生命にとって本質的なものは、凡て原始的な感情ばかりである。然もそれを抑圧し、否定することが、野蛮の状態から文明への過程だと考えられるようになったのはいつ頃からなのだろうか」という疑問が提示され、ギリシャやローマではそうではなかったということがいわれる(「ギリシャ人にとって、人間は動物だった」)。しかしハドリアヌス皇帝が死に際に、animula vagula, blandula 云々の言葉を吐いた辺りからそれがおかしくなるとされ、「キリスト教が東漸する代りに西に向って拡って行ったことは、人類にとって幸福なことだったかは疑問である」といわれる。「人間各自に与えられた不滅の霊魂の観念」がギリシャ、ローマの時代までの人間の存在の根本概念をなしていた調和を破壊したことが指摘される。その破壊による「霊魂と肉体」あるいは「精神と肉体」の決定的な乖離こそがヨーロッパの文化史をなしたのである、と。それによってヨオロッパ人が蒙った精神的な傷害は遂に完全には癒やされることなく現代まできているが、ヨオロッパではキリスト教に取って代わったものが科学であり、それがまたキリスト教の観念論と精神主義を拡大していったとされる。フロイトの論も科学ではなく、科学が肉体に加え続けて来た暴力に対する、ヨオロッパの土壇場での反抗の例であった、と。
 ロレンスが苛立ったのはこのヨオロッパに充満する虚偽に対してであり、ロレンスは自然人としてそれに反発したのだ、と。しかし反発したのは彼が自然人ではなかったからであるとされる。「もし彼が、我々東洋人の如くに自然人だったならば、彼はこの混乱を他所にして幸福だった筈である。」 しかし彼は西洋人であったが故に「ヨオロツパ文化の悲劇そのものを拒否することに、彼の生命の血路を見出そうと決意したのである。」
 ヨーロッパの観念論と精神主義は「性」の問題を抑圧し避けることによってなりたっていた。だからこそ性の問題を正面から見すえるロレンスの立場がヨーロッパ文明が陥っていた泥沼から脱出する方法を示すことになったのだのだ、と。
 ここで自然人という言葉が使われているのは、河上徹太郎の初期の評論「自然と純粋」のなかの「自然人と純粋人」を意識しているのであろう(例へば赤い林檎を見て、「この林檎は赤い。」といつた場合、自然人は純粋にそれだけを意味してゐるのに対し、純粋人は「その陰は紫だ。」といふ意味を必然的に含んでゐるのである。)
 ここでいわれているような見方が氏が若い日にルカスから学んだものでもあるのだろう。(「そのお茶に来てくれた時にこつちはどうも自分には良心というものがないと思うと言った。大概の若いものが考えたり言ったりすることであるが、それだけでは話にならないので寧ろ自分の基準は見事であるか醜いかというようなことにあると付け加えた所がルカスが椅子から体を乗り出した。或は乗り出したのよりもいきなり体を起した感じだった。そしてそれがギリシャ人が標榜したことなのだと言ってその時 kalosk'agathos という言葉を始めて聞いた。日本の理想もそこにあるのだということを解ってくれたのかと思えば今でも嬉しい。」(「交遊録」「F・L・ルカス」の章)) 贔屓目でみれば、若き日の吉田氏は「見事であるか醜いか」という以外の基準が一切失われた「近代」という時代の中で自失していたのであるが、後にキリスト教という負の遺産をもたない日本を「現代」という言葉で肯定するようになったということかもしれない。
 丸谷才一鹿島茂三浦雅士による「文学全集を立ちあげる」という変な本があって刊行される予定もない文学全集に誰の何を収載するかを論じている。そこで丸谷さんが「僕はロレンスはあまり好きじゃないけれども、外すわけにはいかないでしょう」といって、「デイヴィッド・ロッジが、「何と言っても動物を書かせたら、うまいのはロレンスだ」と言っている。・・人間を動物的に把握しているんだろうね、あの人は(笑)。」 ここから(笑)を除いたのが吉田氏の論なのだと思う。(ついでにいうと、この「文学全集を立ちあげる」の「日本文学全集」についての議論で、丸谷氏が「吉田健一は一巻にしませんか?」といって、三浦氏が「えっ、吉健一巻ですって。嬉しいですね(笑)」と答えて、「ヨオロツパの世紀末」「英国の文学」「英国の近代文学」「金沢」「旅の時間」「怪奇な話」「酒宴」などを収める一巻が構想されている。これは刊行される予定のない全集についての気楽な論であるが、現在刊行中の池澤夏樹氏単独編集の「日本文学全集」では本当に吉田健一が一人で一巻になるらしい。マイナーなディレッタントがいつの間にかメインストリートの大批評家のあつかいになってきているようである。)
 ロレンスの奇書「無意識の幻想」(胃の後ろにある太陽神経叢によってわれわれは自分が自分であることを感じるなどということを主張している)の「あとがき」で訳者の小川和夫氏がこんなことを言っている。「ロレンスの作品で、もっとも驚嘆すべきことのひとつは、その自然描写である」といって「チャタレイ夫人の恋人」の第12章の一部をひき、「作者がヘロインのコニイといっしょに、花々の生命のなかに、のめりこんで、いわばその生命のさなかから描いているような具合である。・・花々はたがいに感応している。それらは一体となって、伸び、ゆらめき、呼吸している、それらはひとつの生命の、同時なる個々なる発現のように見える。・・しかし、あるいは、それゆえに、花々は書きはしない。ロレンスが花々のごとくに生きていると考えた野蛮人たちも書きはしない。しかし、ロレンスは書いた。花々について、また花々のごとき野蛮人について書いたのである。彼はのめりこむようにして花々の生命を描いた。彼はイタリアの農民について、メキシコ・インディアンについて、エトルリアの亡びたる民族について、それらの人間たちが根源の生命の流れのなかにあるかのように、書いた。・・花々や野蛮人の生活に同感し得たこと、頭脳で理解するのではなくいわば肉体の血汐によって共鳴し得たこと、しかもそのような生活には後戻りできないことを承知していたこと、― これがロレンスの二重性であり、ロレンスの悲劇であった。現代文明にたいする彼の挑戦は、その主張が正しいにせよ誤っているにせよ、はじめから結果が分っているものだった。戦いはロレンスの敗北にきまっているのである。」
 この「あとがき」で、小川氏はロレンスの対極にあるものとしてヴァレリーの名を挙げている。「人間の特質は意識である。そして意識の特質は、そこに何ものが現れようと、現れるものすべてを不断に汲みつくしてしまうことであり、現れるすべてから休止なく離れていることである」(ヴァレリー「レオナルド・ダ。ヴィンチの方法序説」) それに対し、ロレンスは「現れるものすべてに休止なく例外なく密着する」ことを望んだのだ、と。
 ところで、この小川氏の「あとがき」では、オルダス・ハクスレイによるロレンスの回想が紹介されている。それによれば、ロレンスはけっして退屈することがなく、その瞬間に自分がやっている仕事に何によらず没頭することができた。どんな仕事でも、つまらないと感じるとか、ていねいにする値打がないと思うようなことはけっしてなかったのだ、と。料理もできれば、縫物もできた。靴下のつくろいもうまかったし、牛の乳もしぼれた。薪も上手に割り、刺繍もみごとにやってのけた。彼がおこした火はかならずよく燃え、彼がみがいた床は完全にきれいになった。さらにそのうえ、ロレンスは、彼のように高度の理知をもった人間としては珍しいひとつの才能をべつにそなえていた、それは、無為にすごすすべを心得ていたことであり、ただ座っているだけで、完全に満足していることができたのだ、と。
 小川氏は、こういうロレンスの特質は現代のインテリゲンチャとしては、珍しいほとんど類い稀な才能といってよいだろうといい、ハクスレイも持っていなかったであろうし、自分もまた持っていないという。「ぼくたちは、なにかほかに本当の生活があるのであって、いまやっている仕事(火をおこすとか床をみがくとか)はかりそめの営みにすぎないと考えているのであり、仕事に没入しえないために無為にも安んじ得ないのだ」と。
 ここのところを紹介しているのは、吉田氏が晩年の「時間」などでいった「現在に生きる」ということと、ここでのロレンスが無為に満足できるということはどこかで通じるところがあるのではないかと感じるからである。
 小川氏が現代のインテリゲンチャの特質であるとしている「今の自分に満足できない」という焦慮は吉田氏によれば「近代」の特質であるとされていて、現代では別の生き方があるはずなのである。晩年の吉田氏の人気は、多くの知識人が自分の中に感じている不全感とか空虚といったものとは無縁に吉田氏が生きているように見えたことに負うところが大きいのではないだろうか?
 吉田氏のロレンス論によれば、我々東洋人は自然人なのであるが、「紀元後のヨオロツパ文化の悲劇の根源」はキリスト教が我々人間には不滅の魂があるとしたことのなかにあるとされている。吉田氏によればヨオロツパ18世紀はヨオロツパがようやくキリスト教の呪縛から解放され文明に向かおうとした世紀だったのだが、19世紀は再び野蛮へと逆行した世紀ということになる。そしてわれわれが明治期に受容したヨオロッパとはその野蛮なヨオロッパだったのだから、昭和のある時期、近代(=ヨーロッパ19世紀)を超克しようという動きが日本の中で生じたこと自体は必須のことであったという見方も成り立つ。開戦時の吉田氏の論はそのような観点から見るべきものなのかもしれない。
 「チャタレー夫人・・」のヘロインのコニイは花々の生命のなかにいて、花々はたがいに感応しひとつの生命の同時であるとともに個々それぞれの発現のように見えるのだとすれば、われわれの不幸は個々人がばらばらの存在となってしまっていることの内にあり、その不幸を克服するためにはわれわれが個をこえたもっと大きな存在の一部であるという感覚をとりもどすことが必要であるという見方もまたでてくる余地がある。わたくしは吉田健一の前に福田恆存にいかれた人間なのだが、福田氏はそのような方向からのロレンス像を提示していた。「問題はソーニャだよ、カチューシャだよ。つまりスラブ人といふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフニュードフ対カチューシャは、西欧対スラブといふことなんだ。・・西欧のクリスト教にひきづりひんまわされたスラブ魂といふものに、ロレンスがすぐ気がついたのは、やはりからがイギリス人だからであらう。かれはヘリティックとしてピューリタンの精神に反逆した。」 ということで福田氏の場合にはロレンスが対峙したのはキリスト教全体ではなくピューリタニズムであるとされる。福田氏はカトリック無免許運転を自称していて、ロレンスのことも彼がもっと生きていればカトリックにいっただろうといっていた。福田氏は紀元節復活運動をやっていたり、エリオットの「寺院の殺人」や「カクテル・パーティ」あるいは「長老政治家」といった劇に強い共感を示したりしたのもカトリック的なものへの志向を示しているのだと思う。福田氏がシェークスピアの全訳の取り組んだのも、そこに氏のいう全体感覚があると感じたからである。
 しかし、吉田健一にはそのような全体感覚への志向、カトリック的なものへの志向がまったくなかった。このことは重要であると思う。だから人間から不滅の魂がなくなれば、人間は単なる動物に戻るのである。
 新潮社の吉田健一集成5の「月報」の解説「獣としての人間」で丹生谷貴志氏は以下のように言っている。「吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認めるのである。・・ここで「獣」と言うのは、理性を失って荒れ狂う姿でも「自然」という「楽園」に休らう姿でもなく、最低限の属性にまで還元された姿という意味である。・・「獣」に戻ること、つまりは「人間に戻ること」は吉田健一においてそうした観念や理念を廃棄することにおいて実現されるものとして現れる。注意すべきなのは、吉田健一においては観念の反対物として「自然」を持ち出すことを一切しないということだ。そこには「自然」に対する賛美はほとんどなく、いわゆる「母なる自然」への憧れはまったくない。その点において吉田健一デカルト的であると言ってもよい。・・観念や理念を失うことにおいて人間は「人間」に戻る。本来の姿に戻ること、吉田健一においてそれは文字通り「獣としての人間」に戻ることを意味すると言ってよい。それは現実の獣たちがそうであるあるような姿、すなわち自らの属性に見合った生の中に生き、だから希望も絶望もない状態に生きることへと戻ることを意味する。そしてその状態を、如何にも逆説的だが、吉田健一は「文明」と呼ぶのである。」
 この丹生谷氏の論はきわめて説得的で、わたくしがここでいろいろと述べていることも氏の論を自分なりの言葉で言い換えているだけという気もするが、いずれにしても、そういう吉田氏であってみれば、花々の生命への共鳴と共感という方向にはいかないわけで、とにかく吉田氏は「超越」への志向を欠いていた。
 この長谷川氏の「吉田健一」を読んで初めて知ったことはたくさんあるが、その最大のものが母雪子が熱心なカトリック信者であり、健一氏を除く他の兄弟も母の影響でカトリック信者で受洗しており、父茂はカトリック信仰と無縁な人であったが、家族の強い望みにより死後洗礼を受け東京カテドラル聖マリア大聖堂カトリック式で葬儀されたということである。健一氏はそれを認めず仏式の墓を青山に建てたのだそうである。吉田氏の書いたものを全部みているわけではもちろんないが、母を語った文のなかにも母がカトリック信者であったことに言及しているものはなかったように思う。母雪子の死後、父茂がこりんさんというのだったかを事実上の後添いとしたことへの反発とか、父との関係も微妙であったようだが、家族の中の多数がカトリック教徒で、その中で自分と父だけが信者ではないというのは、二人のあいだに微妙な連帯感をつくったということがあるかもしれあい。わたくしにとっては吉田健一は反=観念論、反=カトリックのひとであるので、ロレンスへの姿勢というのは、小さくはない問題であると思う。
 「交遊録」の「福原麟太郎」の章に、福原氏が「エリオットにはどこか信用しきれないものがある」と言ったことが書かれているが、わたくしもいつからか福田恆存氏の論に「どこか信用しきれないものがある」と感じるようになり(というより、カトリックあるは一部の保守派の言動にそれを感じるといったほうが正確なのかもしれないが)、かつぐ神輿を福田氏から吉田氏に変えたのだった。
 次の第10章「早春の旅」で吉田氏は40歳になる。本書もようやく半ばまで来た。
 

吉田健一

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英国の文学 (岩波文庫)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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自然と純粋 (1966年) (垂水叢書〈21〉)

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交遊録 (講談社文芸文庫)

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文学全集を立ちあげる (文春文庫)

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無意識の幻想 (1957年) (南雲堂不死鳥選書)

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吉田健一集成〈5〉/随筆〈1〉

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