長谷川郁夫「吉田健一」(10)第14章「生きる喜び」 第15章「正午の饗宴」

 
 吉田健一の死と再生を描く。といってもなんのことかであるが、吉田氏が天野亮氏の垂水書房から著作集を出していくが、その垂水書房が倒産し、著作集も数巻を残して頓挫、氏の著作が古書店に安値で山積みされるようになって、そのことにより文士としての吉田健一はいったん死んだが、若手の出版人の中の吉田健一崇拝者(信者?)が抱く既成の日本文学界の動向にあきたらなず、なんとかそこに新しい息吹を吹き込んでいきたいとする熱意の中から氏がふたたび甦ってくる時期を描いている。具体的には「ユリイカ」の復刊とその復刊第1号から連載された「ヨオロツパの世紀末」による吉田氏の再生である。
 なお、この間に父吉田茂の死がある。
 
 昭和39年 52歳
 垂水書房より「著作集第1巻 「英国の文学」」刊行。
 三好達治の死。
 「謎の怪物・謎の動物」刊行。その「後記」に「今日の日本のように、科学だとか何だとか言いながら、人間だけは地上の動物の世界で人間という動物でさえもない、全く別格の神様に似たものだという信仰が行われている国」ということが書かれている。日本はキリスト教国ではないのになぜこのような信仰がおこなわれているのか探求する価値があるのではないかと。
 訳詩集「葡萄酒の色」五百部限定で垂水書房から刊行。
 ウォー「黒いいたずら」訳刊行。
 
 昭和40年 53歳
 「ファニー・ヒル」訳刊行。その過程で河出書房の清水康雄を知る。清水氏は吉田健一信奉者・傾倒者の一人となる。
 
 昭和41年 54歳
 この年の刊行はすべて垂水書房から。
 「文芸」に「文学の楽しみ」連載。清水康雄の後押し?
 この「文学の楽しみ」は吉田健一の文学活動の前期と後記を分かつ分水嶺になると長谷川氏はいう。
 
 昭和42年 55歳 (20歳・・わたくしの年齢 この辺りからわたくしもリアルタイムに吉田氏の本を読むようになっているので、自分の備忘と参照のためにこれからわたくしの年齢も付していくことにする。) 1967年(昭和よりも西暦のほうが、このころの日本の状態を理解するのに便利な点があり、以下、西暦も並記していく。)
 垂水書房倒産。著作集のうちの3巻が未完のままとなる。
 「文学の楽しみ」刊行。その「後記」に「この連載を引き受けるまではもう自分から書きたいと思うものはなくなった積りでいたのに実際に仕事に掛って見ると、まだそれがあることに気付いたことは事実である。尤も繰り返しも一つの表現であることによるものに違いない」とある。
 この「文学の楽しみ」はそれまでの吉田氏の著作とは違い、文壇から多くの好意的な評価をうけた。
 ウォー「ギルバート・ピンフォールドの試練」訳を集英社の世界文学全集の一巻として刊行。
 10月20日、父吉田茂死去。国葬となる。本書ではじめて知ったのだが、吉田茂夫人雪子は欧州滞在中に熱心なカトリック教徒となり、その母の影響で健一氏を除く他の子供もすべてカトリック教信者であり、その子供の強い意向で、父茂は死後洗礼をうけて東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀がおこなわれたのだという。しかし健一氏はそのことを承認せず、死後洗礼は父の遺志に反するとして、仏式の墓を別につくったのだそうである。
 
 昭和43年 56歳 (21歳) 1968年
 原書房版「吉田健一全集」全10巻刊行開始。年内に完結。篠田一士が全巻を解説。
 原書房はもともと文芸出版とはかかわりのない戦史や外交史を出版していたところであるが、その社長が吉田茂の信奉者であったので、垂水書房の著作集の中断を惜しみ、その判型をそのまま流用することによって、垂水書房では中断してしまった著作集を完成させようとしたのではないかと長谷川氏は推測している。長谷川氏はこの全集をイージーな再刊本というのだが、わたくしはこの全集によって吉田氏の著作の多くを初めて読むことになった。また篠田氏の解説にも大いに影響を受けた。
 この年は、パリが燃え、世界中で若者の反乱がおきた。
 
 昭和44年 57歳 (22歳) 1969年
 新著は10月刊行の「余生の文学」のみ。
 3月、中央大学教授を辞す。
 前年からの学園闘争(紛争)が年初の安田講堂封鎖解除以降沈静化していく。
 この辺りの時代を長谷川氏は価値転倒の時代として描く。若者文化の時代、フーテンやヒッピーの時代、アングラ演劇の時代。植草甚一ブームがおき、高橋和己の小説がベストセラーとなり、吉本隆明が熱狂的な支持者を獲得した。内向の世代が台頭する。
 その中で吉田健一も若い読者にはラディカルで「危険な批評家」として再生/出現したのだ、と。
 前年、河出書房新社が倒産し、取締役の清水康雄も退社し、詩誌「ユリイカ」の復活を図って、青土社を興し、この年の6月に第二次「ユリイカ」を創刊した。その創刊号から吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」の連載がはじまる。吉田氏崇拝者であった清水康雄氏は「ユリイカ」復刊にあたり吉田氏に連載を依頼することは決めていたが、どのようなテーマにすべきか決めかねていた。その清水氏に「ヨーロッパの世紀末以外にない」と提案したのが大岡信氏であることが紹介されている。それは若き日の大岡氏を震撼させた「ハムレット異聞」や「英国の文学」の記憶がそう言わせたのだろう、と。
 6月、新しい文芸誌「海」創刊。
 
 昭和45年 58歳 (23歳) 1970年
 「作者の肖像」刊行。
 父茂の遺産の家を処分し、長年の借金を完済した。
 「文芸」「海」「すばる」から小説執筆の依頼が重なり、「瓦礫の中」(「文芸」)、「町の中」(「すばる」)、「人の中」(「海」)が書かれ、それを合わせた形で11月に単行本「瓦礫の中」が刊行された。
 「瓦礫の中」は好評をえた。翌年1月、読売文学賞
 「ヨオロツパの世紀末」が「ユリイカ」6月号で完結。「朝日新聞」の文芸時評石川淳がそれをとりあげ賞賛した(いささか吉田氏の描く18世紀ヨーロッパの像が明るすぎるのではないかという但し書きつきで)。
 10月「ヨオロツパの世紀末」刊行。これも好評をもって迎えられた。野間文芸賞受賞。
 11月、三島由紀夫の死。
 
 昭和46年 59歳 (24歳) 1971年
 「絵空ごと」刊行。
 「私の食物誌」を読売新聞に連載。
 「中央公論」に「書架記」を連載。
 12月から「朝日新聞」で「文芸時評」担当。
 「すばる」に「文学が文学でなくなる時」連載。
 
 昭和47年 60歳 (25歳) 1972年
 「ユリイカ」に「交友録」連載開始。
 「本当のような話」を「すばる」に一挙掲載。
 
 わたくしが吉田健一を読み始めたのは1968年であろう思う。抜群に悪い記憶力なので正確なことは一切覚えていないが、わたくしが読んだのは原書房版の全集であるから、その前年には刊行されていないし、翌年刊行の「余生の文学」はリアルタイムに購入しているので、まあ1968年のいつごろかからである。この年わたくしは駒場教養学部から本郷の医学部に進学し、進学したらストライキというものが行われていて授業がなく、そのまま学園闘争(紛争)となって、翌年の春まで授業がなかったのだから、時間だけはやたらとあり、本をいろいろと読むことになった。濫読癖はこの時からである。
 何回も書いたように、わたくしが最初にいかれた文学者は福田恆存で、それを読んだのは教養学部のころでおそらく1967年、それは氏の評論集を購入したのが渋谷の大盛堂であったことからまず間違いない。福田氏を読むようになったきっかけが吉本隆明氏の本(「自立の思想的拠点」)で、氏が福田氏を賞賛していたからであることも以前に書いた通りである。それ以前に読んでいたのは、太宰治吉行淳之介小林秀雄といったひとたちで、小説とは何らかの感受性の表現、批評とは何らかの思考あるいは思想の表現であると思っていた。
 福田氏の評論もまた思想の表明であると思って読んでいた。吉田氏を読むようになったのは福田氏が属した鉢の木会の一員で吉田氏もあったことからで、同じつながりで三島由紀夫大岡昇平も読んだ(中村光夫はあまり読まなかった)。
 吉田氏を読み出してびっくりしたのは、まず文学が小説であるということが否定されていたこと、文学作品が広い意味での作者の思想の表明であるという見方も否定されていたことである。要するにそれまでわたくしが文学というものに抱いていた見方が全否定されていた。
 その当時の社会状況の中では、吉本隆明は左、福田恆存は右(あるいは保守反動)で、福田氏ともに敵方のまともな人とされていた江藤淳は左から右へ旋回しつつあるところだったのかもしれないが、そういう中で左の吉本氏が右の福田氏をほめていたことが不思議で福田氏を読んでみた。ということは、福田氏を思想の人としてみていたわけである。
 しかし吉田氏を読んで不思議だったのは、氏のどこにも思想家というような風貌がないことで、それまで読んだどの文学者とも異なる、分類不能、所属不明の不思議な人に思えた。(小林秀雄にしても一種の思想家というように現在でも思われているのではないだろうか? 河上徹太郎小林秀雄に較べてずっとマイナーな印象であるのは、河上氏には思想家としての身振りがあまり見られないためだろうと思う。)
 わたくしが頭をどやされるような強い印象で読んだ最後の小説が庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」で、福田恆存思想の小説版などというとんでもない誤解をして読んだのだが、これは間違いなく思想表明のための小説で、主人公の「薫くん」は作者庄司薫の考えを読者に伝えるための操り人形にすぎない。記憶が不確かなのだが、この頃同時に梶井基次郎の「檸檬」とか「城のある町にて」なども読んでいたことを覚えていて、それは間違いなく吉田氏の影響であろうと思うのだが、自分なりに思想表明でない文学というのを模索していたのだろうと思う。
 原書房版の全集には「文学の楽しみ」は収載されておらず(垂水書房版の著作集の後の出版なので)、これを読んだがいつであるか正確には覚えていないが、これには随分と教えられた。長谷川氏はこれを吉田氏の文業の前期と後期を分かつものとしている。「文学概論」はいくら読んでも消化できないものが残ったが、本書は素直に受け入れることができた。「文学概論」は作者が自分に向かって書いているというか、まず自己説得の書という感じがするのだが、「文学の楽しみ」では読者にむかって書いているということがはっきりして、それでわたくしも仲間に入れてもらえた。
 最初の章が「大学の文学科の文学」で要するにエリオットとその一派の悪口である。「問題は、文学を恐ろしく真面目に取れば、どうなるかということなのである。例えば、「荒地」であって、この詩が褒められ、今でも褒められているのは、そこに神があるとか、ないとか、現代人の絶望がそこに窺えるとか、現代そのものの姿がそこにあるとかいう点である。つまり、ここでもこの詩の対象、或は材料が議論の中心になっている訳である・・」「こういう具合に一般的な問題に個別的な作品を結び付けて何かと意見を述べるのは、文学が好きで「荒地」を読む者がそこに感じるものとあまりにかけ離れている。」「文学は学問ではない。ここの所が大事である。」 文学で学問の対象になるのは、読むために必要な予備知識の部分だけなのだから、そうだとすれば英国で英文学を講じることには何の意味があるか。文学を味わう能力がないものが、それを補うためにそれしかできないから「文学を真面目に論じる」ことになった。エリオットの亜流の多くは大学の教授である、と。
 そして日本でもまた文学がおそろしく鹿爪らしいものになった。文学が政治であるというのは少し下火になってはいても何だかとても有難いものとされていることには変わりがない。しかし、文学はもっと地道で、手織り木綿風のものなのである・・云々。最初この辺りを読んで大いに感心したものだが、これは今にして思えば、吉田氏がケンブリッジでルーカス先生に習ったことそのものなのである。
 第2章が「読める本」で、「文学というのは、要するに、本のことである。」
 第3章は「詩と散文」。「文学を詩と言い換えてもいい位であるのは、一定の言葉数で我々に最も大きな楽しみを与えてくれるのが詩だからである。」
 飛んで第5章は「東と西」。「ヴァレリイの説を紹介すれば、ギリシャとロオマとユダヤがヨオロツパをなし、・・ヨオロツパはその形をなしてから千年ばかりたって漸く文字通りの文明の状態に達した。」「二千年も前に成熟した人間(中国あるいは東)がこの二百年ばかりの間に若ものと付き合うことになり、その若ものが今では成熟した。」
 また飛んで第7章「西洋」。「先日、カラヤンの指揮でベエトオヴェンの第八と第一を中継放送で聞き、岡倉天心がその第五を聞いて東洋にない唯一のものと嘆じたということを思い出した。」「普遍性の観念そのものを我々はヨオロツパから得た。」「普遍的であるものを絶えず求めているというのは、恐しく素朴になることでもある。それは我々の観念からすれば野暮でもあり、田舎染みてもいる・・」「恋愛の観念自体がヨオロツパのものではないかと思われて・・」「それは影のない世界である・・」「我々は世界が音だけで出来ているのではないことを知っている。併し音が事実、凡てになった世界がモツアルトに、フランクに、又バッハにある。/ ヨオロツパの文学の魅力もそこにある。」
 大分飛んで、第11章「生きる喜び」。「明治になった後の或る時期から誰でも日本で文学と縁があることをしているものの間では生きているというのがみじめなことで、そう思わないのは何かの点で認識が不足しているのだということになっている。」「我々が生きているのは辛いことだと思うのが真面目に生きている証拠なのだという固定観念だけは昔のままの形で残っている・・」 そこでなかり長く引用されているD・トマスの「十月に書いた詩」でトマスも知った。吉田健一の詩の翻訳はみな素晴らしいと思うが、「葡萄酒の色」に収められた同じトマスの「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」は短いので全部を示したい気持ちを抑え難い。
 
 人間を作り、
 鳥と獣と花を生じて
 凡てをやがては挫く暗闇が
 最後の光が差したことを沈黙のうちに告げて、
 砕ける波に仕立てられた海から
 あの静かな時が近づき、
 
 私がもう一度、水滴の円い丘と
 麦の穂の会堂に
 入らなければならなくなるまでは、
 私は音の影さへも抑へて、
 喪服の小さい切れ端にも
 盬辛い種を蒔かうとは思はない。
 
 一人の女の子が焼け死にした荘厳を私は悼まない。
 私はその死に見られる人間を
 何か真実を語ることで殺したり、
 これからも無垢と若さを歌つて、
 息をする毎に設けられた祈祷所を
 冒涜したりすることをしないでゐる。

 ロンドンの娘が最初に死んだ人達とともに深い場所に今はゐて、
 それは長く知つてゐた友達に包まれ、
 その肌は年齢を越え、母親の青い静脈を受け継ぎ、
 それを悲しまずに流れ去るテムズ河の
 岸に隠れてゐる。
 最初に死んだものの後に、又といふことはない。
 
 これはもちろんトマスの詩を吉田氏が訳したものであるが、「私はその死に見られる人間を/ 何か真実を語ることで殺したり、/ これからも無垢を若さを歌つて、/ 息をする毎に設けられた祈祷所を/ 冒涜したりすることをしないでいる。」というのは「文学の楽しみ」でいわれていることそのものであるようにも思える。吉田氏によれば、日本の文学の過半は(そしてエリオット亜流の欧米の文学もまた)、「真実を語ること」や「無垢と若さを歌」うこと、つまり作者の態度を表明することを第一の目的としている。
 「鳥と獣と花を生じて/ 凡てをやがては挫く暗闇が/ 最後の光が差したことを沈黙のうちに告げて、/ 砕ける波に仕立てられた海から/ あの静かな時が近づき、・・」 人間があるいは地球上の生きものがいずれは消滅することは明らかで、そんなことに関わりなくテムズ河は流れるのであるが、であるからこそ「生きる喜び」もある、というのが吉田氏に独特の論法である。「謎の怪物・謎の動物」の「後記」の「今日の日本のように、科学だとか何だとか言いながら、人間だけは地上の動物の世界で人間という動物でさえもない、全く別格の神様に似たものだという信仰が行われている国」というのもそれにかかわるので、人間が動物であることを忘れたら「生きる喜び」も「文学の楽しみ」もまたどこにもなくなってしまうのである。
 そして最終章が「孤独」。「生きる喜び」の後に「孤独」。この呼吸に初読の時、しびれた記憶がある。
 「我々が望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない。」「自分の頭痛を他人が感じないのを現代の不幸と思い込む所に横着の極致が見られる。それに就て自分の悩みが頭痛ではなくて、神がいないとか、存在が生命と矛盾するとかいう頭痛よりももう少し高級であることになっているものなのだという理由が用意されているが、矛盾を認めるのも自分であり、頭痛を病むのも自分である。」「文学に必要なのもこの孤独である。」「我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり、それは命が惜しくなったり、必死になって就職の口を探したりする自分ではなくて、人間であることを止めず、ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少なくとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。」
 「我々が生きているのは辛いことだと思うのが真面目に生きている証拠なのだという固定観念」というのは、若い時に文学に親しむものが多かれ少なかれ陥る心情なのかもしれない。吉田氏に言わせればこの心情なしには日本の私小説は成立しえないことになる。わたくしの場合もなぜ吉田氏に惹かれたたのかというと、その理由の一つは氏が自分のなかにある文学青年的なものを克服する道を示してくれたことであると思う。文学青年というのは斜に構えたりシニックになったりしやすいものだが、吉田氏にはそういうものがどこにもない。
 本書で言及されているので思い出して、最近、中村光夫氏の「人と狼」を読みなおしてみた。昭和33年2月中央公論社刊。280円。TAMURAというラベルがあるから神保町の古書店街をちょくちょく覗いていたころに買い求めたものと思われる。これが本当に「生きているというのがみじめなことで」ということを書いたとしか思えないもので、何だが、人間を動かすのは、所詮、色と欲と金といった感じであり、吉田氏が「僕、読んでて、なんだか寂しい気持になって来た。人生って、こんなもんかなあと思って」としたのがほんとうによくわかる。谷沢永一氏は「人間通」で「人間はすべて何時でも僻んでいる。自分は損をしている、割を食っている、と思い込んでいる。人間は怨念の塊である。殊に性をめぐる鬱屈は甚だしい」といっている。どこで読んだのか忘れたが、チャテレイ裁判の時に吉田氏が証人として「猥褻とは知人の情事をあげつらう心情のことをいう」といったことを述べたのだという。とすれば日本人のほとんどは猥褻なのであり、村落共同体的社会は猥褻なのである。そして吉田氏はなぜか日本人離れしていて、こういう心情とは無縁の人だったように思える。
 吉田健一ファンは多くいるが、その一人の倉橋由美子氏の場合も、凡人たちがくどくどとつまらぬことに悩む世界を描く小説やそこにある猥褻な心情を嫌ったひとで、吉田氏に兄事した理由の一つが己の中にある文学青年的なもの(氏の場合は文学少女?)をいかに克服するかを示してくれるひととしてであったのだろうと思う。もう一人、文学青年の悩みなどボデイビルをすれば消えてしまうと嘯いていた三島由紀夫にも兄事していたが、あの死を見て、三島氏もついに自分の中の文学青年的なものを克服できていなかったのだと解って、そのあとは吉田氏一本でいくようになった。面白いのは世に倉橋由美子ファンもまた多くいるが、その大部分は前期の倉橋氏のファンで、後期の倉橋氏が何であんな小説を書くようになってしまったのかを嘆くひとが多いことである。「聖少女」のようなものをずっと書き続けていてくれたらよかったのにということらしい。そういうファンを倉橋氏は唾棄していただろうと思うが。
 わたくしにわからないのが、「生きているのは辛いことだと思うのが真面目に生きている証拠なのだという固定観念」というのと、吉田氏が「近代では正常な人間であれば頽廃する」とすることの関わりである。何か通底することろがあるように感じられるので、やはりわたくしには吉田氏の「近代」概念がどうしてもうまく飲み込めないところが残っているのだろうと思う。
 リアルタイムに最初に読んだ吉田氏の本が「余生の文学」で、その次が「作者の肖像」とかであり、その頃の氏は「これからは余生だ、もう書きたいことはない、あとは繰り返し」などと書いていて、それを真にうけていたので、河上徹太郎の「有愁日記」を読んでいたら、その「象徴派的人生(二)」に、「吉田健一君が最近「ユリイカ」に連載してゐる「ヨオロツパの世紀末」といふ長編論文は吉田君の書くものでも従来と格段の円熟を示すもので、・・一寸類のない近代文明史が出来そうである」などとあるのを読んでびっくりした。「ユリイカ」など読んでいなかったし、この連載も知らなかった。石川淳の「朝日新聞」での「文芸時評」も読んでいたが、それが「ヨオロツパの世紀末」を取り上げたときもまだ発売の前であったはずだが、河上氏の論をすでに読んでいたので驚かなかった。
 「ヨーロッパの世紀末」はこのテーマを提示した大岡信氏もまさかこんな作ができるとは思ってもいなかったものであったはずで、そして当の吉田氏だって当初は頭にもなかったものなのだろうと思う。ヨーロッパの世紀末について考えていくうちに、ヨーロッパの世紀末が文明の時代だったことがあらためて認識され、それと対比してヨーロッパの19世紀の野蛮があらためて思われ、さらにそれと対比してのヨーロッパ18世紀が文明の時代であったことが確認されて、それで文明という共通項によってヨーロッパの世紀末がヨーロッパ18世紀の蘇生であるとするかなり強引な立論がおこなわれることになった。
 吉田氏は世紀末≒近代とするわけであるから、吉田氏の「近代」が十分には飲み込めないわたくしにはこの本を充分には理解できていないことになると思うけれど、ここから一番教えられたのが、われわれが明治に受け入れた西洋が野蛮な西洋であったので、われわれが頭の思い浮かべる西洋というのはその野蛮な西洋なのだという視点である。悪名高い座談会「近代の超克」での「近代」はその野蛮の19世紀西洋である。ここでの近代はほとんど物質文明で、ほとんど西洋=物質、東洋=精神である。《「精神」が「物質」に打ち勝つ》である。そして戦争に敗れて憑きものが落ちると、後はひたすら物質方面に邁進して高度成長で世界に冠たる日本になり、バブルが崩壊してからは、戦争に敗れたこと、被爆したこと、最近では原発事故をおこしたこと以外にはアイデンティティを持てないことになってしまった。
 今から思うと丸谷才一氏が「津田左右吉に逆らって」で述べていたのも吉田氏とまったく同じ視点であることが解るが、「ヨオロツパの世紀末」はそこをもっと大きな文明論的視座で論じていたわけである。このことが切実であるのは、わたくしが従事している医療が間違いなく西洋19世紀的な視座で行われているということで、もっといえば「科学」というのが西洋19世紀の野蛮と深く関わっている、あるいはその野蛮なしには出現しなかったであろうということである。一方で自分の内にある文学青年的なものをどうするか、他方で自分の仕事である医療をどう捉えるか、そのどちらにも吉田健一がかかわってくるように思えた。
 本書が「新潮」に連載されているときに時々覗いていたが、牛歩のような歩みに思われ、一体いつまで続くのだろうと思っていた。しかし「ヨオロツパの世紀末」以降は駆け足になる感じで、それはこの辺りからは多くの人が吉田氏を知るところとなったからということなのかもしれない。
 それで本書も後に一章「われとともに老いよ」の60頁ほどを残すだけとなった。
 

吉田健一

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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人間通 (新潮選書)

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偏愛文学館 (講談社文庫)

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有愁日記 (1970年)

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文林通言 (講談社文芸文庫)

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