三浦雅士「文学史とは何か」(丸谷才一全集 第7巻解説)
二段組み15ページほどの文。1〜4で構成される。
1.
丸谷才一は「後鳥羽院」の「あとがき」に「これはひょっとすると、わたしのと国学院大学との関係を記念するために書かれた本かもしれない」と書きしるしている。これは自分と折口信夫との関係の謂いである。国学院という折口ゆかりの大学で、丸谷は国文学でない往年の国学の流儀に肌でふれたのである。この国学あるいは歌学の流儀(たとえば正徹のそれ)は、20世紀欧米文学のモダニズムの流儀に酷似していた。最晩年の折口が吉田健一を数度にわたって国学院に招聘して英文学を講じさせたことにそれは象徴的に表れている。折口は吉田の中に自分と同質の文学者を見出したのだ。その国学院を語るのに最適の主題が後鳥羽院だったのだ。として後鳥羽院が語られ、後鳥羽院にあって定家になったものは言葉の呪術的側面であり、つまり後鳥羽院は古代、定家は近代であるのだが、古代と近代は通底するということもいわれる。丸谷のいう古代性とは生命力の謂いである。
2.
(三浦氏の個人的な思い出)
当時「ユリイカ」の編集者であった三浦氏は吉田氏の有名な「ランチョン」での編集者との会に出ていた(「ユリイカ」に「ヨオロツパの世紀末」「交遊録」などは連載された)。その会で三浦氏は吉田氏から「いよいよ日本で初めての詩人の選集がでましたね」といわれた。それは臼井吉見、山本健吉監修「日本詩人選」全20巻のことをいっていた。記紀歌謡 柿本人麻呂 高市黒人・山部赤人 大伴旅人・山部赤人 大伴旅人・山上憶良 大伴家持・・第1回配本が安東次男の「与謝蕪村」、第2回が池田弥三郎の「高市黒人・山部赤人」。この吉田健一の発言は山本健吉への共感とこの「詩人選」が折口信夫の視点を貫いたことへの共感を示していた。万葉集における高市黒人と山部赤人の重要性を強調したのは折口信夫であり、その意をくんで独自の文学史を構想したのが山本健吉であった。柿本人麻呂にはまだ存在した共同体的なものから、高市黒人と山部赤人になってくると個人的な表現主体が出現してくる。「高市黒人・山部赤人」という地味な巻が第二回配本になっていることに、この詩人選の企画が折口の日本文学史観の上に成立していることがはっきりと表れている。
この視点は丸谷の日本近代文学批判に呼応している。この詩人選は、折口、山本、丸谷、大岡信という系譜を示している。
丸谷は「日本文学史早わかり」で自分が山本健吉の「古典と現代文学」の影響を強くうけていることを述べているし、大岡信も同様のことを語っている。
吉田健一と山本健吉は、ともに「批評」の同人だった。小林秀雄の「文学界」は青年の雑誌、「批評」は大人の雑誌だったと後からは理解される。
山本の日本古典論も吉田の英国文学論もともに折口の民俗学と通底している。丸谷の「後鳥羽院」もまたその流れの上に成立した。
3.
(三浦氏のもう一つの個人的な思い出)
同じくランチョンで、ある時、吉田健一は「日本とギリシャは似ている、いや、ほとんど同じだ」といった。「ギリシャ神話の世界、あれは八百万の神々の世界ですよ」
これは吉田が折口の説によってギリシャを見直したのではないか? 柳田國男と小林秀雄の関係と折口信夫と吉田健一の関係は照応している。
吉田の「英国の文学」と折口の「国文学の発生」は地続きなのである。着想の基盤が生活に根ざし、生活に密着している。として「英国の文学」の一節と「国文学の発生」の一部を引く。
吉田と折口はある会で会って意気投合した。両者が似ていることはそれぞれの詩をみればわかる、といって三浦氏は吉田氏の小説はほとんど詩というべきであるという。
4.
山本健吉は、あらゆる文学は共同体的なものから個のものへと進んでいくとした。
しかし詩が純粋な文学として成立することは近代の病である、として丸谷の「二十世紀文学の神話的方法」という論の逆説をいう。歴史が現在のために存在するという問題!
文学史は批評のための足場であるが、批評は文学史を無用なものとしてしまう。(などとまとめているが、最後の4.はどうも三浦氏の論旨をうまく理解できなかった。)
わたくしは吉田健一は日本の古典にはきわめて冷淡だったひとのように思っていたので、この論での、吉田健一と折口信夫の関連性の指摘には虚をつかれた。吉田健一はアングロマニアの支那趣味で日本の古典にはいたって冷淡という三島由紀夫説を信じていたのである。わたくしはどうも国学方面にはドロドロしたものを感じてしまって、吉田健一は乾燥系だと思っているので国学方面には親和性のない人と思っていた。
最近でた池澤夏樹個人編集「日本文学全集」の第20巻「吉田健一」では池澤氏は「この「日本文学全集」をぼくはもっぱら吉田健一と丸谷才一の文学観に依って編んでいる」などと書いているのだが、おそらくジョイスなどに由来するのであろう丸谷氏の神話的文学観あるいはカーニヴァル的祝祭論のようなものは吉田氏には欠けているのではないかと思う。カーニヴァル云々はたとえば福田恆存などのほうにずっと近いのではないかと思う。個人というのはそれだけでは寒々としたもので、何等かの共同体への参加することによってはじめて生の充実をえることができるというのは、端的に嘘だろうと思う。
吉田氏にあって丸谷氏にないものは「人間も動物である」という視点のように思うが、折口氏が「人間もまた動物である」派であるのか否か、折口氏の著作をほとんど読んでいないわたくしにはよくわからない。ここでいわれる「生活」ということの意味するものをどう見るかであろう。
さて吉田氏の書いた小説は詩であったのだろうか?
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