ソーントン不破直子「戸籍の謎と丸谷才一」 第2章「年の残り」 第3章「横しぐれ」から「樹影譚」へ
「年の残り」を読んだのも大分以前であるが、随分と技巧の勝った作品だなという印象しか残っていない。「彼方へ」と同じで登場人物に魅力を感じなかった。どうもインテリがでてくる小説を読めるものとするのには相当な力業がいるように思う。
不破氏は「年の残り」を「人間の可死性をいかに受け止めるか」というテーマをあつかったものであり、「そこに戸籍制度というものの存在が影を落としている」という。
そしてこの小説と平行して評論の「後鳥羽院」も論じていく。「後鳥羽院」は「梨のつぶて」などと並んで、丸谷氏のもっとも優れた評論の一つではないかと思う。不破氏は「後鳥羽院」から「和歌が呪文として生れ、のちに社交の具となり、やがて文学となつたもの、それでも相変らず呪文および社交の具といふ性格を捨てなかつた」という部分を引用する(p82)。
さて、和歌は現在でも呪文という性格を捨てていないだろうか? まだ社交の具ではあるかもしれないであろうが、もはや呪文としては機能していないであろう。丸谷氏の御霊信仰論あるいはカーニヴァル論などにも感じるのだが、文学がかつてもっていた祝祭的機能を現在でもまだもっていると信じている(あるいは信じたいと思っている)のだと思う(だから歌仙を巻いたりしていた)。文学がいまだに大きな力を持っていると信じたいのだと思う。
だが、丸谷氏がどんな小説を書いたとしても、それは海に捧げた美酒一滴であって、すぐに消えてしまい忘却されてしまう(「持ち重りする薔薇の花」だって、もうほとんどのひとの記憶から消えているのではないだろうか?)。「年の残り」のようなきわめて技巧的な作品は、もともと「すべての書」を読んでしまったようなすれっからしの読者を読み手に想定しているのであって、小数のための作品である。和歌がもっていた呪術性にしても社交性にしても、文字をよくし、過去の膨大な歌に通じたひとにしか発揮されない性質のものである。
83ページから、マシュレーという人の余白の美学のような説が紹介される。そしてバルトの「作者の死」であるとかフーコーの「作者とは何か」の論との関連性が検討されてる。しかしバルトだってフーコーだって想定していた自分の読者の数というのはたかだか数千人なのではないかと思う。それはともかく、そこから「余白」という言葉が導入され、その「余白」が「年の残り」においては、「戸籍制度が存在する日本の歴史的状況が無意識の「余白」となって、この小説の存在を支えていると(私は)主張する」ということになる(p86)。これはまったく学問的ではない主張であることは不破氏もみとめるであろう。何の根拠も提示されず「私は主張する」であるし、「無意識の「余白」」である。そもそも「余白」ということが導入されてくるのは、和歌には三十一字という制約があるため、そこで使われた文字が表すもの以外も取り込むことをしないと作品がなりたたないことからである。それと戸籍制度が余白になるという話とはほとんど関連性がない。戸籍が余白になるというのは普通の言葉使いでいれば、「小説の背景に戸籍の問題がある」といったことであるはずである。和歌が少ない文字数という性格から「余白」をもたざるをえないということとはほとんど関係がない。それを「余白」という言葉を使うことで、強引に結びつけてしまう。これはしばしば評論と称するもので使われるレトリックではあるが、およそ学問的な検証にたえるようなものではない。
さらに不破氏は、「年の残り」にあるもう一つの「余白」として、「家、結婚、息子とそれに関わる経済的な事情という、明治時代から続いている近代文学の伝統的なテーマ」があるとする(p98)。これも「背景」という言葉ですむことのように思える。不破氏は、「視点を変えれば、この家と結婚と息子と金との関係こそがこの小説の主要テーマと考えて一大論文を書くことも可能である」という(p104)。たしかに可能ではあるかもしれないが、そんな一大論文を書いても何の意味もないだろう。小説というのは小説でしか書けないことがあるからこそ書かれるものであって、「家と結婚と息子と金」の問題を論じたいのであれば、それにかんする学術論文を書けばいいわけである。小説を書くなどという回り道をすることはない。
不破氏は「かつては国を統べた上皇が隠岐の島で「我こそは新じま守よ」と元気にそしてユーモラスに宣言した(丸谷氏の読みによる)」というのだが(p109)、丸谷氏はそういう読みを「後鳥羽院」で提示しているのだろうか? その当時においては天皇とか上皇という存在は天候をも左右できるだけの呪力をもった存在と信じられていたし(西欧の王が病を癒やす力を持つと信じられていたのと同じ)、自分でもそう信じていた。つまり、和歌のもつ呪力を何よりも体現した存在として後鳥羽院がいたということが「後鳥羽院」の主張なのではないだろうか?
わたくしも学生時代に「我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」の「心して」を、「自分を気遣って」とか「自分に配慮して」とかいった意味で教えられて、何とも情けない歌だなと感じたのを覚えている。そう思っていたから、「われこそはと云ふ肝要なり」という古注(p12)を示した「後鳥羽院」に目を開かされた。歌の柄の大きさというか、「帝王ぶり」(という言葉がどこかにあったように記憶しているのだが探しても見つからなかった)というものを教えられた。
「後鳥羽院」に収められた「宮廷文化と政治と文学」で「歌の場としての宮廷」ということがいわれる(p287)。「歌の場」がまず第一に宮廷であるのならば、後鳥羽院は当然その中心にいる人物である。しかし、宮廷が政治の世界では敗れることになってしまったとすればどうすればいいか? 「玉葉集」や「風雅集」はもはや存在しない宮廷を歌のなかでは存在するものとしてあつかおうとする試みであったといわれる(p290)。芭蕉もまた草庵で巻く歌仙において宮廷をなつかしんだのだとされる(p291)。かつて宮廷は政治の中心であるとともに文化の中心でもあった。しかし、鎌倉から後、政治は武によっておこなわれ、宮廷は文のみにかかわることになった。だが、文の持つ呪力によって武をうちまかすことはできないものだろうか? 後鳥羽院のこころみはそのようなものだったというのが丸谷氏の読みなのだと思う。
不破氏による本書は「可死性」の克服ということがテーマとなっている。歌を詠み、それが後世に残ること、それが「文」のひとにとっての「可死性克服」の方法であった。一方、「武」のひとにとっては、武功をたてそれにより「家」が継続していくこと、それが方法であった。
だが、歌の場としての宮廷が失われ、雅の場の全体性が信じられなくなると、詩人は一人ひとりばらばらになり孤独になる。「日本の詩は、密室での孤独な作業という色調を全体として強めた」(p290)。わたくしからみると「彼方へ」も「年の残り」も「歌の場が失われた」ひとの孤独を描いたものなのではないかと思う。だから彼らは「家」と自分の遺伝子の継続という方向にとりあえずはいくのだが、現代人として、もはやそれらのことを本気で信ずることはできない。だから、かれらは不幸で寂しい人間である。生気がなく、小説の魅力的な主人公とはなりえない。そのことは丸谷氏もよく自覚していたはずで、もっと後に書くことになる小説は(丸谷氏自身としては)なにがしか日本の歌の伝統につながるものの、社交とか挨拶の性質をもつものを書いたつもりということなのではないかと思う。「個人」であることの不幸を、何らかの全体性への参加によって乗り越えようと試みたのだと思う。しかし、小説はもともと西欧において「個人」が出現してきたからこそでてきたものだと思うので、これは勝ち目の見えにくい、なかなかつらい闘いであったように思う。
わたくしには丸谷氏のもっとも優れた評論のように思える「梨のつぶて」は、1)文明、2)日本、3)西欧の3部で構成されている。1)の「文明」に収められた「未来の日本語のために」はきわめて説得力のある日本語論であるし、「津田左右吉に逆らって」は(今おもうと)吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」以前に書かれた、明治期の日本の西欧受容の歪みを根源的に指摘した文章である(「明治文明はヨーロッパ文明の十八世紀以前を切り離して十九世紀だけを学んだ」(晶文社版p40)。津田左右吉が伝統ということをまったく理解できないひとであったこと、過去はほとんど因襲と同義であるとしていたこと、そういうひとから見れば、本歌どりといった技巧も「何につけても自己に独自の創造性が無く、他にすがって事をしようとする当時の気風」(同p36)のようにみえて当然であるが、それならなぜそれは「模倣」であって「影響」ではないのかと問う。津田はほとんど芸術という別乾坤をしらず、実生活をひたすら尊重したのだ、と。
十九世紀ヨーロッパの標語は「進歩」であった。当然、それは反伝統的となる(同p41)。「十九世紀は、生真面目で俗悪で道徳的なブルジョアの支配する世紀であった。歴史学者ホイジンガの巧みな言いまわしを借りれば、「十九世紀は労働服を着こんだ」のである」(p43) 「梨のつぶて」には何ヶ所かにエリオットの「伝統と個人的な才能」への言及があるが、p45でも、エリオットが「ホメロス以来のヨーロッパ文学全体」が一つの秩序を形づくっているという感覚を持つことを詩人に要請し、その感覚(伝統)に対して、自分じしん(個性)を犠牲として献げなければいけないと説いていることが指摘されている。 丸谷氏はいう。「考えてみれば、ぼくたちはずいぶん奇妙な運命をになっているわけだ。宮廷文化的なものと言ってもいいし、古典主義的なものと呼んでもいいけれども、とにかくそういう伝統を僅か百年前まではたしかに持っていたのに、今ではその伝統がまったく死に絶えてしまっているのだから。(p49)」 わたくしから見ると、「彼方へ」も「年の残り」も宮廷文化を失って「労働服」を着こんでしまった人の不幸あるいは空虚を描いたものである。
「日本文学のなかの世界文学」では、その当時流布したいたナボコフ「ロリータ」の翻訳が批判される。丸谷氏は、この翻訳が「この長編小説はそれ自体、文学趣味に淫した作品、つまり、この詩を読んですぐに初期のエリオットの詩のパロディと判る読者を対象にして書かれた作品なのである」ことを訳者がまったく理解せずになされていることを難ずる(p61)。ナボコフが想定した読者とは「宮廷文化」を知るひとである。
3)の「西欧」におさめられた「西の国の伊達男たち」では、ふたたびエリオット「伝統と個人的な才能」がとりあげられている(p232)。そこではエリオットもパウンドもジョイスも流浪者であったことがいわれる。彼らの古典主義のもっとも深い部分には、流浪者の悲しみが存在しているとしている(p235)。「彼らは伝統を求めた。なぜなら彼らは伝統の外部にいたから。(p236)」 ナボコフもまた流浪者である。そして丸谷氏は「西の国の伊達男たち」ではエリオットの「荒地」の最終行 Shantih shantih shantih について実にたのしげに想像をひろげ(p220〜221)、ジョイスの O carina! O carina についても同様のことをしている(p224)。そういうことによって西欧のそとにいる流浪者である丸谷氏は西洋の伝統(宮廷文化)に参入しようとするのである。
1973年から74年にかけての朝日新聞での「文芸時評」をおさめた「雁のたより」の74年6月の時評で、吉田健一が「覚書」で書いた「安東次男氏や大岡信氏がこの何年間に書くやうになつたことによつて詩の根本に属することの一つが歴史的に言つても恐らく世界で最初に明確に言葉で表されることになつた」という文章を導入にして、大岡信氏の「うたげと孤心」が論じられている。「「孤心」だけにとじこもってゆくと、作品は色褪せた。「合わす」意思と「弧心に還る」意思との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は希有の輝きを発した」という文章をそこに引用している。(朝日新聞社版 p192)
実にいい加減にまとめると、「孤心」とは19世紀西欧文学であり、「うたげ」とは「宮廷文化」であり「ホメロス以来のヨーロッパ文学全体」でもある。「彼方へ」や「年の残り」は孤心を描いたものである。わたくしには「可死性」の認識というのは「弧心」とほぼ同じもののように思えてしまうので、それへの対応というのならば「宮廷文化」といったものに繋がる方向しかないことになるのではないかと思う。
しかし、ここで難しいのが、「孤心」≒「個人」という方向もまたでてくることで、そうすると「個人」に対立するものは「公」あるいは「政治」というということになる。「エホバの顔を避ける」ことから出発した丸谷氏は、エホバという政治から逃げて、文学に淫する個というささやかな陣地にたてこもった。徴兵を忌避する「笹まくら」も同様に軍隊という究極の公と武から逃げる話であるから、ここまでは公や武が圧倒的に強く、私や文は弱い。ところが「たつた一人の反乱」や「裏声で歌へ君が代」になると、個人が「たった一人で反乱」したり、「裏声で歌」ったりすることが、それなりの効果というか有効性を持つように描かれることになり、そうすると作品から「戦闘的な緊張」が失われてくることになる。要するに「弧心」が失われ「うたげ」だけになってくる。「女ざかり」も「輝く日の宮」も、どうということのない「うたげ」を描いたものになってくる。
わたくしのこの文章は直接は不破氏の論に対して書いているわけであるが、それは論の開始のきっかけであって、文学について論じることの意味とか、文学というものが世界の中でどう位置づけされるかといったことのほうに本当の興味がある。文学というのは現実の世界での敗者が「歌」という幻想の世界において勝者となる試みという側面が少なからずあると思っている。不破氏の「可死性」という論点は非常に面白いものと思うのだが、それを「家」の問題であるとか戸籍の問題であるとかにもっていくとせっかくの問題が小さくなってしまうのではないかと思う。
丸谷氏はある年齢から先、自分を日本の文学の世界での成功者であり、文壇の主流派と認識するようにになったのだと思う。若い時には、自分は西欧での文学概念からいえば本流であるが日本文学のなかでは傍流にすぎないという自覚が強くあったと思う。それが「戦闘的な緊張」の源になったのではないかと思う。しかし晩年には、本流中の本流で、日本文学の方向を指導するものと自認するようになっていたのではないだろうか? たぶん、そこで希薄になっていたのではないかと思うのは、文学の無力ということだったのではないだろうか? 文学に淫した仲間同士では文学は有効かもしれない。しかし、そうでないひとがほとんどなのだから、そういうひとには文学の呪力はまったく発揮されないのである。
第3章につてはあまり書くことがないが、p117で、「俳諧の伝統に対する山頭火の思い」というのが「西欧ロマン派的な個性的感性の表現」と対比されている。p123では「文化共同体」ということがいわれる。しかし丸谷氏は「西欧ロマン派的な個性的感性の表現」が日本においては、「私小説」「自然主義」へときわめて変形して受容されたことを批判したのであるから、「俳諧の伝統に対する山頭火の思い」と対比されるのは、「私小説」「自然主義」なのではないかと思う。そして「文化共同体」ということについていえば、事々しく「宮廷文化」とか「古典主義」とか言わなくても、読書人共同体とでもいうべきもの、本をたくさん読んでいるひとがそれなりの数いるということを指しているとすればいいのではないだろうか。
丸谷氏の最初期の刊行である「深夜の散歩」(福永武彦、中村真一郎との共著)に収められた「マイ・スィン」と題された探偵小説論(わたくしは番町書房版「月夜の晩」で読んだ。現在はちくま文庫の「快楽としてのミステリー」に収められている)のなかの「クリスマス・ストーリーについて」で、クリスティーの「クリスマス・プディングの冒険」が、ディッケンズの「クルスマス・キャロル」以来の伝統から発する「クリスマス・ストーリー」の系列に属することを指摘したり、「すれっからしの読者のために」で、ソマーズ(ガーブ)の「震える山」を論じて、これを読むためには読者もまたすれっからしでなければならない(探偵小説のさまざまな型についてのある程度の素養が持った読者がいなければならない。ひまつぶし用の読物の伝統が長くあるところで、読者にデカダンスとさえ名づけてもいいほどの成熟が生じていなければならない)ことをいい、あるいは「冒険小説について」でデヴィッドソンの「モルダウの黒い流れ」を論じて、これがホープの「ゼンダ城の虜」という50年前の名作の骨法を継いだものであること説き、「犯罪小説について」で「Yの悲劇」でさえろくに読んでいないらしい黒岩重吾の探偵小説論を批判しているように、丸谷氏は本をたくさん読み、もはやすべての本を読んでしまって退屈していてどこかにまだ面白い本はないかと思っているようなすれっからしの読者がいる状態を「文化共同体」と呼んでいるのだろうと思う。丸谷氏の「横しぐれ」とか「樹影譚」といった凝りに凝った小説は、そういうすれっからしの読者に差し出したものなのだろうと思う。しかし、そういうすれっからしの読者の姿が見えなくなると、文化共同体にではなく文壇に差し出す小説になってしまう。仲間うちに差し出す作になってしまう、それが丸谷氏の晩年におきていたことなのではないかと思う。
「樹影譚」については、不破氏は「『笹まくら』を思い出すと、この二十年でいかに丸谷のスタイルが変わったかが分かる。かつての重苦しいまでの真剣さが、どこか余裕のある「軽み」に変わっている。「小説ですよ、楽しくいきましょう」と言われているような気分になる」といっている(p140)。そうなのだろうか? 「樹影譚」で不破氏が指摘する「軽み」というのは、文壇内での目配せであるようにわたくしなどには思える。こう書くとあいつが笑うなという仲間内での符牒だったのではないだろうか?
晩年の氏の長編小説が著しく平易なものになっていったのは、もはや「すれっからし」の読者の姿が見えなくなっていて、一見のお客さんにもわかるものを書くようになっていたからなのではないだろうか? 「エホバの顔を避けて」も「笹まくら」も一部のすれっからしの読者を想定して書いたものなのだろうと思う。その当時の丸谷氏はごく小数かもしれないが「文化共同体」(すれっからしの読者)を信じていたのではないかと思う。あるいは自分がその共同体を作っていこうと思っていたのかもしれない。「笹まくら」(4)の西課長補佐の長い独白(河出書房版p103〜114)などは、丸谷氏自身が楽しんで書いているし、それができたのも「すれっからし」の読者の存在(共同体)を信じることができたからだろうと思う。しかし「持ち重りする薔薇の花」が一体どのような読者を想定していたのかわたくしにはうまく想像ができない。
氏の晩年の長編は文壇内部で過度にほめられるが一般の読者からはすぐに忘れられてしまうというものが多かったのではないだろうか? 「女ざかり」を思い出すひとはもうほとんどいないのではないだろうか?
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