ソーントン不破直子「戸籍の謎と丸谷才一」 第7章 「女ざかり」 第8章「輝く日の宮」 第9章「持ち重りする薔薇の花」

 第7章「女ざかり」の副題が「いいかげんな国家のいいかげんな小説」というのである。「「新日報(主人公が勤めている新聞社)」という国家は、体制はちゃんとありそうな立派な、いいかげんな共同体である(p238)」「偉そうなことを論じている豊崎教授は、仕事の主張日と手当を流用して十年も不倫をしていて、今後も続ける気でいるいいかげんな男だ(p256)」「何といいかげんな夫婦と元夫婦だろうか(p257)」「学術論文でこんな独りよがりの、いいかげんなことを書いたら、即不採用(p258)」・・・。
 登場人物がいい加減で、考えていることがいい加減、ということなのであるが、そういう人物が登場してそういう行動をすれば出来た小説がいい加減ということにはならないだろうと思う。くだらない人物がくだらないことをする立派な小説というのもあるだろうと思う。「ボヴァリー夫人」が立派な小説であるかどうかは知らないが、でてくる人間は愚かないい加減な人物ばかりである。
 さらにいえば、立派な小説というのが言葉の定義に反するようなものかもしれないので、小説とは小人の説であり、女子供の読み物である。大の大人が読むものではない。そういうものを書いて「芸術」にしようとしたフロベールというのが変な人なのである。だからもちろん、丸谷氏も変なひとではあるわけで、そうであるなら、小説をネタにして大上段からの高論卓説を述べることをするなどということほど大人げないことはないかもしれない。
 不破氏がこの「女ざかり」をどのように評価しているのかも、読んでもよくわからない。「「ポリフォニー」も、俗な言葉で言えば「いいかげん」ということだ。これこそが、丸谷の小説家としての独創性であり、こういう何重もの空気の層をもった国家を易々と包みこめる鷹揚な大気が小説ジャンルであり、その限りない面白さなのである。(p258〜9)」って、何をいいたいのだろう? 褒めているのだろうか? 褒め殺しているのだろうか? いくら「何重もの空気の層」があっても、登場人物がつまらなければ、小説は面白くならない。「つまらない」=「いいかげん」ではない。「いいかげん」さが不徹底で、底が浅いのである。「女ざかり」にでてくる人物たちは「どうでもいい」人たちばかりなのである。生き方がふわふわしていて、足が地についていない。つまり「生きて」いない。「彼方へ」の人物たちと変わるところがない。
 しかし、丸谷氏は「女ざかり」の登場人物たちを「いい加減」とは決して思っていなかっただろうと思う。そこに書かれた生き方こそ文明であると思っていなのではないだろうか? 明治期に日本が接した西欧は19世紀の西欧、野暮で野蛮なヴィクトリア朝的道徳律が支配する西欧であった。西欧の精髄が19世紀ではなくは18世紀にあることは吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」に先んじて丸谷氏の「津田左右吉に逆らって」で述べられていることは前に書いた。
 それでは18世紀西欧の文明化した貴族の生活はといえば、○○夫人は××侯爵の愛人である、という世界である。健一さんはその方面を得手としなかったが、それが大好きである鹿島茂氏などはヨーロッパ18世紀がいかに乱倫乱交の世界であったかということを実に嬉しそうに語っている。どこで読んだか忘れたが(おそらく鹿島氏も参加した座談会のようなものだったと記憶しているが)、文明化の程度というのは私生児の数によって計られるということがいわれていた。私生児が多いほど文明度が高い。一夫一婦制をまもるなどは野暮の骨頂、そのような野蛮な制度を離れて男女が自由に交際できる社会こそが文明化された世界である。男女関係の洗練こそが文明化の必須条件というようなことである。
 悪名高い陰謀のひとで変節漢ともされ、また一方では外交の天才ともいわれるタレーランは文明のひとでありまた乱倫のひとであったが(外交の要諦は女の扱いと同じといったとか)「1789年以前に生きたことのない人には人生の甘美さはわからない」といったのだそうである。一方、その敵手であるフーシュはどう考えても文明人ではない野暮なひとである。
 丸谷氏は文明人と文明の生活を書きたかったのだと思う。「人生の甘美さ」である。「輝く日の宮」も「持ち重りする薔薇の花」もそうだと思う。あの健一さんだって「本当のような話」を書いたのは、そこに洗練された男女関係を描いてみたかったのであろうと思う。しかし、無理している感はいなめない。また倉橋由美子さんも、かつては「道徳の町」の住人であることを誇り、「フリー・セックスの町」に住む多くの文化人を笑って、妻の不貞はだめ、旦那の浮気は黙認」などという古風なことをいっていて、また「ヴァージニア」では乱交のひとヴァージニアをたしなめていたにもかかわらず、後年「夢の浮橋」以下の桂子さんもので乱倫乱交の世界を描くようになった。それは明らかに、自分は19世紀ヴィクトリア朝的道徳律にとらわれていたという反省の産物と思われる。文明化した精神というのは何者にもとらわれない精神のことをいう。一夫一婦制などというのはとらわれの極致である。
 丸谷氏は市民小説を書くことを目指すということを標榜していた。そこで描こうとした市民は明治維新以来の野蛮な19世紀ヨーロッパ的道徳律にしばられた市民ではなく、文明化し18世紀的な自由の精神をもった市民なのである。しかし、吉田健一の「絵空ごと」はタイトルが雄弁に語るように明確にお伽噺であることを自覚しており(「本当のような話」もまた同じである)、倉橋氏の「シュンポシオン」や「交歓」もなによりもそれが吉田氏の「絵空ごと」の圧倒的な影響下に書かれていることから明らかなように、自分の夢想する文明化した貴族たちの姿を描くものであり、現実とは何のかかわりのないことを明確に自覚していた。それに対し丸谷氏は、「女ざかり」以下の市民小説で描いたような「市民生活」が日本の一部には現実としてすでにあり、日本がそのようにようやく「文明化」するにあたっては自分もなにがしか力を貸したというとんでもない錯覚にとらわれていたように思う。それが後期の長編小説をしまりのない「だらしのない」ものとしてしてしまったように思う。
 「笹まくら」の主人公は大学でしがない事務の仕事をしている男という設定である。それが丸谷氏が現実に知っていた唯一の仕事の場であったからであろうが、しかしもともと小説は貧乏人を描かないものである(フォースター「ハワーズ・エンド」)。その文学的出発の時から文士の貧乏生活を描く小説に反発していた丸谷氏は、芥川賞をとり社会的に上昇していくなかで、さまざまなエスタブリッシュのひととの接触が増え、世の片隅ではなく、中心部にいるひとにを多く知るようになった。そういう人びとこそが今までの日本の小説では描かれてこなかった、それを描くことこそ自分の使命であると思ったのであろう。
 従来の日本の小説は、仮にある程度社会的に上昇した人間であっても、その内面はいかに荒廃したものであるのかを描く方向をとっていた(たとえば伊藤整の「氾濫」)。それでは旧来の日本の私小説風土から少しも抜けてはいないのではないか? 自分はそうではないものを書く。そういう自負があったのであろう。で、描かれたものは悩まない上流階級の生活であった。しかし、それはまことにたわいのない手応えのないものとしか思えない。
 明治に日本にはいってきた西欧は野蛮な19世紀の西欧であり、それが喜劇も悲劇も生んだのであるが、江戸の日本は文明国であったのであり、明治の日本にもその文明は継続されていったはずである。しかし江戸期の文明は18世紀西欧とはまったく異なる性質のもので、その根っこには武士がいて、明治期の日本は西洋19世紀の野蛮と江戸以来の武士の文明が入り交じったものとして形成されていたはずである。吉田健一牧野伸顕の孫、大久保利道の曾孫なのであるから、武士の末裔である。無理に「本当のような話」などを書くことはなくて、「瓦礫の中」や「絵空ごと」の線まででよかったのではないだろうか? 「瓦礫の中」の伝右衛門さんの造型の直接のモデルは河上徹太郎であるような気がするが、牧野伸顕の像などもまじっているような気がする。河上徹太郎岩国藩士の末裔である。
 「絵空ごと」で果てしなく続く世間ばなれした論議は中国の清談の流れの上にあるのだろう。吉田氏は18世紀フランスでのサロンなどをイメージしていたのかもしれないが、氏は西欧でもイギリス派なのだと思う。三島由紀夫吉田茂を評して度しがたい支邦趣味とアングロマニアという悪口をいっていたが、息子の健一だって同じで、日本の古典などには興味をもっていなかっただろうと思う。
 江戸の武士をあるいは文明人を律したのは漢詩であり漢文であったわけで、歌や句は町人のものであった。源氏物語を読む武士などというのがいたとは思えない。
 どこで掛け違いが生じたのだろうか? 丸谷氏はあるときに、自分は後鳥羽院になったと錯覚したのではないだろうか? (「後鳥羽院の宮廷はいわば歌会のサロンとして、当時の文化共同体の美的感受性の中心であった」(不破著p186)→毎日新聞の文芸欄はいわば日本文壇のサロンとして、日本の文化共同体の美的感受性の中心となった。)
 我こそは新じま守よ 日本文壇の あらき浪かぜ心してふけ
 「われこそはと云ふ肝要なり。」 だが、残念ながら丸谷氏のどこにも尊い血は流れていなかった。戸籍の問題である。
 だが、血がつながっていなくても、文化の伝統においてつながるということがある(ドーキンスミーム(meme)である。これはギリシャ語の「模倣」をあらわす語からきているらしい。複製・伝達・変異をおこすものは「進化」する。本歌取など進化そのものである。歌枕は進化の基礎である。丸谷氏がなぜ私小説のようなものを嫌ったかといえば、それが伝統とは無縁な一発勝負でなにものをも引き継いでおらず、また後になにものをも残さないからである。
 中国に「青史に名を残す」という言葉があるらしい。後世に名前が残るということのようだが、別にいいことをしてということではないらしく、刺客というのでも立派な資格になるらしい(刺客がいいことをする場合もあるのだろうが)。そういう伝説が集まれば水滸伝になり、そこから金瓶梅が生まれ、ついには筒井康隆氏の「俗物図鑑」とか北方「水滸伝」とかになるわけであるが、こういうのを丸谷氏は宮廷文化とはいわないだろうと思う。(わたくしは確か「週刊新潮」に連載されていた「俗物図鑑」で梁山泊とか水滸伝というのを知ったのだと思うし、ひょっとすると筒井氏の名前を知ったのもこれによってであったかもしれない。)
 さて、こういうことが「可死性」とその克服ということに関係あるだろうか? 戸籍において家はつながる。子供をつくることにおいて自分の遺伝子の一部はつながる。しかし、それと「自分」が死ぬということは関係ないことであり、それらが「可死性」への対策になるなどということはありえない。
 現代の人間にとって、「自分」というのは、自分の遺伝子でも、戸籍に記された名前でもない。「自分という意識」のことである。とすれば、回復可能性のない昏睡状態のひとや重度の認知症のひとは、もう生きてはいないのかものしれない。しかしそういうひとの肉体は生きているわけである。死にたくない、というのは肉体が生きていればいいということではなく、「自分」という意識が(睡眠の時はは別にして)絶たれるような事態にはならないようにしたいということである。
 相当重度の昏睡状態のように見えるひとでも聴力は保たれていて、それを記憶しているという話がある。ロックド・イン症候群という意識清明でありながらいっさい身動きもできないという状態もあるらしい。そのあたりはなはだ面倒な議論のあるところであるが、可死性への対応として、戸籍における家名の連続とか、子を作るということでの遺伝子の連続というものが、現代の人間にとって納得できるものであるとはとうてい思えない。
 わたくしのみるところでは、丸谷氏がとりあげた戸籍の問題あるいは親子の血の問題というのは、文化の伝統とその継承という丸谷氏にとって一番切実な問題との関わりからとりあげられたのである。
 丸谷氏がまだ新人であったころは、自分には切実な関心であるものの多くのひとにとってはどうでもいい問題である文化の伝承と継承の中でこそ生命は輝くという問題をそのままでは小説でとりあげることはできず、それの裏返しとして、あるいはそのネガとして戸籍とか親子の血の問題がでてきたのであろう(そこに描かれているのは、文化から切り離されて根扱ぎとなっている人間の仮の逃げ場としての戸籍や子供である)。後年、作家として名前が知られてくると平気で源氏物語とか芭蕉の紀行だとかを直接とりあげることができるようになった(たぶん、小説の読者にとってはあいかわらずどうでもいい問題であったのだろうが)。
 丸谷氏の悲劇というのはどう考えてもマイナーな作家であるひとがメジャーな作家になってしまったということにあるのではないだろうか? あるいはメジャーとしてふるまうことを期待されるようになったということである。後鳥羽院は狭い文化の世界では王であったのかもしれないが、日本全体からみればまったくとるにたらない存在でもあったはずなのである。
 「輝く日の宮」と「持ち重りする薔薇の花」はすでにもうこの日録でとりあげているので、ここでまたあらためて論じることはしない。
 

戸籍の謎と丸谷才一

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