長谷川郁夫「吉田健一」(1)

    新潮社 2014年9月
 
 著者の長谷川氏は小澤書店という出版社を経営していたかたである。この出版社は吉田氏の著作も多く刊行しており、わたくしも「定本 落日抄」「ラフォルグ抄」「葡萄酒の色」「時をたたせるために」「詩と近代」「春その他」の6冊をもっている(「ポエティカ」という二冊本の豪華な選集もでていたが、あまりに高くて手が出なかった)。わたくしのイメージでは趣味的な豪華本を出す出版社という感じで、その店主であるから長谷川氏は自分よりも随分と年上のひとと思っていたのだが、実際は1947年生まれということなので、同年配のかたである。大学在学当時にすでに出版社を興したということだから、志のあるひとは違うと感じる。だが、その出版社も2000年に倒産したらしい。
 本書は吉田健一の評伝であるが、出版に携わったひとがが書いたものという点がユニークで、同じく吉田氏の本を多く刊行しながら倒産した垂水書房とその主であった天野亮氏について多くのページを割いている。出版社と著者の関係がいかに重いものであるかということが本書を読むとよくわかる。長谷川氏も天野氏も吉田健一に惚れた人なのだろうと思う。
 学生のころ、神保町の古書店街にいくと垂水書房刊の吉田氏の本がどこの古書店にも山積みになっていた。ゾッキ本というのだろうか。記憶にあるのがタイトルが「感想A」「感想B」とかいかにも素っ気ないものだったことで、これで売れるのかなあと思った記憶がある。ひょっとすると吉田氏の名前をはじめて知ったのはこれによってであったかもしれない。わたくしが吉田氏の本を読み始めたころにもっぱらお世話になったのは原書房版の全集だったが、これは倒産した垂水書房で刊行されていた著作集の紙型を流用して作られたものであったらしい。
 本書は吉田健一の評伝であるので、吉田氏の死までが描かれており、死後の評価の変遷には一切ふれられていない。最初の章でイギリスから帰ったばかりの吉田氏が小林秀雄青山二郎にもまれる場面が描かれたあとは、出生にもどって、後は編年体で書かれている。
 最初の章は昭和8・9年の東京が舞台で、吉田健一が20歳すぎ、青山二郎が32歳、小林秀雄河上徹太郎が31歳、大岡昇平が24歳、中村光夫が22歳とあるから、そのころの日本文学というのは青春の文学だったわけである。吉田健一の文学の立場は反=青春であったから、吉田氏の芽がなかなか出なかったのもけだし当然ということにすると話がうまいのだが、吉田氏の特異な点というのはたんに反=青春といったところだけにあるのではなく、文学観が小林秀雄中村光夫などとはまったく違っていたのだから(河上徹太郎はどうだったのだろうか?)、当時の文壇では居場所がどこにもなかったのだろうと思う。
 わたくしが吉田氏の本を読み出した当時、なにより驚いたのが、文学はなんからの自己の思いを表明するためのものというそれまでわたくしが抱いていた文学への見方が全否定されていたことであった。わたくしはドストエフスキーとかトルストイとかスタンダールとかフロベールといった文学者はそれぞれの世界への見方を表明したのだと思っていたし、太宰治吉行淳之介は自分の感受性のようなものをその作品によって示しているのだと思っていた。要するに文学という形式でしかあらわすことのできない何かがあり、それは論文を書くといった形では表明することのできない、もっと微妙で特別なものと思っていた。
 「吉田健一 集成 7」の月報で池澤夏樹氏がこんなことを書いている。「架空の人物を創造して、彼らにさまざまな体験をさせ、その体験を通じて思想を表現する。これが作者の視点から見た小説の原理である。読者の方は登場人物の運命に共感したりはらはらしたり、とりあえずはプロットの力で先へ先へと進んで、最後には作者の思想を理解するに至る。実に明快な装置だと思うが、吉田健一はその効能を認めない。」 本当にそうなので、小説で思想を表現することどころか、小説というもの自体にいたって冷たかった。わたくしが中学から高校さらには大学の教養学部まで読んでいたのは岩波文庫とか新潮文庫とかに収められたものがほとんどで、その大部分は小説であったのだから、それまでしてきたことは何の意味もないことだったといわれたようなものである(事実、そうであると今では思っているが)ので、なかなか納得できるものではなかった。
 しかし、吉田健一が偏愛したラフォルグの「最後の詩」のこんな部分はどうだろうか?
 
 要するに、私は、「貴方を愛してゐます。」と言はうとして、
 私自身といふものが私によく解つてゐないことに
 気付いたのは悲しいことだった。
 ・・
 それで、蒼い顔をした哀れな、貧相な人間で、
 余程暇な時でもなければ私自身といふものが信じられない私は、
 丁度、夕方、一番美しい薔薇の花が散るのを
 ただ見てゐなければならない棘と同じ具合に、
 私は許嫁が自然のなり行きで姿を消すのを
 止めることが出来なかった。
 
 あるいは同じラフォルグの「伝説的な道徳劇」の「ハムレット」でのハムレットの独白の一節。
 
 もし本気にさへなれたら。・・・
 
 いくらでも引用できるけれども、こういうものは思想ではないにしても、何かを表していることは確かだと思うので、吉田氏がいっていることはなかなか腑には落ちてこないわけで、今でもまだそうかもしれない。
 T・S・エリオットはラフォルグから大きな影響を受けたのだそうだけれども、「荒地」などにはそれが非常にはっきりとでているように思う。「本気にすることのできない都会」(Unreal City)とか「急いで下さい。時間ですから」(HURRY UP IT'S TIME)
 ラフォルグもエリオット(特にプルフロックのエリオット)もともに近代を描いたひととして吉田氏から評価される。自分を表現するのではなく、時代を描く。しかし近代を描こうとして書くというのも本当ではなく、自分が感じたことを正確に書くとそれがたまたま時代を描いてしまうというというようなことだろうか?
 日本では戦争前までが近代で戦争後が現代というのが吉田氏の基本的な認識で、この近代の問題はこの長谷川氏の本でも大きなテーマとなっている。近代は不毛な時代で、それゆえに氏もまともな作をほとんど残すことがでなかったが、現代は人間がとりもどされてくる時代で、それに照応して氏もまた芳醇な作品を書くことができたというとえらくご都合主義的な理解であるが、実際、吉田氏自身それに近いことを思っていたのではないかと思う。もう現代になっているのに、いつまで近代の意識でいる人を氏は嗤った。さらに、近代の時代にも近代以前の意識でいて、今でもなおそれを引きずっているひともいるが、それはもう論外ということになる。
 それでは現代ということで氏がいったものは何かということになるが、「正気である」あるいは「正気を保つ」ということではなかったかと思う。その反対が「観念論」であり、「キリスト教」あるいはそれに通じる何かであったと思う。吉田健一を読み始めた頃、カトリック教徒の友人から「吉田健一って反=カトリックだよね」と言われたのが妙に頭に残っている。キリスト教あるいはそれに通じる何かというのは、たとえば「罪の意識」あるいは「後ろめたさ」とでもいったものだろうか? 正気のひと(吉田健一の用語では文明人?)は罪の意識も後ろめたさも持たないのである。なんだか理想化されたローマ人という気もしてくる。
 それで「正気」ということについて二つの方向がでてくる。一方が、吉田健一自身が規範的な「正気の人」であったという見方で、もう一方が吉田健一は「己を正気に保つことを自己に課した人」であったという方向である。長谷川氏は明らかに前者の立場であると思う。篠田一士氏や丸谷才一氏などもそちらの立場だったように思う。後者が丹生谷貴志氏などのもう少し若い世代の人たちの吉田健一観で、倉橋由美子さんなどはその中間かもしれない。わたくしは以前は前者の立場をとっていたが、最近は段々と後者が正しいのではないかと思うようになってきている。
 吉田氏自身がどちらだったのかというは本当は誰にもわからないことで、氏自身にだってわからなかったことかもしれない。というか、そもそもそのような問自体を氏は愚かなものとして笑ったであろうと思う。
 長谷川氏の本を読みながら、上に述べたこともふくめ、これからいろいろなことをゆっくりと考えていきたい。大事なのは結論ではなく、考えていく過程のほうにあるのではないかと思っている。
 

吉田健一

吉田健一

吉田健一集成〈7〉長篇小説

吉田健一集成〈7〉長篇小説

ラフォルグ抄 (1977年)

ラフォルグ抄 (1977年)

葡萄酒の色―訳詩集 (1978年)

葡萄酒の色―訳詩集 (1978年)

ヨオロッパの世紀末 (1970年)

ヨオロッパの世紀末 (1970年)

吉田健一論

吉田健一論

天皇と倒錯―現代文学と共同体

天皇と倒錯―現代文学と共同体

偏愛文学館??

偏愛文学館??

最後から2番目の毒想

最後から2番目の毒想