長谷川郁夫「吉田健一」(2)第1章「水の都」と清水徹「ふたつの時間のはざまで」(叢書「文化の現在 7「時間を探求する」1981年所収)

 
 第一章の「水の都」は、蝶になる前、まだ蛹の時代の吉田健一をあつかっている。
 蛹の時代が論ずるに値するためには、後に立派な蝶になっていることが必要である。名をなした後の吉田氏を認めないひとももちろんいるであろうが、長谷川氏は吉田健一に惚れたひとである。当然その吉田氏の大のよってきたるところを知りたい。蛹の時代にも後に立派な姿になることを予想させる何かを見いだせるはずと考える。
 それで本章が書かれるわけであるが、この時代の健一青年の姿は青山二郎小林秀雄の「あいつはものにならない」という指摘がどう考えても正鵠を得ている印象である。そうだとすると書き方も屈折したものとならざるをえない。この時代にまったく適合できず失語症状態におちいったということがとりもなおさず後世の大成につながるという奇妙な論法である。
 講談社文芸文庫吉田健一「絵空ごと 百鬼の会」に勝又浩という方の「作家案内」が付されていて、そこに若き日の健一青年の失恋?の話が書かれている(こんなことまで書かれてしまうのだから有名にはなりたくないものであるが、ついでにいえばこの講談社文芸文庫にはたくさんの吉田健一本が収められていて、文庫本としてはかなり高価であるのと、現代仮名使いに直されてされてしまっているのが欠点ではあるが、多くの熱のこもった解説が付されており、それだけでも読む価値がある巻が多い)。暁星中学時代の話である。とあるパン屋の売り子嬢に惚れこんだ16〜17歳の健一青年、音楽会の切符などを渡そうとするが、頑として受け取ってもらえない。それで見かねた友人が「あいつは偉い外交官のお坊ちゃんなんだぜ」などと売り子嬢にいうのだが、その売り子嬢はただ「あの変なひとが・・」と繰り返すばかり。なぜ「変なひと」なのか。「当時、その年頃の良家の息子は学生服か、カスリの着物姿が一般だった。ところが彼は、パリッとした背広姿で、籐のステッキなどをつき、ソフトや、夏はカンカン帽などをかぶっていた。言葉使いも、牧野伯爵家の影響か、貴族言葉という奴で、女性的なほど丁寧だった。/ 年に似合わぬイギリス若紳士スタイルで、年中ブラブラしているみたいな健一さんが、日に何回も現れて、「あのう、このパンとこのパンを下さいません」なぞというのだから、パン屋の売り子嬢の眼には、変なひとに映ったのも無理なかったであろう」と中田瑞彦という健一氏の従兄にあたるかたがいっているのだそうである。この他愛のないエピソードを勝又氏は「つまるところ彼の生涯のありよう、更に言えば、吉田健一という人の、日本における姿を象徴し、予告していたように思えてならない」としている。同感である。精神的なコスモポリタンということを勝又氏はいっている。
 そういう青年がケンブリッジから帰って来たら、「インテリ嫌ひ」で「今の文壇の文士どもは、インテリつぽくつてしやらくさい、それがシャクの種だ」とする小林秀雄の目にどう映ったかはいうまでもないことになる。そういう青年が録な日本語も話せないのになぜ文学者になろうとする自負を持てたのかの謎の解明も本章のめざすところであろうが、ここでは吉田健一が英国で学んだもの(といっても高々半年の留学だが・・)が論じられないので、それは不明なままである。わずかにヴァレリーの影響が大きかったことが示唆されるだけである。それで以下は第2章から先を少し先取した考察。
 健一青年がいつ蛹から蝶になったかについては諸説あると思われるが、「東西文学論」の頃だって、西洋かぶれの文学理論をふりまわす「変なひと」とまだ多くのひとに思われていたのではないかと思う。そういう点からいえば、吉田氏が本当に蛹から蝶になったのは「ヨオロツパの世紀末」を書いた時という見方だってあるかもしれない。
 雑誌「ユリイカ」が復刊された時、吉田氏に連載してもらうことの了解はとってあるのだがテーマが決まっていない、どんなテーマがいいかと相談された大岡信氏が「ヨーロッパの世紀末」しかないでしょうといったことから、この連載となったらしい(大岡信「荒地を越えて」(「吉田健一集成 別巻))。ここで大岡氏がいっているように、この時に大岡氏の頭にあったのはラフォルグで、「吉田氏の訳したラフォルグの『ハムレット異聞』を旧制高校の時に読んで、言い表しがたい不思議な眩暈を感じた思い出は、私は今までにも両三度書いたことがある。私と同年輩の人々で同じ経験を持っている人が何人かいるのも知っている。飯島耕一清水徹阿部良雄氏ら・・・」とあるように吉田氏のイメージを氏の訳したラフォルグとして持っているひとは多いはずで、大岡氏だって「ヨーロッパの世紀末」という連載に期待したのは、ラフォルグなどについてもっと精緻に語ってもらうことであったのではないかと思う。
 依頼された吉田氏にしても「後記」に「これは最初はその言葉の連想からビアズレイの絵や象徴派の詩に就て多少詳しく書けば約束が果せる位の積りでゐた。それで art nouveau というものが当時興つたことも頭に浮んでそれを調べたりしたことも今になつて思ひ出す」と書いているように、大岡氏の期待とそれほど変わらないことを考えたのだろうと思う。だが出来上がったものは、どこにもビアズレイの絵や art nouveau などはでてこないものとなった。「併し実際に仕事を始めてそんなことですむものではないことが解つた」のであり、「この本を書くのに予期してゐなかった勉強をすることなつた。」 「そのヨオロツパに、何か解らないことがあつたらそれに就て一冊の本を書くといいといふ格言がある。これは本当であるやうであつてヨオロツパに就て今度これを書いてゐるうちに始めて色々なことを知つた気がする」とあるのは掛け値なしの本当の気持ちを書いているのだろうと思う。巻頭に「先ず廻り道をすることから始める」とあって、本当にヨーロッパの世紀末が語られるのは第10章から先であるから全体の1/4であり、それもビアズレイや art nouveau の世紀末ではない。
 この本を書くことで吉田健一のなかで何かが出現してきた。村上龍さんは「五分後の世界」を書いているときに自分でも予期していなかった作品の構造のようなものが現前に出現してきた不思議な経験を述べ、確かに自分が書いたのではあるが、その出現してきた構図が自分に書かせたのでもあるということをいっていた。中島梓もそれに共感し物語作家というのは必ずそういう経験をどこかでするものだということを書いている。吉田健一もまた「ヨオロツパの世紀末」執筆のどこかの時点で似たような経験をしたのではないかと思う。著書の全体像が一気に見えてくるような経験である。そこで、「近代」と「現代」が再発見された。
 大岡氏の論に吉田訳のラフォルグに魅了された若者の一人に清水徹氏の名前があげられていた。その清水氏に、「ふたつの時間のはざまで」という文章がある(叢書「文化の現在」7「時間を探検する」(1981年)に所収)。この論文は「吉田健一頌」におさめられた丹生谷貴史氏の論「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの文で知った。(この「文化の現在」という叢書ではほかに11の「喜ばしき学問」という巻だけ読んでいる。そこでたまたま村上陽一郎氏の論を読んだのが科学哲学というものを知った最初で、それでその方面をいくつか読むことになりポパーにたどりつくことになった。村上氏自身はファイアアーベントに一番肩入れしていたように思うので、後知恵で考えると、これが同時に広い意味でのポストモダン思想にふれた最初であったのかもしれない。)
 「ふたつの時間のはざまで」はそのタイトルの通りの「時間論」であって吉田健一論ではなく、ゴダール気狂いピエロ」、フーコー「言葉と物」、メルロ・ポンティ、ヴァレリー「テスト氏との一夜」、山崎正和「不機嫌の時代」(清水氏は一貫して「不機嫌な時代」としているが)「曖昧への冒険」、スタイナー「ハイデガー」、開高健ロマネ・コンティ・一九三五年」、石川淳「至福千年」「狂風記」、レヴィナス「全体性と無限」、ブランショロラン・バルトフロベールボヴァリー夫人」「聖アントワーヌの誘惑」、マラルメラカンプルーストといった人や作品を引用し論じながら、そのなかで吉田健一をも語るというスタイルになっている。少しうれしいのはそこで論じられている本をある程度は自分も読んでいることで、映画はみないので「気狂いピエロ」はみていないし、フーコー・ポンティ・バルト・ブーランショ・ラカンもあまり読んでいない、さらにはレヴィナスも読んでいなが、これについてはレヴィナスの日本での伝道師である内田樹さんの本は相当読んでいるので、ある程度はそれで補えるかもしれない。日本人の書いたものはここで言及されているものはほぼ読んでいる。
 1981年刊というと25年以上前である。本論を読んで、そのころにはフーコー、バルト、メルロ・ポンティ、ラカンといったフランスの思想家が日本で大きな力をもっていたのだということをあらためて思いだした。なにしろドゥルーズガタリの大部で高価な本がベストセラーになっていたのではなかっただろうか? わたくしの本棚のどこかにも「アンチ・オイディプス」は探せばあると思う。読んでも(といっても途中で投げ出してしまったけれど)何が書いてあるのかさっぱりわからなかったが。
 「アンチ・オイディプス」は1972年の刊で1968年のパリ五月革命の余熱の中で書かれたものらしい。1968年は旧来からのマルクス主義に失望していたひとたちが、もう一つ別の「革命」を夢みることができた最後の年だったのではないかと思う。あるいは人文的な「知」が世界を変えられるという信仰の花火が最後に打ち上げられた年だったのではないかと思う。これ以降の「知」は経済学をふくめた工学的な「知」の方向に急速に傾斜していっていると感じる。
 さて、わたくしがこの清水氏の論で考えてみたいと思うのは、いわゆるポスト・モダン思想と吉田健一の著作にはどこかで通底するところがるのではないかとする仮説である。吉田健一は「近代」を乗り越えてできる「現代」ということをいった。ポスト・モダン思想は「近代」を乗り越えようとする思想である。ポスト・モダン思想はずいぶんんと観念論的な側面もあり「頭」の思想という側面もあるから、観念論大嫌いの「体」のひと吉田健一とは相反する側面も強いと思うが、それでも両者が反対しようとしたのが、われわれが通常「これこそが西欧である」と思っている何かであるという点においては共通するものがあるのではないかと思う。それで、そのようなことを少し考えてみたいわけである。
 われながら無茶苦茶な話だと思うが、そういうことを考え出したきっかけが上記の丹生谷氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という吉田健一論にとても説得されたからで、調べてみるとどうも丹生谷氏はドゥルーズあたりが専門のひとらしかった。まったくとりつく島のみえなかったドゥルーズにかすかに手掛かりがつかめたと思うとともに、従来から多くのひとが述べていた「大人の文学者」「イギリス紳士」「市民的常識を説くひと」という吉田健一観に微妙な違和感を感じていたので、その違和感のよってきたるところも少しわかったように思った。
 清水氏の論は1965年の映画「気狂いピエロ」から始まる。それがフーコーの「言葉と物」と照応するとされ、「世界と自己とのあいだの、安定した距離をとることがきわめてむずかしいそうした関係を、ゴダールはそのまま作品化することをもくろんだ」というようなことがいわれる。随分と生硬な言い方で、清水氏もいまならもう少し別の書き方をするのではないかと思うが、フランス思想が流行していた時代にはこういう書き方が当たり前だったのかもしれない。さらに生硬な言い方が続く。この「気狂いピエロ」のころから何かが変わったと清水氏はいう。「それまでの{近代}全体を支えてきた『意識ー時間ー内面』というパラダイムがその優位性ないし有効性をしだいに失ってきたのだ、と。ここから先、清水氏の言わんとするところを要約できてているかどうか自信がないが、意識の内省こそが生きる意味であるとする見方は同時にその内省が死という意識の切断で終わるとことをも知っているという矛盾をさけられず、それに起因する分裂こそが近代の特徴であったというようなことをいっているように読める。この分裂を救済するはずの「神」が死んでいった19世紀半ばから、個人の内面は浮遊し、メランコリーへの沈潜、夢への遁走、性的妄想へののめりこみなどの世紀末的なものが立ち現れてくる。この崩壊過程を表現したのが「気狂いピエロ」であり「言葉と物」であったとされる。『意識ー時間ー内面』というパラダイムが『身体ー空間ー表層』のパラダイムへとそのままスムーズに移行していったといえれば明快なのであるが、実際には時間の桎梏を脱することは容易ではないからそうはならなかったといってヴァレリーの「テスト氏」が論じられる。
 それならば日本では、ということで山崎正和氏の「不機嫌の時代」がとりあげられる。漱石や鴎外の主人公たちもまた、『意識ー時間ー内面』というパラダイムの軋みを生きていたとされる。山崎氏の後続作「曖昧への冒険」でとりあげられている開高健の「ロマネ・コンティ・一九三五年」で描かれる世界もまた同じなのである、と。同じ地平で石川淳の作も論じられる。
 これら世紀末の時間には「聖なるもの」の影が落ちていない。それならば、1)聖なるものとの緊張関係を時間に恢復させる方法、2)均質な時間をむなしいと感じることなく、そこにこそ人生の時間があるとする方向、の二つの方向が、そこからの救済の方向として考えられることになる。
 1)の方向の代表として清水氏がとりあげあるのがレヴィナスである。そこでいわれるのは「時間とは孤立したただひとりの主体の問題ではなく、主体と他人との関係である」ということであるとされる。「孤独が悲劇的なのは、それがみずからの自己同一性という牢獄内に閉じこめられているからだ」とレヴィナスはいっている、と。しかしレヴィナスの論は神を自らが信じることができたという前提の上に成立する点を清水氏は問題としている。
 2)の方向の時間論を倦むことなく語ったのが吉田健一であった、とするのがこの清水氏のこの論の最大の眼目となっている。吉田健一の徹底的な汎時間主義は刹那主義的な現在時への狂奔とはまるで違うものと清水氏はいう。そこには充実感と哀愁が同時にある、18世紀西欧のロココ社会のように。「人生の空しさ」がそのまま人生の充実につながるという叡智がそこにあると清水氏はいう。「吉田健一の汎現在主義は二十世紀という「時間に憑かれた世紀」を「時間とともに生きるすべを知る世紀」たらしめるための、ほとんど特権的な橋頭堡だと言えるだろう」と清水氏はいう。
 そして、その論を成立させるために吉田氏があえて見ようとしなかったものがあるというのがこの論での清水氏の問題意識となっている。「時間」で吉田健一はいう。「近代が崩壊して再び我々のものになつたのが人間の観念であり、そして又時間の観念だつたと考へる根拠は充分にある。それは完璧を目指すよりも人間であることを見失はない方が人間であることにとつては重要であることを近代を通つて来たものが身に染みて、又精神を賭して知つたからであり、その人間の観念を取り戻せば時間の観念も人間であることに伴つて再び身に付けざるを得なくなる。ただそのことを説くものは今の所はまだゐない。」
 この最後の不思議な「ただそのことを説くものは今の所はまだゐない」に注目して清水氏は、これは吉田健一のまったく個人的な見解、あえて言えば自己説得なのである、という。ラフォルグへの陶酔から出発した吉田氏は第二次世界大戦を境い目にして明らかに転向している、と。
 清水氏のいう「自己説得」というのはわたくしにはとても共感できるもので、氏の晩年の驚嘆すべきとも異常なとも感じられるあの多産は、書き続けなければ自分でさえ納得できないほど風変わりな、あえていえば異常な主張だったのだと感じるからである。なにしろ「ただそのことを説くものは今の所はまだいない」ことを主張しているのである。
 吉田氏の転向を具体的に示すものとして清水氏は吉田の小説「東京の昔」の一節をしめす。主人公が「東京の昔」の1930年代のある冬にある池を見てそれを異様なものと感じた描写である。しかしそれを異様なものと感じが、後になって春にいって見れば「冬それを眺めた時の異様な印象はただその通りに見るに堪へないといふことだけですむのではないかという気がして来た。さういふものは我々の周囲に幾らでもある。それは見るに堪えないのであるよりも見るべきではないので人が裸になつた時には眼を背けなければならない。その池が裸の時に見たのだつた。そこに深淵が覗いてウィると思つたりするものは精神に異常を呈してゐるので誰も死ぬ時が来るまでは死にたくないならば気違ひになることも望みはしない」とされるのであるが、それを「見るべきでないものを見てはならない」という自らへの拒否あるいは断念と清水氏は見る。「近代」のパラダイムが有効性を失ったときに生じる様々な混乱、そこに「深淵」を見て結果的にそれに呑みこまれたものは多く、死屍は累々としている。吉田健一をその深淵を見ないことを敢えて自分に課した。その上に氏の時間論がある、というのが清水氏の見立てである。
 この後、清水氏はフーコーの「意味の文学」から「記号」あるいは「言語それ自体」への移行といった説を論じて、「文学作品における言語がその言語の多義性において自己を主張する」といった難しい話になり、例のシュニフィアンとかシニフィエなどもでてきて、ラカンも登場するなど、フランス思想が席巻していた当時の日本の論壇言語を思い出させてくれる議論となっていくが、正直わたくしには理解できないものなので、紹介はここまでとする。
 吉田健一の方に戻ると、ここで清水氏が吉田健一は敢えて自らに見ることを禁じたとしていることに対して丹生谷氏は、吉田健一は深淵が見えるように思うのは精神が異常をきたしているからで、正常な精神にはそんなものは見えないとしているのではないかという方向からそれに異をを唱えて議論を展開していく。(「東京の昔」では冬に見た池は「それはみすぼらしいのでなくて何か訴へてゐるやうでもあり、併しもし訴へてゐるのならばもつと生気があるものでなければならなかつた。それは寂しいのですまないのなくて何とも寂しい眺めで余りに寂しいので滅入ることもなかつた。その冷たさが記憶に残つてゐる。或はそれは冷たさだつたのだらうか。それが名状し難いものなのでまだ覚えてゐるといふこともある」というものであったのだが、春にいくと桜などが咲いて茶店などもでてまったく凡庸な風景となっている。ある時に深い意味があるように見えることも別の時にみればまったくつまらないものであることが多いのに、あえてそれが最低の属性にあるときにそこから深い意味をあえて読み取るようないきかたへの批判ということのようにも思える。)
 丹生谷氏は中井久夫氏の分裂病統合失調症)発症論を踏まえて論じる。中井氏によれば、統合失調症の発症直前のごく短い時期、それまで泡だっていて混乱に充ちていた世界が急に安定し静謐になることがある、それはいかにも清明で余裕のある世界に思えるのだが、通常は短時間で崩れて、発症してしまう。丹生谷氏によれば、晩年の吉田氏が描いた世界は、その発症直前の危ういバランスの上に成立する微妙な安定の時期に通じる何かなのではないかということになる。
 清水氏ということと丹生谷氏のいうことはそれほど違いはないようにも思うが(清水氏はそういっている)、従来からの吉田健一論の根底にある余裕のある大人の説く文学という方向とは微妙に違うことは確かで、わたくしにはこの方がしっくりくる。吉田氏自身がどう考えていたかなど誰にもわからないことであるが、確かなことは吉田氏がその方向で書くことを自分に課したということで、わたくしにはどうしても「課した」という印象を拭うことができない部分がある。
 かなり多くのひとが吉田氏の書いたものにひきつけらているのは、おそらくそのひとたちが何か自分のうちに欠落したもの不全なものを感じとっているからで、それを乗り越えていく秘密の何かが吉田氏の書くものに示唆されていると感じるからなのであろう。日本で文学とされているものの多くは、「自分のうちにある欠落したもの不全なもの」を描いたもので、ここの文章で引用されている作家でいえば、開高健などは典型ではないかと思う。氏は出発の時点では自分の欠落を書くという方向を自らに禁じていたと思うが、ある時期(「夏の闇」あたり?)からそれを解禁し、以後は「空虚な自分」について書き続けのだと思う。「ロマネ・コンティ・・」ももちろんそうだし、「オーパ!」などの釣りの話も日常の荒廃からの救済の手段として描かれていた。神の代わりの釣り!である。
 山崎正和氏もわたくしの印象では分裂したところのあるひとで、戯曲と評論では違うひとのように感じるところがある。「世阿彌」「舟は帆船よ」「おうエロイーズ」「地底の鳥」などはニヒリズム研究というような印象さえあって「何も信じることができない」人間ばかりがでてくる感じがする。一方、「鴎外 闘う家長」や「不機嫌の時代」などは時代研究であるとともに「空虚な人間」研究でもあるが、「世界文明史の試み」などではどこにも氏自身はでてこないように感じる。自分の問題と世界の問題がわかれてしまっていると感じる。
 では吉田健一が偏愛したラフォルグの詩や散文もまた「自分のうちにある欠落したもの不全なもの」を歌ったのではないだろうか? 吉田健一の実に不思議なところは、近代にあっては欠落を歌うのが正しく、現代にあってはそれは間違いなのであるとしているところである。この論法によって氏自身の全人生が肯定されてしまう。近代にあっては近代的であることが正しく、現代にあってまだ近代を引きずっていることは間違いである。そういう自分を肯定できる強さもまた吉田氏の大きな魅力となっていると思う。もちろん、それをいい気なもんだよ、と感じるひとも多いであろうが。
 「完璧を目指すよりも人間であることを見失はない方が人間であることにとつては重要であることを近代を通つて来たものが身に染みて、又精神を賭して知つたから」というのも随分とご都合主義的と感じるひともいるだろう。「近代を通つて来たもの」だけがそれを身に染みて知ることができたのだとすると、現代になって生をうけたひとは「人間であることを見失はない」こともまたしにくくなるのだろうか?
 ここでの「人間であることを見失はないこと」は吉田健一を解く鍵の一つなのであろうが、その云いは「不幸自慢をするな」ではないかと思う。もしも時代が不幸な時代であるのならば、時代に敏感なひとほど不幸になるわけで、不幸であることが同時に自分がいかに過敏で感受性の強い人間であるかの自慢になるという構図が歴然と日本の文学にはあって、吉田氏の「私小説」嫌いはそれへの反発なのだと思う。
 「完璧を目指すよりも人間であることを見失はない方が人間であることにとつては重要である」というのにはいくらでもヴァリエーションがありうる。たとえば「一人でいて不幸であるよりも、共同体の内にあり他とともにあることの幸福を知るほうが人間的である」。ここの共同体に神を代入してもよい。清水氏の論でレヴィナス路線とされているのがそれである。しかし、神を信じることができる現代人はあまりいないし、そもそもわれわれは共同体から逃げ出してきた。だから内田樹さんの議論はつねにアクロバットであることを強いられる。
 ポスト・モダンが指向したのは神(あるいは超越的なもの)を持ち出さずに近代(モダン)を克服しようとするものであったのだと思うので(「大きな物語が失われた時代」としての現代)、一見、まったく別方向を目指しているように見えても、吉田健一とポスト・モダン思想はやはりどこかで通底しているように感じる。
 どんどんと方向がずれてしまい、昭和前半の吉田健一の姿はどこかにいってしまったが、その当時の健一青年が不毛の焦燥のなかにいたということが確認できれば、この章はいいではないかと思う。
 

吉田健一

吉田健一

吉田健一集成〈別巻〉

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ラフォルグ抄 (1977年)

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ヨオロッパの世紀末 (1970年)

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不機嫌の時代 (1976年)

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東京の昔 (1974年)

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