長谷川郁夫「吉田健一」(3)第2章「メリ・イングランド」

 
 第2章は「メリ・イングランド」である。本書の章名は本の題名からとられている場合が多いが、本章は福原麟太郎氏の著者であろうかと思われる。吉田健一のイギリス留学までの時期を扱っている。氏のイギリス・ケンブリッジへの留学はわずか半年であるが、その前後に氏は「文士」になろうと思ったわけだから、評伝としては勘所の時期ということになる。
 しかし、第一章が氏の留学からの帰国後の修行時代を論じているので、評伝として、第2章は、最初に幼少からの履歴が簡潔にたどられる。ここで問題となるのが、吉田健一が宰相吉田茂の長男であること、吉田茂の妻雪子が大久保利通の二男の牧野伸顕の娘であることなどである。
 大久保利通は母方のつながりであるが、父の茂は土佐自由党の志士、竹内綱の五男として生まれている。3歳の時に父の盟友の吉田健三の養子となった。吉田健三は文明開化期の横浜を代表する実業家であるが40歳の時に急逝している。それで茂は11歳で家督を継ぐことになるが、父の残した遺産は莫大なものであったという。
 健一がうまれる前に父の茂が中国に赴任したため、健一は幼少時を祖父の牧野家で育てられた。健一という名前は茂の養父健三にちなんでいる。
 牧野伸顕は明治4年、11歳で岩倉遺外使節団に随行して渡米、そのままアメリカに明治7年までとどまる。その後日本に戻り、東大を中退して外交官となりロンドンの日本大使館に勤務した。後年、昭和天皇の養育に深くかかわったらしい。
 ここからわかることは、父も母も日本のエスタブリッシュの出自であるとともに、牧野伸顕吉田茂も(茂の養父健三もヨーロッパやアメリカに遊学したひと)みな国際人で英国(+中国?)派であったということであり、健一もまた父に伴われ幼少から中国や英国ですごすことが多く、日本語より英語のほうがうまいといわれるようなその当時としては(今でも?)特殊な人間として育てられていることである。祖父の牧野伸顕も父茂も日本を神国であるとするようなファナティズムとは無縁のひとであったことは大きいかもしれない。
 中村光夫との対談「人間と文学」で三島由紀夫がこんなことをいっている。「吉田茂というのは代表的な最後のアングロマニアです。ぼくはグレコマニアで、もっと道徳的なんです。(笑) でも、あのハイカラさというのはひとつの信仰ですね。」 それに対して中村光夫が「それは吉田健一を見ていてもそう思うね」と答えている。三島「信仰です。いいものはすべてイギリスにあるんです。・・典型的なアングロマニアで、シナ趣味で、日本の古典にはまったく興味がない。だいたい日本の上流階級の教養には公家を除いて日本の古典は全然ない。」 吉田健一も日本の古典にはほとんど関心がなかったと思う。どこかで、能が文学であることをドナルド・キーンの本を読んではじめて知ったなどと書いていたくらいである。
 ここで三島由紀夫が「上流階級」ということをいっているが、健一氏が上流階級の出自であるといえるか、そもそも日本に上流階級というものがあるかということが問題である。明治の元勲大久保利通といっても明治維新で下級武士から成り上がった人間である。
 清水徹氏が吉田健一の略伝で「吉田健一は、かつて日本にあった豊かで教養あり国際的に開かれた上流階級の生まれなのである」と書いているにに対して、長谷川氏は共感と微妙な違和感を表明している。上流階級というのが余計なのではないかというのである。
 それで思い出すのが、吉田健一三島由紀夫の死後、「三島くんはとてもいい子だったけれども、一つだけとんでもない考え違いをしていた。日本に上流階級があると思い込んでいた」といっていたことである。伝説的な?吉田健一の三島邸の悪趣味?への揶揄というのもそこにかかわるのかも知れない。若い頃、何かの映画をみていて併映されていたニュースで、皇太子の学習院入学のことがでていて、そのご学友の父として三島由紀夫がにこにこしている姿が映っていたことがあって、びっくりした。
 長谷川氏は、猪木正道氏の「日本は世界の中の一つの国であって、国際社会を離れて生きてゆくことは全くできないということを、明治の前半までに育った日本人は、ごく自然に理解していた。国際感覚を欠く醜い日本人が現れるのは、日露戦争に勝った後のことである」という(いささか司馬遼太郎的な)言葉を紹介している。長谷川氏のいいたいのは、この言は日本の近代文学についても言えるのではないかということのようなのである。吉田健一は「みにくい日本人」の無理解の壁に苦しめられたのだ、と。
 おそらく吉田健一のキーワードの一つに「普通の人間」とか「当たり前の人間」「正常な人間」ということがあり、上でいわれているのもそういうことで、要するにその当時の周囲の多くの小説家が(健一氏には)「普通の人間」「当たり前の人間」には見えなかったということである。なぜそうなったのかといえば、「世界的にみたら何が普通か」という視点を健一氏がその生育歴から持てていたから、ということになる。そうすると「普遍的」ということが問題になる。しかし、それは後でくわしく論じることにしたいが、一言、とりあえず言えば、文明の姿はそれぞれの地域で外見的には異なってはいるが、文明が文明であるという点においては普遍的でその根幹には共通のものがあるというようなことだろうか?
 履歴に戻る。大正七年に健一少年は父の任地の中国(青島)に渡っている。さらに一度日本に戻ったあと、7〜8歳でパリに渡っている。大正9年にはロンドンに移り、そこでの乳母兼家庭教師に徹底的に英語を矯正されたらしい。それで家庭での会話は英語が常用語になるというとんでもない状態であったらしい。
 大正11年に父茂が天津に転勤するのにともない再び中国へ。大正14年4月日本に帰り暁星中学2年に編入(牧野家から通学)。この頃からアンデルセンの童話とかに親しむようになったらしい。スティーブンソンなども読むようになったし、芥川龍之介国木田独歩バルザック、ジイド、ドストエフスキーとかゲーテとかも濫読するようになった。暁星では厳しい先生がいてフランス語も徹底的に鍛えられたらしい。
 本書によっても、吉田健一少年がなぜ英国への留学を希望するようになり、その先がケンブリッジとなったのかはよくわからないと長谷川氏はしている。ではあるが、ケンブリッジでは建築を学ぶつもりであったのだという。
 昭和5年に暁星中学を卒業し、英国に出立した。現地でケンブリッジ入学の受験勉強を半年くらいしたらしい。そしてその間に、志望が橋梁設計から英文学研究、文学者(文士)へと変わっていったとされる。10月にケンブリッジに合格し新学期が開始された。と、ここまでが、「メリ・イングランド」の章で、具体的な英国での留学生活は次の「二都往還」の章で語られる。
 本書で紹介されている暁星中学時代の読書といってもありふれたもので(言葉の感受性の鋭いひとは同じ本を読んでも受けとり方は全然違うかもしれないし、事実、アンデルセンの童話は相当あとまで残る読書体験であったらしいが)、これくらいの本を読んでいるひとはいくらもいたはずである。事実、この頃にはまだ仕事としては建築家指向であったわけで、それが渡英してケンブリッジ入学準備をしているあいだに志望が文学へと変わったということを長谷川氏を指摘するが、それがなぜであったかについては何も述べていない。そもそも受験準備のために滞在していた場所さえはっきりしないらしい。吉田健一自身もこの時期のことをほとんど語っていないようである。そもそも、志望変更の理由など、自分にだってわからないのかもしれない。わたくしが医者になろうとしたのだってなぜかときかれてもよくわからない。高一までは文学のほうにいこうと思っていて転向したのだが、文学の方向はやばいと思ったほうが先で、それでなければ何にと思って、サラリーマンはやだなと思ったが、身近の非サラリーマンの見本としては父が医者というもの以外はなかったという以上の理由は思い浮かばない。
 つまり読者が一番知りたいかもしれないことの一つが、本書には書かれていないことになる。暁星を卒業するまでとケンブリッジの大学生として現れるまでの半年の間に何かがおきている印象があるが、それがどのようなものであったかはわからない。蛹が蛹ではなくなろうとしているが、さりとて美しい蝶にはなれていない、その中途半端な時期が吉田氏の場合は異様に長かったということなのだろう。この時期は本人にとっても混乱の時期で、書きたくもないし、書けるわけでもないし、そもそも書くべきでもないことになるのかもしれない。「人が裸でいるときは見てはならない」のである。
 吉田健一の論に目立つものに「青春嫌悪」や「若さへの嫌悪」がある。そのことは長谷川氏も第4章で書いている(p83)。ところでそこで、青春期のささやかな心暖まるエピソードとして、前に紹介した「失恋?」のことにふれているが、それをイギリスからの帰朝後のことと読める書き方をしている。わたくしが読んだ勝又浩氏の文では暁星中学時代のこととしている。そちらが正しいように思うのだが。
 とにかく、青春=混乱、若さ=未熟であって、そのようなものは、後からは思いだしても書きたくもなく、書くに値しないことになるのであろう。もっともその混乱と未熟の渦中にいた時期に書いた習作のようなものは残っていて、それは次章で紹介されている。
 つまりここまでの吉田健一は英語が異様にうまいだけの変わった若者ではあっても、後年を思わせるものはほとんどまだ見えていない。
 とすれば文学者としての氏の本当の評伝は第3章の「二都往還」以降になることになる。ところで「二都往還」という章題は福原麟太郎吉川幸次郎の間の往復書簡である「二都詩問」を想起させるように思うのだが、考えすぎだろうか? 総じてこの本には表にはあまりでてこないが福原麟太郎の影が見え隠れしているように思う。英国+大人+文人というと一番先にでてくる人が福原氏ということがあるのではないだろうか? それに福原氏は日本で有数の文章家であると思うし。第2章の「メリ・イングランド」も最終章の「われとともに老いよ」もともに福原氏の著作名である。ちなみに、第5章「戦争まで」は中村光夫氏の著作、第14章の「生きる喜び」は吉田氏自身の「文学の楽み」の一章である。
 そして「二都往還」ではいきなり健一青年は「近代」の中にいることになる。
 ところで「人間と文学」のなかで、「私の昭和史」を書いた末松太平というひとについて、「2・26」つまり昭和11年2月26日で時計がとまってしまっているということを三島由紀夫がいっている。そして自分も決定的な事件があったわけではないが、それでも昭和19年で何かがあったということをいっている。中村氏にあなたも昭和6年何月何日くらいで時計がとまっているのではないかといってからかうと、中村氏がもう少し前だ(笑)、と答えている。吉田氏はこのような時計が止まる生き方に徹底的に反対したひとで、氏によれば「近代」は時間が凍った時代なのであり、「現代」はそれがふたたび溶けて流れだす時代なのである。
 

吉田健一

吉田健一

東京の昔 (ちくま学芸文庫)

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