長谷川郁夫「吉田健一」(9)第12章「「君子」の三楽」 第13章「返景深林ニ入リテ」

 
 随筆によりようやく読者を得るようになった時期を描く。
 昭和31年 44歳
 「シェイクスピア詩集」刊行。中村光夫を感嘆させる。
 リンドバーグ夫人「海からの贈物」訳刊行。
 西日本新聞に「乞食王子」連載。
 「三文紳士」「シェイクスピア 決定版」「乞食王子」刊行。
 師河上徹太郎は弟子吉田健一の遅咲きの開花を喜んだ。それと同時にそれまでの師弟の関係から、同格のよき“友達”となったのだと長谷川氏はする。
 吉田健一は随筆を書くことによって読者を知った。
 「シェイクスピア」の刊行は予定より遅れたが、それは出版元の池田書店での担当天野亮が独立して垂水書房をおこしたことによる。65歳で亡くなる吉田健一のこれから20年の半分の前半の10年は吉田健一と天野亮は伴走する。著者と出版社との理想的な関係と長谷川氏はいう。出版人であり吉田氏後半の10年の幾ばくかを吉田氏とかかわることになった長谷川氏の感慨なのであろう。そして、天野氏の垂水書房と長谷川氏の小澤書店がいづれも倒産することになったことも含め戦友というような意識が長谷川氏にはあるように思う。
 「シェイクスピア」は昭和32年に読売文学賞を受賞した。吉田氏の初めての受賞である。
 昭和31年末「文芸」に中村光夫による「自己表現について」という書簡体形式の吉田健一論が載る。中村氏は吉田氏が随筆家として一家をなしたことを祝福する。吉田氏が随筆を書くようになったのはそれが翻訳よりも割がいい金になるからという動機からであったに違いないという。しかし「あなたはいはゆる随筆家になる筈はないし、またなつてはならない」という。ジャーナリズムはそういう才能を見つけたらほうってはおかないから心せよ、と。「吉田氏の言葉には自分自身のすることに気づいていない人の魅力がある。自分の独自性にまったく気付いてゐないところに、氏の随筆の面白みがある。自分は吉田氏のもつ自信にずっと敬服してきた。それは自惚れではなく、天与としか思えない精神の内部平衡である。それは真の意味での教養の賜である。氏がいままでなぜもっと早く批評家として世にでることができなかったのか? それは文学への飢渇あるいはさもしさのようなものがまったくなかったからで、そういう飢えがなければ野心も生じず、文学に自適することができたため外へ発言する衝動が生まれなかったのだ」と。しかし「戦争と戦後の生活」がそれを変えた。食う必要が自分の枠から出ることを氏に強い、結果として文学史上画期的な意味を持つ自己表現の方法が生まれた。それはきわめて応用範囲の広い発明で、今の吉田氏の書く随筆は後からみれば、チェホフが初期に書きなぐったコントのようなものだということになるだろう。ひとは自分がつかんだものの意味を自分でも知らないことがある。現在に安住せず、広く己の可能性を探れ、と。
 この中村氏の論に対して吉田健一は素直で最大限の感謝の念を述べている。長谷川氏によれば、この時点で吉田健一中村光夫にとっても庇護すべき後輩から対等な文学者、競争相手、そねみの対象にもなりうるひととなったのだ、と。
 
 昭和32年 45歳
 「オール読物」に「作法不作法」、朝日新聞に「きのうきょう」、「文藝春秋」に「舌鼓ところどころ」、熊本日々新聞に「甘酸つぱい味」の連載と4つの連載を抱える売れっ子となる。
 短編集「酒宴」刊行。はじめての小説の刊行である。
 「日本について」で新潮社文学賞を受賞。
 
 昭和33年 46歳
 中村光夫の戯曲「人と狼」が成功裏に上演される。三島由紀夫大岡昇平らの嫉妬のような反応が示される。
 丸善から「鉢の木会」メンバーによる雑誌「聲」が刊行される。しかし、それは高踏的な雑誌とみなされ文壇からはほぼ黙殺された。
 
 昭和34年 47歳
 「聲」に「文学概論」の連載がはじまる。
 「英国の近代文学」刊行。
 なお本書によれば、当初、新潮社から吉田健一訳によるシェークスピア全訳が企画されていたらしいが、河出書房で企画され一部すでに刊行されていた福田恆存訳の「シェイクスピア全集」が河出書房の倒産により新潮社に移ったため、福田氏は吉田氏訳のシェイクスピア全訳を断念するように吉田氏に懇願し、そのため吉田健一訳「シェークスピア全集」の計画は頓挫することになったらしい。文壇というのもややこしいところである。
 
 昭和35年 48歳
 年末、垂水書房より「吉田健一著作集」刊行が開始される。吉田氏にとっては、以前の著書を底本化していくという意味があったかもしれないと長谷川氏はいう。その第一冊が「文学概論」であったが、単行本としてではなく著作集の一冊として刊行されたため、そういうものは書評の対象とはしない日本の慣行によってほとんど無視されてしまった。一人、篠田一士が賞賛し続けたことを除いては。そして篠田氏が属した「秩序」グループの丸谷才一氏らなど、若手から少しづつ吉田文学愛好者が育っていった。
 
 昭和36年 49歳
 「聲」が第10号で終巻。「鉢の木会」あるいは「聲」同人のなかでいろいろと内輪もめがおきてきていたことが関係しているらしい。
 
 昭和37年 50歳
 垂水書房からの著作の刊行が続く。
 随筆集「不信心」刊行
 
 昭和38年 51歳
 中央大学専任教授に。
 ウオー「ブライズヘッドふたたび」の翻訳刊行。
 第二短編小説集「残光」刊行。
 
 この期間、吉田氏は随筆家として世にでたが、一方で自分の本来の仕事と思うものは「聲」に書き、また垂水書房版の著作集では旧作を底本化していくことをしていた。文学賞の受賞もしているが、文壇のメインストリートにいるという印象はない。明らかにこの時期の吉田氏は傍流のちょっと変わった文学者である。そして一時は売れっ子のとなった随筆もこの時期、少しピークを過ぎているようにもみえる。
 氏の翻訳について少しみてみる。「シェイクスピア詩集」は中村光夫が驚嘆したというように非常に優れたものと思う。とてもよくわかるのである。本人としては単に散文に訳してソネットであるからそれを14行に適当に行分けしただけというつもりだったらしい。「シェイクスピア」という本の決定版をつくるときにおそらく量が少し足りなかったのか、詩集の訳を加えてということになって作ったというだけであったのかもしれない。はじめから詩にするという意図はなく、ただシェイクスピアの作ったソネット集の文意を伝えるということ以上を目指していないのかもしれない。しかし、たとえば西脇順三郎の訳などは詩にすることを意図しているためにかえって、訳文が素直に流れない。
 
    第18番
 君を夏の一日に喩へようか。
 君は更に美しくて、更に優しい。
 心ない風は五月の蕾を散らし、
 又、夏の期限が余りに短いのを何とすればいいのか。
 太陽の熱気は時には堪へ難くて、
 その黄金の面を遮る雲もある。
 そしてどんなに美しいものもいつも美しくはなくて、
 偶然の出来事や自然の変化に傷けられる。
 併し君の夏が過ぎることはなくて、
 君の美しさが褪せることもない。
 この数行によって君は永遠に生きて、
 死はその暗い世界を君がさ迷つてゐると得意げに言ふことは出来ない。
 人間が地上にあつて盲にならない間、
 この数行は読まれて、君に生命を与へる。(吉田訳)
  
  
 君を夏の一日にたとえても
 君はもっと美しいもっとおだやかだ
 手荒い風は五月の蕾をふるわし
 また夏の季節はあまりにも短い命。
 時には天の眼はあまりに暑く照る
 幾度かその黄金の顔色は暗くなる。
 美しいものはいつかは衰える
 偶然と自然のうつりかわりに美ははぎとられる。
 だが君の永遠の夏は色あせることがない
 君の美が失くなることがない
 死もその影に君を追放する勇気はない
 君は永遠の詩歌に歌われ永遠と合体するからだ。
   人間が呼吸する限りまた眼が見える限り
   この詩は生き残り、これが君を生かすのだ。(西脇訳)
   
 Shall I compare thee to a summer's day!
 Thou art more lovely and more temperate:
 Rough winds do shake the darling buds of May,
 And summer's lease hath all too short a date:
 Sometime too hot the eye of heaven shines,
 And often is his gold complexion dimm'd:
 And every fair from fair sometimes declines,
 By chance or nature's chaging course untrimm'd;
 But thy eternal summer not fade
 Nor lose possession of that fair thou owest;
 Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
 When in eternal lines to time thou growest:
  So long as men can breathe or eyes can see,
  So long lives this and this gives life to thee.
 
 「英国の文学」で、英国の自然を論じた後、And summer's lease hath all too short a date: の一行が引用され、さらにこの14行が引用されてくる呼吸は初読の時に驚嘆したものだった。
 吉田氏にはシェイクスピアの全部ではないとしても「ハムレット」とか「十二夜」とか「テンペスト」とかいくつかの劇は訳しておいてほしかった。それは読めるものになっていた筈である。劇であるから上演ということを多くの訳者は念頭に置くのであろうが(福田恆存などは間違いなくそうである)、多くの読者は観るのではなく読むのである。読める「ハムレット」や「十二夜」などが残されてのではないだろうか?
 リンドバーグ夫人の「海からの贈物」。吉田健一訳ということでなければ、わたくしはこの本を読んでいなかっただろうと思う。ほかにもそういうものは多い。ボウエンのものとかフォースターのものとかがそうだし、ウォーの作にいたっては何だかウォーの書いたものではなく吉田健一が書いた小説のような気がするくらいである。
 この「海からの贈物」を読むとそこに確実にリンドバーグ夫人という一人の女性がいることを感じる。吉田氏の訳はおそらくプロの翻訳家、あるいはこなれた日本語を翻訳の第一と考えるひとからみると問題ありとされると思われる日本語である。たとえば「つめた貝」という文の冒頭。「これは蝸牛の殻の格好をした貝で、円くて艶があって橡の実に似ている。こぢんまりした形の貝で、猫が丸まっているような具合に、い心地がよさそうに私の掌に納まる。乳白色をしていて、それが雨が降りそうな夏の晩の空と同じ薄い桃色を帯びている。そしてその滑らかな表面に刻み付けられた線は貝殻のやっと見えるぐらいの中心、眼ならば瞳孔に相当する黒い、小さな頂点に向って完全な螺旋を描いている。この黒い点は不思議な眼付きをした眼で、それが私を見詰め、私もそれを見詰める。」
 冒頭の「これは蝸牛の形をした貝で」というのは日本語としては変で、普通なら「つめた貝は蝸牛の形をした・・」と書く。タイトルに「つめた貝」とあるから、それを受けて「これ」なのかもしれないが、もしこの文が、「つめた貝は・・」と書き出されたとすると、第二のセンテンスは「それはこぢんまりした貝で・・」とならないとおさまりが悪い。しかし、「これは・・」と書き出すと、それはセンテンスを越えて、第3センテンスあたりまでを支配する力を持つ。明らかに英語の主語が持つ力がこの日本文を貫いている。だから「そしてその滑らかな」の「そして」も生きる。
 片岡義男氏が「薄い皮だけがかろうじて英語」という文で、衛星中継での日米間での英語での討論での日本人の英語について語っている。「主語はその文章ぜんたいにとっての論理の出発点であり、責任の帰属点でもある。主語は動詞を特定する。・・動詞は前へ前へとアクションを運んでいき、最終的には主語を責任と引き合わせる。」 しかし、その討論に出席した日本人は「センテンスなかばであたりで主語を忘れてしまっている気配がある。・・主語を忘れているからには、動詞も彼らは忘れている。」 それで日本語での「いずれにせよ」「それはともかく」「それはそれとして」「ですから、まあ」といった気持ちでエニイウエイを連発する、と。
 吉田氏はその文章から一人称をあらわす「私」や「ぼく」を追放し、「こちら」という異常な一人称を導入したひとであるが、それにもかかわらず明晰な英文脈の日本語を書いたひとで、だからこそ、「海からの贈物」でも、そこから自分で責任を引き受けている一人の女性の像が浮かんでくる。
 吉田氏の「金沢」の冒頭、「これは加賀の金沢である。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、・・」は「ここは加賀の金沢である。尤もそこがこの話の舞台になると決める必要もないので・・」ではない。「これ」は「この小説が描いていくのは」あるいはほとんど「この小説が描いたのは」でもあるようである。英語の主語が持つ強い指示機能を知るひとの日本語である。わたくしには冒頭の「これ」は小説の最後までをも支配しているように感じられる。
 中村光夫が「自己表現について」でいう「吉田氏には自分自身のすることに気づいていない人の魅力がある。自分の独自性にまったく気付いてゐないところに、氏の随筆の面白みがある。」というのはまったくその通りであると思う。吉田氏は自分の翻訳が明晰でわかりやすいという自覚がないだろうと思う(修行時代から吉田氏のヴェレリー訳などは「健坊の訳はよくわかる」といわれていたらしい)。ただ当たり前に横のものを縦にしているだけと思っていたのだろうと思う。
 そして中村氏のいう「(吉田氏が)いままでなぜもっと早く批評家として世にでることができなかったのか? それは文学への飢渇あるいはさもしさのようなものがまったくなかったからで、そういう飢えがなければ野心も生じず、文学に自適することができたため外へ発言する衝動が生まれなかったのだ、と」というのもまったくその通りなのだと思う。吉田氏にはある種の感受性の欠如のようなものがあり、吉田氏の書いた英文を磯野宏氏が訳した「まろやかな日本」の中の一文をめぐって丸谷才一氏が「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の習慣は不思議でしようがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇跡的な存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか」といっているのは本当にその通りなのだと思う。外交官の息子として海外での生活が長く、日本の外で生活することが多かったということが、やはりそれに大きくかかわっているのではないだろうか? 中村光夫は日本で生まれ日本で育ったひとで、文壇という村落共同体を明確に意識していたひとであると思われる。ここでの中村氏の賛美は、自分はそうではないという自省の上でのものであると思う。
 よく吉田氏のことを大人の文学者とか常識のひととかいうけれども、吉田氏はとても子供のようなところがあるひと、日本人としては凡そ常識に欠けるところもあるひとであったのだろうと、わたくしは感じている。日本における「大人」とか「常識人」というのは、谷沢永一が「人間通」で描いた像のほうなのである。中村光夫の戯曲「人と狼」を読んで、吉田健一が「読んでて、なんだか淋しい気持ちになって来た。人生ってこんなもんかなあと思って」というのはよくわかる。「人間通」で描かれた人間像は随分と寂しいものである。あるいは日本人は寂しいのである。日本人は本当には生きていない。中村光夫はその寂しさの中で生きていた人なのだろうと思う。中村氏の最初の小説「「わが性の白書」」が発表されたとき、あの中村さんでもこんなことを考えていたのかというような反応が若い文学者から多くみられた。功なり名をあげたひとも内面はこんなに空虚なのかということである。
 吉田氏の人気の一端は、氏が他人の思惑などを気にしないで、自分の足で立って、自分の考えで生きているように見えるところにあるのではないかと思う。吉田氏は義理とか人情とかいう言葉を本当のところはよく理解できない人だったのではないだろか? 吉田健一は湿っていないひとだった。そして<本当に生きて>いるように見えるひとだった。
 

吉田健一

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英国の文学 (岩波文庫)

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海からの贈物 (新潮文庫)

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日本語の外へ

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まろやかな日本 (1978年)

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鼎談書評 (1979年)

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人間通 (新潮選書)

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