(3)動物

 

 動物はただ生きてゐることを望み、或は生きてゐるのを自然のことと心得てゐるに過ぎない。

 
 「覚書」の「3(ローマ数字)」から。
 「覚書」は昭和48年から49年にかけて「ユリイカ」に連載された。44年に「ヨオロツパの世紀末」、45年に「瓦礫の中」が書かれ、昭和50年からは「時間」が書かれるその中間にあたるわけで、今まで随筆などでしばしばとりあげてきた日本でおきている様々な事象への違和感の表明の集大成のような本であり、後に「時間」として書かれる主題の萌芽がそこここに見られる。
 この(3)の書き出しは「戦後の日本では人間が動物でなくなつてゐるらしいことを何度も感じたことがあるから前にも書いたことがあるのだらうと思ふ」である。「人間が地球で特別な存在・・要するに動物と我々が総称してゐるのとは違つた一種得体が知れないもの」になっていることの指摘である。確かに「人間と動物」といった記述はしばしば目にするわけで、読むたびにそれでは人間は動物ではないのかと思う。
 雑駁な言い方をすれば、文科系の学問というのは大なり小なり我々「人間が動物といっているものとは根本的に異なる」という見方の上になりたっているように思える。吉田健一はどう考えても理科系の人間ではない。もちろんそもそも学問の人ですらまったくないかもしれないのだが、まず文系の人間であるにもかかわらず、人間は特別という見方をとることは決してなかった。
 人間にだけ「不滅の魂」というものがあたえられているというのは、信仰の外にいる人は意味のない言明であるので、通常、人間は精神というような何かを持っているということをもって人間は特別とされることが多いのではないかと思う。そこでヴァレリーがでてくる。「ヴァレリーは精神を説明するのに本能といふことから始めてゐて動物が森の木陰で休んでゐる際に耳慣れない音を聞いて警戒心を起すといふ所から精神の働きに就て話を進めてゐる。」 精神というのは「脳髄の働きに属する一切をもっと一般的な見地から」述べた言葉であるので、「脳髄がある動物である限り精神がある」のは当然ということになる。
 それなら言葉は? それが人間を人間以外の動物と区別する最大のものなのでは? しかし人間以外の動物は言葉を持たないがゆえにかえって人間以上に深く対象をつかんでいるかもしれない。その能力を失ったことの代償としてわれわれは言葉をもっているだけなのかもしれない。そしてヴァレリーは「人間といふのは過去を振り返り、これから先のことに気を遣つて現在の時間にゐることが稀にしかない」と言っているというのだが、これは「時間」の主題そのものである。人間以外の動物は現在にいる。「動物はただ生きてゐることを望み、或は生きてゐるのを自然のことと心得てゐるに過ぎない」というのも動物が今現在にいるということである。
 医学も生物学のどこか端のほうに位置するとすれば、生物学は進化を前提にしなくては成り立たないのだから、医学もまた進化論のうえに成り立つ。そして「進化論そのものは動かせない事実」なのだから、精神というものを特別視する精神医学というのはそもそもおかしいのかもしれない。だが精神科医の計見一雄氏は「現代精神医学批判」に「からだに触ってください」と副題し、精神疾患は「からだの病気」だという。食欲がない。寝られないというのは体の症状ではないか? そして「脳と人間」では、吉田健一の「時間」の冒頭を長々と引用して、「普通の暮らしの中で、これと同じような時間があればいいなと思う」といって、「精神分裂病の人から、ほとんど決定的に奪われてしまうのが、かくの如き時間である」という。精神科医療とは患者さんに現在をとりもどす試み、人間を普通の動物へともどす試みのことなのかもしれない。
 医学も進化論の上に成り立つのだから、「不滅の魂」だとか「万物の霊長」とかいった空疎とは離れたところで仕事をしなくてはいけないはずなのである。
 

覚書

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現代精神医学批判

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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