D・カーネマン「ファスト&スロー」(2)「序論」「第1章〜第3章」

 
 われわれは車の運転をしているとき、助手席のひとと話ながらいても、いざ危ない状況となるとブレーキを踏んでいる。もちろん前を見て運転しているのだが、見えているものについてほとんど意識していない。意識してはいないがそれでも見ている。
 それと同じように、われわれが日常下している判断はそれが意識に上る前にすでになされていることが多いのだ、というのが本書の一番基本となる主張である。これはフロイトの「無意識」などとはまったく異なったもので、われわれがなぜそのような判断をしたのかは後から考えれば説明できないことではない。しかし、われわれは何かあるととっさにすでに判断をしてしまうであり、それは通常の「思考」とはまった異なったやりかたなのであるとカーネマンは主張する。カーネマンの研究の多くはトヴェルスキーとの共同で行われているが、二人の研究のスタートは「人間の直観はうまく統計を扱えるか」というものだったという。二人はともに「直観」は統計をあつかうのは苦手であると考えていた。
 いかにも学究肌で物静かな人物像を提示しておいて、彼が図書館司書である可能性と農家のひとである可能性とどちらが高いかと問うと、多くのひとが図書館司書と答える。具体的な像を示されると、図書館司書と農家の人では後者が圧倒的に多数であるという統計的な事実はどこかにとんでいってしまうのである。
 このような安直な判断法を「単純化ヒューリスティック」と呼ぶ。タレブの本を読んでいたときもカーネマンのことを論じている所で「ヒューリスティック」という言葉は何回もでてきた。どうも定着した日本語訳がないらしい。これはギリシャ語の「発見」に由来する言葉らしいが、「複雑な問題を完璧にというわけではないが、素早く解決するアルゴニズム」というようなことらしく、コンピュータ科学の分野ではごく普通に使われている語であるという。コンピュータ・ウイルス駆除の方法としてすでに実用化されているのだそうである。
 だからカタカナでもいいのかもしれないが、いかにも舌を噛みそうな語であり、なんとかうまい訳をつけられないものだろうかと思う。「近道判断法」とか? これがカタカナのままだといかにも学問的で一般への普及のかなりの妨げになるのではないかと思う。
 具体像を示されれば簡単にだまされるわけで、われわれは多くの場合「合理的」には考えていないことになる。そういう視点が、当時広く共有されていた「人間は合理的で論理的である」とする前提に疑問を投げかけたことで、カーネマンの説が多くのひとの関心をひいたのだという。
 ここで一つ疑問が生じるのは「人間は合理的で論理的である」とするのは世界全体で共有されている前提であるのか、それとも西欧に固有なものなのだろうかということである。この前提はキリスト教の信仰に由来するものであるということはないだろうか? カーネマンの主張が衝撃的であったのは、それが西洋固有の前提に異を唱えたからということはないのだろうか?
 それはさておき、二人は次に「不確実な状況下でどのように意思決定をおこなうか」の研究に進んだ。それは「プロスペクト理論」として発表されたもので、「リスクのある状況下での意思決定」を分析したものである。われわれがおこなう直観的思考は驚嘆すべきものであり、多くの場合、その状況に対する的確な対応を提供する。しかし時に間違う。
 もちろん、そのような状況下で判断をおこなうのは「ヒューリスティック」ばかりとはいえず、専門的なスキルによることもある。専門家は「なにがおかしいかは指摘できないが、何かおかしい」と感じることがある。チェスの名手は盤面をちらっと見ただけで、形勢を判断できるが、それは数千時間におよぶ鍛錬の賜物である。
 以前にベナーの「看護論」を読んだときに、看護師は経験を積んでくると、ある場を見たときに「何かおかしい」と感じられるようになるということがいわれていた。これはもともとパイロットの訓練の過程からヒントを得たもののようで、新米のパイロットは一つづつ計器を点検しないと異常の有無を判断できないが、ベテランになると計器類を一瞥しただけで異常の有無がわかるようになるのだという(パイロットの訓練の話は本書の第2章でもでてくる)。これが「一気に全体を把握する」能力といった方向でベナーの本では議論がされていくのだが、いわゆるマニュアル的なやりかたは新人のためのものであって、経験をつむとそういう行き方とはまったく別のやりかたで仕事をしているのだというようなことがいわれていたと記憶している。
 しかし専門的なスキルをつんだ人間であっても、その判断は好き嫌いなどの感情に大きく左右されるということは、本書でも強調されている。
 
 第1章は「登場するキャラクター ― システム1(速い思考)とシステム2(遅い思考)」というタイトルになっている。本書では一貫して、人間の認知はこの二つのシステムの絡み合いとして説明されていくことになる。しかし、著者もみとめるように、このようなやりかたは学問的にはいけないこととされている。脳のなかにすみついた実体のある小人のようなものを連想させてしまうからである。これが架空のキャラクターであり、一般的な意味でのシステムではなく、単なるニックネームで、脳のどこかに局在しているものでもないことを決して忘れないようにしてほしいと、著者は読者に要請している。ではなぜそのような非学問的なことをするのか? それは、脳にはちょっとした癖があって、こういうキャラクターを使うほうが、理解しやすいのであると。「システム1が○○した」という記述のほうが、「あるものには○○する性質が備わっている」という文よりわかりやすい(前者はシステム1に後者はシステム2に訴える? あるいは前者はあるイメージを喚起するが、後者ではそれがない?)。また「自動的に働くシステム」とか「努力を要するシステム」よりも「システム1」と「システム2」のほうが、短いので記憶への負担が少なく脳にかかる負担が少ない、と。(「脳のくせ」というのはよく養老孟司さんがよくいっていることのようにも思う。だが養老さんの言い方では、脳はそのようにできているといっているに過ぎなくて何も説明していないようにも思えたが、本書の行き方であれば、その理由について考えることができる。)
 システム1の説明で出てくるのが「怒髪天を衝くような表情の女性の写真」。われわれはこのような写真をみると、自動的に何かを感じてしまい、それをしないことはできない。自分が何をしているとか思わないうちに考えてしまう。一方のシステム2の例は「17x24」。これにはわれわれに自動的に訴えるようなものはなく、自発的に考えることによって、それの答えがはじめて得られる。それはゆっくりしか行えない。
 まとめると、
 システム1:自動的で高速で努力は不要か、ごくわずかでいい。自分でコントロールをする感覚は一切ない。
 システム2:頭を使わなければいけない知的活動などで、原則として自分が自発的におこなう。
 それぞれのシステムにはそれぞれに能力と欠陥がある。同じ計算?でも、「2+2」はシステム1がおこなう。慣用句なども自動的にでてくる。「猫に」→「小判」。システム1は動物に共通する先天的なスキルに由来するものも多い。動物は、周囲の世界を感じ、ものを認識し、注意を向け、損害を避け、(人間であれば)蛇などを怖がる。一方で、システム2は誰かを探すなど、自発的に注意するような場で発動する。フランスの首都はという問いには自動的にパリとでてくるのは、長年の学習の結果としてのシステム1の発動である。一方でシステム2では注意を「払う」ことが必要となる。まさに「払う」のであって「コスト」を要する。つまり無尽蔵ではなく、限度額がある。つねにシステム2が発動していると疲れるし消耗するので、システム2は怠けやすい。逆にシステム2が強力に発動している場では、システム1の活動は散漫になり、普段なら見えているものでも見えなくなる(チャブリスとシモンズの有名なゴリラの実験)。
 通常の状態ではシステム1は起きている限りは自動的に働き、システム2はアイドリング・モードに入っている。つまり、われわれの考えたり行動したりの大半はシステム1が担当している。それで手に負えない場合、システム2の出番となる。この組み合わせによって最小の努力で最大の結果が得られることになる。
 問題はシステム1を自分の意思でオフとすることができないことである。ミュラー・リヤー錯視と呼ばれる有名な錯覚がある。同じ線分が二本あり、片方には内向きの、もうひとつには外向きの矢羽根が書いてある。われれれは外向きの羽根のほうが錯覚で長く見えることを知識としては知っている。だからシステム2は同じ長さだぞということを知識としてはもつ。しかし、それでもシステム1が発動するので、相変わらず、外向きの線分は長く見える。知っていてもだめなのである。長く見えてしまう。
 
 吉田健一の「覚書」にこういうところがあった。「ヴァレリイは精神を説明するのに本能といふことから始めてゐて動物が森の木陰で休んでゐる際に耳慣れない音を聞いて警戒心を起すといふ所から精神の働きに就て話を進めてゐる。」 このような反応は本書によれば自動運動かもしれないが、そういう反応を獲得した種が生き延びた。(本書を読んでいて、「覚書」を思い出したのは、それを読んだ時に大変感心したからということが第一だが、それが「覚書」の中にあったことは、その記憶が「覚書」という本の装丁や手触りと一緒にあったからで、本書でカーネマンがいうように、記憶というのは肉体的なものだと思う。思い出そうとしたのではなく、ひとりでに思いう浮かんでしまったわけで、記憶はシステム1の仕事であるとする本書の主張を実感する。)
 ユクスキュルは「生物から見た世界」で、「イヌが歩くときは、この動物が足を動かすが、ウニが歩くときは、その足がこの動物を動かす」といっている。ウニには中枢神経をもたないから、その歩きは外界の刺激への反応である。イヌは中枢神経を持つ。しかし、そうだからといって、それが歩いているのは大部分はシステム1によってであり、システム2によって考え考え歩いているわけではない。また外界に反応するように見える模型は心を持つように見える(ブライテンベルク「模型は心を持ちうるか」)。
 本書は、「こころ」とか「魂」だとか「精神」だとか「知性」だとか、とかく西欧においてはキリスト教の伝統のもとで人間にのみ特有のものとされやすいものを、動物の進化の連続のなかで捉えなおすとともに、知性と理性を誇る人間であっても、ほとんどの場合、理性(≒システム2)は働いておらず、外界への思考なしの自動運動的な反応で日々を過ぎしているのだとするわけである。
 システム2が怠け者というあたりで思い出したのが、ハンフリーの「獲得と喪失」にあるプラシーボ効果を論じた部分である。われわれには自然治癒力があるが、それは自然には発現せず、ある環境下でのみ発動する。たとえば免疫システムの作動には大量の代謝エネルギーを必要とする。それをのべつまくなしに使っていれば、いくらエネルギー摂取をしても追いつかない。だから、それはここぞという場合にとっておかれねばならない。そこからの連想なのだが、なぜシステム2が怠け者なのかといえば、それはシステム1に比べてはるかに多くのエネルギーを使うために、それはいざというときにためにとっておかれねばならないからなのではないだろうか? 第3章では、ブドウ糖を摂取すると努力を要する知的活動(すなわちシステム2)を消耗せず継続できることがいわれている。経済学の原則の通り、フリー・ランチはないわけで、われわれは有限な資源をどう振り分けるかという課題に直面しながら、進化してきたわけである。
 しかし、人間は時に「まったく努力しなくても極度に集中でき、時が経つのも、自分自身のことも、あれこれの問題もすべて忘れてしまう状態」になることができ(それを指す「フロー」という用語がすでに心理学では定着しているらしい。これは至福の経験でもあるらしい。「クブラ・カーン」を書いていたときのコウルリッジもフローの状態にあったのかもしれない。
 システム1とシステム2という名称を提案したのはスタノビッチとウエストというひとたちらしい。彼らはシステム2をさらに二つにわけ、アルゴリズム的という知的能力と相関する部分と、合理的というもう一つの回路である、としているらしい。(合理性はバイアスに囚われないような思考回路)。知性と合理性を峻別することが正しいのかどうかは今後の課題であるとカーネマンはしている。
 渡部昇一氏が「知性が高いからといって、オカルトを信じないというようなことはない」といっていた。そこがわからないと三島由紀夫は理解できないのだ、と(「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」「腐敗の時代」所収)。わたくしは啓蒙主義の徒であると自認しているから合理主義の側の人間であると自分では思っているのだが、渡部氏が戦後啓蒙の代表としているのが石坂洋次郎の「青い山脈」なのである。あの明るさは厭だなあ、と覆う。「明るさは滅びの姿であろうか。人も家もまだ暗いうちは滅亡せぬ」(太宰治「右大臣実朝」)などという言葉が好きなのは啓蒙派とはいえないのだろうか?
 

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