D・カーネマン「ファスト&スロー」(1)
早川書房 2012年11月
カーネマンのことをはじめて知ったのはタリブの「まぐれ」を読んだときで、それを読むまではカーネマンのこともトヴァスキーのことも、カーネマンがノーベル経済学賞をとったことも、行動経済学という学問分野ができてきていることも一切知らなかった。不勉強というのは怖い。
タリブば、過去2世紀で一番影響力の大きい経済思想をつくったのは、ケインズでもなく、サミュエルソンでもなく、フリードマンでもなく、カーネマンとトヴァスキーだというのである。しかし、彼らは一般向けの本は書いていないらしかった。それで行動経済学の概説書のようなものをいくつか読んでみたのだが、なんだかあまり面白くない。タリブの本で示される断片が一番、面白かった。
この「ファスト&スロー」はカーネマンが書いた初めての一般向けの本ということで、2011年の秋に刊行され、一年足らずで早くも翻訳されたということらしい。原題は「Thinking, Fast and Slow」である。翻訳では「ファスト&スロー あなたの意志はどのように決まるか?」となっている。やはり「Thinking」がはいったほうがいいのではないだろうか? 「瞬時の思考とのんびりした思考」とか。いっそのこと「われわれは普段何も考えずに行動している」とでもしたほうが内容に近いかもしれない。のんびりした思考というのはわわゆる理性の働きである。理性というのは怠け者で、通常われわれは理性なんかはほとんど使わずに直観?によって行動している、ということである。われわれはHomo sapiens ではないということになる。
本を読む楽しみの相当部分は、読んでいて、ああ、これはあの本と関係しているなとか、あの本はこの視点から読み返すと別の面が見えてくるのだろうなということが頭に浮かんでくることで、本書は読んでいて実にさまざまな本を思い出すことになった。
まず真っ先にでてきたのが、内田樹さんの「私の身体は頭がいい」である。これは橋本治の「「わからない」という方法」に出てくる言葉ということで、この一言で「橋本先生は20世紀を代表する思想家であることの証左として十分である」と内田氏はいう。ここで内田氏が「頭がいい身体」といっているのが、カーネマンのいうFast thinking とほぼ同じものなのではないかという気がする。
次がダマシオの「感じる脳」などの一連の著作である(ダマシオのことは本書でも一部言及されている)。脳科学の啓蒙書は好きでいろいろと読んできているが、本書は脳科学からみても興味ある知見を多々提供しているのだろうなと思う。
さらにM・ポラーニの「暗黙知の次元」といった本である。これは栗本慎一郎さんが熱烈に紹介していたので買ったが、あまりよく読まないまま本棚で眠っているが、栗本さんが言っていたことも、ここで書かれていることと関連があるのだろうなと思う。
スロウッキーの「「みんなの意見」は案外正しい」(これは梅田望夫さんの本で知った)も。これまた本書で言及されていた。
ベナーの「看護論」。ここでいわれるエクスパートのもつ能力というのがまさに Fast thinking であると思う。
進化心理学の様々な本も。われわれがなぜ多くの場合に Fast thinking によって行動するのかは、それが進化の過程での生き残りに資したという観点から論じれている。文科系の学問の多くは進化論の視点なしではもはや成り立たないとわたくしは思っているが、この本はあらためてそれを示してように思う。
養老孟司氏の一連の著作はどうなのだろう? 氏が倦まず説いてきた脳化・都市化批判というのは、ここでカーネマンがいっていることと大いにかかわりがあるような気がする。
そしてポパー。人間は間違う愚かな存在であるという視点。ポパーはヒュームの使徒で、わたくしはヒュームのことを吉田健一に教えられた。
などと考えてくると、わたくしが今まで読んできた本の多くが、どこかでこの本にかかわっているように思える。
そして医学と医療。臨床の現場は確率によってほとんどなりたっているが(この手術の成功率はいままでの報告では90%です。この治療で完治する率は70%です。・・)、確率というものがいかにわれわれに扱いにくいものであるかは、本書で縷々説かれているところである。小松秀樹氏の「医療崩壊」、クループマンの「医者は現場でどう考えるか」も本書の視点から読み返すとまた別の面がみえてくるのではないかと思う。
それからちょっと変な方向で思い出したのが安富氏の「原発危機と「東大話法」」での経済学批判というか、それが仮定する「経済人」批判、「最適化原理」批判で、安富氏によれば、コンビニにある数百個の商品を買うかどうかという選択でさえ、とんでもない時間(宇宙規模の時間)がかかるはずで、その判断を瞬時におこなっていると仮定する経済学はその前提からして成り立たないという議論なのだが、カーネマンのような議論を安富氏は知らないのだろうかというのが疑問で、それに各人は Fast thinking で即座に適当に判断しているとしても、それが市場でのさまざまな人々の活動のなかに投げ込まれると、それがコンピュータの代りにもの凄く変数の多い多元連立方程式の疑似解を出してくれて、最善ではないにしても、それほど変な結果にもならないということがあり、そうであるならば、各人が最善の選択をしていると仮定することが結果として許容されるということになるのではないだろうか? 安富氏の論は計画経済の効率の悪さの説明にはなっても、現在の市場経済のもとでは成り立たないものと思う。この安富氏の本は橋本治氏の本で知ったのだが、どうも橋本氏は大病をしたせいか、その頭のいい身体がすこし切れが悪くなってきているような気がする。
というようなことはまあどうでもいいのだが、とにかくいろいろなことを考えさせてくれる本なので、これから少しずつ読みながら、のんびりと考えていきたいと思う。
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