D・カーネマン「ファスト&スロー」(4)第10章「少数の法則」

 
 第10章「少数の法則」は大変面白かったので、単独でとりあげてみる。
 細工をしていないコインを投げて、裏表のどちらがでるかを記録していく。表裏裏表表表裏表裏表・・・などで、この場合、最初の2回なら1:1。4回なら1:1、6回なら1:2、8回なら3:5、10回なら1:1と変動していくが、回数が多くなるにつれ、1:1に収斂していくはずである。これを「大数の法則」という。
 しかし、投げる回数が少ない場合、極端な場合、10回投げて10回とも裏、あるいは9回表で1回だけ裏ということもありうる。したがって標本数が少ない場合に、そこで得られた結果から何かの推論をすることはきわめて危険である。しかし少数ではあっても、そこで得られた結果は「事実」であり、われわれには「見たものがすべて」という強い傾向があるので、われわれは数少ない例から大胆な推論をしがちである。
 「私たちの脳と統計学はなじみが悪い。」 カーネマンはこれを「少数の法則」と名づける。必ずしも、われわれがイメージするほどの「少数」ではないことがここで問題となる。その例として出されるのが、アメリカの3141の郡における腎臓ガンの出現率である。
 「アメリカの3141の郡で腎臓ガンの出現率を調べたところ、顕著なパターンが発見された。出現率が低い郡の大半は、中西部、南部、西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤である。(1)」
 こういう文章を読んで、共和党の政治と腎臓ガンが関係すると思うひとはあまりいない。しかし農村部であることは注目される。「いなかのきれいな環境で、大気汚染もなく、水もきれいで、添加物のない新鮮な食品が手に入る」からではないかなどという方向がでてくる。それならば、
 「アメリカの3141の郡で腎臓ガンの出現率を調べたところ、顕著なパターンが発見された。出現率が高い郡の大半は、中西部、南部、西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤である。(2)」というのはどだろうか?
 そこから、「いなかの貧しい環境で、質の高い医療が受けられず、高脂肪の食事、酒、タバコなどが悪いのではないか」という考えがでてくる。
 カーネマンによれば、(1)と(2)のどちらも事実であるが、そうなったのは偶然である。一番の問題は、「人口密度が低く」という部分なのだが、ほとんどのひとはこれを無視する。腎臓ガンのようなそれほど発生率の高くない病気については、人口の少ない郡ほど、コイン投げの回数が少ないことになり、かたよりのある極端な場合が見られやすくなる。だから、ある年に腎臓ガンが多発した郡は翌年には平均的になったり、少ない郡になったりする。そこに見られるのは「ある年における標本抽出の偶然」だけである。専門用語でいうアーチファクトである。「偶発事象は、その定義からして、なぜ起きるのかは説明できない。」
 この標本数が結果に大きな影響をするという点については、素人ばかりでなく、専門家であってもなかなか直観的には理解できない。標本サイズが結果の判定について最大の問題であることは、研究者なら知っていることであるはずであるが、それにもかかわらず、標本サイズは「自分の経験」から判断されている場合が圧倒的に多い。統計学を教えている人であっても例外ではない。統計学を教えていたカーネマンもかつてはその間違いを犯していたのだという。多くのものが、「大数の法則」は小さな数にもあてはまるとする法則(少数の法則)を信じているのである。
 
 少し方向がはずれるけれども、こういう議論を見ていると、それならば一回限りしかおきないことについてはどうなるのだろうということを考える。たとえば、歴史である。過去においてあることがおきたことは事実である。しかしなぜそのようなことがおきたかという議論が可能なのだろうか? それは単なる偶然の産物なのかもしれない。コインを投げて偶然に表がでた、あるいは裏がでた。しかし、その表がでたことが次の事象につながり、もしも裏がでていれば別の事象へのつながっていたのであるとすると、今の歴史は偶然の産物であることになり、そこから何かの意味をみつけるということは、腎臓ガンの発症率を議論するのよりもさらに空しい議論になってしまうかもしれない。
 有史以後のことでなくても、われわれ人間が地球上で現在大きな顔をしていられるのは、かつて大きな隕石が地球に落ちたためであるらしい。進化というのも一回限りおきたことである。(そういうものはなかったといっている人もたくさんいるようであるが)少なくともそれが事実であるとしても、なぜどのようにして進化がおきたのか(進化論)については、たくさんの事例から確認することなどやりようもない(もっとも、最近はコンピュータシュミレーションというかたちで、擬似的に過去をくりかえす実験が可能になっているようで、何回くりかえしても眼球が出現してくるということをドーキンスの本のどこか(「利己的な遺伝子」?)で読んだことがある。進化は事実としても、進化論が科学としてなりたつかということはいまだに議論のあるところであろう。
 カーネマンも進化を前提として、人間が現在このようになっていることを説明している。われわれが今このようであることの説明は、文化がそうさせたというのと、進化の産物という議論があるわけだが(氏か育ちか? ひとは生まれたとき、まっさらか? すでに色がついているのか?)、そんなのは偶然そうなっているだけという説明もあるのかもしれない。もっとも、進化の選択にかかる変化は偶然の産物であるが、それが環境に適応していれば生き残ると進化論では考えるわけだから、偶然であっても、選択の過程で必然に変えられてしまうのかもしれないのだが。
 この方向で一番極端なのは、「人間原理」といわれる考え方で、宇宙開闢のビックバンの時、ちょっとでも状況が違っていれば、決して地球のような生命を育む星が生まれることはなかったのだそうで、われわれが生まれる可能性のある状況がおきる確率は10の−1000乗位以上に低いということである。それはあまりにも低い確率で偶然とは考えられない。とすれば、その時に宇宙の法則を人間が生まれる方向に決めた何かが存在するはずである(つまり神様がいる、ということを言いたいらしい)という議論である。もっと凄いのは、宇宙が存在するためには、それを観察する誰かがいなければならない。だから、宇宙が出発する時点で宇宙はそれを観察するものが生まれる条件に調整されなければならなかった、といったものもあるらしい。これらは一神教の悪しき変奏であるとしか思えないが、一回限りしかおきなかったことについては、いろいろな議論が可能になってしまう。もっとも多元宇宙とかベビーユニヴァースとか、宇宙はその瞬間瞬間に多くの宇宙に枝分かれしていき、われわれはその一つにいるだけであるというわたくしには理解できない議論もある(「1Q84」?)。
 
 カーネマンに戻ると、われわれは「疑うよりも信じたい」と思い、原因追求思考が大好きなので、ランダムな事象のなかにも規則性を探しやすい。これは進化の過程で有利だったかこは確かで、普段おきていることと普段にはないことを区別できることは生き残り戦略上きわめて有用である。
 イスラエルとエジプトの戦争の時(カーネマンはイスラエル出身)、基地を飛び立った飛行中隊のうち、あるものは4機失い、あるものは全員帰還した。損害を被った中隊のどこが悪かったかの調査がはじまった。相談されたカーネマンは、原因探しをやめなさいとアドヴァイスした。それは偶然なのだから、と。
 連続してシュートを決めるバスケット選手は、「ホットハンド」の状態になっているといわれる。しかしこれも偶然なのである。あたっている投資アドヴァイザーも同じ。
 どのような学校がよい学校かの研究がおこなわれた。そこでの結論の一つが、良い学校は平均的に小さいというものであった。小さい学校ほど一人一人の生徒に目が届くなどの理由がすぐに思い浮かぶ。しかし、成績の悪い学校もまた小さいものに多かった。これも腎臓ガンの場合と同じ、小さい標本ほどばらつきが大きいということを示しているだけなのである。現実の世界でみられる事実の多くは、標本抽出の偶然など、偶然の結果であることが多いのである。
 
 臨床家は自分の経験に非常に左右されやすい。自分の場合はこうやってうまくいったという経験に強く拘束されてしまう。自分の「少数」の経験からすべてを推し量ってしまう。多数例での統計を見せられても、でも自分の場合にはこうだったと言いつのる場合が多い。(われわれに提供される統計データは、製薬会社などのバイアスが強くかかったものがほとんどなのであるが。)
 世にいわれている「○○療法」「××治療」といわれているものの多くもそれなのではないだろうか? 自分で少数の経験をした。それがすべてに通じると思ってしまうわけである。
 ずいぶん以前の話題であるが、戸塚ヨットスクールなどというのもそういうものではなかったかと推測する。確か、不登校の学生をあつめてヨットの訓練をさせたら、登校できるようになったというものだったと思う。そういうことがあったのは事実なのであろう。だが、だからといってそれがすべての不登校生に通じるとはいえない。それはたまたまだったかもしれない。
 世にいわれている経営改善策というのもまた同じなのではないだろうか? ある会社がうまくいっていて、別の会社がそうでないのはなぜか? それは単なる偶然ということが多いのではないだろうか? あるいは、しばらく前に全然違うことを考えてうった施策がしばらくして全然別の局面で生きてきたとか。
 第19章の「わかったつもり」では、グーグルの二人の起業家の成功は、もちろん、彼らの能力に負っている部分があるとしても、成功の原因のかなりは「運がよかった」ということにも帰するのではないかということがいわれている。彼らは成功した。だからその事実から、彼らの選択や意思決定が正しかったとされるようになり、その事例は、いかにすれば起業に成功できるかの模範例として使われることになる。しかし、それの多くが「運」によるのであれば、そこから学べることはあまり多くはないはずである、そうカーネマンはいっている。