D・カーネマン「ファスト&スロー」(3)「第4章〜第9章」
第4章の冒頭にあるのが、
バナナ げろ
という2つの言葉。
われわれは、この言葉を読むと、自動的にさまざまなことが頭に浮かんでしまう。これらは自動的におきてしまうので、浮かばないようにコントロールすることはできない(システム1)。
この2つの言葉のあいだには何の因果関係もないが、頭の中で連結されてしまう。認知は身体化されており、われわれは身体で考えるのであって、脳だけで考えるのではない。
観念連合についてはヒュームの昔から議論されている。われわれはあることからさまざまな連想を自動的にしてしまうのだが、それらのうちのほとんどは意識にのぼってこない。
自分では意識していない「先行刺激」(プライム)が行動や感情に影響する。高齢者を連想する語を見た後では動作は遅くなる(イディオモーター効果)。
頭を上下に動かしながら論説をきくと、左右に動かしながらの場合より、論説の内容に賛成しやすい。「自分がどんな気分のときにも、つねにやさしく親切にしなさい」という忠告は正しい。やさしく親切にすると、本当にやさしい気持ちになるのである。
このような事実は、「自分の判断や選択は、自分の自立した意識がおこなっている」というわれわれの持つ信念(「システム2」が持つ)に疑義を提示する。
お金を連想する語を「プライム」として提示されると、自立性が高まる。また一人でいることを好むようになる。お金という観念は個人主義のプライムになる。国民に死を暗示すると、権威主義を受け入れるようになりやすいことも明らかにされている。
本書での主張は、われわれは多くの場合、理性的な判断をしていない、ということである。われわれのイメージする「脳」というのは「システム2」である。しかし多くの判断は「システム1」がほぼ自動的に勝手にしてしまっている。「システム1」もおそらくは脳の働きなのであろうが、それは「考える」というイメージとは遠い。それで「身体で考える」という言葉がでてくる。たとえばある人に会って、瞬時に好悪の判断をしてしまうというのは、かなり身体的な反応であろう。
脳科学者のダマシオが「感じる脳」などで主張する「ソマーティック・マーカー仮説」では、あることへの反応はまず身体におき、それによって快とか深いとかの感情を生じ、それがどう反応するかを決定するという。ダマシオによれば、以前に経験した快や不快をもたらした事態のときに肉体がどのように反応したかを前頭前皮質が記憶していて、同じような肉体反応が生じさせる事態には、それによって自動的によいとか悪いとかを判断するのだという。
内田樹さんの「私の身体は頭がいい」も、ある人についての判断は、肩書きや経歴から頭でするものよりも、体がこいつは信用できない奴であるといっているほうがよほどあてになるというような説であった。(「そいつのそばにゆくと、私の身体が「ぴっ、ぴっ。こいつバカですよ。ぴっ」と信号を発するのである。私の「頭」はただそれに耳を傾けるだけでよい。」) つまり「システム1」のほうが「システム2」よりよほど信用できるという主張である。
養老孟司さんが「唯脳論」とか「脳化」「都市化」ということで批判しようとしていたのは「システム2」がでしゃばる方向、合理的で計算できることばかりが重視される最近の傾向であったように思う。 養老さんもきわめて合理的なひとなので、あまり「システム1」のような方向は視野にはいっていなかったように感じる。
本論に戻る。
自分で飲んだコーヒーに自分で代金を払うセルフサービスの場に、「目」の写真を掲示しておくと、お金をちゃんと払うひとが増える。われわれは自分の「システム2」によって自分をコントロールしていると信じているが、実際は「システム1」という「他人」が大半を決めている。
われわれは無意識のうちに、変わったことが周囲におきていないかを(覚醒している間は)見張っている。そのような性質をもてた生き物が進化の過程で生き残ってきた。見慣れないものに出会えば警戒する。見慣れているということは、それは自分にとって安全であることを意味する。宣伝の効果もそれに依拠している。われわれは何度も見たものは安全であると思い親しみを感じる。
写真や単語がごく短時間、われわれがそれを認識できないくらい短い時間に提示された場合でも、それはわれわれのその後の行動に影響する。
昔、「サブリミナル」ということで、たとえば、映画のフィルムにわれわれが認識できないくらい短い時間、ポップ・コーンを食べようという言葉を挿入しておくと、休憩時間にポップ・コーンがたくさん売れるという話を読んだことがある。(下條信輔「サブリミナル・マインド」) この下條氏の本は大変面白く、教えられるところが多かったが、話が「暗黙知」であるとか、「われわれは自由意志を持つか?」といったいささか哲学的な方向に流れる傾向があった(「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という仮説」というジュームスーランゲの説を知ったのも本書でだったように思う。ポラーニの「暗黙知の次元」を知ったのも本書によってであろうか? それとも、栗本慎一郎さんの本?)。
このカーネマンの本は、そういう方向への話題につながる萌芽がたくさん示しているのだが、あえて実験心理学の範囲を踏み出していないので、一般性を持つものとなっているように思う。学者の範囲にとどまっていて、哲学や思想の方へはいかないのである。
ふたたび本論へ。
メドックというひとが「創造性とはすばらしくよく働く連想記憶にほかならないといっているのだそうである。また、ヒューリスティックという言葉は「見つけた!」という意味のギリシャ語、ユーレカを語源とするのだという。
わたくしなどが知っている「ユーレカ」は、アルキメデスが風呂につかりながら、金の純度の測定法だかを発見した際に叫んだ言葉としてである。あるいはポーの著作(これは「ユリイカ」と表記されることが多い?)にもあった。日本でもそういう題名の雑誌があったような気もする。アルキメデスが原理を発見し、ポーがあんな変な宇宙論を考えたのも、結局、連想記憶の産物なのだろうか? 学問での仮説というのもそうなのだろうか? 「解った!」という感覚は、今までつながっていなかった個別の記憶が連結されることにより生じるのだろうか?
また、本論へ。
気分はシステム1の働きに影響する。不機嫌なときや不幸なときは、その働きが鈍る。逆に、しあわせな気分のときにはシステム2の監視が弱まる。
システム1は、われわれの周囲の世界は正常に動いているかを(無意識のうちに)監視している。われわれは世界の動きを(無意識のうちに)予想しているので、そうでないことが起きると「驚く」。生後6ケ月の乳児も、世界を予想していて、そうでないことが起きると「驚く」。われわれは常に連続しておきる事象を因果関係と受け取る傾向がある。
われわれが相互にコミュニケーションをとれるのは、世界についての見方や予想を共有できているからである。しかし自閉症患者はそれを欠く。
本書を読んでいて、自閉症とかアスペルガー症候群のことがちらちらと頭に浮かんだ。それらは「システム1」を欠き、「システム2」のみで生きているひとを指すのだろうか? そういうひとたちは、あまり驚かないのだろうか?
バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」では、男の脳と女の脳は働きに差があると主張している。女性型の脳は共感する傾向が優位になるようにできている。男性型の脳はシステムを理解し、構築する傾向が優位になるようにできている、というのである。本書とあわえて考えると、女性の脳は「システム1」が優位、男性の脳は「システム2」が優位という方向がおのずと見えてくる。バロン=コーエンは自閉症の専門家で、自閉症あるいはアスペルガー症候群の人たちは、極端な男性型の脳をもっているのだとしている。
「心の理論」といわれるものがあって、ほかの人が何を考え、何をしようとしているかを推測する能力をわれわれは身につけているのは、われわれが「心の理論」を備えているからであるとする。この能力を人間以外の高等動物(とくにチンパンジーなど)が備えているかについては論争があり結論は出ていないようであるが、自閉症スペクトラムのひとたちは「心の理論」を著しく欠いているとされている。
そのように考えてくると、ここでシステム1といわれているものは「心」とわれわれが呼んでいるものと著しく親和性があり、一方システム2は「知能」とわれわれが呼ぶものに極めて親和性を持つように思われてくる。極端なことをいえば、システム1は義理と人情をつかさどり、システム2は理屈をつかさどる。もっと極端なことをいえば、システム1は人間(あるいは生物、少なくとも動物)にのみ見られるものであるが、システム2は物理法則のように生命が存在しないところでも成り立つのかもしれない。
また本論へ戻る。
あるひとは、物理的な因果関係と意志的な因果関係を人間は生まれつき区別するようになっていて、宗教がわれわれに世界に広く認められるのもそれによるとしている。「われわれは基本的に物質世界を精神世界から切り離して理解する。魂のない肉体と肉体のない魂を思い浮かべられるのはそのためである」といっているのだそうである。
またまた、システム2が物理の世界、システム1は生命の世界というようなことをいいたくなる。だが、こういう見解がでてくるのは、西欧あるいは一神教的な世界からということはないだろうか? 肉体と魂を区別するというのは世界に普遍的なものなのだろうか?
最近、購入した「知の逆転」で、J・ダイアモンドが「「人生の意味」というものを問うことに、私自身は全く何の意味も見いだせません。人生というものは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するだけのことであって、意味というものは、持ち合わせていない」といっていた。「知の逆転」にでてくる科学者たちは、概して「宗教」にとても冷淡であった。
ふたたび、本論へ。
システム1は往々きわめて安直に結論をだすが、それが正しい可能性が高く、万一間違っていた場合にもコストが容認できる程度であれば、それは時間と努力の節約になり、効率的である。
われわれはある言明をみたときに、まずそれを信じようとする。それはシステム1の働きである。信じないというのはシステム2の働きである。だからある数字を覚えているようにといったシステム2に負担がかかる状況では、われわれはなんでも信じてしまうようになりがちである。システム1はだまされやすく、信じたがる性質をもつ。
したがって、われわれは自分の信念を補強する証拠を探すように行動するので、「仮説は反証によって検証せよ」という科学哲学者の主張は、現実にはなかなかおこなわれない。
この科学哲学者はポパーであろうが、実際に科学者がしていることは、クーンのいうように、「ノーマル・サイエンス」であって、そこで共有されている信念はきわめて堅固なもので簡単には崩れないのであろう。ところで、われわれは愚かであって、いとも簡単に間違うというのもポパーの信念である。これは「システム1」的なものを念頭においているのだろうか?
それはさておき、
ある人に好感を持つと、そのひとの知らない部分についても好感を持つようになることをハロー(Halo)効果(後光効果)と呼ぶのだそうである(ザルツブルグの小枝?)。
システム1にとって大事なのはストーリーの一貫性であって、用いたデータの質であるとか量であるとかは問題にならない。「自分が見たものがすべて」になりやすい。とすればむしろ手元に情報が少ないほうが、うまいストーリーを構築しやすい。
精神医学の分野の治療法に、患者が納得できる「物語」を形成してあげるというものがある。納得できる物語というのはわれわれを癒すらしいのである。それと同時にわれわれはその「偽の?」物語を容易に真実であると思い込んでしまうこともするようで、アメリカなどでは精神分析医が(創作した?)幼児期の親の虐待といった仮想的な話を真実であると信じ込んで、親を訴えるひとが多く問題になっているということをきいたことがある。
本論に戻る。
われわれは提示の仕方によって、同じ情報でも違って受け取る。手術1ケ月後の生存率は90%ですというのと、手術後1ケ月の死亡率は10%ですとでは、前者のほうが心強く感じる。
しかし、そもそも90%の生存率とか、10%の死亡率というのはどういう意味なのだろうか? ひとは手術の後で死ぬか生きるか、どちらかである。などというのは、本書でも縷々述べられるように、われわれは基本的に統計学というのを理解できないことを露呈しているのであろうが、われわれは「シュレディンガーの猫」を不条理に感じてしまうのである。
われわれは知らないひとに会ったときに瞬時にさまざなな判断を(無意識に)下しているのだそうで、その大きな材料は顔なのだそうである。その人物がどの程度の支配力をもっているか、どの程度信用できるかが顔の印象などから瞬時に(無意識のうちに)判断される。それはきわめて不正確なものだが、何も判断しないよりはいいのである、と。ある調査では、政治家の顔写真だけからそのひとが支配力を持つか信用できるかをわれわれが下す判断は、実際の選挙の結果との相関が深いことが示されている。がっしりした顎と自信あふれる微笑は「できる男」と思われるらしい。特に政治に疎くテレビをよく見る人たちは「顔の持つ印象」に影響されやすいのだそうである。
初診の患者さんは、ブースにはいってきたときに、医者の顔をみて、いろいろと瞬時に判断しているのだろうなと思う。そして医者もまた、患者さんの顔からさまざまな判断をしている。それは診断にどのくらいのバイアスとなっているのだろうか?
カーネマンはいう。脳はめったなことではうろたえない。複雑なことを訊かれたら、単純な質問に還元して」答えを出してしまう。(「絶滅危惧種を救うためにいくら寄付するか?」⇒「瀕死のイルカを見かけたらどんな気持ちになるか?」)
われわれは、多くの場合、高をくくって生きているわけである。それでも大体はうまくいく。だから東日本大震災のようなことがおきると、それが偶然であったとしても、起きてしまったからには必然としか思えなくなる。そういう必然的におきるはずの事態を、何でろくに想定もせず、安穏とわれわれが暮らしてきたのか、不思議でならなくなる。
あるいは、バブルとその崩壊を何十年か周期で繰り返す。突然、激変をおこすことは「異常」と感じられるが、昨日と今日が変わらずに連続している限りは、日常におきることは当たり前であり、何か特別なことが起きているとは感じられない。ひょっとすると今われわれはバブルのまたまたの始まりの時期にいるのかもしれないが、これからどうなるかは誰にもわからない。第一次世界大戦が始まったとき、政治家もふくめ、みなごく短期間でそれが終結すると思っていたのだそうである。「東大紛争」が始まったとき、わたくしはそれが1〜2ケ月で終わるものと思っていた。
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