G・マーカス「心を生みだす遺伝子」

  岩波書店 2005年3月
 
 同じ著者の「脳はありあわせの材料から生まれた」を読んでいて、買ったままで本棚で眠っていた本書を思い出した。「脳は・・」が一般むけの啓蒙書であるとすれば、本書はもう少し学問的な本である。
 受精という遺伝情報の受けわたしの過程についてはある程度のことがわかってきたとしても、その後の発生という過程についてはまだほとんどブラックボックスであって、前人未踏の分野が多く残されているとわたくしは思っていたのだが、そうともいえないらしいことが本書を読んでわかった。ヒト・ゲノム解読計画などというのは無駄なことをしていると思っていたのだが。まだまだ未知なことが多いとしても、なにほどのことかはわかってきているようなのである。
 ピンカーは言った、「心とは脳が為すものである。」 これはまあたいていのひとが受けいれるであろう(そうでもないだろうか?)。さて脳のもとになっているのは遺伝子であるというのはどうだろうか? これはそれほどひろく受けいれられるとはいえない。というのは、これを認めることは、「我々が自分自身の運命を左右できるという直感」に反するからである。遺伝子が決めるといわれると、もはや自分のコントロールには属さないように思えるから。しかし、性格や気質は遺伝子に左右されるし、知性もまた然りである。
 本書は遺伝子が人々のあいだに差異を生みだすことは既知の前提として、遺伝子がどのようにそこに働くかを述べようとする。
 問題は遺伝子が青写真であるのかということである。あるいは遺伝子が表現型と一対一の対応をするのかということである。この一対一対応への誤解から、われわわれのゲノムがチンパンジーと1%しか違わないということへの奇妙な反応が生まれる。われわれとチンパンジーは全く違うではないか、そうだとすればわれわれは遺伝子の産物ではない、というような反応である。しかし、遺伝子は環境がなければ意味をもたず、生物は遺伝子がなければ環境に対応できない。だから正しい問いは「生まれか育ちか?」ではなく「生まれがどのように育ちに影響するか?」である。
 遺伝率とは何か? ある形質についての全変異量と近親者のあいだではどの程度その変異が共通であるかの比率を示すものである。一卵性双生児はまったく同一ではないが遺伝率が高い。
 一般に、心にかんする遺伝率は30%をこえるとされる。60〜70%というものもある。ごく簡単にいうなら、遺伝もあるがそれ以外の要素もまた重要ということである。
 それならばIQの遺伝率が60%であるという言葉が意味するものは何か? それはその変動の何%が遺伝によるかということを言うだけである。われわれは様々な性格をもちわまざまな知性をもつが、それでもみなヒトである。遺伝の変異によってわれわれがチンパンジーになったりすることはない。
 また遺伝率は相関関係をいうのであって、因果関係をいうのではない。だから仮に男のほうが女よりも平均してIQが高かったとしても、それは男と女のおかれている環境の差異によるかもしれない。また均質な社会では環境があたえる影響が相対的に小さいので遺伝率の差が高くでて、階層の差異が大きい社会では環境の影響が大きいので遺伝率の差はあまり測定されないということもありうる。
 心の科学の難問は二つある。一つは「神経系の柔軟性」であり、もう一つが「遺伝子の不足」、つまりあれだけの遺伝子の情報で心という豊富なものを説明できるかである。
 生まれたばかりの新生児はすでにかなり複雑な脳の構造を持っているが、それは予備配線であって、融通がきき変化しうるものである。固定された不変の配線ではない。
 遺伝子は「レシピ」なのである。同じレシピから作られる料理の味は実に様々である。心から見ると、脳は宇宙の他のなにものとも違う非常に特別なものと見えるが、遺伝子から見ると、脳もタンパク質の巧妙な配置の一つにすぎない。
 学習というと高度な能力のように思われがちであるが、線虫もまた培養皿のどちら側に食べ物が多いかを学ぶ。ホウジロは星の回転をみて、どちらが南であるかを知り、自分の方角を決める。もちろん南という言葉は持たないが・・。
 その学習能力は生得的なものである。そうであるなら人間の赤ちゃんが生得的な学習能力を持って生まれてくることになんら驚きはない。だが、ヒトが持つ生得的な言語習得能力についてはまだ論議がたえない。
 若い時のヒトの脳の回復力は驚異的である。それにくらべ大人の脳はそれほどは可塑的ではない。生まれつきであるというのは経験に先立って構成されているという意味である。それはその後の経験によって修正されることと両立する。生まれつきでありながら柔軟であるということがあるのである。
 脳が損傷から回復するというと凄いことのように思われる。しかし、体が損傷から回復するといっても誰も驚かない。むしろ脳はニューロンの再生がないという点において他の臓器にくらべてはるかに柔軟性を欠く。ニューロンはそれ自体は再生されないので配線を修正することで対応している。
 脳の可塑性についてはまだほとんどわかっていないといってよい。しかし脳が柔軟である(これは正しい主張)というばかりでなく、大脳皮質のいかなる部分であっても他の部分に発達しうるという「等能性」まで主張するものがあるが、これは乱暴な拡大である。感覚野を別の感覚野に転用する(たとえば視覚を聴覚に)ことは知られているが、感覚野を運動野に転用した例は知られていない。傷害の原因が外傷ではなく遺伝子であるある場合には可塑性にはかなり限界がある。
 遺伝子と表現型のあいだにはどのような関係があるか? 一番単純なのは「一遺伝子 一形質」説である。メンデルの法則である。黄色いエンドウと緑のエンドウ。皺のあるエンドウないエンドウ・・。
 もっと複雑なものとしては「酵素説」。「一遺伝子 一酵素」である。フェニルケトン尿症などがその適例である。
 さらにモノーとジャコブの「自立エージェント説」。環境によって遺伝子はその発現を変える。コンピュータプログラムのような、もし・・ならば・・の世界、「IF・・・THEN・・」の世界。
 ある細胞が他の細胞と違うのはどの遺伝子のスイッチがオンになっているかである。胚の発生をすすめるのは、それぞれの種がもつ独自の「IF・・THEN・・」構造なのである。これが環境によって異なる発生の道をたどる理由である。線虫においてはかなりの程度までこの発生の過程がわかっている。
 どの遺伝子もタンパク質のレシピと、それがいつどこで作られるべきかの制御条件の両方をもっている。ニューロンもまたこの「IF・・THEN・・」構造に従うという点において体の他の発生と異なるところはない。
 われわれの脳がチンパンジーよりも大きいのは細胞の分裂回数が多いからである。
 線虫もまた単独行動を好むものと集団活動を好むものがある。これはnpr1という遺伝子のタンパク質の鋳型となる部分のアミノ酸一個の違いによる。バリンであれば社会的、フェニルアラニンであれば単独行動派。ハタネズミの社会性はバゾプレッシン受容体をどれだけもつかに関係する。それならばヒトゲノム上の変化がヒトのこころを変えるであろうことは容易に推測される。ある研究によれば、出来事を記憶する才能は、特定の神経成長因子タンパク質のある変異に関係しているのだそうである。メチオニンであるのよりもバリンであるほうがずっと成績がいいのだそうである。
 問題はニューロンの配線の過程である。神経細胞がどの神経細胞とつながるかを決めるの用いる情報には実にさまざまな種類のものがある。そのシグナルの種類が進化とともに増えてきている可能性がある。ひよっとするとヒトではそれが特に多いのかもしれない。
 動物が学習できるのは、外界での経験に基づいて自らの神経系を改変できるからである。これが地球上の知的生命が生じた謎をとく唯一の鍵であるかもしれない。経験それ自体が遺伝子の発現を変える。したがって遺伝子は誕生の瞬間だけでなく、生涯を通じて重要な役割をもつ。
 経験はシナプスを強化する。たとえばパブロフの犬
 学習の過程にかかわる遺伝子はたとえば線虫では少なくとも17個が確認されている。われわれが学習できるということは脳の再配線ができるということである。大人の脳は以前いわれていたのよりもずっと可塑性があることがわかってきた。しかし、ある種の学習能力は大人になると落ちる。
 脳をつくる遺伝子は、脳以外の体をつくる遺伝子ととくにかわってはいない。
 進化の過程において重要なのは、重複である。二つができれば一個が旧来の機能を担当し、もう一つを新たなことに振り向けることができる。
 35億年から40億年と考えられる生命の歴史のなかで、脳というのは比較的最近の発明で5億年前くらいかもしれない。
 細菌は光や熱に向かって動くことができる。これは情報と運動が連動していることを示す。これに用いられた分子はわれわれのからだの中ではイオン・チャンネルとして残っている。
 電気的信号は5億年前のクラゲで用いられはじめた。クラゲは中枢神経はもたないが、神経網はもっている。中枢化と両側化がはじまったのはヒラムシにおいてであったらしい。ヒトの脳のパターンを左右する遺伝子の多くはヒラムシの神経系のパターン形成にかかわるものと関係していいる。
 脊椎動物になると、軸索をとりかこんで電気のもれを抑制するグリア細胞が出現した。ミエリンによる絶縁も軸索のエネルギー効率を高めた。(ジャクリーヌ・デュ・プレをおかした多発性硬化症はミエリンが免疫系から攻撃される病気である。) それは同時に脳卒中や脳の損傷からの回復を困難にした。
 われわれの祖先はHox遺伝子が四重に重複した。Hox遺伝子はホメオテイック変異(脊椎やハエの体節のような繰り返し要素におきる異常な形質転換)にかかわる。
 脳の基本パターンはOtx2(中脳と後脳のバランスをきめる)やEmx(海馬と前頭葉のバランスをきめる)などの制御遺伝子によってきまる。これらの制御遺伝子は生物がおかれた環境によって発現がことなる(本当は、さまざまな発現によって生じた生物が、自分に適した環境において生き延びた?)。
 われわれのゲノムがチンパンジーと一番異なるのはCpGアイランドと呼ばれる部分で、この領域はいつ遺伝子が発現するかを決定する制御のIFの塩基配列と強く関係するDNA区間である(15%の違いがある)。
 音声・言語障害にかかわる遺伝子FOXP2が知られている。マウスやチンパンジーにもこの遺伝子は存在するが、ヒトとチンパンジーではアミノ酸が二つことなる。この遺伝子の変異は20万年から10万年前に生じたと推定され、言語自身が進化上で発生したと推定される時期と一致する。
 脳は他の体の部分と同様に、外界からの助けがなくても形成される。しかしそれは硬直はしていない。この生得性と柔軟性はどのように両立するのか?
 遺伝子の発現は環境に依存する。だからM・クラントンの「ジェラシック・パーク」の恐竜のDNAがカエルの卵のなかで孵化するという話は現実的ではない。
 
 本書で著者が主張するのは、脳あるいは心というのが特別なものではない、ということである。それは細菌などにも存在する外界の変化への対応能力の延長線上にあるものであり、われわれの脳の活動に用いられている物質は線虫などにおいても用いられている。
 著者はピンカーの弟子らしいのだが、ピンカーが「氏か育ちか」での「氏派」であるのに対して、折衷派というか、それを分けて論じることはできないという立場のようである。遺伝子は生涯にわたって生き物を規定し続けるのであるから、氏が育ちも規定するという、両立派である。過激なフェミニズム派は、人間においては氏ではなくすべて文化が規定するといようなことをいうが、昨今旗色が悪い。しかしだからといって氏派の勝利とばかりは言えないとことは本書を読んだわかった。
 半年くらい前にリハビリテーションの一つのやりかたである認知運動療法というのを知った。旧来のリハビリは脳卒中などの場合、損傷された脳の機能についてはあきらめて、残存する脳の機能を最大限に活用していくことを目指すものであると理解していたが、認知運動療法は、患者さんにたとえば手にさわったものを形を推測させるとか、今自分の足がどの位置にあるかを認知させるといった、受け身の運動や鍛錬ではない、積極的に外界に認知あるいは内観をすすめることによって、麻痺側の改善が図れることを主張するもののようである。きわめて熱心にそれを進めている方があり、それが相当の効果を持つものであることは間違いないように思うが、ちょっと気になるのが、それが有効となることへの解釈である。心は万能の力を持つ、あるいはこころは物理学的あるいは物質的な基盤とは別の力をもつ、それは唯一人間だけにあたえらえているといった、一種の神秘思想にも通じるような思想の運動となっているところがあるように見える。極端な言い方をすれば、「心が脳を変える」というようなちょっとオカルトと思えるような主張をしているようにも見えてしまう。われわれが学習できるということは本書でもいわれているように、脳には可塑性があり、それはニューロンの結合が強化されうるからなのであるが、その結合がどこまで可能であるかは遺伝子の規定によっており、「大脳皮質のいかなる部分であっても他の部分に発達しうる」ということは事実としては知られていないにもかかわらず、そのような「等能性」まで主張しているようにこの認知運動療法の一部のひとたちはいっているように見える。「動物的で生得的あるいは常同的行動」と「知識に基づいた人間らしい行動」を対比させ、「ヒトの認知過程を活性化すれば、脳を生物学的に変化させることができるかもしれない。」「主体者(患者)の脳で生まれる意識、すなわち自己意識によって、その可塑性は容易に修飾される。」(森岡周「協同医書出版社 2006年)などといわれると困ったなあと思ってしまう。従来の医療は機械論であり、ロマンティックなリハビリテーション医療(このロマンティックはいわゆるロマンティックではなく、ロマンス=物語によるというような意味らしいのだが)を目指そうといわれても、ちょっと待ってといいたくなる。人間は人間以外の動物と根本的に異なっており、それはひとが「こころあるいは精神」を持つからで、「こころあるいは精神」は人間において「創発」されたというような議論をわたくしは好きでない。
 本書で著者がいっていることは、こころもまったく特別なものではなく、ひょっとしたらアミノ酸のごくわずかな違いに起因するのかもしれないということである。もちろんそのアミノ酸数個の違いが人間と人間以外の動物を決定的にわけることになったので、だから人間と人間以外の動物はまったく異なるという議論は成立はする。しかし、そのような論があまり加熱しないため、少し頭を冷やすためにも、本書で示された事実は重要なのだと思う。
 全然関係ない話であるが、最近、「ダークナイト」という映画のDVDをみて、これはキリスト教圏でしか作られない映画であるなあ、ということを感じた。善と悪、光と闇というような極端な対立はキリスト教というよりも、その分派(?)であるマニ教なのかもしれないが。「スター・ウォーズ」などでも感じるけれども、悪の権化?というようなものをなんで西洋のひとはあんなに好きなのだろうか? 「悪」の神秘化というのも「こころ」の絶対化に由来するものなのであろう。そういうものを解毒するためにも本書は有効なのではないだろうか?
 それから最近養老さんがいう科学もまた意識の営みであり、その意識は一日のうちで数時間は失われる頼りないものであるという説。科学というのがわれわれの外にあるのか内にあるのかということである。養老さんの話を延長していくと、われわれが意識をもつ以前には世界は存在せず、われわれの死後にも世界は存在しなくなるという方向にいってしまうのではないかと思う。つまり客観的世界の否定である。
 意識というのはわれわれの脳の中の電気信号の流れがもつある種の状態なのであろう。夢あるいはそれが記憶にはたす役割ということをふくめて、われわれが眠っているあいだにも脳は実に多くの仕事をしているようである。
 科学は意識がおこなう行為であるとしても、その産物はポパーのいう世界3に属するのだと思う。世界3はわれわれの外にある。もちろん、世界3には科学の業績だけでなく文学作品も音楽も「ダークナイト」も属する。
 われわれは脳に損傷をうければ世界への見方が変わる。昨日までの科学主義者が今日からは神秘主義者になるかもしれない。神秘主義のさまざまな書物もまた世界3の属する。しかしそれならば、神秘主義の見方と科学といわれるやりかたによる見方が等価であるか、それもこれも意識のある種のあらわれかたの違いにすぎないとみるかである。そうみてしまうと相対主義の無限退行におちいってしまうのではないかと思う。そこでは議論がおこなわれなくなってしまうから。議論しうること、それが科学のいいところなのだと思う。本書に書かれていることもまた議論ができることである。
 ところで「ダークナイト」は「THE DARK KNIGHT」なのであるらしい。わたしはてっきり「DARK NIGHT」なのだと思っていて、随分とつまらない題だと思っていた。それでこの「THE DARK KNIGHT」であるバットマンはほとんどキリスト、あるいはそのネガである。ひとびとの罪を負ってひとびとから石もて追われる存在。本当にキリスト教圏の映画である。
 

心を生みだす遺伝子

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