W・ベンゾン「音楽する脳」

  角川書店 2005年12月25日初版
  
 タイトルから、音楽するのは右脳?左脳?というような話かと思ったのだが、もっと難しい話であった。もっとも原題は「ベートーベンの金床」(あるいは「ベートーベンのきぬた骨」かもしれない)であるから邦題にだまされたわけである。
 著者は認知科学者にしてジャズ・ミュージシャンという人で、自身の演奏経験なしには成立しなかったであろうと思われる本である。数人の人間が一緒に演奏するという行為がつねに考察されていく。
 「われわれは歌って踊る、ゆえにわれわれはある」というのが本書の主張であると著者はいう。デカルトは孤独な個人について考えた。自分は相互作用する複数の個人について考えるのだと。デカルトは理性と認識に関心をもった。自分は感情と表現について関心をもつと。
 著者によれば、音楽と踊りは人間にとって狩猟や子育てと同じ位に根源的なものである。ヒトは個々では弱い存在である。集団となることによってしか生き延びてこられなかった。ヒトを集団たらしめることを可能にしたのが踊りと音楽なのであり、ヒトは音楽なしでは生き延びられなかったのだと。
 音楽は共同の営みを通して個人の脳を互いに結びつける力をもつ。ヒトは音楽なしには社会を形成できなかった。人間以外の霊長類で互いに動きをあわせることができるものも一定の拍子を刻むことのできるものもいない。彼らにはテンポやリズムの感覚がないのである。神経系はより原始的な構造がそれより新しい構造を活性化できるが、その逆はできない。しかし音楽は間接的に新しい脳の構造が古い構造を整える方法を提供する。ベンゾンによれば、言語をつくりだしたのもまた音楽なのである。
 その他、意識変容状態とか憑依との音楽についての興味深い説(右半球優勢状態がそれに関係する)も提示されている。著者も自認しているように、ここで述べられていることの多くは仮説であって、それを支持する充分な証拠が集まっているわけではない。
 音楽体験というのがわれわれにとって高次の機能であるのか、そもそも著者がいうように人間にとって根源的なものであるのか、それも議論があるところであろう。芸術などというとなんだか高尚なものという感じで、生存に必須なものであるという感じはしない。生存に必須でないものを生物学的に説明することは困難であり、それゆえ芸術活動などを生物学的に説明することはきわめて困難であると考えられる。しかしベンゾンのいうようにそれが人間の生存にとって必須なものであるのなら、それを生物学的に解明することにも道がひらけるはずである。
 いずれにしてもここでも述べられているように、われわれの脳への関心は理性から感情へという方向へと大きくシフトしてきていることは間違いないように思われる。本書でも、その方向を誘導しているダマシオの名前がしばしばでてくる。
 いうまでもなく音楽は集団を高揚させる力があり、それゆえに政治的に悪用される危険もつねにもつ。現代音楽と呼ばれる一部の無機的な音楽は、音楽が戦意高揚に利用された苦い歴史の反省から生まれたという説をどこかで読んだことがある。絶対に人の感情に訴えない音楽を作れば安全だというわけである。そういうものははじめから“音楽”であることを一部放棄しているから、結局誰にも聴かれなくなってしまった。しかしブーレーズの「主のない槌」などというのは頭で聴くと、あるいは譜面で見ると、とても面白い音楽なのだそうである。
 昔読んだ武満徹小澤征爾の対談「音楽」(新潮社 1981年)に、「日本人の耳、西洋人の耳」という章があって、西洋人は音楽を右脳できくけれども、日本人は左脳できくという話がでてくる。それで、もとネタである角田忠信氏の「日本人の脳 脳の働きと東西の文化」(大修館書店 1978年)を最近入手してみた。読んでみたら音楽をではなく楽音をの話であり、それも特殊な条件下で無理に左右差を求めるとということであり、しかも楽器音は日本人も西洋人も右脳であり、母音や虫の声などが西洋人と日本人では違うということのようである。やはり原典に当たらないといけないと感じた次第である。
 ところで、今回、対談「音楽」を読み返してみて非常に面白かった。故武満氏も小澤氏もとても若い。


音楽する脳

音楽する脳