A・ロック「脳は眠らない 夢を生み出す脳のしくみ」

 ランダムハウス講談社  2006年3月15日初版


 この本を読んでみようと思ったのは、最新の脳研究によってフロイトの夢解釈理論は完全に破産宣告されていることを確認しておきたいと思ったからなのだが、期待?に反して必ずしもそうとはいえないのだということがわかって驚いた。そしてまたこの分野も、この20年くらいの間に急速に研究が進歩していること、それにもかかわらず、まだわからないことが多く残されているのだということがよくわかった。
 現在理解されているところでは、夢の機能あるいはほとんど睡眠の機能そのもの?は、日中の体験を再生し、そのうちの重要なものを長期記憶に統合することであるらしい。つまり脳は睡眠中も眠っていないのであり、むしろ外界からの情報が遮断されて、体が休んでいる状態下で、場合によっては昼間以上に活動しているということであるらしい。

 いわゆるREM睡眠が発見されたのが1951年であり、これはそれまでの《睡眠中は脳がほとんどの機能を停止している》という見解を見直すきっかけとなった。当初は、われわれが夢を見るのはREM睡眠中だけであると考えられた(最近の教科書でもそう書いてあるのではないだろうか? わたくしもまた本書を読むまでそう思っていた)。このREM睡眠は他の動物にも見られる。爬虫類には見られないが、鳥類の一部と哺乳類には見られる。つまり犬も猫も夢を見る(らしい)。アンドロイドは見ないのかもしれないが。
 1977年にホブソンらが発表した仮説によれば、脳幹のニューロンがスイッチを入れることで、神経伝達物質が覚醒中の主役であるノルエピネフリンとセレトニンから、アセチルコリンへとかわる。その状態では運動神経の信号は遮断されることになり、それで体は動けなくなる。脳幹からはでたらめな信号がでているが、その情報に、前脳が無理につじつまあわせて物語を作っている状態が夢なのであるとした。この状態では判断や記憶に必要なノルエピネフリンとセレトニンが不足しているので、わたくしたちは夢をうまく覚えることができない。フロイトのいうように自己検閲によって、タブー視される欲望を抑圧するから忘れるのではない、そうホブソンらは主張した。
 9歳から11歳位に達する以前の子供は、大人のような夢をみることがない。もっと単純な夢しかみない。どの子供も成長するにつれて、複雑な夢をみるようになる。本人が夢で主要な役を演じるようになるのは7・8歳になってからである。5歳以下の子供は視覚・空間認識能力が大人よりは弱い。5〜7歳ごろにかけて、人間はようやく外界からの視覚情報なしに視覚的イメージを作れるようになる。夢をみるのに関係があるのは、ものを見る能力(視力)ではなく、目の前に存在しないものを思いうかべることのできる能力である。子供はある年齢までは、その能力をもたない。
 7・8歳ごろには自分が夢の主役になることが多くなる。そのことは、それまでは、子供は自分というものを意識していないということを意味するのであろう、つまり自我意識をもたないということである。ヒトは意識をもつことによって夢をみるようになるのであり、自我意識をもつことによって本当の?夢をみるようになる。
 頭頂葉を障害された人間は夢をみない。頭頂葉は感覚を統合し、イメージをつかさどる場所である。そういう患者にも、REM睡眠は観察される。
 一方、脳幹を障害された患者も夢をみる。とするとホブソン説はあやしいことになる。
 それで前脳説、前脳が夢の主役であるという説(ソームズら)がでてきた。それとともに、夢とREM睡眠は同時におきているが、それらは直接には因果関係はないという見方もでてきた。夢を誘導するものはドーパミンであるとの説もでてきた。
 夢を見ている状態、すなわち理性的な思考の中枢は休んでいて、感情や長期記憶が活発である状態というのは、フロイトのいった《「自我」が指令を停止し、潜在意識が自由に動いている状態》を想起させる。
 以上は、なぜわれわれが夢をみるかという説明であるが、一方、夢がどういう機能をもつのかという点については、REM睡眠は、動物がその日にえた情報の処理と関係しているという話がでてきた。それはそういう情報をリアルタイムでその場その場で処理するのよりも効果的、効率的であり、進化の過程で有利であったと思われる。
 REM睡眠はまた神経システムの発達を促すことがわかってきた。
 夢の中には、読む書く計算をするなどという行為をする場面はほとんどでてこない。これらの行為はわれわれが淘汰をうけた時代のヒトがしていなかった行為だからであろうと考えられている。逃げるとかの夢が多いのは、狩猟採集時代のわれわれの生活の反映である。われわれの遠い祖先の経験が夢に反映されているとすると、これはユング説(集合的無意識とか原型)と通じるのかもしれない。
 極端に強い感情のもとではコーチゾンが多量に分泌され、それが記憶を司る海馬の働きを低下させる。これはフロイトの抑圧説・PTSDの記憶抑圧などと関係しているかもしれない。
 夢はエピソード記憶の整理統合であるのだとすると、自己イメージに影響するはずである、というか自己イメージをわれわれが作るのは寝ている間なのかもしれない。
 鳥は睡眠中に求愛ソングを夢の中で繰り返し歌う。そのように、REM睡眠は記憶と学習に不可欠のようである。出来事を記憶するだけではなく、出来事の意味を読み解くこともまた夢の仕事であると考えられてきている。
 夢は昼間抱いた感情をいやす働きがあると考えられている。それがうまくいかないとうつになるのではないだろうか? 事実、うつ病患者の脳機能を示す画像と健常者のものは異なっている。
 大雑把にいって、右脳は世界を認識し、左脳はそれを分析するのであるといわれている。
 明晰夢というものがある。夢をみながら自分が夢をみていることに自分で気づいている状態である。これはチベット仏教の修行が目指すものの一つである。

 以上、駆け足でみてきたが、この本を読むまで、なんとなく睡眠は記憶の過程に関係しているというようなことだけを理解していた。本書によれば夢や睡眠は、もっと能動的な過程であるようである。そういう点でたしかにフロイトユングにもつながっていく部分があるのであろう。ただしフロイトの説のような自己検閲とかはなく、したがって夢を利用した自由連想で無意識を呼び出すなどということもできないのであろうが。
 本書を読むかぎりユング説のほうがまだ現在の夢の理論と整合性がありそうである。以前、ユング集合的無意識という説を読んだときに、これは獲得形質が遺伝するという話であると思った。太古の祖先の経験がわれわれに残っているということであるから。しかし、太古においてある性向をもったものは淘汰上有利であるとすると結果的にはそれがわれわれに受け継がれるわけである。問題は太古ということで想定する時間なのであろう。かただか一万年などということでは、時間が足りない。100万年くらいを想定した太古なのであろうか。そうするとこれは進化心理学の議論に耐える話であることになる。
 何で小さなときの記憶がないのだろうということは昔からなんとなく不思議であった。あるところで記憶とはストレスを経験しないうちにはあとに残らないとかいう説明を読んでふーん、そうなのか、社会生活をするようになるとそれがストレスになり、それが記憶を促すのか、と思っていた。本書によれば、要するに神経ニューロンの接合が未完成で、自己意識がまだ充分には形成されていないからということのようである。
 意識されている記憶にはないが、フロイト的な無意識の部分では、もっと幼児期の記憶が蓄積されているというようなことがあるのであろうか? ここでの説明によれば、5歳以下のこどもは見ることはできても、何もないところで場面を想像するということができないらしい。とするとそのころまでの子供は現在に生きているのであって、現在の経験を蓄えていくということはできないのであろうか? 一方、それより小さなこどもはどんどんと言語を獲得していく。それは記憶とは別の何かなのだろうか?
 われわれは、死というものを肉体の死であるよりも、自分という意識の消滅であると考えがちである。もしも7歳くらいまで自我あるいは自己意識が形成されていないとすれば、それは、人間としてはまだ充分には生きていないということになるのであろうか!?
 養老氏は最近、自分というものは変わる、自我の同一性や不変性を信じているやつは馬鹿だといういうなことをいっているが、本書を読むと、それが怪しい議論であるように思われてくる。夜を徹して、ヒトは自分の今日の経験を過去の経験と照合しているというのだから。
 本書の最後のほうで、明晰夢チベット仏教の話などでてくる辺りから、だんだんと話はニュー・サイエンス風というかオカルト風になってくるのが面白かった。「明晰夢は深い洞察を与え」「自分には思いもかけないようなパワーがあること、自分には世界を変える力があること」「自分自身を変えることで世界を変えられる」と気づかせてくれるのだそうである。なんだかなあ、である。これは一種の神秘体験であって、この手を話は手を変え品を変えでてくるのだなあと痛感した。これをつきつめていくと、覚醒しているときよりも、夢をみているときのほうがより本当に生きているのだとかいう方に、あっというまにいきそうである。LSDか何かを飲んでトリップしているときのほうが本当に生きているのだとか・・・。
 本書でも音楽は右脳で聴くと書いてあった。昔、角田某氏の脳についての話では日本人では左脳で聴くとか書いていたように思うのだが。それを読んだころには、右脳−理性、左脳−感性などと思っていて、西洋人は理屈で音楽をきき、日本人は理屈ではない何かで音楽をきくのだなどと思って、なるほど、と思ったものだった。あの話はその後どうなっているのであろうか?
(2006年3月29日修正・追加)

脳は眠らない 夢を生みだす脳のしくみ

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