計見一雄「戦争する脳」(2)

 
 第1章「否認という精神病理現象」
 著者の計見氏は精神科救急という火事場のような第一線で仕事をしているひとだが、意外なことに最初は精神分析のほうから精神科医療をはじめたかたらしい。それで本章にはかなり精神分析的な見方を感じる部分がある。
 
 計見氏によれば、否認(ディナイアル)というのは、あるものが存在しているにもかかわらず、それを否定すること。典型的には「カプグラ症候群」。たとえば、自分の父や母を、外見がそっくりな偽物と断じて、決して本当の父や母であるとは認めない病態。判断中枢と情緒センターの連絡路が切れると生じると考えられている。もっと一般的にいってしまえば、理性と感情の分離。われわれがあることを認識する時には必ず情緒的な反応もともなう。それがともなわないとそれを本物とはみなすことはできないらしい。
 
 育児の過程で母が子を無視すれば、子供に異常が生じてくる。同様のことがいじめの現場でのシカトという手口にも現れている。
 
 何が否認されているのか? 人間が肉体を持つという現実である。泣き、食べて排泄し、さまざまな欲求をもつ存在としての人間が否定される。

 人間は生得的に「愛着欲求」と「攻撃欲求」をもつ。英語では「リビドー」と「アグレッション」。この欲求は生のままでは使い道がなく、精製されてはじめて利用可能となる。それぞれが精製リファインされたものが「心的エネルギー」と「情緒的価値」。リビドーが洗練されると「優美」「繊細」「優しさ」「社交性」さらには「芸術性」のようなものがでてくる。「アグレッション」が洗練されると「知的な活動」「勤勉性」「自尊心」といったものに変化していく。なによりもその過程で「自己抑制」が可能になり、立派な「立ち居振る舞い」ができるようになる。そこにリビドーの洗練もともなえば「優雅な立ち居振る舞い」ができあがる。
 
 最近、セルフコントロールができない人が多い。普通なら我慢できるはずのことができず、突然爆発する。子供は生育過程で母親との関係のなかからアグレッションをコントロールするすべを学んでいく、というのが著者の主張であり、それを学べていないひとが増えているということである。
 
 今日の問題は、《「アグレッション」なんかしらない「リビドー」の方面だけでいい》という人が増えてきていることである。「優しさ」だけでいい、「攻撃性」なんかないほうがいいという人である。しかしそんなことをいっても「アグレッション」は現実に存在してるのである。一部のひとは、そういうもはあってはならないという。しかし、存在するものをないことにすることはできない。
 学校でのいじめあるいは自殺、そんなものはあってはならないといっても、それは厳然と存在している。だが、「アグレッション」否定派は、「いじめはありません」という。「それならあれは何ですか?」「からかいです。」
 
 「あってはならない」派は、医療事故はあってはならないという。ある外科医がいう。「手術中にガーゼを置き忘れてくるなどということは年中あることである。そんなのは事故じゃない。第一、ほとんどの場合障害はおきない。」 しかし、これを事故とみとめないととんでもないことになる。
 
 さて、ここから戦後最大の「ディナイアル」が自衛隊であるという方向に議論が進むのだが、とりあえずここまでのところを考えてみる。

 ディナイアルということでまとめて随分といろいろなことが一緒に議論されているので話の筋がみえにくい。
 最初の「カプグラ症候群」の話は、かなり純粋な精神病理学的な現象についてである。この病気をはじめて知ったのはラマチャンドランの「脳のなかの幽霊」でであったと思うが、不謹慎ないいかたかもしれないがなんと面白い病気があるのだろうと思った。ダマシオの「感じる脳」などを読んでいたときにも感じたが、脳というと真っ先にイメージされる「考える」とか「理解」するといったいわゆる理性の機能以外に、「感じる」といった情緒的な方面もまた脳のきわめて重要な(本当は一番重要な?)側面なのであり、理性だけで情緒が欠落するとどうなるのかを典型的に示すものとして、この病気があるのだろうと思う。
 ところが母子関係の話になると、今度は精神分析的な見方であって、ここで書かれていることの真偽は自明ではない。若いころ伊丹十三氏の「仕事をする人間の代わりはいくらでもいるが、親というのは代理がいない」というようなアジテーションにかなり洗脳されていたことがあって、ここで書かれているようなことを信じていたこともあるのだが、その後ピンカーの本などを読むようになると、生後すぐに離ればなれになってまったく異なる環境で育てられた一卵性双生児でも、その性格がきわめてよく似たものとなっている話などという話も知って、いわゆる「母性の神話」あるいはもっと一般的にいって「親性の神話」がどの程度正しいのだろうかという点について、今ではかなり疑問に感じるようになってなっている。
 フロイトの時代と現在では脳にかんする知見はまったく異なるレベルになってきているのだから、フロイトが当時唱えた説を無条件に真理であるとするようなひとをみると違和感を感じる。計見氏は脳科学の進展についても貪欲に摂取しているひとであるが、それにもかかわらずここの部分は比較的、現在巷間に流布している通俗的精神分析的見解に依りかかっている部分であるように感じた。
 氏は「何が否認されてるのか? 肉体をもつ存在としての自己である」という。精神分析学は人間関係の歪みという視点から精神病理学的現象にアプローチしようとする立場であろう。問題は、西欧という霊肉二元論的な思潮が優勢な場所では、人間関係といっても霊同士の関わりといった方向にとかく流れやすいのではないかということである。
 フロイトの説は凡性欲論などと揶揄されるが、その性欲(ほぼリビドー?)だって随分と観念的というか頭でっかちな性欲なのかもしれないわけで、ここで計見氏がいう「肉体」からは随分と遠いものなのではないかと感じる。
 この部分の計見氏の主張がわかりにくいのは、かなりフロイトの用法に依拠した「リビドー」という語と、それと対になったものとして一般には理解されていないであろう「アグレッション」という語が、自明な対語であることとして話が展開されていくからである。
 通俗的な理解では「リビドー」と攻撃性は同根のものと理解されているかもしれない。それは肉体的なものであるという理解のほうが多数派であろう。それの洗練の極致が芸術であるというのは、フロイトを読みこなしているひとには当然の展開なのかもしれないが、そうでないひとには違和感が残るであろう。芸術の根は肉体的なものであるというのは(わたくしもまたそう信じるけれども)必ずしも一般的な主張であるとはいえないだろう。というのは芸術こそが人間の栄光の最大の根拠という見方は根強いわけで、そうであるとするならば芸術は(肉体と対立するもの)としての脳の産物でなければいけないことになり、それは肉体から離れることによってこそ得られるものであるとする見方は、一般的なものであろう。
 ここが解りにくいのは、氏が用いる「肉体」という言葉が、普通に用いられるものとはかなりずれているということがあり、そこが充分に説明されないまま、氏特有の概念である「肉体」が読者にも共有されているであろうとして論が展開されていくことにあるのだろうと思う。
 通常は肉体と対立する概念は精神である。精神の場は頭である。あるいは脳である。とすれば脳の産物である芸術は肉体との接点はもたないことになる。
 氏は精神疾患は身体疾患であるとする。この見方自体が多くのひとにとっては意表をつくものであり、わかりにくいものであろう。そのことを説明するためのものとしても本書は書かれているのであろうが、(氏の著作を何冊か以前読んだことのあるわたくしはなんとか氏の論の展開を追うことができるが)この本ではじめて氏の説に接するひとにとってはこの部分はきわめてわかりにくいものとなっているではないかと思う。
 
 本章での氏の最大の主張は「優しさ大好き、攻撃性?、そんなもの知りません」派への意義申し立てであろう。ここは「肉体」の復権という氏の根本テーマと深く結びつくはずの部分なのだが、どういうわけか話が医療事故の問題にいってしまうので、また話の方向が見えにくくなる。
 この本は6年前に刊行されているが、医療事故の問題についてその当時でさえ、すでに「人間は誰でも間違える」のだから「事故が起きるのは避けられない」という方向に完全に舵はきられていたと思う。だから「俺は完全、事故などおこさない」派はすでに少数派に転落していたはずで、ここらの氏の議論はいささか架空の敵とたたかっているように感じた。
 
 「優しさ大好き、攻撃性?、そんなもの知りません」派の存在と「戦後最大の否認の対象が我が自衛隊である」という問題との結びつきが、この第一章の最大の眼目であり論点であるが、これまた話がまっすぐに進まない。
 自衛隊は、子をネグレクトする母や仲間をシカトする子供たちと同じ精神構造によって国民から「見て見ぬふり」の対象となっている。よくそんなことをされて自衛隊が反乱をおこさないできた。それは奇跡のようなものだと氏はする。
 さてそこから話が飛ぶ。自衛隊特にその海軍は強いのだということがいわれ、そこから戦争における恐怖感情という問題に移る。殺し合いである戦争において恐怖を感じないひとがいるわけはない。だから実際に戦争を経験している軍人ほど戦争を避けようとする。パウエル国務長官アーミテージ次官はヴェトナム戦争に従軍の経験がある。かれらから見ると(息子)ブッシュやチェーニー、ラムズフェルドらは「殴り合いの喧嘩をしていない」からこそ好戦的になれるのだということになる。
 こちらが怖いとときは相手も怖いときだということを認識することは非常に大事である。現在の中国の要人が日本の政治家の言動に過剰な反応をするのは、かれらの記憶のなかに旧日本軍への恐怖感が染みついていることも大いに関係しているはずである。
 戦争の多くは相手の気持ちの読み違えからおきる。相手が恐怖をもっていたら手を出してこないだろう、反撃してこないだろうというのは間違いである。暴力の多くは恐怖由来の「防衛的」暴力である。やられた記憶は過大に残る。やった側がそんなには痛くなかっただろうなどといってはいけない。
 
 ここでまた話が変わって、自衛隊の話になる。平時の軍隊ほど呑気な商売はない。職業軍人の給料は平時は戦時の半分になるのが普通である。戦前の日本でも英国でもそうであった。
 さらに話が移って、今日の自衛隊を作ったのは後藤田正晴氏であるということがいわれる。自衛隊創設時、軍事知識をもつ戦前の軍人を用いないわけにはいかない。しかし彼らが旧軍の「軍人精神」を自衛隊に持ち込んでは困る。その難しい課題をなしとげたのが後藤田氏である、と。
 さらに話が飛んで、統帥権の独立の話。これが昭和の歴史の大問題であったことを多くのひとが指摘する。しかし、明治の創成期、政治勢力の動向に軍が左右されないためには、そうするかなったのではないかと計見氏はいう。そうしておかなれば西郷派の軍と大久保派の軍が闘うという内戦もあったかもしれない。
 
 ということまで述べて、ようやくディナイアルの話に戻る。ディナイアルは都合の悪いリアリティに目をつぶること。まずいこと、起きてほしくないことはおきないはずと考えるような人間は優れた将にはなれるはずはない。そういうデイナイアル派は、異口同音に「そんなことをいちいち考えていたら戦争なんかできない」という。
 
 さてここからまた話がとんで、リベットの実験の話になる。われわれがあることをしようと思う前にすでに脳はあることをする指令を出しているという話である。わたくしの理解では、これは自由意志という問題への大きな問題提起である。われわれがあることをすると「決めた」のだと信じているとしても、実は「自分」ではなく「脳」があることをすることをすでに決めていて、「脳」が決めたことを「自分」が後から追認しているという構造なのかと思っている。
 これは「われわれは悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのである」という話ともどうかで通じるのだろうと思っている。われわれはある外界の状況に対して全身的な反応を起こす。その反応のすべてが脳に送られる。それに対して脳がまた反応をおこす。その脳がおこした反応が意識にのぼるとそれをあたかも自分が決めたことであるように錯覚する、ということなのではないだろうか? しかし、計見氏がする説明はそれとはちょっと違うようで、リベットのタイムラグである0.3秒は、ネガティブコントロールが効かなくなるぎりぎりの時間と解釈されているようである。
 そこから大脳皮質は全体がネガティヴ・コントロールのための器官という説が紹介される。ポジティブがポジティブを呼ぶということがおきれば癲癇の大発作のような状態になってしまう、と。
 わたくしの何十年か前にえた生理学の知識では、ニューロン間の連絡は促進と抑制の双方があるということになっていた。しかし、計見氏は脳は基本的に抑制と制御の器官なのであり、興奮や促進の器官ではないという方向に話をすすめていく。
 氏によれば、戦争遂行にもってこいなのが躁病の状態である。躁病の人間の頭の回転は早い。なぜそれが可能か? 都合の悪いことをどんどんとスキップしていくからである。バブル期の日本を導いたひとは軽躁状態だった。英語で不況も鬱病もともにデプレッションである。ノモンハンガダルカナルインパールに大きくかかわった大本営陸軍部の参謀が真性の躁病であったという証言がある。またこのころは梅毒による脳障害もきわめて多かった。
 躁病のひとは愉快で明るいから、まわりのひとをその気にさせてしまう。
 ディナイアル・オヴ・リアリティの変形がウイッシュフル・シンキング(日本語の「希望的観測」?)。これは考えることはそのまま現するという太古的思考に由来する。これはおきてほしくないことはおきないでもあるので、日本人の多くの戦争への態度を説明するものでもある。
 
 なにしろ、「ディナイアル」という言葉の連想から話題が飛躍するので、展開の筋が見えにくい。話がぴょんぴょんと飛ぶ氏のいう躁病的話法である。
 日本人が多くが、自衛隊を見て見ぬふりをするのは、井沢元彦氏のいう「言霊」信仰と「血の穢れ」のような思考、さらには武を軽んじて文を上におく、武を単なる目的成就のための手段にすぎないとする「文」優先の思考によるところが大きいのではないだろうか? 「文」は頭脳で、「武」は肉体。「肉体」は僕で、「文」が主。とすれば、ここで計見氏が克服しなければならないとする「肉体の軽視」は日本人に骨がらみのもので、その克服はきわめて困難な課題ということになるのかもしれない。西欧では、肉体の軽視はキリスト的な霊肉二元論に由来する。日本にはそれはないが、明治以降にそれが日本に輸入されたのではなく、日本にはそれとは別ルートの肉体の軽視の伝統があるのではないだろうか?
 氏がここで提示する仮説はとても魅力的なのであるが、他の仮説との比較検討がほとんどなされないまま、断定的に話が進んでいくのがちょっと危うい。
 

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ

女たちよ!男たちよ!子供たちよ! (1979年)

女たちよ!男たちよ!子供たちよ! (1979年)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

母性という神話 (ちくま学芸文庫)

母性という神話 (ちくま学芸文庫)

人は誰でも間違える―より安全な医療システムを目指して

人は誰でも間違える―より安全な医療システムを目指して

マインド・タイム 脳と意識の時間

マインド・タイム 脳と意識の時間

学校では教えてくれない日本史の授業

学校では教えてくれない日本史の授業